2011年09月19日

三好和義『世界遺産・小笠原』

 三好和義氏による小笠原群島の写真集『世界遺産・小笠原』(朝日新聞出版、2011年9月20日発売。 ISBN 978-4-02-250910-9)の巻末に、解説として、小笠原の歴史をごく簡単に書かせていただきました(「無人島(ボニン・アイランズ)小史」, pp. 110-111)。
 他に、出口智弘氏(山階鳥類研究所)の「絶滅宣言を超えて〜アホウドリ繁殖地復元の取り組み」、安井隆弥氏(小笠原野生生物研究会)の「進化の島・小笠原で出会う植物の魅力」、千喜良登氏(小笠原ホエールウォッチング協会)の「イルカとクジラに出会える海」も収録されています。ちなみに、ぼくの執筆分だけ他の執筆者に比べてあからさまに多いのですが、もとの分量では小笠原の短い割に複雑な歴史を正確に説明しきれるかどうか自信がなかったので、無理を言って分量を増やしてもらったものです。

http://rakuen344.jp/
楽園写真家・三好和義公式ウェブサイト

http://publications.asahi.com/
朝日新聞出版

posted by 長谷川@望夢楼 at 01:36| Comment(1) | TrackBack(0) | 地図・島嶼・領域 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月15日

安田浩先生について思い出すことなど

 日記を少し読み返してみた。安田先生の最初の入院は2009年10月のことだった。このときは突然の話であり、特に院生たち(ぼく自身はこのときすでに修了していたのだが、オーヴァードクターとしてゼミには顔を出していた)の間では状況がわからず、しばらく混乱したものである。その後、食道癌で、摘出手術ができないため放射線治療を受けている、という話が伝わってきた。

(19日追記:再確認したところ、間違いがあったので一部修正。安田先生が最初に食道癌と診断されて入院されたのは2007年1〜2月であり、摘出手術ができないので放射線治療を受けた、というのもこのときの話である。ただ、このときは安田先生の側からも、入院のため休講する旨の説明が通知があった。院生の間で混乱があったのは、2009年10月の、2度目の入院のときの話である。)

 11月にいったん復帰されたものの、2010年の春休みに再入院。その後に再復帰されたものの、2010年6月末を最後に授業を停止して再々入院となっていた。その後、今年(2011年)はじめにはまた再々復帰されたという話も噂に聞いていたのだが、タイミングが合わずにお目にかかる機会を逸していた。そういうわけで、この1年くらいの間は、直接お会いする機会がなく(実際、2010年6月を最後に、お会いしたという記憶がない)、それだけでも大きな心残りになってしまった。
 ついでながら、ぼくが2010年前期に、半期だけではあるが学部の「日本近代史a」の授業を受け持つことになったのも、もとはといえば安田先生が休講されるため代理が必要、という理由からである。
 入院の合間をぬうような形で大学院のゼミに顔を出した先生は、食道をやられているために声はたいへん弱々しく、そのくせ指導の厳しさはいつもとほとんど変わらず、院生が少しでもいい加減な報告をすると、容赦なく斬り込みを入れてくるのだった。

 ぼく自身も、ゼミでは批判されたことのほうが圧倒的に多い。論理的破綻については厳しく突っついてくるし、史資料の無批判な引用など、少しでも隙があると容赦なく突っ込んでくる。といって正確だが何の新しい知見もないような、論文の体をなしていないようなものも、当然のごとく批判する。『「皇国史観」という問題』についても、ほんとうはもっと言いたいことがあったのではないか、と思う。とはいえ修了後は「長谷川くんならもう就職できていいんだけど」と期待されていたこともあり、きちんとその期待に応えることができなかったのも心残りではある。
 とはいえ、後輩であるMくん(博士課程在籍のまま上海の大学に赴任中)の追悼文などを見ると、やはり現役の院生のほうが衝撃は大きいのではないかと思う。

http://blog.goo.ne.jp/mimutatsu1008/e/67932d6e1381199c264db9551bbd6981
安田浩先生のこと(2011-09-14 23:41:37)

 『歴史学研究』第877号(2011年3月)に、伊藤之雄氏に対する批判(「法治主義への無関心と似非実証的論法――伊藤之雄「近代天皇は『魔力』のような権力を持っているのか」(本誌831号)に寄せて」)が掲載された(※)が、その論調が、いかにも大学院ゼミでの院生の報告(それも、どちらかといえば出来の悪い方の……)に対する批判の調子そのままなので、苦笑させられたものである。
 発表当時、じつはすでにご本人も死期を悟っていて、今のうちに言いたいことを言っておこうと思っていたのでは、という噂があった。結局のところ、やはりそういうことだったんだろうか、と思う。
 なお、同論文も収録されるらしい最後の著作(これも死期を悟ってまとめられていたものなのだろうが……)『近代天皇制国家の歴史的位置』が、大月書店より10月7日より発売されるとのことである。

http://www.otsukishoten.co.jp/book/b94085.html
ISBN 9784272520855

 中国ではなかなか入手も難しそうだが、なるべく早く読みたい。


(※)なお、この批判が掲載されるまでの議論の経緯については、当事者のひとりである瀬畑源くんの blog に詳しい。以下を参照のこと。

http://h-sebata.blog.so-net.ne.jp/2006-10-05
書評:伊藤之雄『昭和天皇と立憲君主制の崩壊』

http://h-sebata.blog.so-net.ne.jp/2007-08-29
伊藤之雄氏「近代天皇は「魔力」のような権力をもっているのか」について

http://h-sebata.blog.so-net.ne.jp/2011-02-26
3年前の手紙


 ……あまり心残り心残りいっても仕方ない。自分にできるだけのことをがんばってこ。
posted by 長谷川@望夢楼 at 18:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月13日

安田浩先生の訃報

(以下の文章の大部分は11〜12日に書いたものの、訃報がマスメディアに流れるまで公表を差し控えていたものです。すでに『東京新聞』 http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/obituaries/CK2011091302000102.html などで訃報が流れましたので、こうして公表します。)

 9月10日。恩師の一人である安田浩先生が、10日に亡くなられた旨を、三宅明正先生から知らされた。
 ここ数年は癌のため何度も入退院を繰り返しており、それなりに覚悟はしていたのだが、不肖の弟子の一人として、悲しく残念な気持ちが無い、といえば大嘘になる。阜陽での授業が始まったばかりで、おまけに日本へ行くだけでも2日は見込まなければならない僻遠の地とあっては、今すぐ日本に帰れるわけもなく、中国から悼むことしかできないのが残念である。(じつは、しばらくお会いする機会が無く、赴任直前に直接ご挨拶をする機会がなかったので、それだけでも心残りなのである。)

 たまに誤解されるのだが、ぼくの千葉大学での学部以来の主任指導教員は三宅明正先生である。なぜかというと理由は単純で、ぼくが1995年に学部に入学した時点では、まだ安田先生は埼玉大学におられたからだ。とはいえ、修士論文と博士論文の副指導教員であるから、恩師であることには変わりない。
 院生の指導には厳しいほうで、特に、何よりも発表内容や論文の論理的整合性を重んじ、つじつまの合わない発表、思い込みが勝って論理構成が破綻しているような発表などについては容赦のない突っ込みを入れる方であった。とはいえ、それで鍛えられた院生は多いと思う。
 本当に残念なのは、結局、学位論文(『「皇国史観」という問題』)の「その次」をついに見せることができなかったことである。『地図から消えた島々』は差し上げたけれど。まあ、これからも学問研究と、そして今いる「中国」と向き合うことが、少しでも恩返しになれば……と思っている。
 ともあれ、あの独特の笑い声がもう聞けないのかと思うと、寂しい。

 他にも書くべきことと書きたいことはあるのだけれど、ひとまずはこの辺で。今晩の通夜は阜陽から祈らせていただくことにする。
 ……追悼のため『天皇の政治史』を読み返したいのだが、あいにく手元にないのだった。
posted by 長谷川@望夢楼 at 13:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月03日

阜陽無事到着

こちらでもお知らせしておきますが、8月25日に阜陽に無事到着、ようやく本日(9月3日)になってネット回線がつながりました。まずは取り急ぎお知らせのみ。
posted by 長谷川@望夢楼 at 18:42| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月22日

サブブログ「阜陽日記」

 家族・知人への連絡(安否確認)用に、goo ブログにサブブログ「阜陽日記」を作りました。「日夜困惑日記」では身辺雑記は滅多に書かないので、使い分ける予定です。
http://blog.goo.ne.jp/boumurou

「望夢楼」「日夜困惑日記」が更新困難な場合(いまのところ無いと思いますが)、「阜陽日記」の方でご案内をさせていただくことがあります。
posted by 長谷川@望夢楼 at 04:48| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月14日

阜陽師範学院(中国)赴任のご挨拶

 唐突なお知らせで申し訳ありませんが、私、長谷川亮一は、このたび今年(2011年)9月より、中華人民共和国安徽省阜陽市の阜陽師範学院 http://www.fync.edu.cn/ に、日本語の講師として赴任することになりました。
 ウェブサイトの管理・運営は、今のところ可能な限り続けていく予定です。メールアドレスの変更もありませんので、必要がある場合はメールにて問い合わせていただけるようお願い申し上げます。
 出発は8月24日の予定です。諸事情で各方面への通知が遅れ、出国直前になってしまったことをお詫び申し上げます。
 なにぶんにも未経験の外国での生活であるゆえ、不安がないといえば嘘になりますが、なんとかきちんと生活していこうと思っている次第です。
posted by 長谷川@望夢楼 at 15:44| Comment(1) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月15日

アタオコロイノナは北杜夫の創作ではない

 北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』(1960年)および『どくとるマンボウ昆虫記』(1961年)ほかに登場するマダガスカル神話の「アタオコロイノナ」について、北の創作である、という誤解が一部で広まっているようである。日本語版ウィキペディアの「アタオコロイノナ」の項には、「北杜夫の著作以外の登場が無いこと、多くの研究者のフィールドワークの報告や様々な神話集・伝承集などに一切記述が無いことなどから、実際は北杜夫の創作した神であると考えられる。」などと書かれてしまっている(上記の記述は2009年2月17日の版で付加、2009年9月24日の最新版まで修正なし)。

 北自身、『昆虫記』で「これはマダガスカル南西部に残る正統な伝説である」と書いてあるだけで、はっきりとした典拠を示していないという問題はあるのだが、少なくとも、「様々な神話集・伝承集などに一切記述が無い」というのは間違い。これは、 Google ブック検索で “Ataokoloinona” を検索してみれば、すぐにわかることである(→検索結果)。

 たとえば、 Felix Guirand (ed.), Richard Aldington & Delano Ames (transl.), New Larousse Encyclopedia of Mythology, London: Hamlyn Publishing, 1968, pp. 473-474 に、次のようにある。

A legend of south-west Madagascar deals with the origins of death and rain among the Malagasy, and at the same time explains the appearance of mankind on earth.

‘Once upon a time Ndriananahary (God) sent down to earth his son Ataokoloinona (Water-a-Strange-Thing) to Look into everything and advise on the possibility of creating living beings. At his father's order Ataokoloinona left the sky, and came down to the globe of the world. But, they say, it was so insufferably hot on earth that Ataokoloinona could not live there, and plunged into the depths of the ground to find a little coolness. He never appeared again.

‘Ndriananahary waited a long time for his son to return. Extremely uneasy at not seeing him return at the time agreed, he sent servants to look for Ataokoloinona. They were men, who came down to earth, and each of them went a different way to try to find the missing person. But all their searching was fruitless.

‘Ndriananahary's servants were wretched, for the earth was almost uninhabitable, it was so dry and hot, so arid and bare, and for lack of rain not one plant could grow on this barren soil.

‘Seeing the uselessness of their efforts, men from time to time sent one of their number to inform Ndriananahary of the failure of their search, and to ask for fresh instructions.

‘Numbers of them were thus despatched to the Creator, but unluckily not one returned to earth. They are the Dead. To this day messengers are stiu sent to Heaven since Ataokoloinona has not yet been found, and no reply from Ndriananahary has yet reached the earth, where the first men settled down and have multiplied. They don't know what to do – should they go on looking? Should they give up? Alas, not one of the messengers has returned to give up information on this point. And yet we still keep sending them, and the unsuccessful search continues.

‘For this reason it is said that the dead never return to earth. To reward mankind for their persistence in looking for his son, Ndriananahary sent rain to cool the earth and to allow his servants to cultivate the plants they need for food.

‘Such is the origin of fruitful rain.’

[大略――南西マダガスカルにつたわる神話によれば、神ンドリアナナハリ(ヌドリアナナハリ)は、その息子アタオコロイノナを、地上に生命を生み出すことが可能かどうかを調べさるために、地上に使わした。ところが、そのころの地上はものすごく熱かったので、アタオコロイノナは地下にもぐりこんでしまい、そのまま姿を消してしまった。ンドリアナナハリは、息子が帰ってこないので、それを捜すために使用人を地上につかわせた。すなわち、これが人間の起源である。しかしアタオコロイノナがどうしても見つからないので、人間はンドリアナナハリに使者を寄こして新たなる指示をあおごうとした。これがすなわち「死」の起源である。しかし、ンドリアナナハリのもとに派遣した使者は誰一人として戻ってこなかった。そのため人間はいまだにアタオコロイノナを捜し続けている。また、雨は、ンドリアナナハリが、人間がアタオコロイノナを捜しやすくするよう、地上を冷やし、食べ物をもたらすために降らせているものである。]

 話の筋は、北が『昆虫記』で紹介しているものとほぼ同じ。 “Water-a-Strange-Thing” がもし “What-a-Strange-Thing” の間違いだとすれば、確かに、北のいうところの「何だか変てこりんなもの」ということになる。なお、マラガシ語(マダガスカル語)の表記法では o は /u/ と発音されるそうなので、 Ataokoloinona は、より正確には「アタウクルイヌナ」となるのかもしれない。

ラベル:読書
posted by 長谷川@望夢楼 at 20:24| Comment(3) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月20日

『地図から消えた島々』本日発売

とりあえずエントリを立てておきます。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b87031.html
出版社(吉川弘文館)の紹介ページ

http://homepage3.nifty.com/boumurou/mybooks/2011islands.html
著者による紹介・サポートページ

posted by 長谷川@望夢楼 at 01:56| Comment(4) | TrackBack(0) | 著書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月14日

地方紙に見る関東大震災についてのデマ記事(続)

 前回、「名古屋大震災」「富士山噴火」の記事を入れていなかったので、それも含めて補足。今回は号外だけでなく、本紙に掲載されてしまったものも含んでいる。

 ちなみに、このころはまだラジオ放送が行われていないので、新聞が最も速報性の高いメディアだった。このころの号外は、現代でいえば、テレビやラジオのニュース速報に近いものである。関東大震災の際には、1日に3度も4度も出した新聞社もある。

 なお、こうしたデマ記事が掲載されてしまった背景について、少し説明しておくべきだろう。まず、東京の電信・電話施設は、地震発生とともに物理的に壊滅してしまい、東京は文字通り音信不通になってしまった。鉄道や道路も寸断されており、被災地への直接取材もままならない。おまけに、東京の新聞社はすべて物理的に壊滅している。つまり、地方紙にとっては、震災発生から数日の間は、信頼のできる情報がもたらされない、情報の裏をとりたくてもとれない、という状況に陥ってしまったのである。そのため、あらゆる手段をとって情報をかき集めた結果が――いかがわしい伝聞記事や噂話のオンパレードとなってしまった、というわけである。

◎名古屋大震災

名古屋も全滅?/詳細いまだ不明

(二日午前五時船橋無線電信局発小樽碇泊丁抹丸受信)[…]▲第七信傍受せし所に依れば横浜及名古屋は全滅せり

名古屋全滅の原因も地震と火災

名古屋地方にも強震火災起り全滅せりとの噂あり(三日仙台逓信局着信)[『小樽新聞』9月3日付号外第3、9月4日付本紙にも再録]

 「船橋無線電信局」というのは、千葉県東葛飾郡塚田村行田(現・船橋市)にあった海軍無線電信所船橋送信所のこと。東京近郊で唯一生き残った無線施設として、東京の被害状況を全国に伝える役割をになった。ただし、それが同時に、東京での流言やデマまで一緒に全国に広めてしまった、ということもよく知られている。出所が船橋送信所である、というのが正しいとすれば、これもその一例かもしれない。それにしても、「噂」レベルの話を見出しつきの記事にするとは……。

◎富士山が噴火

●東京大災震(第一報)/横浜、横須賀、全滅か

[…]震源地は三説ありて一は鹿島灘と云ひ或は富士山の爆発と云ひ或は天城山の爆発と云ひ何れが真なるや不明なり。

(九月二日午前七時本社特報)[『荘内新報』号外第1報]

 三つとも全部ハズレ。ちなみに天城山は火山ではあるが、その活動は約20万年前に終わっている。

◎横浜が海底に沈没

●震源地は天城山 第十二報/横浜全市海底に没して跡方なし

大強震、震源地は天城山にして、伊豆、伊東、下田方面は惨状言語に絶し倒壊家屋無数死者亦[また]算すべからず 所沢飛行隊は八台の飛行機を以て、東京市上空を偵察中、遂に皇居に延焼せるを確認せるも何等施すべき策なくして空しく引揚げ日光田母沢御用邸に御避暑中の陛下に奏上する所ありたり

◇名古屋電報

当地惨害甚しく駿河町は全滅し死者七八百名宛然生地獄を現出す

[…]

◇所沢特報

当場飛行機八台をして横浜市を偵察せしめたるに、仝市全部水中に没し、一の家屋を発見する能はず空しく引上たるも更に飛行活躍しつゝあり

[…](二日午後十時半特報)[『荘内新報』号外第12報]

 天城山が震源、というのはまだ許せるとしても、「皇居炎上を確認」「名古屋大震災」「横浜沈没」あたりは唖然とせざるをえない。いったいどこから情報を集めてきたのだろう。「名古屋電報」というのはほんとうに名古屋からの電報なのか。駿河町という地名は名古屋にも東京にもあるんだが。

◎山本権兵衛首相「暗殺?」

山本権兵衛伯暗殺?/各種の情報は何うやら真らしい/大混雑中に何者かの兇手に殪[たお]

山本権兵衛伯の暗殺説は全市無警察の状態なれば、未だ俄[にわか]に信を置き難いが長野運輸事務所より高崎へ高崎より大宮へ大宮より更に東京上野駅に連絡した情報は三回とも山本伯の暗殺説を伝へてゐるから或はどさくさ紛れに山本伯は何者かの兇手に見舞はれたのではないかと思惟される(長野電話)[『京都日出新聞』9月2日付本紙夕刊]

 「?」をつければいいって問題じゃないだろう。3回問い合わせた結果が同じだから事実である可能性が高い、というのもひどい理屈だ。

◎「不逞鮮人」が山本首相を暗殺、摂政宮裕仁親王も行方不明

●山本首相暗殺??/主義者の暴動

[…]尚[なお]茲[ここ]に驚愕すべきは、山本首相が一日午後不逞鮮人の為に暗殺せられたりとの報あり、

然も尚恐懼すべきは摂政宮殿下が一日午後自動車に召されて何れかの方面にか御出向遊ばされたる侭[まま]行方杳{よう]として知れず憂慮に堪えざるものあり

不逞鮮人主義者一派は混乱に乗じて暴動を起し、赤羽火薬庫砲兵工廠を襲ひ爆発せしめたり

但し吾人は是等の報道の希[こいねがわ]くは嘘報ならん事を祈るものなり(九月二日午後四時特報)[『荘内新報』号外第9報]

 「不逞鮮人主義者一派は…」の箇所は、この種のデマの典型的なパターン。朝鮮人や社会主義者が、いかに偏見の目で見られていたかを露骨に示している。

 「不逞鮮人の暴動」というデマが山本首相暗殺デマに結び付けられている、というだけでもひどいのだが、なんと摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)が行方不明だという。こんなものすごいデタラメを報じておきながら(しかも典拠が示されていない)、「嘘報ならん事を祈る」もなにもないもんだ。

 他紙の大部分が、とりあえず摂政宮は無事、と報じている中で、このパターンは珍しい。

●山本権兵衛伯暗殺の噂/不逞鮮人の仕業といふも真偽全く不明

山本伯が大の地震騒ぎの中に不逞鮮人の為めに暗殺されたとの報があり又不逞鮮人及び反政府党が共謀砲兵工廠及海軍省を爆発せしめたとの報がある山本首相の暗殺されたといふ報は上野運輸事務所から出たものだといふことだが未だ何等根拠とすべきことなく信ずべき材料も無い(二日青森発)[『小樽新聞』9月3日付本紙]

 「何等根拠とすべきことなく信ずべき材料も無い」と思ってるんなら報道するなよ。

◎伊豆七島全部噴火、いっぽう伊豆大島は異状なし

伊豆七島噴火/大地震の再襲来はあるまいと気象台員語る

【高崎電話】伊豆七島は目下全部噴火して居る之[こ]れに関し中央気象台員は語る『噴火してももう大丈夫だ大地震は再び来ぬのが原則である』と

海嘯に襲れた下田/一時陥没を伝へられた大島は異状なし

【静岡電話】伊豆大島は通信不能の為め状況が知れず一時全島陥没したとの説があつたが電信も通じ何等の異状もなかつた事が判明した[…]此の日[9月1日]伊豆大島の三原山が噴火するのではないかと下田、稲取両町民は不安に襲はれ殆ど全町民は二日二晩竹藪の中に避難したが四日大島へ電信も通じ天城通い自動車が開通して居る(静岡経由下田来電)[『九州日報』9月6日付号外第2]

 何が凄いかって、このあからさまに矛盾する2つの記事は、同じ号外の紙面で仲良く隣り合っているのである。出所が異なるとはいえ、変だと思わなかったんだろうか。

 「噴火してももう大丈夫だ、大地震は再び来ぬのが原則である」という中央気象台(気象庁の前身)のコメントも問題がある(そもそも噴火自体もデマだし、このコメントも実際に出されたものかどうか不明だが)。確かに同程度の規模の地震が同じ場所で繰り返し起きる、ということはないにせよ、余震はまだ続いている。4ヶ月後の1924年1月15日には、 M 7.3 (つまり兵庫県南部地震=阪神・淡路大震災と同じ規模)の「丹沢地震」が発生、神奈川県中南部を中心に死者19人を出している。

◎松方正義に聞く“死んだ感想”

松方公元気に復る

鎌倉別邸に静養中負傷した松方老公は目下勧銀[日本勧業銀行=現・みずほ銀行]理事川上直之助氏別邸に静養中であるが左大腿部外全身八ケ所の擦過打撲傷を負つたが今日では大腿部を除く外は全部治療し極めて元気である九日川上氏邸に公を訪ふと漸く歩けるやうになつたと病室から縁側に進み藤椅子に依つて団扇を使ひ乍[なが]ら『死んだものが居るのだから幽霊の写真が出来よう』と悪口を叩きニコ/\しながら[…](東京電話)[『福岡日日新聞』9月11日付号外]

 最後におまけ。「死亡」と大々的に誤報されてしまった元老の松方正義から、新聞記者にひとこと。なお、この記事には松方の写真は掲載されていない。

posted by 長谷川@望夢楼 at 01:43| Comment(4) | TrackBack(0) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月10日

地方紙号外に見る関東大震災についてのデマ記事

 先日(5月1日)、 Twitter でこんな話を書いたところ、予想外に反響があった。

  • 関東大震災のときに地方紙に載ったデマは、例の「不逞鮮人」関係を除いても酷いもので、報道の通りなら伊豆諸島はすべて水没し、富士山は爆発し、名古屋は壊滅し、高橋是清や松方正義は死亡し、宮城(皇居)は炎上し、山本権兵衛首相は暗殺されているはず。 posted at 00:16:34

 せっかくなので、新聞資料ライブラリー〔監修〕『シリーズその日の新聞 関東大震災 上 激震・関東大震災の日』(大空社、1992年)に収録されている地方紙の号外の中から、明らかなデマ記事をいくつか抜き出してみた。以下の抜き書きは、1923年9月4日ごろまでのものの中から目についたものを適当に選んだだけであり、網羅的なものではないことをお断りしておく。漢字は新字体に直した。[…]は引用者註。散発的な誤報もあれば、「松方公薨去」のように、本格的に信じられていた誤報もある。

 記事を見ていると、東京発の情報が途絶えている中で、地方紙の側が、なんとかして情報をかきあつめようと四苦八苦しているのがわかる。もちろん正しい情報も掲載されているのだが、しかし、このような虚報が大量に流されていたのもまた事実である。なお、ここでは挙げていないが、明らかに最も目につくのが「朝鮮人が爆弾や毒薬を持って暴れている」の類の悪質なデマである。

◎槍ヶ岳が噴火

大地震の原因は槍ケ岳の爆発

大地震の原因は日本アルプスの槍ケ岳の爆発と判明した[『小樽新聞』9月2日号外]

 そもそも火山じゃない。

◎秩父山が噴火

秩父連山大爆発/噴煙天に冲す

秩父連山は卅日噴火を始め一日正午に至り俄然噴煙天に冲して大爆発をしたものらしく之を高崎方面で眺むれば寧ろ壮観で今回の大地震は秩父連山の大爆発によるものあらうとも伝えられてゐる(長野来電)[『大阪毎日新聞』9月2日付号外第2]

 やっぱり火山じゃない。

◎横須賀が沈没

横須賀は陥没/所在不明

(二日午前十一時四十分青森発無線通信)横須賀陥没し所在を知る能[あた]はず[『小樽新聞』9月2日付号外第2]

 ちなみに、同じ号外に「青森発」として「不逞鮮人横行の為め取締困難を極む東京」というデマ記事が載せられている。

◎伊豆大島が沈没

島影を認め得ぬ小笠原と大島/海中に陥没せるものらしい

小笠原大島等は強震のため渺茫[べうぼう]たる海原と化し海上から視察するも島影をみとめ難く海中に没したものらしい(二日宇都宮発)[『小樽新聞』9月3日付号外第2]

新島出現す/大島が見えない

千葉警察部の報道によれば伊豆大島の前方に新しき島が出現し大島は新島に遮られて見えなくなつたと一説には大島は陥落して見えなくなつたのではあるまいかと噂されて居る[『名古屋新聞』9月4日付号外第2]

震源地大島/全島沈下して全島民溺死

今回の震源地なる伊豆大島全島沈下した為め島民全部溺死したとの説あるが消息不明の為め詳細判明せず[『名古屋毎日新聞』9月4日付号外]

◎宮城(皇居)炎上

宮城の一部焼失/鉄道省は全焼す/札幌鉄道局に達せる情報

二日午後二時まで札幌鉄道局に達した情報によれば宮中の一部焼失鉄道省は全焼し[…][『小樽新聞』9月2日付号外第2]

(※追記――鉄道省本庁舎の炎上は事実です。誤解されそうなので念のため。)

宮城今尚鎮火せず

[…]宮城も尚焼けつゝある(二日午前六時大阪運輸事務所着電)[『大阪毎日新聞』9月2日付号外第2]

全市火の海/宮城も半焼

【長野電話】東京市の火事は二日午前二時半に至るも尚ほ止まず[…]尚ほ宮城も遂に半焼した[…][『九州日報』9月2日付号外]

(※追記――宮城の一部に飛び火があったところまでは事実なので、最初の2つは完全な虚報とまではいえない。とはいえ、「半焼」は明らかに行き過ぎ。)

◎松方正義が死亡

松方公薨去

重傷を負ふて危篤に陥つた松方老公は遂に薨去した享年八十九歳(名古屋)[『京都日出新聞』9月3日付附録]

松方公薨去/鎌倉で負傷中の処

鎌倉に静養中の松方公が負傷したことは既報のごとくなるが引続き加療中の所三日薨去した(三日青森発)[『小樽新聞』9月4日付号外第1]

松方公逝去

松方公は鎌倉別邸に避暑中であつたが震災と同時に家屋倒潰し公は二日屋根の下敷になつて惨死して居たので三日重態の旨宮内省に届出でた[『名古屋新聞』9月4日付号外第2]

 最も代表的な「著名人が死亡」の虚報。松方正義(元老、公爵)は実際には1924年死去。なお、『名古屋新聞』の記事には、「惨死」後に「重態」を届け出る、という矛盾がある。

◎高橋是清が死亡

高橋総裁以下政友会幹部廿名圧死/本部で協議中俄然建物倒壊す

【名古屋電話】一日午後一時政友会本部で幹部会を開き協議中であつた高橋総裁以下二十名の幹部は本部建物倒壊の為め非難する暇なく全部圧死したとの情報を中央線列車乗組の車掌が齎らした[『九州日報』9月3日付号外第4]

政友会本部倒潰し高橋総裁圧死/幹部廿名と協議中の災厄

政友会高橋総裁は幹部二十名と本部にて政策問題につき協議中本部倒壊し高橋総裁は圧死したと(四日青森発)[『小樽新聞』9月4日付号外第1]

 高橋是清(元首相、立憲政友会総裁)は実際には1936年の2・26事件で殺害されている。

◎華頂宮博忠王が死亡

華頂宮薨去/横須賀隧道内で土砂崩壊の為

海軍少尉華頂宮博忠王殿下(二十二歳)には安否不明なりしも横須賀第一隧道内に於て御乗車の列車に土砂崩壊し薨去遊ばされたり[『名古屋新聞』9月4日付号外第2]

 華頂宮博忠王は実際には1924年死去。

◎島津忠重が死亡

島津公圧死

島津忠重公は去る一日大崎の本邸にて圧死した[『名古屋新聞』9月4日付号外第2]

 島津忠重(旧薩摩藩主島津家当主、公爵)は実際には1968年死去。

◎山本権兵衛首相暗殺

山本伯暗殺の風説/未だ尚ほ信ぜられず

内閣瓦解の後に大命を拝して新閣僚の選定に努めつつあつた山本権兵衛伯は一日激震の最中何者かに暗殺されたといふ風説伝はる、流言頻々たる折柄本社は尚ほ極力精探中であるが未だ信ぜられず[『大阪朝日新聞』9月2日付号外第2]

山本伯身辺の風説/確証も打消材料も共に無い

山本首相が暗殺されたといふ流説が専ら伝はつたそれを聞いた者は上野運輸事務所の者の口から出たといふが此場合の事とて何ら根拠ありとも認められぬと同時に又打消すべき確証もない(名古屋来電)[『大阪毎日新聞』9月2日付号外第2。ほとんど同一の文章が『九州日報』9月2日付号外にも「長野電話」としてある]

 ことがあまりに重大なためか、さすがに未確認情報だと断っている。

◎名古屋市でも震災

名古屋全滅は風説ならん/名古屋鉄道局から札鉄へ業務上の通信

名古屋は震災を被つて全滅したと云ふ噂があつたが三日午後四時三十五分名古屋発同十一時十三分札幌鉄道局着電に依ると、中央線浅川塩山間不通の処猿橋塩山開通すとの電頼があつた、之に依ると右風説は虚構であらうと[『小樽新聞』9月4日付号外第2]

 この場合はデマ訂正だが、つまりそれ以前にそういうデマが広まっていたということである。何が陰鬱かといって、同じ号外に「不逞鮮人水道に毒薬を投ず」「爆弾携帯の不逞鮮人四百名逮捕」といった悪質なデマ記事が載っていることだろう(400人もが携帯できる量の爆弾なんか、いったいいつ、どこで用意したというのだ?)。

 ……あれ? 富士山噴火が無いな。見落としたか。

(21:00 若干の誤記を修正、追記を付け加えました。)

(5月16日追記。「富士山噴火」「名古屋市でも震災」については続きを参照のこと。)

posted by 長谷川@望夢楼 at 01:56| Comment(1) | TrackBack(1) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。