2012年08月19日

研究プロジェクト報告書『日本における「標準化」の史的考察』

 私も参加しました2008〜2011年度千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書『日本における「標準化」の史的考察』が千葉大学学術成果リポジトリで全文公開されておりますので、内容を紹介しておきます。

『千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書 第217集 日本における「標準化」の史的考察』(千葉大学大学院人文社会科学研究科、2012年2月28日発行)

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116341
三宅明正「はしがき」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116342
長谷川亮一「近代日本における「標準化」の概念について」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116344
小川信雄「「科学技術」ということばにある政治性」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116345
長澤淑夫「三井財閥と会社法」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116346
三村達也「近代以降の日本における住宅計画学の成立と終焉――住宅の標準化という限界性に着目して」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116347
山口隆司「雑誌『家の光』にみる日本の戦時体制下農村社会の平準化」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116348
高木晋一郎「大正〜昭和戦前期の自動車政策にみる標準化・規格化」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116349
高橋莞爾「世界標準化としてのISO国際規格についての考察」(研究ノート)
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2012年07月04日

千葉に帰ってきました

 無事戻りました。取り急ぎお知らせのみ。
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2012年07月01日

7月3日に帰国します

 1年間を阜陽師範学院で日本語外教として過ごしてきましたが、このたび、雇用期間終了にともない日本に帰国することになりました。帰国予定は7月3日となります。(雇用終了によるものであり、来期以降の渡航予定はありません。)
 まずはお知らせのみ。
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2012年04月27日

尖閣諸島が個人所有となった経緯

 先日明らかにされた東京都による尖閣諸島購入計画については、実効支配という観点からいえば、はっきりいって無意味だと思う。そもそも、この島々はもともと日本側が実効支配しているのである。だいたい現在も国(総務省)が借り受けているのだし。公有地にすることで管理が安定するというメリットがあるとしても、所有すべきなのは国・沖縄県・石垣市のいずれかであって、直接何の関係もない東京都が出張ってくる意味は無い。

 私有地のままにしておくと外国政府が購入する恐れがある、と心配される向きもあるかもしれないが、国内法上の土地所有権と、国際法上の領有権とは別の概念である。だいたい、日本の国内法に基づいて土地を購入し、その土地を不動産登記したとすれば、とりもなおさず、日本政府によるその土地の領有権と管理権を認めていることになってしまう。したがって、本気で尖閣諸島の領有権を主張するつもりがあるのなら、尖閣諸島の土地を日本の国内法に基づいて購入したりしてはならないはずである。

 それはともかくとして、そもそも、なぜ尖閣諸島が(日本国の国内法上)私有地となっているのか、ということについて、簡単にまとめておきたいと思う。なお、言うまでもないが、以下の記述はすべて「日本国の国内法上」という前提付きでの話である。中華人民共和国と中華民国(台湾)は、そもそも日本による尖閣諸島の領有自体を認めていないので、両政府の立場からすると、尖閣諸島が日本の国内法に基づいて不動産登記されているということ自体が認められないことになるからである。

 さて、いわゆる尖閣諸島のうち、私有地になっているのは、南小島沖縄県石垣市登野城2390番地)、北小島(2391番地)、魚釣島(釣魚島。2392番地)、久場島(黄尾嶼。2393番地)の4島である。大正島(久米赤島、赤尾嶼。2394番地)は、地籍の設定が行われたのが1922年(大正11)になってからであり、当時から現在に至るまで国有地である(『季刊沖縄』第63号、南方同胞援護会、1972年)。また、沖ノ北岩・沖ノ南岩・飛瀬の3岩礁は、そもそも土地台帳に記載がなく地番も設定されていない(浦野起央『【増補版】尖閣諸島・琉球・中国――日中国際関係史【分析・資料・文献】』三和書籍、2005年)。

 魚釣島と久場島は、1895年(明治28)1月14日の閣議決定に基づき沖縄県に編入された。同年6月、那覇在住の実業家・古賀辰四郎(1856〜1918)が、久場島に対する「官有地拝借御願」を内務大臣に提出した。翌1896年(明治29)4月、沖縄県八重山郡が新設された際、魚釣島・久場島は北小島・南小島とともに八重山郡の所属となったらしいのだが、この編入手続きに関する行政記録は発見されておらず、ひとつの謎となっている。同年9月、内務大臣は古賀に対し、魚釣島・久場島・北小島・南小島の4島を「30年間無償」という破格の条件で貸与する許可を出した。拝借願が久場島1島の拝借のみを求めているのに、他の3島がおまけでくっついてきた理由はよくわからない。

 古賀の目的はアホウドリ猟であったが、アホウドリは乱獲のため数年で島から姿を消してしまい、その後、古賀はカツオ漁とカツオ節の製造に乗り出すことになる。古賀は1918年(大正7)に死去、その後に長男の古賀善次(1893〜1978)が開拓事業を受け継ぐ。そして1926年(大正15)、ついに貸借期限の30年が切れてしまった。

 その後、古賀善次は4島の有償貸借を一年更新で続けていたが、1932年(昭和7)に内務省から有償払い下げを受け、4島は古賀善次の私有地になることになった。この経緯について、古賀善次本人は、いくつかのインタヴュー記事で次のように述べている。

 大正七年[1918]、父は、六十三歳にしてこの世を去り、私が跡を継ぎました。そして大正十五年[1926]には三十年の借地期限も切れたのです。
 そこでしばらくは借地料を払ってカツオ節工場を経営していたのですが、だんだんそれが負担になってきましたので、昭和六年[1931]に払い下げを申請し、翌年許可されました。その日から魚釣島、久場島、南小島、北小島の四島は私の所有ということになったわけなのです。[古賀善次/若林弘男=インタビューと構成「毛さん佐藤さん 尖閣列島は私の“所有地”です」『現代』第6巻第6号、講談社、1972年6月、144頁]

 昭和七年五月二十日(一九三二年)、借りていた魚釣島と久場島(黄尾嶼)の両島を国から払い下げを受けました。値段は魚釣島(面積三百五十七町)[約3.5km2]の場合、二千八百二十五円でした。また同じ年の七月十五日には、南小島と北小島も買い取りました。[新藤健一「所有者が初めて明かす往年の尖閣列島」『世界画報』第305号、国際情報社、1977年10月、64頁。なお、同記事では古賀善次が1977年現在も4島を所有しているかのように書かれている。]

 しかし、その数年後には4島は無人島化する。

 魚釣島、久場島、北小島、南小島の四島が私の所有地ですが、戦後は別に用事もなく、ぜんぜん行っていません。事業は昭和十五年[1940]までカツオ漁を中心にやっていました。でも、第二次大戦のぼっ発で石油の配給がストップしたため、やめて引揚げてきました。カツオ節を作るには、いぶすための燃料が不可欠だったからです。[新藤「往年の尖閣列島」62頁]

 この4島のうち、久場島を除く3島は、1974年(昭和49)に古賀善次から、現所有者である埼玉県在住のさる実業家(K氏)に売却されている。このとき久場島が別扱いになったのは、この島が戦後に米軍の演習場(黄尾嶼射爆撃場)に指定されたことと関係があると思われる(沖縄県知事公室基地対策課FAC 6084 黄尾嶼射爆撃場)。古賀善次のインタヴューには次のようにある。

 戦後、私の所有する島のひとつ久場島を、米軍は射爆場として使いはじめました。
 使いはじめたのは終戦直後かららしいんですが、米軍が私に借地料を払うようになったのは昭和二十五年[1950]からです。
 地料は年額一万ドルあまり。無期限使用となっていました。[古賀「尖閣列島は私の“所有地”です」145頁]

[…]久場島(黄尾嶼)も実は米軍の射爆場として使われているんです。昭和二十七、八年[1952〜53]頃からだったと思いますが、その時で年額一万一千百四ドルを使用料としてもらっています。最近では年額三百五、六十万円を防衛施設庁を通して受け取っています。[新藤「往年の尖閣列島」65頁]

 ただし、浦野起央『【増補版】尖閣諸島・琉球・中国』では、琉球列島高等弁務官が久場島を軍用地に指定し、古賀善次との間に地代契約を結んだのは、1958年(昭和33)7月となっている。

 ちなみに国有地である大正島も射爆撃場に指定されている(FAC 6085 赤尾嶼射爆撃場)。もっとも、両射爆撃場はともに、1979年(昭和54)以後は特に訓練は行われていないという。

 古賀善次は1978年(昭和53)に死去、その妻の古賀花子も1988年(昭和63)に死去した。善次夫妻にはこどもがいなかったため、古賀辰四郎の直系は断絶している。久場島の所有権は、花子の遺言でK氏に譲渡されることになった(『朝日新聞』1988年1月22日付朝刊3面「南海の無人島、所有者の死去で宙に浮く」、同・1997年8月9日付朝刊22面「「この国」を想う 2 尖閣諸島」)。

 さて、1997年(平成9)5月6日、西村眞悟衆議院議員(当時)らが魚釣島に上陸した。この際、橋本龍太郎首相、梶山静六内閣官房長官(当時)をはじめとする政府関係者は、所有者(K氏)が上陸許可を出していないことを根拠として、西村議員らの行動を非難している。特に梶山官房長官は、5月7日の記者会見において、無断上陸は軽犯罪法違反にあたるとの見解を示した(『朝日新聞』1997年5月7日付夕刊「新進党、西村氏らの魚釣島上陸は軽犯罪法違反」、『読売新聞』同日付「尖閣諸島上陸の西村氏らは違法」)。おそらく、軽犯罪法第1条第32号の「入ることを禁じた場所又は他人の田畑に正当な理由がなくて入つた者」に抵触すると思われる(住居も囲みも無いため、住居侵入罪は成立しない)。

 1997年8月9日付『朝日新聞』は次のように報じている。

 [古賀辰四郎の]息子の善次夫妻は七四年から八八年にかけて、家族ぐるみの親交があった埼玉県大宮市の結婚式場経営者(五五)の一家に四島を約三千八百万円で譲った。七八年に亡くなった善次さんは「(尖閣は)美しい島。自然のままにしてほしい」と言い残した。
 結婚式場経営者は、毎年約七十万円の固定資産税を石垣市に支払っている。以前、石原慎太郎元運輸相が「一坪運動」として買い取りを打診してきたが断った。経営者に代わって式場の総務部長(六六)は言う。
 「勝手に灯台を建てたり、上陸したり。迷惑なんです。(帰属問題は)国が考えること。そっとしておいてほしい」[『朝日新聞』1997年8月9日付朝刊22面「「この国」を想う 2 尖閣諸島」]

 この問題に対して、西村議員側は「日本国の領土を日本国の国会議員が視察することは当然のことで、法的にも瑕疵はない」と主張している(『読売新聞』1997年5月6日付夕刊2面)。(要するに、地主が「入るな」と言っている土地に勝手に入っておいて開き直って威張っている、という状況なのだが、確かに微罪でしかないとはいえ、触法行為の疑いは否定できない。日本国の領土だと主張するのであれば、なおさら、その土地では日本国の法律に従うべきなのではないか?)

 2003年(平成15)1月1日付『読売新聞』朝刊は、日本政府(総務省)が前年10月、久場島以外の3島について、K氏から年間約2256万円で借り上げる賃借契約を結んだ、ということをスクープした。同紙は、政府側の考えについて以下のように報じている。

 「尖閣は国の固有の領土。これは微動だにしない」(政府関係者)との基本姿勢を踏まえた上で、どうすれば尖閣諸島の民有地を政府が安定して管理できるか、自然環境保護の観点などからも様々な検討が行われ、最終的に「賃借権設定」という手段に落ち着いたという。
 国が所有者に相応の賃料を支払うことで、島の転売に一定の歯止めをかけることができるほか、仮に所有者が第三者に転売しても、賃借人としての権利を主張できる。また、国は賃借権に基づき、第三者が不法上陸したり、勝手に建造物を建てたりすることを阻止できる。尖閣諸島では、これまで、日本の政治団体が灯台などを建設したり、国会議員が上陸したりして、中国、台湾側が抗議した経緯がある。
 政府は、来年度以降も毎年、契約を更新していく方針という。

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2012年02月20日

「国際連合規格調整委員会」の謎

 国際標準化機構(ISO)設立の経緯を調べていて、少々厄介な問題に突き当たった。
 簡単にいえば、第一次世界大戦前に存在した万国規格統一協会(ISA)が、第二次世界大戦の勃発により機能停止に追い込まれた後、1944年に連合国が UNSCC (United Nations Standards Coordinating Committee)を設立、1947年、 ISA と UNSCC が統合されて ISO となる、というのが大まかな流れなのだが……。
 さて、問題はこの UNSCC である。ほとんどの日本語文献は、この団体を「国際連合規格調整委員会」もしくは「国連規格調整員会」と訳している(たとえば飯塚幸三〔監修〕『世界の規格便覧 第1巻 国際編』日本規格協会、2005年、257頁)。
 確かに、 United Nations とあるのだから「国際連合」と訳したくはなる。しかし、 UNSCC の設立年は1944年である。国際連合(United Nations)の設立は1945年10月24日。国連憲章の起草を行ったサンフランシスコ会議の開会にさかのぼっても1945年4月。つまり、 UNSCC 設立の時点では、「国際連合」はまだ存在しないのだ。
 1944年の時点で “United Nations” とあったら、ふつうは「連合国」を指す。したがって UNSCC は「国際連合規格調整委員会」ではなく「連合国規格調整委員会」と訳すのが正しいのではないか?
(ちなみに、「国際連規格調整委員会」と訳した文献もあるのだが[喜多尾憲助「ISOおよびIECの最近の活動」『日本原子力学会誌』第42巻第10号、2000年。 doi:10.3327/jaesj.42.1000]、これでは間違いの上塗りである。)

 ……ということにしてみたのだが、一難去ってまた一難。こんどは ISA の正式な設立年がわからない。
 たいていの事典類には1926年設立とあるし、だいいち、 ISO の公式ウェブサイトに掲載されている「The ISO story」に、はっきり1926年設立と書かれている[http://www.iso.org/iso/about/the_iso_story/iso_story_founding.htm]。ところが、通商産業省〔編〕『商工政策史』第9巻(商工政策史刊行会、1961年)によると、じつは1926年の時点では「会則の整理と細則等を議決」しているのだが、「ほかの国際団体との協力問題に関する意見が一致しなかつたので、協会の設立を具体化する時期についてはなお考慮することとし」たという(p. 220)。で、正式な発足は1928年10月なのだという。つまり、会則の決定と正式な発足との間に2年のズレがあるらしい。

 ……と、こういう細かいことばかり気にしているから、肝心の「ISA という国際組織が第一次世界大戦後という時期に設立されたことの意味」という話をきちんと盛り込むのを、うっかり忘れていたりするのである。
posted by 長谷川@望夢楼 at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月19日

阜陽に戻りました

 2月9日に阜陽に戻りましたが、阜陽に戻ってからしばらくネットがつながらず、ネットにつながったらつながったで授業が始まってしまい忙しく、なかなか書く時間がとれませんでした。すみませんでした。
posted by 長谷川@望夢楼 at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月15日

1月18日から2月8日(予定)まで一時帰国します

 1月16日から2月10日まで冬期休暇ですので、その間(1月18日〜2月8日=予定)に一時帰国します。5ヶ月近く中国で過ごしたくせに、いまだに中国語がろくにできない上、一人旅になりますので、無事帰国できるかどうか少々不安ではあるのですが……。
posted by 長谷川@望夢楼 at 21:06| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月01日

あけましておめでとうございます

 阜陽師範学院は昨日(12月31日)まで授業でした。昨年来のいろいろな懸案も全く片付かないまま、ついに年を越してしまいましたが、本年もなにとぞよろしくお願い申し上げます。
 昨2011年は、様々な意味で日本と世界の歴史に残ってしまうであろう年になってしまいましたが、今年こそはいい年になりますように。
 安徽省阜陽市より。
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2011年12月24日

クリスマスツリーと政教分離原則

 手元に詳しい資料がないので、とりあえずネット上で容易に確認できる記事を示す。

 1964年(昭和39)7月31日、衆議院社会労働委員会[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0188/04607310188060a.html]における林修三・内閣法制局長官の答弁より。

 文脈を確認しておくと、まず、長谷川保(はせがわ・たもつ)委員(日本社会党)が、この年8月15日の全国戦没者追悼式を靖国神社境内で挙行することになったことを、政教分離上問題があるのではないか、という理由から取り上げる。

 なお、全国戦没者追悼式は、日本遺族会などの要望により、1963年から毎年8月15日に開催されることになった(これ以前にも、対日講和条約発効の1952年5月2日と、千鳥ヶ淵戦没者墓苑竣工式の1959年3月28日に開催されている)。最初の1963年は日比谷公会堂での開催であり、翌1964年も当初は同じ場所での開催が閣議決定されていたのだが、それが「遺族等の強い要望」という理由で靖国神社に変更されたのである。社会党からは小林進や滝井義高らも参戦し、政府を追及している。

○長谷川(保)委員 […]御承知のように、全国の公共団体これは国の機関も同様でありますが、国の機関あるいは公共団体におきまして、建築物あるいは橋をつくる、鉄道を敷く、こういうようなときにやはり神道の儀式をもっておはらいその他のことをやるのであります。これに国の金あるいは公共の金が出るとすれば、これは明らかに憲法違反だと思いますけれども、この点は法制局長官としてどう考えられますか。

○林説明員 いまおっしゃったような起工式とか竣工式とかに、いわゆる神式でございますかの行事が行なわれていることは、どうも事実のようであります。これは行ない方にはいろいろあるようでございまして、工事業者がやっている場合もあるようでございますが、しかしやはり公共団体等がみずからやっている例も多いようでございます。この点につきまして私どももかねて考えておるわけでございますが、かつて、実は少し問題は違いますが、例のクリスマスのツリーを国鉄の駅の前に立てたということで問題が起こったことがございます。その際に私ども意見を聞かれまして、ああいうクリスマス・ツリーは、日本においてはすでに宗教的色彩を失って一種の習俗的な行事であるというふうになっているんじゃないか、あれを見て直ちにだれも宗教的感じを抱かないんじゃないか、そういうふうにわれわれ申しまして、あの程度のものはいいじゃないかということを申したことがございます。いまの起工式あるいは竣工式につきましても、実は私ども、すでに日本のいわゆる古来の習俗というようなことになっておるんじゃないか。これはいろいろの例を見ましても、仏教信者がおはらいをするときにもああいうものを使う、あるいは竣工式、起工式にはああいう式をやる、あるいは役所のたとえば火よけに秋葉神社のお札を持ってくるというのは、これは必ずしもその人が神道であるということに結びつかないで、日本においてはすでに一つの習俗的なものになっている、こう考えていいんじゃないかと私ども考えて、そういうようなこととしてどうも認めざるを得ないんじゃないかと思っておるわけでございます。

○長谷川(保)委員 それは全くのひどい話でありまして、これは神の降臨を祈って、御承知のようにのりとも日向の橘之小戸とかなんとかいうことを言う。これは全くの神道の儀式であります。これを単なる習俗ということはいけない。むしろやはり国あるいは公共のものは、そういう宗教を入れる必要はない、何も入れる必要はないのであります。したがって起工式なら起工式、竣工式なら竣工式を無宗教でおやりになればいいのでありまして、そういう形ですでに行なっているところもあります。実業家などでもあります。この間も私はある件で関係したのでありますが、本田モーター、あれなどはもう起工式なんて何もやりません。そういうことでいいんだと思います。[…]

 国鉄(現在のJR)は当時は国有企業(日本国有鉄道)の運営だったため、こうした問題が生じたわけである。

 ちなみに、長谷川(1903-94)はクリスチャンであり、聖隷福祉事業団・聖隷学園などの創立者として知られる社会運動家・教育家でもある。林がクリスマス・ツリーの件を持ち出したのは、クリスチャンである長谷川の批判をかわそうとする狙いから、ということかもしれない。

 結局、翌1965年からは全国戦没者追悼式は日本武道館で行われるようになり、現在に至っている。

 長谷川が問題とした「神道の儀式」すなわち地鎮祭については、のちに津地鎮祭訴訟(1965〜77年)として実際に裁判で争われているが、第一審では習俗的行為として合憲とする判決、控訴審では宗教的行為であり違憲とする逆転判決、上告審では、やはり習俗的行為として合憲とする再逆転判決が下されている(ただし、最高裁判決は裁判官中8名が合憲、5名が違憲と判断したもの)。

posted by 長谷川@望夢楼 at 13:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月20日

「望夢楼」16周年

 というわけで16周年を迎えてしまいました。
 この1年の間、個人的にも、『地図から消えた島々』の上梓と中国・阜陽師範学院への赴任、という大きな変化がありました。
 『地図から消えた島々』は、「望夢楼」の愛読者の方々(これが結構多かったのは嬉しかった)をはじめとして、幸い、かなりのご好評をいただきました。(どうもぼくの書くものは読者を選ぶ癖があるようで、決して万人受けするものではないようですが……。)この機会に、読んでいただいた方々にまとめてお礼を申し上げます。ありがとうございました。
 なかなか滅多にない機会だったので、限られたスペースに思い切りいろいろなことを詰め込んでしまったのですが、それでも書き足らないことは山のようにあります。そうしたものはいずれ別の機会に書きたいと思っているのですが。
 今はまだ、慣れない日本語教育を手さぐり状態で進めているところですので、なかなか余裕もありませんが、いずれ何か書きたいと思っています。

 ……せっかく安徽省にいるんだから、歴陽伝説(城門にいたずらで血を塗ると洪水が起こって町が沈む、というあの話)の故郷である巣湖市に一度行ってみたいんだけど、同じ安徽省といってもだいぶ遠いからなあ。阜陽は淮河よりも北だし。あと、南京も、近現代史研究者の端くれとしては一度行かなきゃならないよあ。
posted by 長谷川@望夢楼 at 22:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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