2013年06月06日

平泉澄と仁科芳雄と石井四郎

 手元の資料を整理していたらこんなものが出てきた。

  • 「東京大学旧職員インタビュー(3) 平泉 澄氏インタビュー(6)」『東京大学史紀要』第17号(東京:東京大学史史料室、2000年3月)

 東京大学百年史編集室(現・東京大学史史料室)が1978年11月に平泉澄(ひらいずみ・きよし、1895〜1984)に対して行った聞き取りで、平泉の没後、『東京大学史紀要』第13〜17号に掲載された。平泉は元東京帝国大学文学部国史学科教授で、戦時下において独特の国体論的歴史学を展開したことで知られる。インタビュアーは伊藤隆・酒井豊・狐塚裕子・照沼康孝の4名である。したがって、終戦から33年経った時点での、満83歳の老人による回想である、ということはいちおう注意しておきたい。

 そのインタビューの結末近くで、平泉はこんなことを語っている([…]内は引用者註)。

[…]世界は大動乱に陥り日本は大国難に遭遇するということを私は看破して、欧州滞在を切りあげて帰る、前から日本は大変なことだと思っていたが、いよいよそれがせっぱ詰まってきて帰るでしょう。同じ時にヨーロッパにおって、これは大変だということに気がついて、そこで対策を講じなくてはならないと考えたものが、私のほかに二人ある。これが世にも不思議なことに、全部大正七年[1918]の東大卒業生です。[…]
 そのときに出た一人は仁科芳雄。これが理工科の銀時計です。欧米へ行って、原爆をもって国を守る以外にはないということを考える。もう一人は石井四郎陸軍中将。これは石井部隊ですが私と四高[第四高等学校=現・金沢大学]で同期生ですが、厳密にいうとこの人は医学部だから昭和八年東大の卒業だと思うんですが、仁科さんもわれわれも大正七年には東大におったんです。
 この三人は連絡はないんです。私は仁科さんは知らん。石井さんは知っておったが、石井が偉い男だということは知らなかった。[…]
 そのうちに石井さんの本当のことを全部私は知ってね。これは大変なことだと思った。化学兵器をもって国を守るんです。陸軍の最後の手段はこれだった。非常に厳重にこれは秘匿されておった。しかし、いよいよ戦局が急迫したとき、私は石井さんを訪ねた。陸軍大臣には会えても石井さんには会えないというくらい全部守られておる。それを石井さんに連絡したら、おいでなさい、話しておくということで会いに行きましたわい。全く隔離されたところで、厳重な警戒のうちにおる。会って石井さんが言うには、あなたはみんな知っておるんだから隠すことはしない、みんな話しする。おれのところで考えておることはこれだけだというんで、全部の計画、準備、設備、みんな話をしてくれた。石井さん、いざというときは頼むぜというので、非常にこれは自分には頼みになった。
 もう一つの原爆のほうも頼みにしたんですが、これは貴族院でたびたび長岡半太郎氏がしゃべった。あれがよけいなことをしゃべった。やるのなら黙ってやればいい、できもしないものをしゃべるというのはよけいなことなんです。よけいなことを言われたなと思いますが、これは結局できずに終わった。
 そのときに仁科さんの下におった人が二人ばかり、この春、テレビに出たんですが、その話を聞いて私は非常に憤慨したんです。われわれは仁科博士の下で原爆の研究に従事したけれども、それは原爆をつくって実戦に用いようという意図ではなかった。自分らがこのことに関係しておったのは、いかにして陸軍の徴兵を免れかるかということを考えて、そのためにここに入っておったのだ。研究するものは理論を研究したのであって、実際には関係しておらんと繰り返し言ったんです。それはどこまで本当なのか、今の時世に媚びて言ったのかわしはわからん。しかし、事実は何もできなかったんです。当時、もう一週間早ければできたというが、事実はそんなものではありません。五十年も遅れていたんですと言いました。いまさら何を言うかと思いましたがね。本当に自分の命を捨てる気のないものは、こういうことになるんです。石井さんのほうは用意しておったが、これは陛下のお許しがないので、とうとう行われない。そこで何とかしてふつうの兵器で戦って、いわゆる逆転を私はやりたい。私はプロレスが好きでね。猪木がさんざん負けて、これはあかんかと思うと、彼は逆転する。それは何とも言えぬ楽しみですわ。それはどんなに負けても最後の一戦で勝てば、終わりよければ万事よしなんです。それで回天でも何でも一生懸命やった。[pp. 76-78.]

 ……どうやら平泉澄はアントニオ猪木信者だったらしい。

 三人の略歴を簡単に示しておこう。

 平泉澄(ひらいずみ・きよし、1895〜1984):1918年東京帝国大学文科大学国史学科卒業。1921年東京帝国大学文学部講師、1926年文学博士(東京帝国大学、「中世に於ける社寺と社会との関係」)、同助教授。1930〜31年ヨーロッパで在外研究。1935年同教授、1945年辞任。1948〜52年公職追放。著書『中世に於ける精神生活』(1926)・『我が歴史観』(1926)・『闇斎先生と日本精神』(1932)・『菊池勤王史』(1941)・『少年日本史』(1970)・『悲劇縦走』(1980)他多数。

 平泉は1930年3月に在外研究のため渡欧するが、2年計画のところを1年3ヶ月で切り上げ、満洲事変の直前に帰国している。若井敏明『平泉澄』(ミネルヴァ書房、2006年)によれば、滞欧中の1931年4月にスペインで無血革命が起きて王制が廃止されたことにより、共産主義や革命への危機感を感じて帰国したものという。

 仁科芳雄(にしな・よしお、1890〜1951):1918年東京帝国大学工科大学電気工学科卒業。1921年(財)理化学研究所(理研)研究員。1921〜28年イギリス、ドイツ、デンマークで在外研究。1930年理学博士(東京帝国大学、「錫(50)よりタングステン(74)に至る諸元素のL吸収スペクトル並に其の原子構造との関係に就て」)。陸軍・理研の原爆開発計画「ニ号研究」に従事。1946年理研所長、1948年理研解散にともない(株)科学研究所社長。

 「銀時計」というのは、東京帝国大学の成績優秀者に対して卒業時に天皇から授与される「恩賜の銀時計」のことで、平泉と仁科が卒業した1918年まで実施されていた。なお、平泉自身も授与を受けている。

 石井四郎(いしい・しろう、1892〜1959):1920年京都帝国大学医学部卒業。1927年医学博士(京都帝国大学、「グラム陽性双球菌に就ての研究」)。1928〜30年海外視察。1931年陸軍軍医学校教官。1932年、軍医学校内に防疫研究室を設立。1936年、関東軍防疫部(のち防疫給水部=満洲第731部隊)を編成し細菌兵器の研究に従事。1942年北支那方面軍第一軍軍医部長に転出するが、1945年軍医中将に昇任し防疫給水部長に復帰、直後に終戦。

 さて、上述した略歴からも明らかなように、このインタビューにはいくつか基本的な事実誤認が含まれている。まず、平泉と石井が同じ旧制第四高等学校の出身なのは事実だが、石井が東大出身というのは平泉の勘違いで、卒業年次も異なる。ついでにいえば、細菌兵器が専門の石井が「化学兵器をもって国を守る」というのも少々おかしい。また、仁科は世界恐慌が始まる前の1928年12月に帰国しており、1930年3月に渡欧した平泉とは時期的にズレがある。さらに、仁科が渡欧中に「原爆をもって国を守る以外にはないということを考え」た、というのもおかしい。原子爆弾の製造可能性がSFではなく現実的問題として取り沙汰されるようになるのは、1938年にオットー・ハーンとフリードリヒ・シュトラスマンが核分裂を発見して以降のことだからである。要するに、「大正七年の東大卒業生」3人が「同じ時にヨーロッパにおって……対策を講じなくてはならないと考えた」という話は、平泉澄の思い違いの産物にすぎないのである。

 また、「貴族院でたびたび長岡半太郎氏がしゃべった」という事実もない。確かに、戦時中の貴族院で、原子力が軍事利用できる可能性について触れた科学者議員はいる。しかし、それは長岡半太郎(1865〜1950)ではなく、田中舘愛橘(たなかだて・あいきつ、1856〜1952)である(第84回帝国議会貴族院本会議、1944年2月7日)。なお、昭和天皇が化学兵器の使用を止めさせた、という話の裏付けはとれなかった。実際のところ、日本軍が化学兵器を使わなかった理由は、報復攻撃を恐れたことが大きいと言われており、その恐れの少ない中国戦線ではしばしば使用していたことが知られている。

 晩年のインタビューにおける放言めいた発言であり、当然、記憶違いもあるであろうことは割り引いておく必要があるものの、ずいぶんいい加減な話ではある。

 末尾の「回天」は人間魚雷の「回天」のこと。平泉は、このインタビューの中で、「回天」の発案者の一人である黒木博司海軍大尉(1921〜44。「回天」試験中に事故死、少佐に特進)のことを「私の最愛の門下」と呼んでいる。

 さて、この話からは、平泉の認識を以下のように整理することができそうだ。

  1. 平泉澄は、日本の勝利のためなら核兵器や生物・化学兵器の使用も許される、と考えていたらしい。
  2. 平泉澄は、自分の言動が核兵器や生物・化学兵器の研究開発と同列に並べられるものだ、と考えていたらしい。
  3. 平泉澄は、秘密兵器による一発逆転勝利、などというマンガ的(プロレス的?!)な話が、現実的な話だと考えていたらしい。(しかも、その秘密兵器の具体例が特攻兵器。)

 なお、「本当に自分の命を捨てる気のないものは、こういうことになる」という発言の意味はいまひとつ明らかでないが、もし「だから原爆を完成させることができなかった」という意味であれば、「そんな精神論を言っているから戦争に勝てないんだ」とでも答えておけばよさそうである。

 そもそも、平泉の専門は日本中世史で、軍事に関する専門的著作は特にないはずなのだが、平泉はこのインタビューの中で、陸軍士官学校での講義などを通じて軍人に自分の信奉者が多かったことを自慢げに述べ、「私は陸軍というものを鍛え直した」「陸軍が私を畏れ敬った」などと豪語する。そして岡田啓介(1868〜1952)、米内光政(1880〜1948)、宇垣一成(1868〜1956)らが、東京裁判の主席検察官ジョゼフ・キーナンから平和主義者と称賛されたことを非難した上で、次のようなことを語っている。

実戦しておると、わしのところへくるよりほかはないわけです。米内[光政]さんなどは戦争に一ぺんも出たことがないし、岡田[啓介]さんも宇垣[一成]さんも実戦には出たことがない。実戦をやってみると彼らが地図で考えているようなものではない。下の人はみんな私によって動くというくらいの勢いなんです。それが海軍としては非常な不幸でしたね。陸軍は上層部もみな私を信頼してくださり、言っては悪いけれども東条[英機]さんでも小畑〔敏四郎〕さんでもそうですが、あとでいえば陸軍大臣阿南[惟幾]大将、これは入門願書を出されたんですよ、私に対して。それから下村大将が最後ですがね。手紙には最末の門人、下村定と書いてありますよ。全然態度が違うんです。[p. 76.]

 日露戦争(1904〜05)中、岡田啓介は装甲巡洋艦「春日」副長として日本海海戦などに参加しているし、米内光政も海軍中尉として駆逐艦「電」(いなづま)に乗り込んでいる。また宇垣一成も陸軍第八師団参謀として出征している。岡田は日露戦争のみならず日清戦争にも第一次世界大戦にも従軍した歴戦の将である。その三人を「実戦には出たことがない」と勝手に決めつけ、自分のほうが戦争のやり方をよく知っている、などと言い出すのだからまことに恐れ入る。むしろ、東條英機(1884〜1948)以下陸軍上層部が、こんな程度の軍事知識の持ち主を「信頼」していたとすれば、そっちの方がはるかに問題だろう。

 ……いや、もちろん、平泉の回想が正確なら、という話だが。

posted by 長谷川@望夢楼 at 09:26| Comment(2) | TrackBack(1) | 歴史学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月20日

1920年代の体罰の実例

 日本の法律では、学校教育での体罰は1879年以来(1885〜90年の間を除き)法的に禁止されてきた、ということは前述した。が、これはもちろん、実際に体罰が存在しなかったことを意味するわけではない。

 河野通保『学校事件の教育的法律的実際研究』上巻(文化書房、1933年)「第八章 教育者の懲戒権問題」近代デジタルライブラリーには、1920〜30年代の新聞報道に現われた、教師のゆきすぎた懲戒が引き起こしたトラブル事例が数多く掲載されている。同書には生徒の自殺やお礼参りなどの事例も取り上げられているが、ここでは、体罰の事例を年代順に抜き書きしてみる。

 以下は原文そのままではなく、適宜表現を現代的に修正したり、要約したりしていることをお断りしておく。「訓導」は小学校の正規教員、つまり現在の「教諭」。「受持訓導」は担任教諭。年齢は当時は数え年表記なので、満年齢では1〜2歳下となる。当時の制度では尋常小学校6年(満6〜12歳)のみが義務教育であり、その上は高等小学校2年(満12〜15歳)、または中学校5年(満12〜17歳)。つまり高等科1・2年は現在の中学1・2年、中学4・5年は現在の高校1・2年と同じ年齢になる。

  • 1923年1月:佐世保市[長崎県]外某小学校3年生受持訓導A(39)は、算術の授業中、答えの合わなかった児童を、十数名の答えの出来た児童に命じて殴打、あるいはつねらせて泣き叫ぶのを傍観し自らも青竹の鞭を持って殴打したので、父兄間の大問題となった。
  • 1923年7月:東京市外渋谷町某小学校尋常科3年生Bは、授業中受持のC訓導が非常な見幕で叱責した上、体罰を科したので学校を休んでいることが判明、父兄側および町学務課の大問題となった。取調べによると、C教員は3日間にわたり、あるいはなぐり、あるいは耳を引っ張りなどして極度の憎しみの情をもってBを体罰したことが判明した。Bはこれがため脳神経を極度に刺激し一種の恐怖に襲われていると附近の医師が診断したので、父親は訴訟を起こす模様である。
  • 1924年8月:北海道亀田郡某小学校訓導Dは高等科1年生E・尋常科4年生Fの両名に暴行を加え、Fを死に至らしめた椿事がある。当日D訓導は両生徒が廊下で遊んでいる際、「この天気のよいのに家の中にいる奴があるか」と乱暴にもEの両耳をつまんで戸外に引き出し、Fの腰部を足で蹴ったので、Fは暴行後4日目ついに死亡し、Eは片耳をもぎとられたので大問題となり所轄警察署で取調べ中である。

……晴れの日に廊下で遊んでいたので殺された、という恐ろしい事例である。

  • 1924年9月:新潟県某中学5年生Gは「下越オリムピック大会」に槍投げの選手として出場し、もろくも敗れたというのでH教諭が立腹し、夕刻運動場においてGを足蹴にかけ校長室に引き入れて鉄拳制裁を加えたことが生徒間に知れ、生徒に憤慨し同教諭を難詰するところがあったが、Gが槍投げの練習をしなかったのは高等学校入学準備のためだと。
  • 1924年12月:埼玉県某市尋常高等小学校等5年生受持訓導I(24)は、教室の掃除中、中高2年生J(15)が尋常2年教室用バケツを使用したのでこれをとがめたところ、Jが抗弁したので、さんざん打擲した上、そのバケツで数杯の冷水を頭から浴びせたため、Jは寒中のこととて帰宅後発熱し39℃の高熱に苦しんでいる。
  • 1925年1月:鶴岡市[山形県]某小学校K・Lの両訓導は受持5・6年生40余名を殴打したことが知れ教育界の大問題となった。原因は生徒等が教師にあだ名をつけたためである。
  • 1925年1月:新潟県東頸城郡某小学校訓導M(25)は、高等科2年生Nが教室内で汽車を見て万歳を叫んだとして竹棒で同人を殴打し、なお同級生一同に命じて殴打せしめ、ついに大股部に全治2週間の傷を負わせたこと発覚、警察官・視学官等が取り調べ中。
  • 1925年1月:千葉県印旛郡某小学校6年クラス39名が、学校からの帰途、寒さをしのぐため山林内でたき火したことを聞知した受持O訓導は大いに怒り、児童が登校するや教室内に一列にならべて殴打し、これがため児童は同訓導の処置を恐れ、ついに申し合わせて休校してしまった。父兄等はO訓導の苛酷なる処置に憤慨し、協議の結果同訓導排斥運動を起こし、村長や校長を訪れ、その処置をなじり紛擾中である。
  • 1926年2月:横須賀市外某尋常高等小学校訓導P(27)は、高等科1年生Q(13)の父Rから傷害罪で告訴され、横須賀署に召喚、取り調べを受けた。P訓導は去る日の朝、自転車で通行を厳禁されたSトンネル内を自転車で走って来たので、通学途次のQ等が「先生降りねばいけません」と注意したところ、訓導は大いに怒り、いきなり自転車から飛び降りQを捕らえて殴打した上、柔道2段の腕で投げ飛ばした。その際Qは傍のレンガで頭部を強打し一週間の負傷を受けたのである。同訓導はS町の飲食店を飲み歩き乱暴を働いていた由で、この暴行事件を起こすや、S町民は非常に憤慨してその処分を町当局に迫っている。

生徒に注意されたことに逆ギレした暴力教師! よく考えるとこれ、校外だから「体罰」じゃないな。武道をやっている人間が人格者とは限らない、という話でもある。

  • 1926年7月:埼玉県川越市外某小学校代用教員T(21)は、受持の6年生U(13)が宿題をやって来なかったのを憤り、頭部その他数ヶ所を殴打したため、Uは極度の恐怖に襲われた結果精神に異常を来し、同地方教育界の大問題となろうとしている。
  • 1926年11月:福島県安積郡某尋常高等小学校尋常科5年生V(12)は11月21日より休校していたが30日死亡した。その原因については端無くも20日受持次席訓導W(38)に殴打されたのが原因で床につき、ついに死に至った事が判明し、学校当局は極力事件をもみ消しているが、父兄間では大問題となし、近く村民大会を開き、Vの父Xは告訴するといきまいている。

殴られた理由は不明。

  • 1927年5月:東京・千駄ヶ谷某小学校6年生Y(12)は、学校の帰途、同級のZと喧嘩し、Zの足部に過傷を負わせたが、YとZの両家は平素より懇意な間柄なので無事にすんでいたところ、翌日Yが登校するや、クラス担当のa訓導(27)が前日の喧嘩についてYを厳しく訓戒した。このクラスは翌日鎌倉・江の島方面へ遠足することになっており、生徒一同はその費用として各自75銭ずつをその朝訓導に差し出したが、a訓導より厳戒されたせいか、平素より神経質のYはすでに差し出した遠足費用の返還を乞い、「明日は遠足に行かない」と申し出たところ、a訓導は非常に怒ってやにわにYの頭部に鉄拳を加え、さらにえり首をつかんで教壇まで引きずり行き、同人の頭部をはげしく数回教卓に激突せしめた後、「帰れ」と怒鳴りつけたので、Yは泣きながら帰宅した。a訓導の制裁により後頭部を激打したためか、その夜から発熱すると共にはげしい発作的な精神異常を来し、裸体で屋根に駆けのぼったり、泣きながら戸外へ駆けだしたり、何者かにおびえて突然叫び声をあげたりし始めた。父bは驚いて附近の医師の診察を乞うと、後頭部の異常なる打撃のため病弱なる頭脳をさらに痛めた結果であると診断したので、さっそく校長を面詰し一時は告訴するとまで憤慨したが、町議等が仲裁して、ようやく、Yの治療代は学校で負担し、a訓導は他へ転任させることとしてひと段落した。校長は「[a訓導は]生徒からも親しまれ、父兄の信用もあるのですが、かかる事件を起こしたことは同君のためにも気の毒」「Yという少年は級でも操行のよくない生徒」「発作的に気が狂ったりするのはべつにa訓導の制裁が原因しているのではなく、幼少からそんな性癖があるのです」と語っている

釈明の余地のない暴力行為だと思うのだが、校長のコメントがひどすぎる。

  • 1928年7月:東京府立某中学校では、体操柔道師範柔道5段c氏の暴力沙汰が問題となり、全校生徒ならびに先輩等は学校当局に対し積極的警告を発しようとしている。c教諭は平素生徒を取り扱うのに暴力をもって臨み、先日も、運動場の掲示板に落書きしてあったのを同教諭が発見し、そこに集まっていた5年生丙組に「だれが書いたか出ろ」と言ったところ、dが「私が書きました」と申し出たので、「学校全部の落書きはお前がしたのだろう」と言って、なぐる、蹴るの暴力沙汰に及び、鼻血をだしているdを50メートルも引きずり、e師範が駆けつけたがこれも傍観するにすぎなかったので、5年生は「理非を明かにせぬ間は授業を受けない」と憤慨し、ついに重大問題化するにいたったのである。
  • 1929年1月:千葉県印旛郡某小学校高等科1年f(13)・同級生g(14)の両名は、授業中雑談したとして、受持訓導hは憤慨し、教授用のコンパスで両名の頭部をなぐったが、コンパスの針が刺さり、両名とも深さが骨膜に達する重傷を負い、血まみれになってその場に昏倒したという騒ぎがある。訓導は事の意外に驚き、ただちに医師を招き手当てを施し、学務委員や村有力者を介して秘密に示談を懇請しているが、農民組合千葉県連合会本部は「真相を調査し断固たる処置をとる」といきまいている。
  • 1930年10月:京都市上京区某小学校で訓導の児童に対する暴行事件が暴露し、京都市教育界の大問題となった。同校尋常科6年生のi(13)が中等学校入学試験の予習のため、登校するのに5分間遅れたため「今日は休む」と言い出したので、母親が同校を尋ね、受持j訓導(26)に欠席する旨を届け出たところ、訓導はその後、むりやりにiを呼び出し、学校で無法にもなぐる、蹴る、つねる、のひどい目に会わして、悲鳴をあげさせぬように口に手ぬぐいをねじこむ、等の暴行を加え、同校の真向かいにあるiの家まで悲鳴がもれ聞こえるので、母親が学校に駆けつけると、同訓導は何食わぬ顔をして、しかもiを引きとめ、自分の下宿に連れ帰り、痛さに悩むiを更にしかりつけて、氷を買いにやり、痛むところを当てさせ四時間ほど寝かした上で帰宅させたが、これが端緒となって同訓導の日ごろの乱暴が判明した。市学務課から2名の視学が主張、詳細に実情調査を行い、j訓導の受持児童42名中、少しも被害を受けない者はわずか3名しかいないことを突き止めたので、ますます問題は大きくなっている。
  • 1931年9月:東京市外目黒町某小学校の訓導k(25)が、尋常1年生lの「書取りの出来が悪い」として持っていたムチでlの後頭部を殴打し、lは帰宅後発熱、m校長(37)は見舞いに行きひどく恐縮し心痛していた。m校長は見舞いから2日後の夕方に自宅で脳溢血により急死したが、k訓導の過失を極度に心痛した結果ではないかという風説がたった。

 ……抜き書きしていて胸が悪くなってきた。

 注意しておいてほしいのは、こうした事件が横行していた、ということとともに、これらが生徒や父兄の抗議などで問題化し、新聞沙汰になっている、ということである。つまり、当時の社会通念においても、こうした体罰は認められていなかったのである。

ラベル:体罰 教育史
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日本の学校教育における体罰の禁止

 現行の学校教育法(2011年6月3日最終改正)においては、「体罰」は違法とされている。

第十一条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。 法令データ提供システム

 学校教育法自体は1947年(昭和22)に制定された法律だが、この条文はこのとき新しく作られたものではなく、明治期からずっと存在していた法的規定を引き継いだものである。

 学校における体罰の禁止について規定した最初の法令は、1879年(明治12)の「教育令」である。

教育令(明治12年太政官布告第40号、1879年9月29日公布)法令全書][Wikisource

第四十六条 凡学校二於テハ生徒二体罰 殴チ或ハ縛スルノ類 ヲ加フヘカラス

 註記で、体罰の具体例として「殴る」「縛る」といったことをわざわざ挙げているのが特徴である。

 この条項は1880年(明治13)の第2次「教育令」(明治13年太政官布告第59号、1880年12月28日公布)法令全書][Wikisourceでも受け継がれたが、1885年(明治18)の第3次「教育令」(明治18年太政官布告第23号、1885年8月12日公布)官報][Wikisourceでは削除されてしまい、1896年(明治19)の「小学校令」(明治19年勅令第14号、1886年4月10日公布)官報][Wikisourceでも規定は置かれなかった。しかし、1890年(明治23)の第2次「小学校令」で、体罰禁止規定は5年ぶりに復活する。

小学校令(明治23年勅令第215号、1890年10月7日公布)官報][Wikisource

第六十三条 小学校長及教員ハ児童ニ体罰ヲ加フルコトヲ得ス

 1900年(明治33)の第3次「小学校令」で「懲戒」に関する規定が付け加えられ、「体罰」は「懲戒」の但し書き規定となった。これが基本的には現行の「学校教育法」まで引き継がれることになる。

小学校令(明治33年勅令第344号、1900年8月20日公布・9月1日施行)官報][Wikisource

第四十七条 小学校長及教員ハ教育上ト認メタルトキハ児童ニ懲戒ヲ加フルコトヲ得但シ体罰ヲ加フルコトヲ得ス

国民学校令(昭和16年勅令第148号、1941年3月1日公布・4月1日施行)官報

第二十条 国民学校職員ハ教育上必要アリト認ムルトキハ児童ニ懲戒ヲ加フルコトヲ得但シ体罰ヲ加フルコトヲ得ズ

学校教育法(昭和22年法律第25号、1947年3月31日公布・4月1日施行)官報

第十一条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。但し、体罰を加えることはできない。

 要するに、日本の学校教育では、「体罰」は1879年以来ずっと(1885〜90年の短期間を除き)法的には禁止されてきたのである。

 ところで、この「体罰」とは、具体的にはどの程度のことを指していたのだろうか。

 1891年(明治24)8月、某県から文部省に、「校舎の内外を掃除」「教場の一隅に直立せしむる」は体罰に該当し、「教授時間後留置」は体罰にあたらない、とする解釈は妥当か、という照会がなされ、これに対しては文部省普通学務局長が、これらはすべて体罰にあたらない、とする解釈を示している(渋谷徳三郎『教育行政上の実際問題』敬文館、1922年, p. 103)。また同書は、懲戒については慣例的に「譴責、直立、留置等」(つまり、叱る、教室内に立たせる、放課後に残す)が認められており、「掃除其の他雑役」(要するにバツ当番)は懲戒として不適当だ、と指摘している。いずれにせよ、戦前の解釈においても、直接身体に危害を与える行為(ビンタなど)が体罰とされていたことは間違いない。

ラベル:教育史 体罰
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2013年01月01日

2013年、あけましておめでとうございます

 本年もよろしくお願い申し上げます。今年もなんとか成果を出そうとじたばたしつつ、基本的にはマイペースに行こうと思います。
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2012年12月04日

同時代史学会2012年度年次大会(12月8日)のお知らせ

 直前になってしまい申し訳ありませんが、こちらでも宣伝いたします。詳細は同時代史学会のウェブサイトをご参照ください。
 なお、自由論題報告には私(長谷川)も参加いたします。

大会テーマ「同時代史をどうみるか――さまざまな分野の研究者のとらえた日本の同時代史像」
http://www.geocities.jp/doujidaisigakkai/annual_meetings/2012.html

日時
2012年12月8日(土) 10:00 〜 17:00(9時30分受け付け開始)
* 12:00〜12:30 まで総会を開催します。ご参加ください。
* 17:00より会場の千葉大学内で懇親会を予定しておりますので、ご予定下さい。
会場
千葉大学西千葉キャンパス(総武線西千葉駅、もしくは京成千葉線みどり台駅)・人文社会科学系総合研究棟1階

千葉大学西千葉キャンパスまでのルートは 千葉大学交通アクセス http://www.chiba-u.ac.jp/access/nishichiba/ 会場の人文社会科学系総合研究棟は、千葉大学西千葉キャンパスマップ http://www.chiba-u.ac.jp/campus_map/nishichiba/index.html を参照してください。

午前の部「自由論題」

午後の部・大会企画「同時代史をどうみるか――さまざまな分野の研究者のとらえた日本の同時代史像」
森建資(イギリス、労使関係)
南塚信吾(ハンガリー、世界史)
小谷汪之(インド、近代社会)
久保亨(中国、現代史)
荒野泰典(前近代日本、国際関係)
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2012年11月20日

「望夢楼」17周年(でした)

 1995年11月20日開設ですから、17周年になってしまいました。諸事情(主として、ぼく自身の怠慢)でいろいろと滞っており、各方面に迷惑をおかけしていて申し訳なく思ってます。やりたいこととやるべきことはいろいろあるのですけどね。
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2012年08月19日

研究プロジェクト報告書『日本における「標準化」の史的考察』

 私も参加しました2008〜2011年度千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書『日本における「標準化」の史的考察』が千葉大学学術成果リポジトリで全文公開されておりますので、内容を紹介しておきます。

『千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書 第217集 日本における「標準化」の史的考察』(千葉大学大学院人文社会科学研究科、2012年2月28日発行)

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116341
三宅明正「はしがき」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116342
長谷川亮一「近代日本における「標準化」の概念について」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116344
小川信雄「「科学技術」ということばにある政治性」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116345
長澤淑夫「三井財閥と会社法」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116346
三村達也「近代以降の日本における住宅計画学の成立と終焉――住宅の標準化という限界性に着目して」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116347
山口隆司「雑誌『家の光』にみる日本の戦時体制下農村社会の平準化」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116348
高木晋一郎「大正〜昭和戦前期の自動車政策にみる標準化・規格化」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116349
高橋莞爾「世界標準化としてのISO国際規格についての考察」(研究ノート)
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2012年07月04日

千葉に帰ってきました

 無事戻りました。取り急ぎお知らせのみ。
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2012年07月01日

7月3日に帰国します

 1年間を阜陽師範学院で日本語外教として過ごしてきましたが、このたび、雇用期間終了にともない日本に帰国することになりました。帰国予定は7月3日となります。(雇用終了によるものであり、来期以降の渡航予定はありません。)
 まずはお知らせのみ。
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2012年04月27日

尖閣諸島が個人所有となった経緯

 先日明らかにされた東京都による尖閣諸島購入計画については、実効支配という観点からいえば、はっきりいって無意味だと思う。そもそも、この島々はもともと日本側が実効支配しているのである。だいたい現在も国(総務省)が借り受けているのだし。公有地にすることで管理が安定するというメリットがあるとしても、所有すべきなのは国・沖縄県・石垣市のいずれかであって、直接何の関係もない東京都が出張ってくる意味は無い。

 私有地のままにしておくと外国政府が購入する恐れがある、と心配される向きもあるかもしれないが、国内法上の土地所有権と、国際法上の領有権とは別の概念である。だいたい、日本の国内法に基づいて土地を購入し、その土地を不動産登記したとすれば、とりもなおさず、日本政府によるその土地の領有権と管理権を認めていることになってしまう。したがって、本気で尖閣諸島の領有権を主張するつもりがあるのなら、尖閣諸島の土地を日本の国内法に基づいて購入したりしてはならないはずである。

 それはともかくとして、そもそも、なぜ尖閣諸島が(日本国の国内法上)私有地となっているのか、ということについて、簡単にまとめておきたいと思う。なお、言うまでもないが、以下の記述はすべて「日本国の国内法上」という前提付きでの話である。中華人民共和国と中華民国(台湾)は、そもそも日本による尖閣諸島の領有自体を認めていないので、両政府の立場からすると、尖閣諸島が日本の国内法に基づいて不動産登記されているということ自体が認められないことになるからである。

 さて、いわゆる尖閣諸島のうち、私有地になっているのは、南小島沖縄県石垣市登野城2390番地)、北小島(2391番地)、魚釣島(釣魚島。2392番地)、久場島(黄尾嶼。2393番地)の4島である。大正島(久米赤島、赤尾嶼。2394番地)は、地籍の設定が行われたのが1922年(大正11)になってからであり、当時から現在に至るまで国有地である(『季刊沖縄』第63号、南方同胞援護会、1972年)。また、沖ノ北岩・沖ノ南岩・飛瀬の3岩礁は、そもそも土地台帳に記載がなく地番も設定されていない(浦野起央『【増補版】尖閣諸島・琉球・中国――日中国際関係史【分析・資料・文献】』三和書籍、2005年)。

 魚釣島と久場島は、1895年(明治28)1月14日の閣議決定に基づき沖縄県に編入された。同年6月、那覇在住の実業家・古賀辰四郎(1856〜1918)が、久場島に対する「官有地拝借御願」を内務大臣に提出した。翌1896年(明治29)4月、沖縄県八重山郡が新設された際、魚釣島・久場島は北小島・南小島とともに八重山郡の所属となったらしいのだが、この編入手続きに関する行政記録は発見されておらず、ひとつの謎となっている。同年9月、内務大臣は古賀に対し、魚釣島・久場島・北小島・南小島の4島を「30年間無償」という破格の条件で貸与する許可を出した。拝借願が久場島1島の拝借のみを求めているのに、他の3島がおまけでくっついてきた理由はよくわからない。

 古賀の目的はアホウドリ猟であったが、アホウドリは乱獲のため数年で島から姿を消してしまい、その後、古賀はカツオ漁とカツオ節の製造に乗り出すことになる。古賀は1918年(大正7)に死去、その後に長男の古賀善次(1893〜1978)が開拓事業を受け継ぐ。そして1926年(大正15)、ついに貸借期限の30年が切れてしまった。

 その後、古賀善次は4島の有償貸借を一年更新で続けていたが、1932年(昭和7)に内務省から有償払い下げを受け、4島は古賀善次の私有地になることになった。この経緯について、古賀善次本人は、いくつかのインタヴュー記事で次のように述べている。

 大正七年[1918]、父は、六十三歳にしてこの世を去り、私が跡を継ぎました。そして大正十五年[1926]には三十年の借地期限も切れたのです。
 そこでしばらくは借地料を払ってカツオ節工場を経営していたのですが、だんだんそれが負担になってきましたので、昭和六年[1931]に払い下げを申請し、翌年許可されました。その日から魚釣島、久場島、南小島、北小島の四島は私の所有ということになったわけなのです。[古賀善次/若林弘男=インタビューと構成「毛さん佐藤さん 尖閣列島は私の“所有地”です」『現代』第6巻第6号、講談社、1972年6月、144頁]

 昭和七年五月二十日(一九三二年)、借りていた魚釣島と久場島(黄尾嶼)の両島を国から払い下げを受けました。値段は魚釣島(面積三百五十七町)[約3.5km2]の場合、二千八百二十五円でした。また同じ年の七月十五日には、南小島と北小島も買い取りました。[新藤健一「所有者が初めて明かす往年の尖閣列島」『世界画報』第305号、国際情報社、1977年10月、64頁。なお、同記事では古賀善次が1977年現在も4島を所有しているかのように書かれている。]

 しかし、その数年後には4島は無人島化する。

 魚釣島、久場島、北小島、南小島の四島が私の所有地ですが、戦後は別に用事もなく、ぜんぜん行っていません。事業は昭和十五年[1940]までカツオ漁を中心にやっていました。でも、第二次大戦のぼっ発で石油の配給がストップしたため、やめて引揚げてきました。カツオ節を作るには、いぶすための燃料が不可欠だったからです。[新藤「往年の尖閣列島」62頁]

 この4島のうち、久場島を除く3島は、1974年(昭和49)に古賀善次から、現所有者である埼玉県在住のさる実業家(K氏)に売却されている。このとき久場島が別扱いになったのは、この島が戦後に米軍の演習場(黄尾嶼射爆撃場)に指定されたことと関係があると思われる(沖縄県知事公室基地対策課FAC 6084 黄尾嶼射爆撃場)。古賀善次のインタヴューには次のようにある。

 戦後、私の所有する島のひとつ久場島を、米軍は射爆場として使いはじめました。
 使いはじめたのは終戦直後かららしいんですが、米軍が私に借地料を払うようになったのは昭和二十五年[1950]からです。
 地料は年額一万ドルあまり。無期限使用となっていました。[古賀「尖閣列島は私の“所有地”です」145頁]

[…]久場島(黄尾嶼)も実は米軍の射爆場として使われているんです。昭和二十七、八年[1952〜53]頃からだったと思いますが、その時で年額一万一千百四ドルを使用料としてもらっています。最近では年額三百五、六十万円を防衛施設庁を通して受け取っています。[新藤「往年の尖閣列島」65頁]

 ただし、浦野起央『【増補版】尖閣諸島・琉球・中国』では、琉球列島高等弁務官が久場島を軍用地に指定し、古賀善次との間に地代契約を結んだのは、1958年(昭和33)7月となっている。

 ちなみに国有地である大正島も射爆撃場に指定されている(FAC 6085 赤尾嶼射爆撃場)。もっとも、両射爆撃場はともに、1979年(昭和54)以後は特に訓練は行われていないという。

 古賀善次は1978年(昭和53)に死去、その妻の古賀花子も1988年(昭和63)に死去した。善次夫妻にはこどもがいなかったため、古賀辰四郎の直系は断絶している。久場島の所有権は、花子の遺言でK氏に譲渡されることになった(『朝日新聞』1988年1月22日付朝刊3面「南海の無人島、所有者の死去で宙に浮く」、同・1997年8月9日付朝刊22面「「この国」を想う 2 尖閣諸島」)。

 さて、1997年(平成9)5月6日、西村眞悟衆議院議員(当時)らが魚釣島に上陸した。この際、橋本龍太郎首相、梶山静六内閣官房長官(当時)をはじめとする政府関係者は、所有者(K氏)が上陸許可を出していないことを根拠として、西村議員らの行動を非難している。特に梶山官房長官は、5月7日の記者会見において、無断上陸は軽犯罪法違反にあたるとの見解を示した(『朝日新聞』1997年5月7日付夕刊「新進党、西村氏らの魚釣島上陸は軽犯罪法違反」、『読売新聞』同日付「尖閣諸島上陸の西村氏らは違法」)。おそらく、軽犯罪法第1条第32号の「入ることを禁じた場所又は他人の田畑に正当な理由がなくて入つた者」に抵触すると思われる(住居も囲みも無いため、住居侵入罪は成立しない)。

 1997年8月9日付『朝日新聞』は次のように報じている。

 [古賀辰四郎の]息子の善次夫妻は七四年から八八年にかけて、家族ぐるみの親交があった埼玉県大宮市の結婚式場経営者(五五)の一家に四島を約三千八百万円で譲った。七八年に亡くなった善次さんは「(尖閣は)美しい島。自然のままにしてほしい」と言い残した。
 結婚式場経営者は、毎年約七十万円の固定資産税を石垣市に支払っている。以前、石原慎太郎元運輸相が「一坪運動」として買い取りを打診してきたが断った。経営者に代わって式場の総務部長(六六)は言う。
 「勝手に灯台を建てたり、上陸したり。迷惑なんです。(帰属問題は)国が考えること。そっとしておいてほしい」[『朝日新聞』1997年8月9日付朝刊22面「「この国」を想う 2 尖閣諸島」]

 この問題に対して、西村議員側は「日本国の領土を日本国の国会議員が視察することは当然のことで、法的にも瑕疵はない」と主張している(『読売新聞』1997年5月6日付夕刊2面)。(要するに、地主が「入るな」と言っている土地に勝手に入っておいて開き直って威張っている、という状況なのだが、確かに微罪でしかないとはいえ、触法行為の疑いは否定できない。日本国の領土だと主張するのであれば、なおさら、その土地では日本国の法律に従うべきなのではないか?)

 2003年(平成15)1月1日付『読売新聞』朝刊は、日本政府(総務省)が前年10月、久場島以外の3島について、K氏から年間約2256万円で借り上げる賃借契約を結んだ、ということをスクープした。同紙は、政府側の考えについて以下のように報じている。

 「尖閣は国の固有の領土。これは微動だにしない」(政府関係者)との基本姿勢を踏まえた上で、どうすれば尖閣諸島の民有地を政府が安定して管理できるか、自然環境保護の観点などからも様々な検討が行われ、最終的に「賃借権設定」という手段に落ち着いたという。
 国が所有者に相応の賃料を支払うことで、島の転売に一定の歯止めをかけることができるほか、仮に所有者が第三者に転売しても、賃借人としての権利を主張できる。また、国は賃借権に基づき、第三者が不法上陸したり、勝手に建造物を建てたりすることを阻止できる。尖閣諸島では、これまで、日本の政治団体が灯台などを建設したり、国会議員が上陸したりして、中国、台湾側が抗議した経緯がある。
 政府は、来年度以降も毎年、契約を更新していく方針という。

posted by 長谷川@望夢楼 at 13:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 地図・島嶼・領域 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする