2013年11月25日

歴史学系学会・関係者等による特定秘密保護法案関連声明

(このページは適宜更新します。)

久保亨・歴史学研究会委員長ほか「特定秘密保護法案に対する歴史学関係者の緊急声明」(2013年10月30日)
http://rekiken.jp/announcement201311.html
http://www.nihonshiken.jp/component/content/article/29-toppage/447-2013-11-22-06-49-49.html
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/movement/tokuteihimituhogohou_seimei20131105.pdf
http://www.jca.apc.org/rekkyo/data/etc/timefile/2013y/331030seimei.pdf
http://www.geocities.jp/doujidaisigakkai/announcements/announcement20131030.html
http://space.geocities.jp/japanwarres/
※歴史学研究会、日本史研究会、歴史科学協議会、歴史教育者協議会、同時代史学会、東京歴史科学研究会、日本の戦争責任資料センターの各代表、および宮地正人・国立歴史民俗博物館前館長による共同声明。賛同署名を募っている。 http://chn.ge/1hEH5WP

歴史学研究会委員会「特定秘密保護法案に対する反対声明」(2013年11月1日)
http://rekiken.jp/appeals/appeal20131101.html

日本アーカイブス学会「「特定秘密保護法案」に対する意見表明」(2013年11月15日)
http://www.jsas.info/modules/news/article.php?storyid=148

歴史科学協議会「特定秘密保護法案の廃を求める総会決議」(2013年11月16日)
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/movement/2013soukaiketugi_tokuteihimituhogohouann.pdf

久保亨・歴史学研究会委員長ほか「特定秘密保護法に反対する歴史学関係者の第2次緊急声明」(2013年11月22日)
http://rekiken.jp/announcement201311.html
http://www.geocities.jp/doujidaisigakkai/announcements/announcement20131122.html
※歴史学研究会、日本史研究会、歴史科学協議会、歴史教育者協議会、同時代史学会、東京歴史科学研究会、日本の戦争責任資料センターの各代表、および宮地正人・国立歴史民俗博物館前館長による共同声明。

日本科学史学会「「特定秘密保護法案に対する歴史学関係者の緊急声明」に関して」(2013年11月25日)
http://historyofscience.jp/?p=1798
※上掲「特定秘密保護法案に対する歴史学関係者の緊急声明」および「第2次緊急声明」への賛同声明。
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2013年11月23日

日本近海で海底火山の噴火により新島が出現した事例

 簡単なメモとして。

 安永8年(1779)に始まった桜島の噴火で、約1年間にわたる海底火山の活動により、桜島の北方に次々と新島が誕生した。この島々は「安永諸島」と呼ばれる。特に、最大の島である新島(しんじま)は、浸食が続いているものの現存している。
 なお、これ以前、文明8年(1476)の噴火で、沖小島・鳥島が出現したともいわれている。
http://goo.gl/maps/RMzXu

 1933年(昭和8)1月26日、千島列島でラッコの保護・取締のための調査航海を行っていた農林省の白鳳丸は、阿頼度島(アライドまたはアライト。現在のアトラソフ島)の東方で、海底噴火により新島が出現しているのを発見した。この島は、白鳳丸船長・武富栄一の名をとって「武富島」(たけとみとう)と命名された(沖縄県八重山列島の「竹富島」と混同しないように注意)。その後、アライト島とは砂州で陸続きとなっている。
(1952年発効のサンフランシスコ講和条約により日本は千島列島の領有権を放棄しているが、出現当時は日本領だったことから、便宜上ここで紹介する。)

 1934年(昭和9)に始まった鹿児島県南方の硫黄島(いおうじま)の火山活動で、海底火山の噴火により、1934年12月、硫黄島東方に新島が誕生した。この島は12月末にいったん消滅したが、翌1935年1月に再出現、「昭和硫黄島」と命名された(別名「硫黄新島」「新硫黄島」。後述する火山列島の新硫黄島と混同しないように注意)。
http://goo.gl/maps/Byh5k

 1973年(昭和48)5月、小笠原諸島西方の西之島東方沖で海底火山の活動が始まり、9月に新島が出現、12月に海上保安庁により「西之島新島」と命名された。翌1974年3月、新島が西之島本島と陸続きになったことが確認された。
 西之島の新島部分はその後の浸食で縮小したが、2013年(平成25)11月20日、西之島のさらに南東約500m沖の地点に新島が噴出したことが確認された。


 以下は、新島出現後、短期間で消滅した事例。

 1870年(明治3)、伊豆諸島南方の須美寿島東方で海底火山の噴火により新島が出現したとされ、「火山島」と命名された(ややこしいが、島の名前が「火山島」 Volcano island)。この島は高さ40フィートだったとされる。1872年にも目撃報告があるが、1880年(明治13)以来再三の調査にもかかわらず再発見されず、1896年(明治29)3月29日付で海図から削除されている。海底火山の活動によって出現した一時的な新島だったとも、須美寿島ないしベヨネース列岩の位置誤認ともいわれる。

 1904年(明治37)12月5日、小笠原諸島・火山列島の南硫黄島北東沖で、海底火山「福徳岡ノ場」の活動により新島が形成されているのが、硫黄島の住民により発見された。硫黄島民は翌1905年(明治38)2月にこの島の上陸調査を行い、「新硫黄島」と命名している。しかし、その後短期間のうちにこの島は消滅した。
 1914年(大正3)1月25日、新硫黄島は再出現した。しかし、この島も1916年6月までに消失した。
 1986年(昭和61)1月18日、福徳岡ノ場の活動が確認され、20日には新島の3度目の出現が確認された。しかし、この島は3月末までに消失した。
 福徳岡ノ場は最近では2005年7月、2010年2月に噴火している。

 1946年(昭和21)2月、伊豆諸島南方のベヨネース列岩東方に新島が出現していることをイギリス軍艦ウラニア号が確認し、「ウラニア島」と命名した(Urania. 「ウラヌス」 Uranus とする文献あり)。しかしこの新島は同年12月には消滅した。
 1952年(昭和27)9月17日、カツオ漁船・第十一明神丸が同じ海底火山の活動による新島を発見、海上保安庁水路部は発見船にちなみ「明神礁」と命名した。この新島は9月23日に消滅。10月に新島が再出現するが、翌1953年3月に消滅。4月に3度目の新島が出現するも、9月に消滅。以後も火山活動は続いているが、新島の形成は確認されていない。
 これ以前にも1870年(明治3)と1896年(明治29)に新島を形成したとする文献があるが、詳細は不明。
posted by 長谷川@望夢楼 at 07:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 地図・島嶼・領域 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月20日

「望夢楼」18周年

18周年を迎えました。
最近はなかなか更新もできない状況なので申し訳ない限りですが、今後ともよろしくお願いする次第です。
posted by 長谷川@望夢楼 at 17:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月17日

平泉澄「この刀によって私は陸軍というものを鍛え直した」

 先日の「平泉澄と仁科芳雄と石井四郎」(6月6日)について、以下のブログでご紹介をいただいた。そこでは、有馬学氏からの伝聞として、問題の平泉澄インタビューでの、平泉本人の無茶苦茶な言動が紹介されている。

 ……で。

 先日、国立国会図書館に行ったついでに伊藤隆氏の回想録『日本近代史――研究と教育』(私家版、1993年1月序)を確認してみたところ、平泉澄インタビューについての記述が出てきたので、その箇所を紹介しておく(伊藤氏は当時、東京大学文学部助教授。[…]内は引用者註。強調は引用者による。以下同じ)。

 [昭和]五三年度[1978]は、斯波義慧氏や茅誠司元総長などの聞き取りを行い、また福井県まで出張して、平泉澄氏の聞き取りを行った。平泉氏はとにかく権威主義で、満洲事変以後について話されたときに、「これから私が日本を指導した時代についてお話します」と始まったのにはやりきれなかった。また陸大での講義の時に「これが大和魂である」と言って日本刀をすらりと抜いてという話の際に、予め奥さんに用意させていたらしい日本刀を実際に我々の目の前で抜いて見せたのには私は鼻白む思いであった。しかし酒井氏[酒井豊=当時、東京大学百年史編集室員]を初め若い諸君は面白がって、酒井氏などは「先生ちょっとそのまま」とか言って、平泉氏もポーズをとり、写真撮影をしたが、これも私には予想外の出来事であった。二日間正座で聞かねばならぬ「お話」が終わってお茶になった時に、奥さんが「主人は血圧が高いのに、テレビのプロレスが好きで困ります」という話をされ、私が平泉氏に「どうしてプロレスがお好きですか」と開いたら、「隠忍に隠忍を重ねて、最後にパッと相手を倒すという所が日本精神に通じる」と答えたので、私はその稚気に溜飲が下がったような気がした。とにかくこれまでにない奇妙な聞き取りであった。[伊藤隆『日本近代史――研究と教育』私家版、1993年序, pp. 293-294.]

 「陸大」(陸軍大学校)とあるのは伊藤氏の記憶違いで、陸軍士官学校が正しい。インタビュアーの前でわざわざ日本刀を抜いて見せた、という話は、やはりインタビュアーの一人であった照沼康孝氏(当時、東京大学百年史編集室員)も回想の中で触れている。

 その他覚えているのは銀時計と刀である。銀時計はいわゆる恩賜の銀時計である。これについては、氏が卒業の際が行事があった最後であったと述べ、更に声を落して録音を止めるように言い、その理由として社会主義運動が盛んになり、天皇の暗殺計画が伝えられたためであると語った。これは初めて聞く話であったが、その真偽の程は今もって定かではない。刀は大振りの日本刀であった。どういう話からそうなったのか明確に思い出せないが、陸軍士官学校へ話をしに行った際に持参し、この刀のようになれと言ったとのことであり、その刀を持って来て我々の眼の前で抜いて見せてくれた。かなり重そうであり、少々鈍く光る刀であった。[照沼康孝「百年史編集室と私」『東京大学史紀要』第6号、東京大学史史料室、1987年3月, pp. 98-99.]

 前段の天皇暗殺計画云々についての真偽は不明。

 この場面、当のインタビューでは次のようになっている。なお、平泉が陸軍士官学校での初講義を行ったのは、1934年(昭和9)4月16日である(若井敏明『平泉澄』ミネルヴァ書房、2006年, pp. 209-210)。

そのときに私は刀を持って行った。大刀をひっさげて行って、東条さん[東條英機=当時、陸軍士官学校幹事]にちょっと会釈をして壇にのぼり、演壇上に刀を置いて話を始めた。
 この刀は終戦後、人に預けてこちらへ帰ったものだから、預かってくれた人が進駐軍を怖がって、これを土中へ隠した。それで刀が少し崩れましたわい。文久二年十二月[1863年1〜2月]、二尺五寸[約 75.8cm]、大刀ですわ。これをひっさげて行ったんです。そして壇上でこれを抜いた。陸軍よ、この刀のごとくにあれ。第一に強くあれ、戦争に負ける陸軍を見たくはない。戦えば必ず勝てり。いかなるものでも手向うものをたたき斬るその力を持て、弱き陸軍をわれわれは見る気がしない。この刀は何ものをもたたき斬るんだ。その武力を持て。第二に陸軍よ、その武力をなんじの私の意思によって発動するものではないぞ。陛下の勅命によって動け。私の意思を遮断するこの刀を見よ、ここに「山はさけ海はあせなん世なりとも君にふたごころわがあらめやも。」これは将軍[源]実朝の歌ですが、すべては陛下によって決する、それ以外私の意思によって動かしてはならん。それはみんなが何とも言えぬ驚きだったんです。
 当時はみんな陸軍を恐れておった。五・一五や満州事変からあとはそうでしたが、その陸軍に対して大喝一声これをやった。この刀によって私は陸軍というものを鍛え直した。世間の知らんものは、私が陸軍と結託し、また阿諛して威張っているようなことをいう。そんなものではない。陸軍が私を畏れ敬った。
 これは土中に置いたために刃が崩れたんですが、明治維新直前の日本精神の生粋ですわ。文久二年というちょうどそのときが。この刀自体はたとえ刃が少し欠けても、歴史的な意味では昭和の日本史の中で重要な働きをしたんですよ。[「平泉澄氏インタビュー(5)」『東京大学史紀要』第18号、2000年3月, p. 65.]

 ……「83歳の老人が、遠くからわざわざ昔話を聞きに来てくれた、自分の孫ぐらいの年配の後輩たちに向かって、思い出の日本刀を抜き出して見せて自慢した」というのは、なんとか笑い話で済ませてもよさそうだが、「39歳で博士号を持つ東京帝国大学助教授が、陸軍士官候補生たちの前で、抜き身の日本刀を構えて『陸軍よ、この刀のごとくにあれ』と大見栄を切ってのけた」というのは、さすがに笑えない。

 ただしこの講義、じつは重要なのは後段の「すべては陛下によって決する、それ以外私の意思によって動かしてはならん」というところにあったらしい。つまり、満洲事変以後表面化してきた出先機関の独断専行や青年将校の暴走を抑える、というところに、真の意図があったようである(若井『平泉澄』参照)。もっとも、だとすればその意図は必ずしも成功したとはいえない。平泉は1936年(昭和11)の2・26事件を防ぐことはできなかったし、1945年(昭和20)の宮城事件に至っては、首謀者である畑中健二・竹下正彦・井田正孝らは、いずれも平泉澄の門下生だったからである。

 また「日本を指導した」云々であるが、それに近い発言もインタビュー中に登場する。

 平泉澄は1932年(昭和7)12月5日、昭和天皇に「楠木正成の功績」という題目で進講を行った。この内容について、原田熊雄『西園寺公と政局』(1936年8月7日)には、湯浅倉平内大臣(1874-1940, 在任1936-40)が「後醍醐天皇を非常に礼讃して、いかにも現実の陛下に当てつけるやうな話し方」で「陛下はあんまりおもしろく思つておいでにならなかつたらしい」と語っていた、とある。もっとも、湯浅は「木戸[幸一]も「実につまらないことを申上げたものだ」と言つてをつた」と語っていたというが、当の『木戸幸一日記』(1932年12月5日)には、木戸自身は「感銘深く陪聴した」とある(以上、若井『平泉澄』, pp. 198-201 参照)。少なくとも、原田熊雄や湯浅倉平あたりからは煙たがられていたが、湯浅の後任者である木戸幸一からは好意的に見られていたようだ。それはともかく、その後の状況について、平泉は以下のように語っている。

 ところが、これが世の中に与えたのは、とにかく平泉というものが非常に重いものになってしまった。陛下の御前に呼び出されたことによって非常に重くなった。大ぜいの陪聴者がそれぞれの感銘を持って帰って、何かの機会にむしろ喜んで話をしたでしょうね。宮中のことは外へもれないはずなんだけれども大体のことがもれてしまった。
 そこで今度はみんな私の話を聞きたいという。宮中のことは別にして、どういうふうに考えるか、日本はどうなるんだ、どうすべきかということを、みんな尋ねてくるようになった。そこで初めて私は本格的に働けるようになったんです。実質上、日本の指導的な地位に立ち得たんです。[…]日本中そのときはどうしていいかわからなかったわけです。政治、軍事、教育、学問、どういう方向にいったい日本は向かうべきであるのか、だれも見当がつかない。それをこうだということを、私が確信を持って断定し得る力は、ドイツ、フランスで養われたし、そしてそれを言い得る地位は実は陛下によって与えられた。陛下が与えてくださったご意思ではないにせよ、実質上はそこにおいて私がそういう立場を確保した。[「平泉澄氏インタビュー(5)」『東京大学史紀要』第17号、1999年3月, p. 122.]

 よく考えると、要は「御進講がきっかけで名が知られ、話を聞きに来る人が増えた」という話である。が、これが平泉の解釈では「日本の指導的地位に立った」ということになるらしい。

 こういうと誇大妄想めいて聞こえるのだが、ただ、平泉が政界や軍の上層部と親しかったのは事実で、特に近衛文麿からはブレーンの一人として扱われていた節がある(この辺りの事情についても、若井『平泉澄』を参照)。『西園寺公と政局』では、「平泉といふ人はもう学者仲間からはまるで相手にされないで、今は或る程度まで実際の政治活動に携はつてゐるといふことである」などと言われているが、具体的に何をやっていたのかは、いまひとつよくわかっていない。もっとも、海軍条約派の岡田啓介・米内光政・井上成美といった面々からは嫌われていたらしく、また内務省・文部省方面とも疎遠で、そのため教育への影響力も限定的であったのであるが。

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2013年06月06日

平泉澄と仁科芳雄と石井四郎

 手元の資料を整理していたらこんなものが出てきた。

  • 「東京大学旧職員インタビュー(3) 平泉 澄氏インタビュー(6)」『東京大学史紀要』第17号(東京:東京大学史史料室、2000年3月)

 東京大学百年史編集室(現・東京大学史史料室)が1978年11月に平泉澄(ひらいずみ・きよし、1895〜1984)に対して行った聞き取りで、平泉の没後、『東京大学史紀要』第13〜17号に掲載された。平泉は元東京帝国大学文学部国史学科教授で、戦時下において独特の国体論的歴史学を展開したことで知られる。インタビュアーは伊藤隆・酒井豊・狐塚裕子・照沼康孝の4名である。したがって、終戦から33年経った時点での、満83歳の老人による回想である、ということはいちおう注意しておきたい。

 そのインタビューの結末近くで、平泉はこんなことを語っている([…]内は引用者註)。

[…]世界は大動乱に陥り日本は大国難に遭遇するということを私は看破して、欧州滞在を切りあげて帰る、前から日本は大変なことだと思っていたが、いよいよそれがせっぱ詰まってきて帰るでしょう。同じ時にヨーロッパにおって、これは大変だということに気がついて、そこで対策を講じなくてはならないと考えたものが、私のほかに二人ある。これが世にも不思議なことに、全部大正七年[1918]の東大卒業生です。[…]
 そのときに出た一人は仁科芳雄。これが理工科の銀時計です。欧米へ行って、原爆をもって国を守る以外にはないということを考える。もう一人は石井四郎陸軍中将。これは石井部隊ですが私と四高[第四高等学校=現・金沢大学]で同期生ですが、厳密にいうとこの人は医学部だから昭和八年東大の卒業だと思うんですが、仁科さんもわれわれも大正七年には東大におったんです。
 この三人は連絡はないんです。私は仁科さんは知らん。石井さんは知っておったが、石井が偉い男だということは知らなかった。[…]
 そのうちに石井さんの本当のことを全部私は知ってね。これは大変なことだと思った。化学兵器をもって国を守るんです。陸軍の最後の手段はこれだった。非常に厳重にこれは秘匿されておった。しかし、いよいよ戦局が急迫したとき、私は石井さんを訪ねた。陸軍大臣には会えても石井さんには会えないというくらい全部守られておる。それを石井さんに連絡したら、おいでなさい、話しておくということで会いに行きましたわい。全く隔離されたところで、厳重な警戒のうちにおる。会って石井さんが言うには、あなたはみんな知っておるんだから隠すことはしない、みんな話しする。おれのところで考えておることはこれだけだというんで、全部の計画、準備、設備、みんな話をしてくれた。石井さん、いざというときは頼むぜというので、非常にこれは自分には頼みになった。
 もう一つの原爆のほうも頼みにしたんですが、これは貴族院でたびたび長岡半太郎氏がしゃべった。あれがよけいなことをしゃべった。やるのなら黙ってやればいい、できもしないものをしゃべるというのはよけいなことなんです。よけいなことを言われたなと思いますが、これは結局できずに終わった。
 そのときに仁科さんの下におった人が二人ばかり、この春、テレビに出たんですが、その話を聞いて私は非常に憤慨したんです。われわれは仁科博士の下で原爆の研究に従事したけれども、それは原爆をつくって実戦に用いようという意図ではなかった。自分らがこのことに関係しておったのは、いかにして陸軍の徴兵を免れかるかということを考えて、そのためにここに入っておったのだ。研究するものは理論を研究したのであって、実際には関係しておらんと繰り返し言ったんです。それはどこまで本当なのか、今の時世に媚びて言ったのかわしはわからん。しかし、事実は何もできなかったんです。当時、もう一週間早ければできたというが、事実はそんなものではありません。五十年も遅れていたんですと言いました。いまさら何を言うかと思いましたがね。本当に自分の命を捨てる気のないものは、こういうことになるんです。石井さんのほうは用意しておったが、これは陛下のお許しがないので、とうとう行われない。そこで何とかしてふつうの兵器で戦って、いわゆる逆転を私はやりたい。私はプロレスが好きでね。猪木がさんざん負けて、これはあかんかと思うと、彼は逆転する。それは何とも言えぬ楽しみですわ。それはどんなに負けても最後の一戦で勝てば、終わりよければ万事よしなんです。それで回天でも何でも一生懸命やった。[pp. 76-78.]

 ……どうやら平泉澄はアントニオ猪木信者だったらしい。

 三人の略歴を簡単に示しておこう。

 平泉澄(ひらいずみ・きよし、1895〜1984):1918年東京帝国大学文科大学国史学科卒業。1921年東京帝国大学文学部講師、1926年文学博士(東京帝国大学、「中世に於ける社寺と社会との関係」)、同助教授。1930〜31年ヨーロッパで在外研究。1935年同教授、1945年辞任。1948〜52年公職追放。著書『中世に於ける精神生活』(1926)・『我が歴史観』(1926)・『闇斎先生と日本精神』(1932)・『菊池勤王史』(1941)・『少年日本史』(1970)・『悲劇縦走』(1980)他多数。

 平泉は1930年3月に在外研究のため渡欧するが、2年計画のところを1年3ヶ月で切り上げ、満洲事変の直前に帰国している。若井敏明『平泉澄』(ミネルヴァ書房、2006年)によれば、滞欧中の1931年4月にスペインで無血革命が起きて王制が廃止されたことにより、共産主義や革命への危機感を感じて帰国したものという。

 仁科芳雄(にしな・よしお、1890〜1951):1918年東京帝国大学工科大学電気工学科卒業。1921年(財)理化学研究所(理研)研究員。1921〜28年イギリス、ドイツ、デンマークで在外研究。1930年理学博士(東京帝国大学、「錫(50)よりタングステン(74)に至る諸元素のL吸収スペクトル並に其の原子構造との関係に就て」)。陸軍・理研の原爆開発計画「ニ号研究」に従事。1946年理研所長、1948年理研解散にともない(株)科学研究所社長。

 「銀時計」というのは、東京帝国大学の成績優秀者に対して卒業時に天皇から授与される「恩賜の銀時計」のことで、平泉と仁科が卒業した1918年まで実施されていた。なお、平泉自身も授与を受けている。

 石井四郎(いしい・しろう、1892〜1959):1920年京都帝国大学医学部卒業。1927年医学博士(京都帝国大学、「グラム陽性双球菌に就ての研究」)。1928〜30年海外視察。1931年陸軍軍医学校教官。1932年、軍医学校内に防疫研究室を設立。1936年、関東軍防疫部(のち防疫給水部=満洲第731部隊)を編成し細菌兵器の研究に従事。1942年北支那方面軍第一軍軍医部長に転出するが、1945年軍医中将に昇任し防疫給水部長に復帰、直後に終戦。

 さて、上述した略歴からも明らかなように、このインタビューにはいくつか基本的な事実誤認が含まれている。まず、平泉と石井が同じ旧制第四高等学校の出身なのは事実だが、石井が東大出身というのは平泉の勘違いで、卒業年次も異なる。ついでにいえば、細菌兵器が専門の石井が「化学兵器をもって国を守る」というのも少々おかしい。また、仁科は世界恐慌が始まる前の1928年12月に帰国しており、1930年3月に渡欧した平泉とは時期的にズレがある。さらに、仁科が渡欧中に「原爆をもって国を守る以外にはないということを考え」た、というのもおかしい。原子爆弾の製造可能性がSFではなく現実的問題として取り沙汰されるようになるのは、1938年にオットー・ハーンとフリードリヒ・シュトラスマンが核分裂を発見して以降のことだからである。要するに、「大正七年の東大卒業生」3人が「同じ時にヨーロッパにおって……対策を講じなくてはならないと考えた」という話は、平泉澄の思い違いの産物にすぎないのである。

 また、「貴族院でたびたび長岡半太郎氏がしゃべった」という事実もない。確かに、戦時中の貴族院で、原子力が軍事利用できる可能性について触れた科学者議員はいる。しかし、それは長岡半太郎(1865〜1950)ではなく、田中舘愛橘(たなかだて・あいきつ、1856〜1952)である(第84回帝国議会貴族院本会議、1944年2月7日)。なお、昭和天皇が化学兵器の使用を止めさせた、という話の裏付けはとれなかった。実際のところ、日本軍が化学兵器を使わなかった理由は、報復攻撃を恐れたことが大きいと言われており、その恐れの少ない中国戦線ではしばしば使用していたことが知られている。

 晩年のインタビューにおける放言めいた発言であり、当然、記憶違いもあるであろうことは割り引いておく必要があるものの、ずいぶんいい加減な話ではある。

 末尾の「回天」は人間魚雷の「回天」のこと。平泉は、このインタビューの中で、「回天」の発案者の一人である黒木博司海軍大尉(1921〜44。「回天」試験中に事故死、少佐に特進)のことを「私の最愛の門下」と呼んでいる。

 さて、この話からは、平泉の認識を以下のように整理することができそうだ。

  1. 平泉澄は、日本の勝利のためなら核兵器や生物・化学兵器の使用も許される、と考えていたらしい。
  2. 平泉澄は、自分の言動が核兵器や生物・化学兵器の研究開発と同列に並べられるものだ、と考えていたらしい。
  3. 平泉澄は、秘密兵器による一発逆転勝利、などというマンガ的(プロレス的?!)な話が、現実的な話だと考えていたらしい。(しかも、その秘密兵器の具体例が特攻兵器。)

 なお、「本当に自分の命を捨てる気のないものは、こういうことになる」という発言の意味はいまひとつ明らかでないが、もし「だから原爆を完成させることができなかった」という意味であれば、「そんな精神論を言っているから戦争に勝てないんだ」とでも答えておけばよさそうである。

 そもそも、平泉の専門は日本中世史で、軍事に関する専門的著作は特にないはずなのだが、平泉はこのインタビューの中で、陸軍士官学校での講義などを通じて軍人に自分の信奉者が多かったことを自慢げに述べ、「私は陸軍というものを鍛え直した」「陸軍が私を畏れ敬った」などと豪語する。そして岡田啓介(1868〜1952)、米内光政(1880〜1948)、宇垣一成(1868〜1956)らが、東京裁判の主席検察官ジョゼフ・キーナンから平和主義者と称賛されたことを非難した上で、次のようなことを語っている。

実戦しておると、わしのところへくるよりほかはないわけです。米内[光政]さんなどは戦争に一ぺんも出たことがないし、岡田[啓介]さんも宇垣[一成]さんも実戦には出たことがない。実戦をやってみると彼らが地図で考えているようなものではない。下の人はみんな私によって動くというくらいの勢いなんです。それが海軍としては非常な不幸でしたね。陸軍は上層部もみな私を信頼してくださり、言っては悪いけれども東条[英機]さんでも小畑〔敏四郎〕さんでもそうですが、あとでいえば陸軍大臣阿南[惟幾]大将、これは入門願書を出されたんですよ、私に対して。それから下村大将が最後ですがね。手紙には最末の門人、下村定と書いてありますよ。全然態度が違うんです。[p. 76.]

 日露戦争(1904〜05)中、岡田啓介は装甲巡洋艦「春日」副長として日本海海戦などに参加しているし、米内光政も海軍中尉として駆逐艦「電」(いなづま)に乗り込んでいる。また宇垣一成も陸軍第八師団参謀として出征している。岡田は日露戦争のみならず日清戦争にも第一次世界大戦にも従軍した歴戦の将である。その三人を「実戦には出たことがない」と勝手に決めつけ、自分のほうが戦争のやり方をよく知っている、などと言い出すのだからまことに恐れ入る。むしろ、東條英機(1884〜1948)以下陸軍上層部が、こんな程度の軍事知識の持ち主を「信頼」していたとすれば、そっちの方がはるかに問題だろう。

 ……いや、もちろん、平泉の回想が正確なら、という話だが。

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2013年01月20日

1920年代の体罰の実例

 日本の法律では、学校教育での体罰は1879年以来(1885〜90年の間を除き)法的に禁止されてきた、ということは前述した。が、これはもちろん、実際に体罰が存在しなかったことを意味するわけではない。

 河野通保『学校事件の教育的法律的実際研究』上巻(文化書房、1933年)「第八章 教育者の懲戒権問題」近代デジタルライブラリーには、1920〜30年代の新聞報道に現われた、教師のゆきすぎた懲戒が引き起こしたトラブル事例が数多く掲載されている。同書には生徒の自殺やお礼参りなどの事例も取り上げられているが、ここでは、体罰の事例を年代順に抜き書きしてみる。

 以下は原文そのままではなく、適宜表現を現代的に修正したり、要約したりしていることをお断りしておく。「訓導」は小学校の正規教員、つまり現在の「教諭」。「受持訓導」は担任教諭。年齢は当時は数え年表記なので、満年齢では1〜2歳下となる。当時の制度では尋常小学校6年(満6〜12歳)のみが義務教育であり、その上は高等小学校2年(満12〜15歳)、または中学校5年(満12〜17歳)。つまり高等科1・2年は現在の中学1・2年、中学4・5年は現在の高校1・2年と同じ年齢になる。

  • 1923年1月:佐世保市[長崎県]外某小学校3年生受持訓導A(39)は、算術の授業中、答えの合わなかった児童を、十数名の答えの出来た児童に命じて殴打、あるいはつねらせて泣き叫ぶのを傍観し自らも青竹の鞭を持って殴打したので、父兄間の大問題となった。
  • 1923年7月:東京市外渋谷町某小学校尋常科3年生Bは、授業中受持のC訓導が非常な見幕で叱責した上、体罰を科したので学校を休んでいることが判明、父兄側および町学務課の大問題となった。取調べによると、C教員は3日間にわたり、あるいはなぐり、あるいは耳を引っ張りなどして極度の憎しみの情をもってBを体罰したことが判明した。Bはこれがため脳神経を極度に刺激し一種の恐怖に襲われていると附近の医師が診断したので、父親は訴訟を起こす模様である。
  • 1924年8月:北海道亀田郡某小学校訓導Dは高等科1年生E・尋常科4年生Fの両名に暴行を加え、Fを死に至らしめた椿事がある。当日D訓導は両生徒が廊下で遊んでいる際、「この天気のよいのに家の中にいる奴があるか」と乱暴にもEの両耳をつまんで戸外に引き出し、Fの腰部を足で蹴ったので、Fは暴行後4日目ついに死亡し、Eは片耳をもぎとられたので大問題となり所轄警察署で取調べ中である。

……晴れの日に廊下で遊んでいたので殺された、という恐ろしい事例である。

  • 1924年9月:新潟県某中学5年生Gは「下越オリムピック大会」に槍投げの選手として出場し、もろくも敗れたというのでH教諭が立腹し、夕刻運動場においてGを足蹴にかけ校長室に引き入れて鉄拳制裁を加えたことが生徒間に知れ、生徒に憤慨し同教諭を難詰するところがあったが、Gが槍投げの練習をしなかったのは高等学校入学準備のためだと。
  • 1924年12月:埼玉県某市尋常高等小学校等5年生受持訓導I(24)は、教室の掃除中、中高2年生J(15)が尋常2年教室用バケツを使用したのでこれをとがめたところ、Jが抗弁したので、さんざん打擲した上、そのバケツで数杯の冷水を頭から浴びせたため、Jは寒中のこととて帰宅後発熱し39℃の高熱に苦しんでいる。
  • 1925年1月:鶴岡市[山形県]某小学校K・Lの両訓導は受持5・6年生40余名を殴打したことが知れ教育界の大問題となった。原因は生徒等が教師にあだ名をつけたためである。
  • 1925年1月:新潟県東頸城郡某小学校訓導M(25)は、高等科2年生Nが教室内で汽車を見て万歳を叫んだとして竹棒で同人を殴打し、なお同級生一同に命じて殴打せしめ、ついに大股部に全治2週間の傷を負わせたこと発覚、警察官・視学官等が取り調べ中。
  • 1925年1月:千葉県印旛郡某小学校6年クラス39名が、学校からの帰途、寒さをしのぐため山林内でたき火したことを聞知した受持O訓導は大いに怒り、児童が登校するや教室内に一列にならべて殴打し、これがため児童は同訓導の処置を恐れ、ついに申し合わせて休校してしまった。父兄等はO訓導の苛酷なる処置に憤慨し、協議の結果同訓導排斥運動を起こし、村長や校長を訪れ、その処置をなじり紛擾中である。
  • 1926年2月:横須賀市外某尋常高等小学校訓導P(27)は、高等科1年生Q(13)の父Rから傷害罪で告訴され、横須賀署に召喚、取り調べを受けた。P訓導は去る日の朝、自転車で通行を厳禁されたSトンネル内を自転車で走って来たので、通学途次のQ等が「先生降りねばいけません」と注意したところ、訓導は大いに怒り、いきなり自転車から飛び降りQを捕らえて殴打した上、柔道2段の腕で投げ飛ばした。その際Qは傍のレンガで頭部を強打し一週間の負傷を受けたのである。同訓導はS町の飲食店を飲み歩き乱暴を働いていた由で、この暴行事件を起こすや、S町民は非常に憤慨してその処分を町当局に迫っている。

生徒に注意されたことに逆ギレした暴力教師! よく考えるとこれ、校外だから「体罰」じゃないな。武道をやっている人間が人格者とは限らない、という話でもある。

  • 1926年7月:埼玉県川越市外某小学校代用教員T(21)は、受持の6年生U(13)が宿題をやって来なかったのを憤り、頭部その他数ヶ所を殴打したため、Uは極度の恐怖に襲われた結果精神に異常を来し、同地方教育界の大問題となろうとしている。
  • 1926年11月:福島県安積郡某尋常高等小学校尋常科5年生V(12)は11月21日より休校していたが30日死亡した。その原因については端無くも20日受持次席訓導W(38)に殴打されたのが原因で床につき、ついに死に至った事が判明し、学校当局は極力事件をもみ消しているが、父兄間では大問題となし、近く村民大会を開き、Vの父Xは告訴するといきまいている。

殴られた理由は不明。

  • 1927年5月:東京・千駄ヶ谷某小学校6年生Y(12)は、学校の帰途、同級のZと喧嘩し、Zの足部に過傷を負わせたが、YとZの両家は平素より懇意な間柄なので無事にすんでいたところ、翌日Yが登校するや、クラス担当のa訓導(27)が前日の喧嘩についてYを厳しく訓戒した。このクラスは翌日鎌倉・江の島方面へ遠足することになっており、生徒一同はその費用として各自75銭ずつをその朝訓導に差し出したが、a訓導より厳戒されたせいか、平素より神経質のYはすでに差し出した遠足費用の返還を乞い、「明日は遠足に行かない」と申し出たところ、a訓導は非常に怒ってやにわにYの頭部に鉄拳を加え、さらにえり首をつかんで教壇まで引きずり行き、同人の頭部をはげしく数回教卓に激突せしめた後、「帰れ」と怒鳴りつけたので、Yは泣きながら帰宅した。a訓導の制裁により後頭部を激打したためか、その夜から発熱すると共にはげしい発作的な精神異常を来し、裸体で屋根に駆けのぼったり、泣きながら戸外へ駆けだしたり、何者かにおびえて突然叫び声をあげたりし始めた。父bは驚いて附近の医師の診察を乞うと、後頭部の異常なる打撃のため病弱なる頭脳をさらに痛めた結果であると診断したので、さっそく校長を面詰し一時は告訴するとまで憤慨したが、町議等が仲裁して、ようやく、Yの治療代は学校で負担し、a訓導は他へ転任させることとしてひと段落した。校長は「[a訓導は]生徒からも親しまれ、父兄の信用もあるのですが、かかる事件を起こしたことは同君のためにも気の毒」「Yという少年は級でも操行のよくない生徒」「発作的に気が狂ったりするのはべつにa訓導の制裁が原因しているのではなく、幼少からそんな性癖があるのです」と語っている

釈明の余地のない暴力行為だと思うのだが、校長のコメントがひどすぎる。

  • 1928年7月:東京府立某中学校では、体操柔道師範柔道5段c氏の暴力沙汰が問題となり、全校生徒ならびに先輩等は学校当局に対し積極的警告を発しようとしている。c教諭は平素生徒を取り扱うのに暴力をもって臨み、先日も、運動場の掲示板に落書きしてあったのを同教諭が発見し、そこに集まっていた5年生丙組に「だれが書いたか出ろ」と言ったところ、dが「私が書きました」と申し出たので、「学校全部の落書きはお前がしたのだろう」と言って、なぐる、蹴るの暴力沙汰に及び、鼻血をだしているdを50メートルも引きずり、e師範が駆けつけたがこれも傍観するにすぎなかったので、5年生は「理非を明かにせぬ間は授業を受けない」と憤慨し、ついに重大問題化するにいたったのである。
  • 1929年1月:千葉県印旛郡某小学校高等科1年f(13)・同級生g(14)の両名は、授業中雑談したとして、受持訓導hは憤慨し、教授用のコンパスで両名の頭部をなぐったが、コンパスの針が刺さり、両名とも深さが骨膜に達する重傷を負い、血まみれになってその場に昏倒したという騒ぎがある。訓導は事の意外に驚き、ただちに医師を招き手当てを施し、学務委員や村有力者を介して秘密に示談を懇請しているが、農民組合千葉県連合会本部は「真相を調査し断固たる処置をとる」といきまいている。
  • 1930年10月:京都市上京区某小学校で訓導の児童に対する暴行事件が暴露し、京都市教育界の大問題となった。同校尋常科6年生のi(13)が中等学校入学試験の予習のため、登校するのに5分間遅れたため「今日は休む」と言い出したので、母親が同校を尋ね、受持j訓導(26)に欠席する旨を届け出たところ、訓導はその後、むりやりにiを呼び出し、学校で無法にもなぐる、蹴る、つねる、のひどい目に会わして、悲鳴をあげさせぬように口に手ぬぐいをねじこむ、等の暴行を加え、同校の真向かいにあるiの家まで悲鳴がもれ聞こえるので、母親が学校に駆けつけると、同訓導は何食わぬ顔をして、しかもiを引きとめ、自分の下宿に連れ帰り、痛さに悩むiを更にしかりつけて、氷を買いにやり、痛むところを当てさせ四時間ほど寝かした上で帰宅させたが、これが端緒となって同訓導の日ごろの乱暴が判明した。市学務課から2名の視学が主張、詳細に実情調査を行い、j訓導の受持児童42名中、少しも被害を受けない者はわずか3名しかいないことを突き止めたので、ますます問題は大きくなっている。
  • 1931年9月:東京市外目黒町某小学校の訓導k(25)が、尋常1年生lの「書取りの出来が悪い」として持っていたムチでlの後頭部を殴打し、lは帰宅後発熱、m校長(37)は見舞いに行きひどく恐縮し心痛していた。m校長は見舞いから2日後の夕方に自宅で脳溢血により急死したが、k訓導の過失を極度に心痛した結果ではないかという風説がたった。

 ……抜き書きしていて胸が悪くなってきた。

 注意しておいてほしいのは、こうした事件が横行していた、ということとともに、これらが生徒や父兄の抗議などで問題化し、新聞沙汰になっている、ということである。つまり、当時の社会通念においても、こうした体罰は認められていなかったのである。

ラベル:体罰 教育史
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日本の学校教育における体罰の禁止

 現行の学校教育法(2011年6月3日最終改正)においては、「体罰」は違法とされている。

第十一条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。 法令データ提供システム

 学校教育法自体は1947年(昭和22)に制定された法律だが、この条文はこのとき新しく作られたものではなく、明治期からずっと存在していた法的規定を引き継いだものである。

 学校における体罰の禁止について規定した最初の法令は、1879年(明治12)の「教育令」である。

教育令(明治12年太政官布告第40号、1879年9月29日公布)法令全書][Wikisource

第四十六条 凡学校二於テハ生徒二体罰 殴チ或ハ縛スルノ類 ヲ加フヘカラス

 註記で、体罰の具体例として「殴る」「縛る」といったことをわざわざ挙げているのが特徴である。

 この条項は1880年(明治13)の第2次「教育令」(明治13年太政官布告第59号、1880年12月28日公布)法令全書][Wikisourceでも受け継がれたが、1885年(明治18)の第3次「教育令」(明治18年太政官布告第23号、1885年8月12日公布)官報][Wikisourceでは削除されてしまい、1896年(明治19)の「小学校令」(明治19年勅令第14号、1886年4月10日公布)官報][Wikisourceでも規定は置かれなかった。しかし、1890年(明治23)の第2次「小学校令」で、体罰禁止規定は5年ぶりに復活する。

小学校令(明治23年勅令第215号、1890年10月7日公布)官報][Wikisource

第六十三条 小学校長及教員ハ児童ニ体罰ヲ加フルコトヲ得ス

 1900年(明治33)の第3次「小学校令」で「懲戒」に関する規定が付け加えられ、「体罰」は「懲戒」の但し書き規定となった。これが基本的には現行の「学校教育法」まで引き継がれることになる。

小学校令(明治33年勅令第344号、1900年8月20日公布・9月1日施行)官報][Wikisource

第四十七条 小学校長及教員ハ教育上ト認メタルトキハ児童ニ懲戒ヲ加フルコトヲ得但シ体罰ヲ加フルコトヲ得ス

国民学校令(昭和16年勅令第148号、1941年3月1日公布・4月1日施行)官報

第二十条 国民学校職員ハ教育上必要アリト認ムルトキハ児童ニ懲戒ヲ加フルコトヲ得但シ体罰ヲ加フルコトヲ得ズ

学校教育法(昭和22年法律第25号、1947年3月31日公布・4月1日施行)官報

第十一条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。但し、体罰を加えることはできない。

 要するに、日本の学校教育では、「体罰」は1879年以来ずっと(1885〜90年の短期間を除き)法的には禁止されてきたのである。

 ところで、この「体罰」とは、具体的にはどの程度のことを指していたのだろうか。

 1891年(明治24)8月、某県から文部省に、「校舎の内外を掃除」「教場の一隅に直立せしむる」は体罰に該当し、「教授時間後留置」は体罰にあたらない、とする解釈は妥当か、という照会がなされ、これに対しては文部省普通学務局長が、これらはすべて体罰にあたらない、とする解釈を示している(渋谷徳三郎『教育行政上の実際問題』敬文館、1922年, p. 103)。また同書は、懲戒については慣例的に「譴責、直立、留置等」(つまり、叱る、教室内に立たせる、放課後に残す)が認められており、「掃除其の他雑役」(要するにバツ当番)は懲戒として不適当だ、と指摘している。いずれにせよ、戦前の解釈においても、直接身体に危害を与える行為(ビンタなど)が体罰とされていたことは間違いない。

ラベル:教育史 体罰
posted by 長谷川@望夢楼 at 00:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月01日

2013年、あけましておめでとうございます

 本年もよろしくお願い申し上げます。今年もなんとか成果を出そうとじたばたしつつ、基本的にはマイペースに行こうと思います。
posted by 長谷川@望夢楼 at 05:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月04日

同時代史学会2012年度年次大会(12月8日)のお知らせ

 直前になってしまい申し訳ありませんが、こちらでも宣伝いたします。詳細は同時代史学会のウェブサイトをご参照ください。
 なお、自由論題報告には私(長谷川)も参加いたします。

大会テーマ「同時代史をどうみるか――さまざまな分野の研究者のとらえた日本の同時代史像」
http://www.geocities.jp/doujidaisigakkai/annual_meetings/2012.html

日時
2012年12月8日(土) 10:00 〜 17:00(9時30分受け付け開始)
* 12:00〜12:30 まで総会を開催します。ご参加ください。
* 17:00より会場の千葉大学内で懇親会を予定しておりますので、ご予定下さい。
会場
千葉大学西千葉キャンパス(総武線西千葉駅、もしくは京成千葉線みどり台駅)・人文社会科学系総合研究棟1階

千葉大学西千葉キャンパスまでのルートは 千葉大学交通アクセス http://www.chiba-u.ac.jp/access/nishichiba/ 会場の人文社会科学系総合研究棟は、千葉大学西千葉キャンパスマップ http://www.chiba-u.ac.jp/campus_map/nishichiba/index.html を参照してください。

午前の部「自由論題」

午後の部・大会企画「同時代史をどうみるか――さまざまな分野の研究者のとらえた日本の同時代史像」
森建資(イギリス、労使関係)
南塚信吾(ハンガリー、世界史)
小谷汪之(インド、近代社会)
久保亨(中国、現代史)
荒野泰典(前近代日本、国際関係)
posted by 長谷川@望夢楼 at 21:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史学(研究会のお知らせ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月20日

「望夢楼」17周年(でした)

 1995年11月20日開設ですから、17周年になってしまいました。諸事情(主として、ぼく自身の怠慢)でいろいろと滞っており、各方面に迷惑をおかけしていて申し訳なく思ってます。やりたいこととやるべきことはいろいろあるのですけどね。
posted by 長谷川@望夢楼 at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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