2014年11月20日

「望夢楼」19周年

 最近全く更新できずに、読者の方々には申し訳ない限りです。手元に書き溜めたものはいろいろあるのですが、まだきちんとまとまっていない、調べがまだ足りない、もう少し調べてから公開しよう――ということで、なかなか公開できずにいるのですね。緊要性のないことだと思ってしまうと、なかなかすぐには書けないのです。
 年内にはなんとか次の作品を書き上げたいところです……というか書きます。
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2014年02月15日

『開化問答』の祝祭日問答

 小川為治『開化問答』(明治7〜8年=1874〜75年刊)は明治初年に出された啓蒙書で、「旧平」氏が文明開化に対する不平不満を語り、それに対して「開次郎」氏がその認識の誤りを正し、文明開化のありがたさを説く、という内容の書物である。しかし、今日の目から見て興味深いのは、「旧平」氏の発言内容が、いかにも当時の保守的な老人なら言い出しそうなこと、という設定になっているため、逆説的に当時の民衆意識をある程度までうかがい知ることができる、という点である。まあ、あくまで知識人である著者(だと思われるのだが、経歴はよくわかっていない)が想像した「保守的な老人」、ということには注意しておく必要があるが。

 あちこちで紹介されている話ではあるが、ここでは、その二編(1875年5月刊)にある、祝祭日についての問答を抜き書きしてみることにしよう。

 なお、底本には明治文化研究会〔編〕『明治文化全集 第二十一巻 文明開化篇』(日本評論社、1993年復刻版)を用い、国会図書館デジタルコレクションで公開されている原本[二編巻上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798422 巻下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798423]を参照した。また、引用にあたっては読みやすさを考え、漢字表記や仮名遣い、送り仮名などを現代風に改めていることをお断りしておく。強調は引用者による。

 まず、旧平の語る不満から。なお、本題は1873年(明治6)の太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦なのだが、長くなるので省略し、祝祭日についての箇所のみ抜き出したことをあらかじめお断りしておく。

これまで世間において旧来の暦を用いきたり、何一つ差支うることもなかりしに、何をもって先年政府において足辺より鳥のたつごとく急に太陽暦をとり用い、これをお廃しなさりしか、更に合点のゆかぬ次第でござる。[…]その上改暦以来は五節句・盆などという大切なる物日(ものび)を廃し、天長節・紀元節などというわけのわからぬ日を祝う事でござる。四月八日はお釈迦の誕生日、盆の十六日は地獄の釜の蓋のあく日というは、犬打つ童も知りております。紀元節や天長節の由来は、この旧平の如き牛鍋を食う老爺というも知りません。かかる世間の心にもなき日を祝せんとて、政府より強いて赤丸を売る看板のごとき幟(のぼり)や提燈(ちょうちん)を出さするはなおなお聞けぬ理屈でござる。元来祝日は世間の人の祝う料簡が寄り合うて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日を強いて祝わしむるは最も無理なることに心得ます。

 天長節は現在の「天皇誕生日」(当時は明治天皇の誕生日である11月3日)、紀元節は現在の「建国記念の日」(2月11日)にあたる祝日である。

 「物日」は祝祭日のこと。「五節句」(五節供)は人日(じんじつ=正月7日)・上巳(じょうし=3月3日)・端午(たんご=5月5日)・七夕(しちせき=7月7日)・重陽(ちょうよう=9月9日)。いずれも中国起源の祝祭日であるが、明治6年太政官布告第1号(1873年1月4日)[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787953/75]により公式に廃止されている。旧暦4月8日は釈迦の誕生日、すなわち灌仏会(かんぶつえ。仏生会・誕生会・降誕会・龍華会・浴仏会・花祭などとも呼ぶ)。北伝(大乗)仏教ではこの日とされているのだが、その歴史的根拠は明確ではない。

 さて、これに対する開次郎の反論は、というと――

元来愚癡(ぐち)[おろか]なる人物は道理の真偽にかかわらず、ただ古来よりのしきたり・ならわしをのみ信仰して、いかほどよき事柄にても新しく思う事へは容易に移らざる者でござる。さりながらこの愚癡なる人の料簡にのみ任せおきては、とても世の中が文明開化の場所に至ることあたわざるゆえ、世間を文明開化にせんと思う政府は、まず世人の迷執を打破り万民の耳目を新たにせざればかなわぬわけにて、これ五節句・物日などをお廃しなされし次第でござる。全体足下の論ぜらるる所の五節句などという日の大本を穿鑿(せんさく)すれば、みなわけもなき日にて、祝うべき筋は少しもないわけでごさる。かくの如き日を祝わんためにこれまで家業を休み、上下を着用してありがたそうにおめでとうござります。恐悦にぞんじますなどと騒ぎまわりたるは実に小児遊びのようにて、今更笑止千万にぞんじられます。そこで、ただ今祝日として用いる所の紀元節は、神武天皇様の始めて天子様の御位に即しられ日なり、天長節とは今の天子様の御誕生日の事にて、実にこれ等の日は日本に生れたる人の必ず大切に祝うべきはずの日でござる。ゆえに政府にて一年中よりかかる貴き日五日を撰み出し、これを祭日に定め、世間一般に祝う事となされたるわけでござる。

 これは啓蒙書なので、旧平は結局、「一々肝に銘じ感心いたしました」「この旧平一言の異論もござりませぬ」と、あっさりと引きさがってしまう。

 「五日」とあるが、明治6年太政官布告第344号(1873年10月14日)[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787953/335]で定められた祝祭日は、元始祭(1月3日)・新年宴会(1月5日)・孝明天皇祭(1月30日)・紀元節(2月11日)・神武天皇祭(4月3日)・神嘗祭(9月17日)・天長節(11月3日)・新嘗祭(11月23日)の計8日である。祭日だけを数えて5日としたのかもしれないが、それでは祝日である紀元節と天長節は入らなくなってしまう。

 この中には、神嘗祭や新嘗祭のように長い歴史のある祭祀もあるが、たとえば神武天皇祭は元治元年(1864)、天長節は慶応4年(明治元年、1868)、元始祭は明治3年(1870)、そして紀元節は1873年(明治6)にそれぞれ新設されたものである(天長節は古代に行われた時期もあるが、事実上明治の新設といえる)。さらに、近代的な教育制度もまだ始まったばかりにすぎない。つまり、これらを旧平が「わけのわからぬ日」「由来は…知りません」と言うのも、無理もない話なのである。それにしても、開次郎の「大本を穿鑿すれば、みなわけもなき日にて」という言葉は、明治政府による祝祭日にもそのままはね返ってきかねないのだが……。

 なお、五節句は、明治政府による廃止命令の後も、農村部を中心に残り続けた。明治政府の国定祝祭日が学校教育などを通じて定着するようになるのは、日露戦争(1904〜05)以後のことといわれている(有泉貞夫「明治国家と祝祭日」『歴史学研究』第341号、1968年10月)。

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2014年02月11日

「建国記念の日」の基礎知識

 ちょっとしたメモ書きとして――。

 「建国記念の日」は1966年(昭和41)の「国民の祝日に関する法律」(祝日法)改正で新設された祝日で、「建国をしのび、国を愛する心を養う」日とされている(「建国記念日」ではなく「建国記念日」である。お間違えなきよう、念のため)。その起源は、1873年(明治6)に始められ、1948年(昭和23)祝日法の公布・施行とともに廃止された「紀元節」であり、もともとは初代天皇とされる神武天皇の即位を記念した祝日であった。

 ところで、なぜ2月11日が神武天皇即位の日なのか。

 『日本書紀』巻第三に

辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮
(辛酉年の春正月の庚辰の朔に、天皇、橿原宮に即帝位[あまつひつぎしろしめ]す)

とある。つまり神武天皇は辛酉年の1月1日(旧正月)に即位したことになる。当然ながら、この暦は中国や日本で用いられていた太陰太陽暦であり、西暦(グレゴリオ暦)との間には1〜2ヶ月程度のズレがある。

 この辛酉年は西暦に直すと紀元前660年である。それでは辛酉年正月一日を西暦に直すと紀元前660年2月11日なのか、というと、話はそう簡単ではない。

 太陰太陽暦では、朔(新月)の日を月の1日とし、次の朔までの間を1月とする。月の満ち欠けの1周期(朔望月)は約29.53日なので、1ヶ月は29日(小の月)ないし30日(大の月)となる。12ヶ月をもって1年とするが、このままでは1年が約354日にしかならず、次第に季節とのズレが生じる。そのため、数年ごとに閏月を置いて1年を13ヶ月にすることで季節とのズレを調整する。大の月・小の月の順序や閏月の挿入には複雑な計算が必要になるため、さまざまな暦法が考え出された。つまり、使っている暦法によって、太陽暦との対応関係が違ってくるのである。

 さて、明治5年(1872)11月15日太政官布告第343号[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787952/199]により、翌年からの太陽暦(グレゴリオ暦)施行に際して、1月29日を「神武天皇御即位相当」の日として祝日とし、さらに明治6年(1873)3月7日太政官布告第91号[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787953/112]でこの日を「紀元節」と呼ぶことにした。なぜ1月29日だったのかといえば、単純に、明治6年の旧正月が1月29日だったからである。

 しかしその後、あらためて暦法を検討しなおした結果、明治6年10月14日太政官布告第344号[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787953/335]で、紀元節は2月11日に変更され、以後、この日に固定されることになった。

 ただし、ここにはいくつかの問題がある。まず、「推古朝以前に関する《日本書紀》の暦法が紀元節設定当時には明らかではなかったので,神武天皇即位日とされた辛酉年正月元日を太陽暦に換算することは不可能であったはずであり,2月11日の日付は当時の学問水準に照らしても無根拠であった」(赤沢史朗「紀元節」『世界大百科事典』CD-ROM版、1998年)。

 さらに、紀元前660年という年代が問題である。『日本書紀』による古代の天皇の在位年数は、おしなべて異常に長い。たとえば神武天皇は在位76年、数え年127歳で死去。第6代孝安天皇は在位102年、137歳で死去。第11代垂仁天皇は在位99年、140歳で死去、といった具合である。それどころか記事中に矛盾があるものもあって、たとえば第12代景行天皇は在位60年、106歳で死去したとされているが、立太子時の年齢と照合すると、143歳だとしないとつじつまが合わない。要するに、在位年数があからさまに不自然に引き伸ばされているのである。したがって、仮に神武天皇(に該当する人物)が実在したとしても、その時代は紀元前660年よりもはるかに下った年代だと考えなければならない。結局のところ、神武天皇即位日をグレゴリオ暦の2月11日に特定する根拠は、存在しないのでする。

 さて、戦後、 GHQ/SCAP の介入により紀元節は祝日としての地位を失った。しかし、1951年(昭和26)にサンフランシスコ講和条約が調印されたころから、神社本庁などの保守・右翼勢力を中心とする紀元節復活運動が始める。

 「建国記念日」を追加する祝日法改正法案は提出と廃案を繰り返したあげく、1966年(昭和41)、祝日の名前を「建国記念日」とし、法律文中には具体的な日付を記載せず「政令で定める日」とすることで妥協がまとまり、1966年6月の改正で「建国記念の日」が追加された。その後に設置された「建国記念日審議会」は12月に「2月11日」とする答申を行い、第1次佐藤栄作内閣は昭和41年12月9日政令第376号「建国記念の日となる日を定める政令」[http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S41/S41SE376.html]により、「建国記念の日は、二月十一日とする」と決定したのである。

 このとき、自民党が当然のごとく2月11日を支持したのに対し、日本社会党は5月3日(1947年に日本国憲法が施行された日)、公明党は4月28日(1952年にサンフランシスコ講和条約の発効により日本の国家主権が回復した日)、民社党は4月3日(推古天皇12年[604]、聖徳太子が憲法十七条を制定したとされる日。ただし、この日付は太陰太陽暦による)を主張、他に8月15日(終戦記念日=1945年)などを主張する向きもあった。(4月28日は奄美・沖縄では日本の主権から公式に切り離された「屈辱の日」だが、当時は沖縄「復帰」前であったこともあり、そのあたりのことはあまり問題にされなかったようである。)

 アメリカ人日本研究者のケネス・ルオフは「審議会は世論調査を実施したが、四七パーセント強の日本人が二月十一日を支持していた。もし二月十一日を建国記念日とすることに反対する人々が、一本化した代替案に結集できていれば、この日を祝日とるすことを阻止できたに違いない」(ルオフ/木村剛久+福島睦男〔訳〕『国民の天皇――戦後日本の民主主義と天皇制』岩波現代文庫、2009年、275頁)と指摘している。その通りではあろうが、そもそも、政府・自民党の用意した「2月11日に反対するのであれば代案を示せ」という土俵にうっかり乗ってしまった時点で、勝負は決してしまったというべきだろう。

 なお、神話上の建国の日をもって国家の祝日としている国は、日本のほか韓国(開天節=10月3日。紀元前2333年、檀君が古朝鮮を建国したとされる日。もとは太陰太陽暦だが現在は太陽暦で祝われている)だけである。もっとも、韓国は独立記念日にあたる光復節(8月15日。1945年に日本の植民地支配が終了した日。また、1948年に大韓民国が成立した日でもある)も祝日としている。

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2014年02月10日

資料:『日本書紀』による古代天皇の年齢

  • この表は、『日本書紀』と『古事記』が共通して記載する、推古天皇までの歴代天皇の年齢をまとめたものである。なお便宜上、神功皇后についても記載した。
  • この時期には「天皇」の称号はまだ存在していないと考えられているが、便宜上『日本書紀』に基づき「天皇」とする。
  • 天皇の代数・諡号は現行の『皇統譜』による。
  • 主として新編日本古典文学全集本『日本書紀』(小島憲之+他=校注、小学館、1994〜98年)を参照した。
  • 即位年と崩御年は西暦で記した。なお、これはあくまで『日本書紀』の記載をそのまま西暦に換算したものである。
  • 年齢は数え年である。『日本書紀』に崩御時の年齢が明記されているものについてはそのまま記し、生年や立太子時の年齢から算出可能なものについてはその旨を記した。
  • 「若干」(そこばく)は原文のママ。
『日本書紀』による古代天皇の年齢
諡号 即位年 崩御年 在位年数 年齢 年齢(『古事記』) 備考
1 神武 前660 前585 76 127 137
2 綏靖 前581 前549 33 84 45
3 安寧 前549 前511 38 57 49 立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは67歳となる)。
4 懿徳 前510 前477 34 77 45 立太子時の年齢から算出。
5 孝昭 前476 前393 83 114 93 立太子時の年齢から算出。
6 孝安 前392 前291 102 137 123 立太子時の年齢から算出。在位期間が100年を越える唯一の天皇。
7 孝霊 前290 前215 76 128 106 立太子時の年齢から算出。
8 孝元 前214 前158 57 116 57
9 開化 前158 前98 60 115 63 立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは111歳となる)。
10 崇神 前97 前30 68 120 168 立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは119歳となる)。『古事記』では最年長。
11 垂仁 前29 70 99 140 153 『日本書紀』では最年長(ただし景行天皇の項も参照)。
12 景行 71 130 60 106 137 立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは143歳となり、『日本書紀』では垂仁天皇を超えて最年長となる)。106歳とすると立太子時にはまだ生まれていないことになる。
13 成務 131 190 60 107 95 立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは98歳となる)。
14 仲哀 192 200 9 52 52 『古事記』『日本書紀』で一致。立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは53歳となる)。
- 神功 201 269 69 100 100 摂政。『古事記』『日本書紀』で一致。
15 応神 270 310 41 110 130 生年と合わない(生年からは111歳となる)。
16 仁徳 313 399 87 - 83 『水鏡』『帝王編年記』等110歳。
17 履中 400 405 6 70 64 立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは77歳となる)。『扶桑略記』『一代要記』等67歳。
18 反正 406 410 5 - 60
19 允恭 412 453 42 若干 78
20 安康 453 456 3 - 56
21 雄略 456 479 23 62 124 生年から算出。
22 清寧 480 484 5 若干 - 『神皇正統記』39歳、『水鏡』41歳、『皇代記』42歳。
23 顕宗 485 487 3 - 38 『一代要記』等48歳。
24 仁賢 488 498 11 - - 『水鏡』『本朝皇胤紹運録』等50歳、『帝王編年記』等51歳。
25 武烈 498 506 8 - - 『扶桑略記』『水鏡』18歳、『帝王編年記』『皇代記』等57歳、『天書』等61歳。
26 継体 507 531 25 82 43 『日本書紀』は在位年数を28年とする異伝を記す。
27 安閑 531 535 2 70 -
28 宣化 535 539 3 73 -
29 欽明 539 571 32 若干 - 『皇年代略記』63歳、『一代要記』62歳、『神皇正統記』81歳。
30 敏達 572 585 14 - - 『皇代記』『本朝皇胤紹運録』48歳、『扶桑略記』『愚管抄』24歳、『神皇正統記』61歳。
31 用明 585 587 2 - - 『皇年代略記』69歳、『神皇正統記』41歳。
32 崇峻 587 592 5 - - 平安期以降の史料に72歳または73歳とある。
33 推古 592 628 35 75 -
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2014年01月01日

2014年 あけましておめでとうございます

 昨年は個人的にはなにかと反省しきりな1年となってしまいましたが、本年こそは心機一転、いろいろ頑張りたいと思います。
 ……とりあえずいいかげん新しい本を書き上げようと思います。

 というわけで、本年もよろしくお願いいたします。
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2013年11月25日

歴史学系学会・関係者等による特定秘密保護法案関連声明

(このページは適宜更新します。)

久保亨・歴史学研究会委員長ほか「特定秘密保護法案に対する歴史学関係者の緊急声明」(2013年10月30日)
http://rekiken.jp/announcement201311.html
http://www.nihonshiken.jp/component/content/article/29-toppage/447-2013-11-22-06-49-49.html
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/movement/tokuteihimituhogohou_seimei20131105.pdf
http://www.jca.apc.org/rekkyo/data/etc/timefile/2013y/331030seimei.pdf
http://www.geocities.jp/doujidaisigakkai/announcements/announcement20131030.html
http://space.geocities.jp/japanwarres/
※歴史学研究会、日本史研究会、歴史科学協議会、歴史教育者協議会、同時代史学会、東京歴史科学研究会、日本の戦争責任資料センターの各代表、および宮地正人・国立歴史民俗博物館前館長による共同声明。賛同署名を募っている。 http://chn.ge/1hEH5WP

歴史学研究会委員会「特定秘密保護法案に対する反対声明」(2013年11月1日)
http://rekiken.jp/appeals/appeal20131101.html

日本アーカイブス学会「「特定秘密保護法案」に対する意見表明」(2013年11月15日)
http://www.jsas.info/modules/news/article.php?storyid=148

歴史科学協議会「特定秘密保護法案の廃を求める総会決議」(2013年11月16日)
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/movement/2013soukaiketugi_tokuteihimituhogohouann.pdf

久保亨・歴史学研究会委員長ほか「特定秘密保護法に反対する歴史学関係者の第2次緊急声明」(2013年11月22日)
http://rekiken.jp/announcement201311.html
http://www.geocities.jp/doujidaisigakkai/announcements/announcement20131122.html
※歴史学研究会、日本史研究会、歴史科学協議会、歴史教育者協議会、同時代史学会、東京歴史科学研究会、日本の戦争責任資料センターの各代表、および宮地正人・国立歴史民俗博物館前館長による共同声明。

日本科学史学会「「特定秘密保護法案に対する歴史学関係者の緊急声明」に関して」(2013年11月25日)
http://historyofscience.jp/?p=1798
※上掲「特定秘密保護法案に対する歴史学関係者の緊急声明」および「第2次緊急声明」への賛同声明。
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2013年11月23日

日本近海で海底火山の噴火により新島が出現した事例

 簡単なメモとして。

 安永8年(1779)に始まった桜島の噴火で、約1年間にわたる海底火山の活動により、桜島の北方に次々と新島が誕生した。この島々は「安永諸島」と呼ばれる。特に、最大の島である新島(しんじま)は、浸食が続いているものの現存している。
 なお、これ以前、文明8年(1476)の噴火で、沖小島・鳥島が出現したともいわれている。
http://goo.gl/maps/RMzXu

 1933年(昭和8)1月26日、千島列島でラッコの保護・取締のための調査航海を行っていた農林省の白鳳丸は、阿頼度島(アライドまたはアライト。現在のアトラソフ島)の東方で、海底噴火により新島が出現しているのを発見した。この島は、白鳳丸船長・武富栄一の名をとって「武富島」(たけとみとう)と命名された(沖縄県八重山列島の「竹富島」と混同しないように注意)。その後、アライト島とは砂州で陸続きとなっている。
(1952年発効のサンフランシスコ講和条約により日本は千島列島の領有権を放棄しているが、出現当時は日本領だったことから、便宜上ここで紹介する。)

 1934年(昭和9)に始まった鹿児島県南方の硫黄島(いおうじま)の火山活動で、海底火山の噴火により、1934年12月、硫黄島東方に新島が誕生した。この島は12月末にいったん消滅したが、翌1935年1月に再出現、「昭和硫黄島」と命名された(別名「硫黄新島」「新硫黄島」。後述する火山列島の新硫黄島と混同しないように注意)。
http://goo.gl/maps/Byh5k

 1973年(昭和48)5月、小笠原諸島西方の西之島東方沖で海底火山の活動が始まり、9月に新島が出現、12月に海上保安庁により「西之島新島」と命名された。翌1974年3月、新島が西之島本島と陸続きになったことが確認された。
 西之島の新島部分はその後の浸食で縮小したが、2013年(平成25)11月20日、西之島のさらに南東約500m沖の地点に新島が噴出したことが確認された。


 以下は、新島出現後、短期間で消滅した事例。

 1870年(明治3)、伊豆諸島南方の須美寿島東方で海底火山の噴火により新島が出現したとされ、「火山島」と命名された(ややこしいが、島の名前が「火山島」 Volcano island)。この島は高さ40フィートだったとされる。1872年にも目撃報告があるが、1880年(明治13)以来再三の調査にもかかわらず再発見されず、1896年(明治29)3月29日付で海図から削除されている。海底火山の活動によって出現した一時的な新島だったとも、須美寿島ないしベヨネース列岩の位置誤認ともいわれる。

 1904年(明治37)12月5日、小笠原諸島・火山列島の南硫黄島北東沖で、海底火山「福徳岡ノ場」の活動により新島が形成されているのが、硫黄島の住民により発見された。硫黄島民は翌1905年(明治38)2月にこの島の上陸調査を行い、「新硫黄島」と命名している。しかし、その後短期間のうちにこの島は消滅した。
 1914年(大正3)1月25日、新硫黄島は再出現した。しかし、この島も1916年6月までに消失した。
 1986年(昭和61)1月18日、福徳岡ノ場の活動が確認され、20日には新島の3度目の出現が確認された。しかし、この島は3月末までに消失した。
 福徳岡ノ場は最近では2005年7月、2010年2月に噴火している。

 1946年(昭和21)2月、伊豆諸島南方のベヨネース列岩東方に新島が出現していることをイギリス軍艦ウラニア号が確認し、「ウラニア島」と命名した(Urania. 「ウラヌス」 Uranus とする文献あり)。しかしこの新島は同年12月には消滅した。
 1952年(昭和27)9月17日、カツオ漁船・第十一明神丸が同じ海底火山の活動による新島を発見、海上保安庁水路部は発見船にちなみ「明神礁」と命名した。この新島は9月23日に消滅。10月に新島が再出現するが、翌1953年3月に消滅。4月に3度目の新島が出現するも、9月に消滅。以後も火山活動は続いているが、新島の形成は確認されていない。
 これ以前にも1870年(明治3)と1896年(明治29)に新島を形成したとする文献があるが、詳細は不明。
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2013年11月20日

「望夢楼」18周年

18周年を迎えました。
最近はなかなか更新もできない状況なので申し訳ない限りですが、今後ともよろしくお願いする次第です。
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2013年06月17日

平泉澄「この刀によって私は陸軍というものを鍛え直した」

 先日の「平泉澄と仁科芳雄と石井四郎」(6月6日)について、以下のブログでご紹介をいただいた。そこでは、有馬学氏からの伝聞として、問題の平泉澄インタビューでの、平泉本人の無茶苦茶な言動が紹介されている。

 ……で。

 先日、国立国会図書館に行ったついでに伊藤隆氏の回想録『日本近代史――研究と教育』(私家版、1993年1月序)を確認してみたところ、平泉澄インタビューについての記述が出てきたので、その箇所を紹介しておく(伊藤氏は当時、東京大学文学部助教授。[…]内は引用者註。強調は引用者による。以下同じ)。

 [昭和]五三年度[1978]は、斯波義慧氏や茅誠司元総長などの聞き取りを行い、また福井県まで出張して、平泉澄氏の聞き取りを行った。平泉氏はとにかく権威主義で、満洲事変以後について話されたときに、「これから私が日本を指導した時代についてお話します」と始まったのにはやりきれなかった。また陸大での講義の時に「これが大和魂である」と言って日本刀をすらりと抜いてという話の際に、予め奥さんに用意させていたらしい日本刀を実際に我々の目の前で抜いて見せたのには私は鼻白む思いであった。しかし酒井氏[酒井豊=当時、東京大学百年史編集室員]を初め若い諸君は面白がって、酒井氏などは「先生ちょっとそのまま」とか言って、平泉氏もポーズをとり、写真撮影をしたが、これも私には予想外の出来事であった。二日間正座で聞かねばならぬ「お話」が終わってお茶になった時に、奥さんが「主人は血圧が高いのに、テレビのプロレスが好きで困ります」という話をされ、私が平泉氏に「どうしてプロレスがお好きですか」と開いたら、「隠忍に隠忍を重ねて、最後にパッと相手を倒すという所が日本精神に通じる」と答えたので、私はその稚気に溜飲が下がったような気がした。とにかくこれまでにない奇妙な聞き取りであった。[伊藤隆『日本近代史――研究と教育』私家版、1993年序, pp. 293-294.]

 「陸大」(陸軍大学校)とあるのは伊藤氏の記憶違いで、陸軍士官学校が正しい。インタビュアーの前でわざわざ日本刀を抜いて見せた、という話は、やはりインタビュアーの一人であった照沼康孝氏(当時、東京大学百年史編集室員)も回想の中で触れている。

 その他覚えているのは銀時計と刀である。銀時計はいわゆる恩賜の銀時計である。これについては、氏が卒業の際が行事があった最後であったと述べ、更に声を落して録音を止めるように言い、その理由として社会主義運動が盛んになり、天皇の暗殺計画が伝えられたためであると語った。これは初めて聞く話であったが、その真偽の程は今もって定かではない。刀は大振りの日本刀であった。どういう話からそうなったのか明確に思い出せないが、陸軍士官学校へ話をしに行った際に持参し、この刀のようになれと言ったとのことであり、その刀を持って来て我々の眼の前で抜いて見せてくれた。かなり重そうであり、少々鈍く光る刀であった。[照沼康孝「百年史編集室と私」『東京大学史紀要』第6号、東京大学史史料室、1987年3月, pp. 98-99.]

 前段の天皇暗殺計画云々についての真偽は不明。

 この場面、当のインタビューでは次のようになっている。なお、平泉が陸軍士官学校での初講義を行ったのは、1934年(昭和9)4月16日である(若井敏明『平泉澄』ミネルヴァ書房、2006年, pp. 209-210)。

そのときに私は刀を持って行った。大刀をひっさげて行って、東条さん[東條英機=当時、陸軍士官学校幹事]にちょっと会釈をして壇にのぼり、演壇上に刀を置いて話を始めた。
 この刀は終戦後、人に預けてこちらへ帰ったものだから、預かってくれた人が進駐軍を怖がって、これを土中へ隠した。それで刀が少し崩れましたわい。文久二年十二月[1863年1〜2月]、二尺五寸[約 75.8cm]、大刀ですわ。これをひっさげて行ったんです。そして壇上でこれを抜いた。陸軍よ、この刀のごとくにあれ。第一に強くあれ、戦争に負ける陸軍を見たくはない。戦えば必ず勝てり。いかなるものでも手向うものをたたき斬るその力を持て、弱き陸軍をわれわれは見る気がしない。この刀は何ものをもたたき斬るんだ。その武力を持て。第二に陸軍よ、その武力をなんじの私の意思によって発動するものではないぞ。陛下の勅命によって動け。私の意思を遮断するこの刀を見よ、ここに「山はさけ海はあせなん世なりとも君にふたごころわがあらめやも。」これは将軍[源]実朝の歌ですが、すべては陛下によって決する、それ以外私の意思によって動かしてはならん。それはみんなが何とも言えぬ驚きだったんです。
 当時はみんな陸軍を恐れておった。五・一五や満州事変からあとはそうでしたが、その陸軍に対して大喝一声これをやった。この刀によって私は陸軍というものを鍛え直した。世間の知らんものは、私が陸軍と結託し、また阿諛して威張っているようなことをいう。そんなものではない。陸軍が私を畏れ敬った。
 これは土中に置いたために刃が崩れたんですが、明治維新直前の日本精神の生粋ですわ。文久二年というちょうどそのときが。この刀自体はたとえ刃が少し欠けても、歴史的な意味では昭和の日本史の中で重要な働きをしたんですよ。[「平泉澄氏インタビュー(5)」『東京大学史紀要』第18号、2000年3月, p. 65.]

 ……「83歳の老人が、遠くからわざわざ昔話を聞きに来てくれた、自分の孫ぐらいの年配の後輩たちに向かって、思い出の日本刀を抜き出して見せて自慢した」というのは、なんとか笑い話で済ませてもよさそうだが、「39歳で博士号を持つ東京帝国大学助教授が、陸軍士官候補生たちの前で、抜き身の日本刀を構えて『陸軍よ、この刀のごとくにあれ』と大見栄を切ってのけた」というのは、さすがに笑えない。

 ただしこの講義、じつは重要なのは後段の「すべては陛下によって決する、それ以外私の意思によって動かしてはならん」というところにあったらしい。つまり、満洲事変以後表面化してきた出先機関の独断専行や青年将校の暴走を抑える、というところに、真の意図があったようである(若井『平泉澄』参照)。もっとも、だとすればその意図は必ずしも成功したとはいえない。平泉は1936年(昭和11)の2・26事件を防ぐことはできなかったし、1945年(昭和20)の宮城事件に至っては、首謀者である畑中健二・竹下正彦・井田正孝らは、いずれも平泉澄の門下生だったからである。

 また「日本を指導した」云々であるが、それに近い発言もインタビュー中に登場する。

 平泉澄は1932年(昭和7)12月5日、昭和天皇に「楠木正成の功績」という題目で進講を行った。この内容について、原田熊雄『西園寺公と政局』(1936年8月7日)には、湯浅倉平内大臣(1874-1940, 在任1936-40)が「後醍醐天皇を非常に礼讃して、いかにも現実の陛下に当てつけるやうな話し方」で「陛下はあんまりおもしろく思つておいでにならなかつたらしい」と語っていた、とある。もっとも、湯浅は「木戸[幸一]も「実につまらないことを申上げたものだ」と言つてをつた」と語っていたというが、当の『木戸幸一日記』(1932年12月5日)には、木戸自身は「感銘深く陪聴した」とある(以上、若井『平泉澄』, pp. 198-201 参照)。少なくとも、原田熊雄や湯浅倉平あたりからは煙たがられていたが、湯浅の後任者である木戸幸一からは好意的に見られていたようだ。それはともかく、その後の状況について、平泉は以下のように語っている。

 ところが、これが世の中に与えたのは、とにかく平泉というものが非常に重いものになってしまった。陛下の御前に呼び出されたことによって非常に重くなった。大ぜいの陪聴者がそれぞれの感銘を持って帰って、何かの機会にむしろ喜んで話をしたでしょうね。宮中のことは外へもれないはずなんだけれども大体のことがもれてしまった。
 そこで今度はみんな私の話を聞きたいという。宮中のことは別にして、どういうふうに考えるか、日本はどうなるんだ、どうすべきかということを、みんな尋ねてくるようになった。そこで初めて私は本格的に働けるようになったんです。実質上、日本の指導的な地位に立ち得たんです。[…]日本中そのときはどうしていいかわからなかったわけです。政治、軍事、教育、学問、どういう方向にいったい日本は向かうべきであるのか、だれも見当がつかない。それをこうだということを、私が確信を持って断定し得る力は、ドイツ、フランスで養われたし、そしてそれを言い得る地位は実は陛下によって与えられた。陛下が与えてくださったご意思ではないにせよ、実質上はそこにおいて私がそういう立場を確保した。[「平泉澄氏インタビュー(5)」『東京大学史紀要』第17号、1999年3月, p. 122.]

 よく考えると、要は「御進講がきっかけで名が知られ、話を聞きに来る人が増えた」という話である。が、これが平泉の解釈では「日本の指導的地位に立った」ということになるらしい。

 こういうと誇大妄想めいて聞こえるのだが、ただ、平泉が政界や軍の上層部と親しかったのは事実で、特に近衛文麿からはブレーンの一人として扱われていた節がある(この辺りの事情についても、若井『平泉澄』を参照)。『西園寺公と政局』では、「平泉といふ人はもう学者仲間からはまるで相手にされないで、今は或る程度まで実際の政治活動に携はつてゐるといふことである」などと言われているが、具体的に何をやっていたのかは、いまひとつよくわかっていない。もっとも、海軍条約派の岡田啓介・米内光政・井上成美といった面々からは嫌われていたらしく、また内務省・文部省方面とも疎遠で、そのため教育への影響力も限定的であったのであるが。

posted by 長谷川@望夢楼 at 07:37| Comment(0) | TrackBack(1) | 歴史学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月06日

平泉澄と仁科芳雄と石井四郎

 手元の資料を整理していたらこんなものが出てきた。

  • 「東京大学旧職員インタビュー(3) 平泉 澄氏インタビュー(6)」『東京大学史紀要』第17号(東京:東京大学史史料室、2000年3月)

 東京大学百年史編集室(現・東京大学史史料室)が1978年11月に平泉澄(ひらいずみ・きよし、1895〜1984)に対して行った聞き取りで、平泉の没後、『東京大学史紀要』第13〜17号に掲載された。平泉は元東京帝国大学文学部国史学科教授で、戦時下において独特の国体論的歴史学を展開したことで知られる。インタビュアーは伊藤隆・酒井豊・狐塚裕子・照沼康孝の4名である。したがって、終戦から33年経った時点での、満83歳の老人による回想である、ということはいちおう注意しておきたい。

 そのインタビューの結末近くで、平泉はこんなことを語っている([…]内は引用者註)。

[…]世界は大動乱に陥り日本は大国難に遭遇するということを私は看破して、欧州滞在を切りあげて帰る、前から日本は大変なことだと思っていたが、いよいよそれがせっぱ詰まってきて帰るでしょう。同じ時にヨーロッパにおって、これは大変だということに気がついて、そこで対策を講じなくてはならないと考えたものが、私のほかに二人ある。これが世にも不思議なことに、全部大正七年[1918]の東大卒業生です。[…]
 そのときに出た一人は仁科芳雄。これが理工科の銀時計です。欧米へ行って、原爆をもって国を守る以外にはないということを考える。もう一人は石井四郎陸軍中将。これは石井部隊ですが私と四高[第四高等学校=現・金沢大学]で同期生ですが、厳密にいうとこの人は医学部だから昭和八年東大の卒業だと思うんですが、仁科さんもわれわれも大正七年には東大におったんです。
 この三人は連絡はないんです。私は仁科さんは知らん。石井さんは知っておったが、石井が偉い男だということは知らなかった。[…]
 そのうちに石井さんの本当のことを全部私は知ってね。これは大変なことだと思った。化学兵器をもって国を守るんです。陸軍の最後の手段はこれだった。非常に厳重にこれは秘匿されておった。しかし、いよいよ戦局が急迫したとき、私は石井さんを訪ねた。陸軍大臣には会えても石井さんには会えないというくらい全部守られておる。それを石井さんに連絡したら、おいでなさい、話しておくということで会いに行きましたわい。全く隔離されたところで、厳重な警戒のうちにおる。会って石井さんが言うには、あなたはみんな知っておるんだから隠すことはしない、みんな話しする。おれのところで考えておることはこれだけだというんで、全部の計画、準備、設備、みんな話をしてくれた。石井さん、いざというときは頼むぜというので、非常にこれは自分には頼みになった。
 もう一つの原爆のほうも頼みにしたんですが、これは貴族院でたびたび長岡半太郎氏がしゃべった。あれがよけいなことをしゃべった。やるのなら黙ってやればいい、できもしないものをしゃべるというのはよけいなことなんです。よけいなことを言われたなと思いますが、これは結局できずに終わった。
 そのときに仁科さんの下におった人が二人ばかり、この春、テレビに出たんですが、その話を聞いて私は非常に憤慨したんです。われわれは仁科博士の下で原爆の研究に従事したけれども、それは原爆をつくって実戦に用いようという意図ではなかった。自分らがこのことに関係しておったのは、いかにして陸軍の徴兵を免れかるかということを考えて、そのためにここに入っておったのだ。研究するものは理論を研究したのであって、実際には関係しておらんと繰り返し言ったんです。それはどこまで本当なのか、今の時世に媚びて言ったのかわしはわからん。しかし、事実は何もできなかったんです。当時、もう一週間早ければできたというが、事実はそんなものではありません。五十年も遅れていたんですと言いました。いまさら何を言うかと思いましたがね。本当に自分の命を捨てる気のないものは、こういうことになるんです。石井さんのほうは用意しておったが、これは陛下のお許しがないので、とうとう行われない。そこで何とかしてふつうの兵器で戦って、いわゆる逆転を私はやりたい。私はプロレスが好きでね。猪木がさんざん負けて、これはあかんかと思うと、彼は逆転する。それは何とも言えぬ楽しみですわ。それはどんなに負けても最後の一戦で勝てば、終わりよければ万事よしなんです。それで回天でも何でも一生懸命やった。[pp. 76-78.]

 ……どうやら平泉澄はアントニオ猪木信者だったらしい。

 三人の略歴を簡単に示しておこう。

 平泉澄(ひらいずみ・きよし、1895〜1984):1918年東京帝国大学文科大学国史学科卒業。1921年東京帝国大学文学部講師、1926年文学博士(東京帝国大学、「中世に於ける社寺と社会との関係」)、同助教授。1930〜31年ヨーロッパで在外研究。1935年同教授、1945年辞任。1948〜52年公職追放。著書『中世に於ける精神生活』(1926)・『我が歴史観』(1926)・『闇斎先生と日本精神』(1932)・『菊池勤王史』(1941)・『少年日本史』(1970)・『悲劇縦走』(1980)他多数。

 平泉は1930年3月に在外研究のため渡欧するが、2年計画のところを1年3ヶ月で切り上げ、満洲事変の直前に帰国している。若井敏明『平泉澄』(ミネルヴァ書房、2006年)によれば、滞欧中の1931年4月にスペインで無血革命が起きて王制が廃止されたことにより、共産主義や革命への危機感を感じて帰国したものという。

 仁科芳雄(にしな・よしお、1890〜1951):1918年東京帝国大学工科大学電気工学科卒業。1921年(財)理化学研究所(理研)研究員。1921〜28年イギリス、ドイツ、デンマークで在外研究。1930年理学博士(東京帝国大学、「錫(50)よりタングステン(74)に至る諸元素のL吸収スペクトル並に其の原子構造との関係に就て」)。陸軍・理研の原爆開発計画「ニ号研究」に従事。1946年理研所長、1948年理研解散にともない(株)科学研究所社長。

 「銀時計」というのは、東京帝国大学の成績優秀者に対して卒業時に天皇から授与される「恩賜の銀時計」のことで、平泉と仁科が卒業した1918年まで実施されていた。なお、平泉自身も授与を受けている。

 石井四郎(いしい・しろう、1892〜1959):1920年京都帝国大学医学部卒業。1927年医学博士(京都帝国大学、「グラム陽性双球菌に就ての研究」)。1928〜30年海外視察。1931年陸軍軍医学校教官。1932年、軍医学校内に防疫研究室を設立。1936年、関東軍防疫部(のち防疫給水部=満洲第731部隊)を編成し細菌兵器の研究に従事。1942年北支那方面軍第一軍軍医部長に転出するが、1945年軍医中将に昇任し防疫給水部長に復帰、直後に終戦。

 さて、上述した略歴からも明らかなように、このインタビューにはいくつか基本的な事実誤認が含まれている。まず、平泉と石井が同じ旧制第四高等学校の出身なのは事実だが、石井が東大出身というのは平泉の勘違いで、卒業年次も異なる。ついでにいえば、細菌兵器が専門の石井が「化学兵器をもって国を守る」というのも少々おかしい。また、仁科は世界恐慌が始まる前の1928年12月に帰国しており、1930年3月に渡欧した平泉とは時期的にズレがある。さらに、仁科が渡欧中に「原爆をもって国を守る以外にはないということを考え」た、というのもおかしい。原子爆弾の製造可能性がSFではなく現実的問題として取り沙汰されるようになるのは、1938年にオットー・ハーンとフリードリヒ・シュトラスマンが核分裂を発見して以降のことだからである。要するに、「大正七年の東大卒業生」3人が「同じ時にヨーロッパにおって……対策を講じなくてはならないと考えた」という話は、平泉澄の思い違いの産物にすぎないのである。

 また、「貴族院でたびたび長岡半太郎氏がしゃべった」という事実もない。確かに、戦時中の貴族院で、原子力が軍事利用できる可能性について触れた科学者議員はいる。しかし、それは長岡半太郎(1865〜1950)ではなく、田中舘愛橘(たなかだて・あいきつ、1856〜1952)である(第84回帝国議会貴族院本会議、1944年2月7日)。なお、昭和天皇が化学兵器の使用を止めさせた、という話の裏付けはとれなかった。実際のところ、日本軍が化学兵器を使わなかった理由は、報復攻撃を恐れたことが大きいと言われており、その恐れの少ない中国戦線ではしばしば使用していたことが知られている。

 晩年のインタビューにおける放言めいた発言であり、当然、記憶違いもあるであろうことは割り引いておく必要があるものの、ずいぶんいい加減な話ではある。

 末尾の「回天」は人間魚雷の「回天」のこと。平泉は、このインタビューの中で、「回天」の発案者の一人である黒木博司海軍大尉(1921〜44。「回天」試験中に事故死、少佐に特進)のことを「私の最愛の門下」と呼んでいる。

 さて、この話からは、平泉の認識を以下のように整理することができそうだ。

  1. 平泉澄は、日本の勝利のためなら核兵器や生物・化学兵器の使用も許される、と考えていたらしい。
  2. 平泉澄は、自分の言動が核兵器や生物・化学兵器の研究開発と同列に並べられるものだ、と考えていたらしい。
  3. 平泉澄は、秘密兵器による一発逆転勝利、などというマンガ的(プロレス的?!)な話が、現実的な話だと考えていたらしい。(しかも、その秘密兵器の具体例が特攻兵器。)

 なお、「本当に自分の命を捨てる気のないものは、こういうことになる」という発言の意味はいまひとつ明らかでないが、もし「だから原爆を完成させることができなかった」という意味であれば、「そんな精神論を言っているから戦争に勝てないんだ」とでも答えておけばよさそうである。

 そもそも、平泉の専門は日本中世史で、軍事に関する専門的著作は特にないはずなのだが、平泉はこのインタビューの中で、陸軍士官学校での講義などを通じて軍人に自分の信奉者が多かったことを自慢げに述べ、「私は陸軍というものを鍛え直した」「陸軍が私を畏れ敬った」などと豪語する。そして岡田啓介(1868〜1952)、米内光政(1880〜1948)、宇垣一成(1868〜1956)らが、東京裁判の主席検察官ジョゼフ・キーナンから平和主義者と称賛されたことを非難した上で、次のようなことを語っている。

実戦しておると、わしのところへくるよりほかはないわけです。米内[光政]さんなどは戦争に一ぺんも出たことがないし、岡田[啓介]さんも宇垣[一成]さんも実戦には出たことがない。実戦をやってみると彼らが地図で考えているようなものではない。下の人はみんな私によって動くというくらいの勢いなんです。それが海軍としては非常な不幸でしたね。陸軍は上層部もみな私を信頼してくださり、言っては悪いけれども東条[英機]さんでも小畑〔敏四郎〕さんでもそうですが、あとでいえば陸軍大臣阿南[惟幾]大将、これは入門願書を出されたんですよ、私に対して。それから下村大将が最後ですがね。手紙には最末の門人、下村定と書いてありますよ。全然態度が違うんです。[p. 76.]

 日露戦争(1904〜05)中、岡田啓介は装甲巡洋艦「春日」副長として日本海海戦などに参加しているし、米内光政も海軍中尉として駆逐艦「電」(いなづま)に乗り込んでいる。また宇垣一成も陸軍第八師団参謀として出征している。岡田は日露戦争のみならず日清戦争にも第一次世界大戦にも従軍した歴戦の将である。その三人を「実戦には出たことがない」と勝手に決めつけ、自分のほうが戦争のやり方をよく知っている、などと言い出すのだからまことに恐れ入る。むしろ、東條英機(1884〜1948)以下陸軍上層部が、こんな程度の軍事知識の持ち主を「信頼」していたとすれば、そっちの方がはるかに問題だろう。

 ……いや、もちろん、平泉の回想が正確なら、という話だが。

posted by 長谷川@望夢楼 at 09:26| Comment(2) | TrackBack(1) | 歴史学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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