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たびたび登場していただいている平泉澄の『少年(物語)日本史』より。
(※『少年(物語)日本史』については2005年10月3日「「動物園の猿の子が、人になって生れてきた例がありますか」」 http://clio.seesaa.net/article/7629186.html 、平泉澄については2013年6月6日「平泉澄と仁科芳雄と石井四郎」http://clio.seesaa.net/article/365379599.html 、6月17日「平泉澄「この刀によって私は陸軍というものを鍛え直した」」 http://clio.seesaa.net/article/366604713.html 、神武天皇即位紀元については2014年2月10日「資料:『日本書紀』による古代天皇の年齢」 http://clio.seesaa.net/article/387977700.html 、2月11日「「建国記念の日」の基礎知識」 http://clio.seesaa.net/article/388018490.html 、2月15日「『開化問答』の祝祭日問答」 http://clio.seesaa.net/article/388710217.html も参照。)
世界各国各民族、あるいは各宗教に、いろいろ紀元が立てられていますが、そのどれを見ても、正確に事実を実証し得るものは、ほとんでありますまい。今年昭和四十五年は、それらの紀元では、次のようになります。
インド教暦紀元 二〇二六年 回教暦紀元 一三四九年 フリーメーソン紀元 五九七〇年 ユダヤ紀元 五七三〇年 コンスタンチノープル紀元 七四七八年 アレクサンドリア紀元 七四六二年 マケドニア紀元 二二八一年 スペイン紀元 二〇〇八年 ペルシャ紀元 一三三九年 キリスト紀元(西暦) 一九七〇年これを見て、どう思いますか。最後のキリスト紀元のほかは、歴史的事実としては、まず信用がむつかしいと思われるでしょう。ところがそのキリスト紀元すら、事実とは違うのです。すなわちそれはキリストの誕生を、紀元元年とする建前ですが、実はその計算に誤りがあって、キリストの生れたのは、紀元元年ではないのです。[平泉澄『少年日本史(上)』講談社学術文庫、1979年、37-38頁]
1970年が基準なのは、『物語日本史』がこの年の発行だからである。
この文章には少しおかしなところがある。よく見ると、「回教暦紀元」と「ペルシャ紀元」は「キリスト紀元」よりも値が小さい。つまり紀元元年の年代が新しい。それなのに、なぜ「最後のキリスト紀元のほかは、歴史的事実としては、まず信用がむつかしいと思われるでしょう」と言えるのだろうか。
平泉は、『日本書紀』に記された神武天皇の即位年代が不自然に古いことを認め、「皇紀は、事実よりも五、六百年延びている」ことを認めている。そして、西暦紀元前660年という年代が、中国起源の予言思想である讖緯説に基づく辛酉(しんゆう)革命説に基づいて算出されたことも認める。
辛酉革命説とは、干支が60年に一度の辛酉(しんゆう、かのと・とり)にあたる年には天命が革(あらた)まり、大変革が起こる、とする説である。
神武天皇の即位年代が辛酉革命説に基づく創作ではないか、とする説は、江戸時代の藤貞幹(とう‐ていかん、1732-97)や伴信友(ばん‐のぶとも、1773-1846)などにも見られるが、本格的には明治期に入ってから、那珂通世(なか‐みちよ、1851-1908)の「日本上古年代考」(1888年)によって確立された(星野良作『研究史神武天皇』吉川弘文館、1980年、他)。
平安時代の昌泰4年(901)、三善清行(みよし‐の‐きよゆき、847-918)は『革命勘文』を朝廷に提出し、この年が辛酉年にあたることから改元するように主張、朝廷はこれを受け入れて元号を「延喜」と改めた。日本での辛酉改元はこれが最初の例で、その後、永禄4年(1561)と元和7年(1621)の2回を除き、幕末まで続けられている。このとき清行が引用した『易緯』鄭玄註(鄭玄[じょうげん、127-200]は後漢代の学者)によれば、6甲(甲が6回=60年)が1元、7元×3=21元が1蔀(ぼう)で「合わせて1320年」(「合千三百廿年」)、これがひとつの大きな周期になっているという。清行はそこから、神武天皇即位から1320年後の斉明天皇7年(661年)が2蔀目の始まりだ、と見なした。しかし、正しく計算すると、1蔀は1320年ではなく1260年(60年×21)になるはずである。そこから那珂は、基準年は斉明天皇7年ではなく推古天皇9年(601年)であり、そこから遡って1260年前の紀元前660年が神武天皇の即位年に定められた、と考えたのである(那珂通世「上世年紀考」初出1897年、松島榮一〔編〕『明治文學全集 78 明治史論集(二)』筑摩書房、1976年、所収)。
平泉澄は、歴史学者としてこの那珂説を受け入れつつ、「我が国の古代史に、年の延びすぎがあっても、それは珍しいことではなく、かつまたそれは讖緯の説の責任であって、我が国の歴史自体の責任ではないのです。[…]そのような間違いが出るほど、我が国の歴史は古いので、それはむしろ楽しいことで、少しも心配する必要はないのです」(38頁)と主張する。つまり、悪いのは中国から渡来した讖緯説だ、というわけだ。その上で、事実ではないからといって神武天皇紀元(皇紀)を捨てるべきではない、と主張するのである。
それはともかくとして、いったい上に引用した表はなんなのだろうか?
とりあえず、逆算して元年を算出しておこう。
紀元 | 西暦1970年 | 元年 |
---|---|---|
インド教暦紀元 | 2026年 | 前57年 |
回教暦紀元 | 1349年 | 622年 |
フリーメーソン紀元 | 5970年 | 前4001年 |
ユダヤ紀元 | 5730年 | 前3761年 |
コンスタンチノープル紀元 | 7478年 | 前5509年 |
アレクサンドリア紀元 | 7462年 | 前5493年 |
マケドニア紀元 | 2281年 | 前312年 |
スペイン紀元 | 2008年 | 前39年 |
ペルシャ紀元 | 1339年 | 632年 |
キリスト紀元(西暦) | 1970年 | 1年 |
まずキリスト紀元から。イエス・キリストはユダヤ王ヘロデの治世に生まれたとされる(《マタイ福音書》2章)。ところがヘロデ王は紀元前4年に死去しているので、当然、イエスの生誕はそれ以前でなければならなくなってしまう。この紀元を考案したのは6世紀ローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスであるが、彼の決定した年代は、歴史的根拠というよりも神学的計算に基づいたものである。この辺りのややこしい事情については、岡崎勝世『聖書 vs. 世界史――キリスト教的歴史観とは何か』(講談社現代新書、1996年)に詳しい。
「インド教暦紀元」とあるのは、北インドで多く用いられる、紀元前57年を紀元とするヴィクラマ紀元のこと。ネパールではビクラム暦として公用暦となっている。ヴィクラマーディティヤという王がシャカ族との戦争に勝利した年を紀元にしたとされる。なお、ヴィクラマ暦での1年の始まりは、西暦でいう4月中旬である。他の暦法も1年の始まりが西暦とは異なるのだが、それを言い出すとややこしいことになるので、その点は割愛させていただく。
奇妙なのは「回教暦紀元」と「ペルシャ紀元」である。「回教暦」というのは622年を紀元とするヒジュラ暦のつもりだろう。「ヒジュラ」(ヘジラ、聖遷)とは、イスラームの教祖であるムハンマドが、622年にマッカ(メッカ)からヤスリブ(マディーナ、メディナ)に移り住んだ出来事のことである。しかし、 1970-622+1=1349 と計算したのならとんでもない間違いだ。ヒジュラ暦は1年を354日とする純粋な太陰暦なので、太陽暦の1年とは合わないのである。1970年はヒジュラ暦では1389/90年にあたる。一方の「ペルシャ紀元」はおそらくイラン暦(ヒジュラ太陽暦)のつもりなのだろうが、こちらの方こそ 1970-622+1=1349 でよいのに、なぜか10年少ない数字を出している。どうやら、平泉澄はイスラームの暦法についての基礎知識がなかったようだ。
「マケドニア紀元」とあるのは、紀元前312年を紀元とするセレウコス紀元と思われる。この年はアレクサンドロス大王の部下であったセレウコス(1世)が自立し、セレウコス朝を開いた年である。
「スペイン紀元」は中世のイベリア半島で用いられた紀元。紀元前38年を紀元とする。ローマのイベリア半島支配が本格的に始まった年とされる。
残りの「フリーメーソン紀元」「ユダヤ紀元」「コンスタンチノープル紀元」「アレクサンドリア紀元」は、いずれも『旧約聖書』にある天地創造を紀元元年とする暦法であり、「創造紀元」「世界紀元」などと呼ばれる。この年代に様々な説があったため、由来は同じなのにいくつもの紀元が生じてしまったのである。なお「コンスタンチノープル紀元」は一般にはビザンティン紀元と呼ばれることが多い。
――と、ここまで説明してきたことからも明らかなように、「キリスト紀元のほかは、歴史的事実としては、まず信用がむつかしい」というのは事実に反している。確かに天地創造紀元のたぐいは論外としても、セレウコス紀元やヒジュラ紀元は、少なくともキリスト教紀元よりは信憑性がある。おそらくこの表は、内容のいい加減さから見て、よく調べもせずにどこかから適当に引っぱってきたものなのだろう。
それにしても、「大東亜戦争はアジア解放のための戦いだった」などと主張している人物が、イスラームの暦法についてろくな知識もない(仏滅紀元やインドのサカ紀元に言及がないところからすると、その辺りも知らない)のはひどい――というと、いささか言い過ぎだろうか。
小川為治『開化問答』(明治7〜8年=1874〜75年刊)は明治初年に出された啓蒙書で、「旧平」氏が文明開化に対する不平不満を語り、それに対して「開次郎」氏がその認識の誤りを正し、文明開化のありがたさを説く、という内容の書物である。しかし、今日の目から見て興味深いのは、「旧平」氏の発言内容が、いかにも当時の保守的な老人なら言い出しそうなこと、という設定になっているため、逆説的に当時の民衆意識をある程度までうかがい知ることができる、という点である。まあ、あくまで知識人である著者(だと思われるのだが、経歴はよくわかっていない)が想像した「保守的な老人」、ということには注意しておく必要があるが。
あちこちで紹介されている話ではあるが、ここでは、その二編(1875年5月刊)にある、祝祭日についての問答を抜き書きしてみることにしよう。
なお、底本には明治文化研究会〔編〕『明治文化全集 第二十一巻 文明開化篇』(日本評論社、1993年復刻版)を用い、国会図書館デジタルコレクションで公開されている原本[二編巻上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798422 巻下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798423]を参照した。また、引用にあたっては読みやすさを考え、漢字表記や仮名遣い、送り仮名などを現代風に改めていることをお断りしておく。強調は引用者による。
まず、旧平の語る不満から。なお、本題は1873年(明治6)の太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦なのだが、長くなるので省略し、祝祭日についての箇所のみ抜き出したことをあらかじめお断りしておく。
これまで世間において旧来の暦を用いきたり、何一つ差支うることもなかりしに、何をもって先年政府において足辺より鳥のたつごとく急に太陽暦をとり用い、これをお廃しなさりしか、更に合点のゆかぬ次第でござる。[…]その上改暦以来は五節句・盆などという大切なる物日(ものび)を廃し、天長節・紀元節などというわけのわからぬ日を祝う事でござる。四月八日はお釈迦の誕生日、盆の十六日は地獄の釜の蓋のあく日というは、犬打つ童も知りております。紀元節や天長節の由来は、この旧平の如き牛鍋を食う老爺というも知りません。かかる世間の心にもなき日を祝せんとて、政府より強いて赤丸を売る看板のごとき幟(のぼり)や提燈(ちょうちん)を出さするはなおなお聞けぬ理屈でござる。元来祝日は世間の人の祝う料簡が寄り合うて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日を強いて祝わしむるは最も無理なることに心得ます。
天長節は現在の「天皇誕生日」(当時は明治天皇の誕生日である11月3日)、紀元節は現在の「建国記念の日」(2月11日)にあたる祝日である。
「物日」は祝祭日のこと。「五節句」(五節供)は人日(じんじつ=正月7日)・上巳(じょうし=3月3日)・端午(たんご=5月5日)・七夕(しちせき=7月7日)・重陽(ちょうよう=9月9日)。いずれも中国起源の祝祭日であるが、明治6年太政官布告第1号(1873年1月4日)[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787953/75]により公式に廃止されている。旧暦4月8日は釈迦の誕生日、すなわち灌仏会(かんぶつえ。仏生会・誕生会・降誕会・龍華会・浴仏会・花祭などとも呼ぶ)。北伝(大乗)仏教ではこの日とされているのだが、その歴史的根拠は明確ではない。
さて、これに対する開次郎の反論は、というと――
元来愚癡(ぐち)[おろか]なる人物は道理の真偽にかかわらず、ただ古来よりのしきたり・ならわしをのみ信仰して、いかほどよき事柄にても新しく思う事へは容易に移らざる者でござる。さりながらこの愚癡なる人の料簡にのみ任せおきては、とても世の中が文明開化の場所に至ることあたわざるゆえ、世間を文明開化にせんと思う政府は、まず世人の迷執を打破り万民の耳目を新たにせざればかなわぬわけにて、これ五節句・物日などをお廃しなされし次第でござる。全体足下の論ぜらるる所の五節句などという日の大本を穿鑿(せんさく)すれば、みなわけもなき日にて、祝うべき筋は少しもないわけでごさる。かくの如き日を祝わんためにこれまで家業を休み、上下を着用してありがたそうにおめでとうござります。恐悦にぞんじますなどと騒ぎまわりたるは実に小児遊びのようにて、今更笑止千万にぞんじられます。そこで、ただ今祝日として用いる所の紀元節は、神武天皇様の始めて天子様の御位に即しられ日なり、天長節とは今の天子様の御誕生日の事にて、実にこれ等の日は日本に生れたる人の必ず大切に祝うべきはずの日でござる。ゆえに政府にて一年中よりかかる貴き日五日を撰み出し、これを祭日に定め、世間一般に祝う事となされたるわけでござる。
これは啓蒙書なので、旧平は結局、「一々肝に銘じ感心いたしました」「この旧平一言の異論もござりませぬ」と、あっさりと引きさがってしまう。
「五日」とあるが、明治6年太政官布告第344号(1873年10月14日)[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787953/335]で定められた祝祭日は、元始祭(1月3日)・新年宴会(1月5日)・孝明天皇祭(1月30日)・紀元節(2月11日)・神武天皇祭(4月3日)・神嘗祭(9月17日)・天長節(11月3日)・新嘗祭(11月23日)の計8日である。祭日だけを数えて5日としたのかもしれないが、それでは祝日である紀元節と天長節は入らなくなってしまう。
この中には、神嘗祭や新嘗祭のように長い歴史のある祭祀もあるが、たとえば神武天皇祭は元治元年(1864)、天長節は慶応4年(明治元年、1868)、元始祭は明治3年(1870)、そして紀元節は1873年(明治6)にそれぞれ新設されたものである(天長節は古代に行われた時期もあるが、事実上明治の新設といえる)。さらに、近代的な教育制度もまだ始まったばかりにすぎない。つまり、これらを旧平が「わけのわからぬ日」「由来は…知りません」と言うのも、無理もない話なのである。それにしても、開次郎の「大本を穿鑿すれば、みなわけもなき日にて」という言葉は、明治政府による祝祭日にもそのままはね返ってきかねないのだが……。
なお、五節句は、明治政府による廃止命令の後も、農村部を中心に残り続けた。明治政府の国定祝祭日が学校教育などを通じて定着するようになるのは、日露戦争(1904〜05)以後のことといわれている(有泉貞夫「明治国家と祝祭日」『歴史学研究』第341号、1968年10月)。
ちょっとしたメモ書きとして――。
「建国記念の日」は1966年(昭和41)の「国民の祝日に関する法律」(祝日法)改正で新設された祝日で、「建国をしのび、国を愛する心を養う」日とされている(「建国記念日」ではなく「建国記念の日」である。お間違えなきよう、念のため)。その起源は、1873年(明治6)に始められ、1948年(昭和23)祝日法の公布・施行とともに廃止された「紀元節」であり、もともとは初代天皇とされる神武天皇の即位を記念した祝日であった。
ところで、なぜ2月11日が神武天皇即位の日なのか。
『日本書紀』巻第三に
辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮
(辛酉年の春正月の庚辰の朔に、天皇、橿原宮に即帝位[あまつひつぎしろしめ]す)
とある。つまり神武天皇は辛酉年の1月1日(旧正月)に即位したことになる。当然ながら、この暦は中国や日本で用いられていた太陰太陽暦であり、西暦(グレゴリオ暦)との間には1〜2ヶ月程度のズレがある。
この辛酉年は西暦に直すと紀元前660年である。それでは辛酉年正月一日を西暦に直すと紀元前660年2月11日なのか、というと、話はそう簡単ではない。
太陰太陽暦では、朔(新月)の日を月の1日とし、次の朔までの間を1月とする。月の満ち欠けの1周期(朔望月)は約29.53日なので、1ヶ月は29日(小の月)ないし30日(大の月)となる。12ヶ月をもって1年とするが、このままでは1年が約354日にしかならず、次第に季節とのズレが生じる。そのため、数年ごとに閏月を置いて1年を13ヶ月にすることで季節とのズレを調整する。大の月・小の月の順序や閏月の挿入には複雑な計算が必要になるため、さまざまな暦法が考え出された。つまり、使っている暦法によって、太陽暦との対応関係が違ってくるのである。
さて、明治5年(1872)11月15日太政官布告第343号[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787952/199]により、翌年からの太陽暦(グレゴリオ暦)施行に際して、1月29日を「神武天皇御即位相当」の日として祝日とし、さらに明治6年(1873)3月7日太政官布告第91号[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787953/112]でこの日を「紀元節」と呼ぶことにした。なぜ1月29日だったのかといえば、単純に、明治6年の旧正月が1月29日だったからである。
しかしその後、あらためて暦法を検討しなおした結果、明治6年10月14日太政官布告第344号[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787953/335]で、紀元節は2月11日に変更され、以後、この日に固定されることになった。
ただし、ここにはいくつかの問題がある。まず、「推古朝以前に関する《日本書紀》の暦法が紀元節設定当時には明らかではなかったので,神武天皇即位日とされた辛酉年正月元日を太陽暦に換算することは不可能であったはずであり,2月11日の日付は当時の学問水準に照らしても無根拠であった」(赤沢史朗「紀元節」『世界大百科事典』CD-ROM版、1998年)。
さらに、紀元前660年という年代が問題である。『日本書紀』による古代の天皇の在位年数は、おしなべて異常に長い。たとえば神武天皇は在位76年、数え年127歳で死去。第6代孝安天皇は在位102年、137歳で死去。第11代垂仁天皇は在位99年、140歳で死去、といった具合である。それどころか記事中に矛盾があるものもあって、たとえば第12代景行天皇は在位60年、106歳で死去したとされているが、立太子時の年齢と照合すると、143歳だとしないとつじつまが合わない。要するに、在位年数があからさまに不自然に引き伸ばされているのである。したがって、仮に神武天皇(に該当する人物)が実在したとしても、その時代は紀元前660年よりもはるかに下った年代だと考えなければならない。結局のところ、神武天皇即位日をグレゴリオ暦の2月11日に特定する根拠は、存在しないのでする。
さて、戦後、 GHQ/SCAP の介入により紀元節は祝日としての地位を失った。しかし、1951年(昭和26)にサンフランシスコ講和条約が調印されたころから、神社本庁などの保守・右翼勢力を中心とする紀元節復活運動が始める。
「建国記念日」を追加する祝日法改正法案は提出と廃案を繰り返したあげく、1966年(昭和41)、祝日の名前を「建国記念の日」とし、法律文中には具体的な日付を記載せず「政令で定める日」とすることで妥協がまとまり、1966年6月の改正で「建国記念の日」が追加された。その後に設置された「建国記念日審議会」は12月に「2月11日」とする答申を行い、第1次佐藤栄作内閣は昭和41年12月9日政令第376号「建国記念の日となる日を定める政令」[http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S41/S41SE376.html]により、「建国記念の日は、二月十一日とする」と決定したのである。
このとき、自民党が当然のごとく2月11日を支持したのに対し、日本社会党は5月3日(1947年に日本国憲法が施行された日)、公明党は4月28日(1952年にサンフランシスコ講和条約の発効により日本の国家主権が回復した日)、民社党は4月3日(推古天皇12年[604]、聖徳太子が憲法十七条を制定したとされる日。ただし、この日付は太陰太陽暦による)を主張、他に8月15日(終戦記念日=1945年)などを主張する向きもあった。(4月28日は奄美・沖縄では日本の主権から公式に切り離された「屈辱の日」だが、当時は沖縄「復帰」前であったこともあり、そのあたりのことはあまり問題にされなかったようである。)
アメリカ人日本研究者のケネス・ルオフは「審議会は世論調査を実施したが、四七パーセント強の日本人が二月十一日を支持していた。もし二月十一日を建国記念日とすることに反対する人々が、一本化した代替案に結集できていれば、この日を祝日とるすことを阻止できたに違いない」(ルオフ/木村剛久+福島睦男〔訳〕『国民の天皇――戦後日本の民主主義と天皇制』岩波現代文庫、2009年、275頁)と指摘している。その通りではあろうが、そもそも、政府・自民党の用意した「2月11日に反対するのであれば代案を示せ」という土俵にうっかり乗ってしまった時点で、勝負は決してしまったというべきだろう。
なお、神話上の建国の日をもって国家の祝日としている国は、日本のほか韓国(開天節=10月3日。紀元前2333年、檀君が古朝鮮を建国したとされる日。もとは太陰太陽暦だが現在は太陽暦で祝われている)だけである。もっとも、韓国は独立記念日にあたる光復節(8月15日。1945年に日本の植民地支配が終了した日。また、1948年に大韓民国が成立した日でもある)も祝日としている。
代 | 諡号 | 即位年 | 崩御年 | 在位年数 | 年齢 | 年齢(『古事記』) | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 神武 | 前660 | 前585 | 76 | 127 | 137 | |
2 | 綏靖 | 前581 | 前549 | 33 | 84 | 45 | |
3 | 安寧 | 前549 | 前511 | 38 | 57 | 49 | 立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは67歳となる)。 |
4 | 懿徳 | 前510 | 前477 | 34 | 77 | 45 | 立太子時の年齢から算出。 |
5 | 孝昭 | 前476 | 前393 | 83 | 114 | 93 | 立太子時の年齢から算出。 |
6 | 孝安 | 前392 | 前291 | 102 | 137 | 123 | 立太子時の年齢から算出。在位期間が100年を越える唯一の天皇。 |
7 | 孝霊 | 前290 | 前215 | 76 | 128 | 106 | 立太子時の年齢から算出。 |
8 | 孝元 | 前214 | 前158 | 57 | 116 | 57 | |
9 | 開化 | 前158 | 前98 | 60 | 115 | 63 | 立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは111歳となる)。 |
10 | 崇神 | 前97 | 前30 | 68 | 120 | 168 | 立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは119歳となる)。『古事記』では最年長。 |
11 | 垂仁 | 前29 | 70 | 99 | 140 | 153 | 『日本書紀』では最年長(ただし景行天皇の項も参照)。 |
12 | 景行 | 71 | 130 | 60 | 106 | 137 | 立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは143歳となり、『日本書紀』では垂仁天皇を超えて最年長となる)。106歳とすると立太子時にはまだ生まれていないことになる。 |
13 | 成務 | 131 | 190 | 60 | 107 | 95 | 立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは98歳となる)。 |
14 | 仲哀 | 192 | 200 | 9 | 52 | 52 | 『古事記』『日本書紀』で一致。立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは53歳となる)。 |
- | 神功 | 201 | 269 | 69 | 100 | 100 | 摂政。『古事記』『日本書紀』で一致。 |
15 | 応神 | 270 | 310 | 41 | 110 | 130 | 生年と合わない(生年からは111歳となる)。 |
16 | 仁徳 | 313 | 399 | 87 | - | 83 | 『水鏡』『帝王編年記』等110歳。 |
17 | 履中 | 400 | 405 | 6 | 70 | 64 | 立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは77歳となる)。『扶桑略記』『一代要記』等67歳。 |
18 | 反正 | 406 | 410 | 5 | - | 60 | |
19 | 允恭 | 412 | 453 | 42 | 若干 | 78 | |
20 | 安康 | 453 | 456 | 3 | - | 56 | |
21 | 雄略 | 456 | 479 | 23 | 62 | 124 | 生年から算出。 |
22 | 清寧 | 480 | 484 | 5 | 若干 | - | 『神皇正統記』39歳、『水鏡』41歳、『皇代記』42歳。 |
23 | 顕宗 | 485 | 487 | 3 | - | 38 | 『一代要記』等48歳。 |
24 | 仁賢 | 488 | 498 | 11 | - | - | 『水鏡』『本朝皇胤紹運録』等50歳、『帝王編年記』等51歳。 |
25 | 武烈 | 498 | 506 | 8 | - | - | 『扶桑略記』『水鏡』18歳、『帝王編年記』『皇代記』等57歳、『天書』等61歳。 |
26 | 継体 | 507 | 531 | 25 | 82 | 43 | 『日本書紀』は在位年数を28年とする異伝を記す。 |
27 | 安閑 | 531 | 535 | 2 | 70 | - | |
28 | 宣化 | 535 | 539 | 3 | 73 | - | |
29 | 欽明 | 539 | 571 | 32 | 若干 | - | 『皇年代略記』63歳、『一代要記』62歳、『神皇正統記』81歳。 |
30 | 敏達 | 572 | 585 | 14 | - | - | 『皇代記』『本朝皇胤紹運録』48歳、『扶桑略記』『愚管抄』24歳、『神皇正統記』61歳。 |
31 | 用明 | 585 | 587 | 2 | - | - | 『皇年代略記』69歳、『神皇正統記』41歳。 |
32 | 崇峻 | 587 | 592 | 5 | - | - | 平安期以降の史料に72歳または73歳とある。 |
33 | 推古 | 592 | 628 | 35 | 75 | - |
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