2016年11月26日

『当世書生気質』と野口英世改名の謎(4)知らぬは逍遥ばかりなり?

第1回第3回

 各種野口英世伝が伝える『当世書生気質』のあらすじと、実際の小説の内容が全く違っている、という事実をいち早く指摘したのは、じつは、他ならぬ坪内逍遥本人である。

 1930年(昭和5)、逍遥は『キング』10月号に「野口英世博士発奮物語」というエッセイを発表した。このエッセイは、のち、「ドクトル野口英世と『書生気質』」と改題の上、坪内『柿の蔕[へた]中央公論社、1933年[http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/tomon/tomon_16417/]に再録されている(『逍遥選集』には未収録)。以下、『柿の蔕』による。

 話のきっかけは、この年5月、逍遥が小林栄から次のような問い合わせの手紙を受け取ったことである。

[…]明治三十年の頃順天堂病院に一医学生たりし当時の野口清作は御著書「書生気質」なる本を読みて該書中に主人公たる野々口清作[原文のママ]といふ医学生ありて恰も野口清作を呪ふが如き筋立なるを知りて深く驚歎いたし候自分も之に同情して英世と改名いたさせ世界の医界の英雄たれと訓戒致し候処本人も大いに奮起し遂に野口英世博士と相成り申し候右は偶然の御作意にして候哉今以て不思議に存じ候按ふに御著中の野々口清作の言動は野口清作の立志奮励に頗る有力なる刺激と相成り候次第に候願はくは当時の御趣意御漏らし下されたく別包記念写真呈上御願い申し候野口と自分とは義父子の間柄に候

(明治30年のころ、順天堂病院の一医学生だった当時の野口清作は、ご著書『書生気質』なる本を読んで、その本の中に主人公である野々口清作という医学生があり、あたかも野口清作を呪うような筋立てになっていることを知って深く驚きなげきました。私[小林]もこれに同情して英世と改名させ『世界の医学界の英雄になれ』と訓戒いたしましたところ、本人も大いに奮起し、ついに野口英世博士となりました。これは偶然のご作意なのでしょうか、今もって不思議に思っております。思うに、御著書中の野々口清作の言動は、野口清作の立志奮励にすこぶる有力な刺激となった次第です。願わくば当時のご趣意をお教え願えないでしょうか、別封しました記念写真を差し上げますので、お願いいたします。野口と私とは義父子の間柄です。)

 逍遥は「野々口作」なる人物をとっさには思い出せなかったが、『逍遥選集』を読み返して、「野々口作」が第6回に「たつた一度だけ顔を出す人物」で「無論、主人公ではない」ことを確かめている。

 すでに野々口精作登場の場面は紹介したが、あらためて逍遥自身の説明を引いておこう。

[…]此[この]粗放、此[この]磊落[らいらく]は、其[その]実、父母、親戚、学校当事者等を欺瞞するための小策略。野々口精作は、つまり、仮面を被つた放蕩者、要するに、今の世の学生には、斯[こ]ういふ風がはりなものもあるといふ作意なのである。此人物は此條下だけで立消えてしまつてゐる。

 逍遥にとってみれば、確かに名前がよく似ているとはいえ、なぜ、野口清作青年が、この小説に発奮させられ、改名を決意したのか、さっぱりわからない。野口英世の伝記は生前から多数書かれており、その中には改名のいきさつを記した文献も少なくなかったのだが、どうやら逍遥本人は、このときまで全くこの話を知らなかったようなのである。

 逍遥は5月16日付で小林に返信を出す。この手紙は奥村鶴吉〔編〕『野口英世』に引用されているので、そこから引用する。

復 故野口博士に関する御追憶談は洵に耳新しく深き感興を以て拝読致し候彼の拙作は明治十七年起稿十八年出版のいたづらかき甚しき架空人物の姓名なども大方出たらめに候あの比故博士は多分九歳か十歳におはし候ひけむ姓名の類似は申す迄もなく偶然に候何故医学生にあの如き放蕩者を作りいだし候ひしかと申すに当時東京大学医学部と称し候ひし本郷の医学校は其専門の然らしめし所か学生中に洒落者多く銭づかひもあらきよし風聞盛んなりし故さてこそあの如き諷刺を試み候ひしに過ぎずもつとも借金番附の如きは多少よりどころありしものに候

いづれにせよ四十五六年前の悪作おもひ出すさへ冷汗淋漓に候然るにあの如きものが思ひがけずも真個世界的大国手故博士発憤の一機縁と相成しとは一に是れ貴下の御高諭と故博士の英邁なる天資の然らしめし所たるや申す迄もなき儀と存じ候

さりとて世に珍しき御物がたり若しおさしつかえへなくば御仰せ越しのまゝに故博士の小伝をも加へて拙文につゞり例へばキングの如き誌上にて公にせんには今一世に瀰漫する惰気蕩気を多少廻らすに足るべきかと考へ候[…][奥村鶴吉〔編〕『野口英世』岩波書店、1933年、197-198頁

(返信。故野口博士に関する御追憶談はまことに耳新しく、深い感興を以て拝読いたしました。かの拙作は、明治17年起稿・18年出版の、いたずら書きもはなはだしいもので、架空人物の姓名なども大方デタラメです。あのころ、故博士は多分9歳か10歳だったのではないでしょうか[明治18年には数え年10歳]。姓名の類似は、申すまでもなく偶然です。なにゆえ、医学生としてあのような放蕩者を創作しましたかと申しますと、当時、東京大学医学部と称しておりました本郷の医学校[1930年当時は東京帝国大学医学部]は、その専門のせいでしょうか、学生中にしゃれ者が多く、金使いも荒いという風聞が盛んであったので、それであのような諷刺を試みたにすぎません。もっとも、[作中に登場する]借金番付のごときは、多少よりどころがあるものです。

 いずれにせよ、45〜6年前の悪作であり、思い出すことさえ冷汗が流れます。それなのに、あのようなものが思いがけずも、本当に世界的な大国手[名医]である故博士の発憤の一機縁となったとは、一にこれ、貴下の御教えと、故博士のすぐれた生まれつきの資質がそうさせたことは、申すまでもないことと思います。

 しかしながら、世にも珍しいご物語。もしお差支えなければ、お伝えいただいたままに、故博士の小伝をも加えて拙文につづり、例えば『キング』のような雑誌にて公にすれば、いまひとつ、世にはびこるだらけた気分、しまりのない気分を多少変化させるのに十分ではないかと考えます。)

 かくて、野口英世改名のいきさつを、当時の国民的雑誌であった『キング』に紹介しようと考えた逍遥は、詳しい事情を小林に問い合わせるとともに、自分でも下調べを始めた。すると、次のような噂話が耳にはいってきた。

 或[ある]人は、博士の洋行は失恋の結果だつたといふ噂だといひ、或人は、彼れは青年時代には中々の放蕩者だつたといふ噂だといた。双方とも無証拠で、単なる噂話であつたが、『書生気質』との関係を説明するには、むしろ誘惑的な材料であつた。

 いっぽう、野口英世伝のたぐいを読んでみると、そこではおおむね、『当世書生気質』は次のような話だとされていた。

「年齢、風采等までも同じやうな野々口清(実は精)作といふは田舎から上京した秀才の医学生、それが友人に誘はれて或芸妓になじみ、学業を怠り、其上、不摂生をしたために病気になり、果は女にも捨てられ、失恋と病苦とで悲観して自殺する」云々。

 逍遥はますます困惑する。

 ところが、小説中の精作にはそんな経歴は少しもない。いや、作の主人公小町田粲爾といふ人物とても、芸妓と馴染むといふ事はあるが、騙されたわけではなく、随つて失恋はせず、病気にもならず、自殺もしない。一体、どこをどう読んだのであらう?

 ……まったくもって同感である。

 逍遥は各種野口英世伝や小林との通信、野口を知る人たちとの聞き取りを通じて、野口が放蕩者だったという噂話を否定する。ところがその結果、なぜ野口が『当世書生気質』に発奮したのか、そもそも、いったいどこから「失恋と病苦とで悲観して自殺する」なんて話が出てきたのか、逍遥はさっぱりわからなくなってしまう。

 それにしても、清作[実在の野口清作=英世]は一意学問に精進してゐた真摯熱誠実の貧学生、或人の噂したやうに、放蕩する餘裕なぞがある筈はなく、又あらゆる意味で婦人関係なぞはなかつたといふ事だ。とすると、境遇、性格、風采までが、相酷似してゐたから、とは、一体、何を指すのか?

 逍遥は、野口が重病で順天堂病院に入院中だったものと誤解して、病気で前途を悲観していた時期に読んだために内容を勘違いしたのではないか、と推測した。しかし、このエッセイが『キング』誌に掲載された後で、逍遥は小林から、野口が『当世書生気質』を読んだのは、猪苗代で小林の妻を看病中だったときのことだと教えられる。それを知った逍遥は、「明敏な頭脳の持主であつた筈[はず]の博士[野口]が、どうしてそんな粗忽[そこつ]な読み方をしたの歟[か]、不思議でならない」とますます困惑している。

 ところが、じつは逍遥が最初に聞いた噂話のほうが真相に近かったのだ。確かに、野口清作青年が「一意学問に精進してゐた真摯熱誠実の貧学生」だったのは事実なのだが、彼は、それと同時に、間違いなく「中々の放蕩者」でもあったのである。

第5回につづく

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『当世書生気質』と野口英世改名の謎(3)『一読三歎 当世書生気質』

第1回第2回

 逍遥の一読三歎 当世書生気質』(いちどくさんたん とうせいしょせいかたぎ)は、最初、「春のやおぼろ」(春廼舎 朧)名義で、1885年(明治18)6月から翌1886年(明治19)1月にかけて分冊形式で刊行された(全17号)。坪内逍遥の最初の小説で、『小説神髄』(1885年9月〜1886年3月刊、執筆は『当世書生気質』より前)で逍遥が主張した近代的リアリズム小説論の実践篇、という意味合いを持っている。当時、逍遥は満26歳。3年前に東京大学文学部政治科を卒業したばかりであり、東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師をつとめていた。

 文学史的な位置づけから言えば、この小説は日本初の近代小説になりそこねた作品、とでも言えるだろうか。『小説神髄』の実践篇といいながらも、江戸の戯作文学の影響が色濃く残っているからである。文体も、会話文では当時の話し言葉が用いられているが、地の文はいまだ文語体である。言文一致体リアリズム小説の完成は、2年後に発表された二葉亭四迷『浮雲』(1887〜89年)まで待たなければならない。

 逍遥自身は後年、『当世書生気質』や『小説神髄』などの初期作品を自ら「予の旧悪全書」と自嘲し、再刊を嫌がった。『逍遥選集』(春陽堂、1926〜27年)刊行の際にも再録を渋ったが版元に押し切られ、「別冊」に収めている。なお、逍遥の全集は2016年現在も刊行されておらず、この『逍遥選集』が事実上の全集となっている。

 『当世書生気質』は、東大在学時代の学友たちの言動を下敷きにして書かれており、登場する書生たちは、作中では私塾(私立の専門学校)の学生という設定になっているが、実際のモデルは東大の学生である。当時、日本国内の大学は東京大学ただ一校のみであり(「帝国大学」になるのは1886年)、その学生はエリート中のエリートであった。

 時代設定は作品発表より3年前の明治15年(1882年)、つまり逍遥の在学時代(逍遥は「明治十四五年」としているが、作中で登場人物が明治15年4月の板垣退助遭難事件に言及する場面があるため、明治15年と特定できる)。東京の飛鳥山で、ある大学の書生たちが運動会を開いた際に、その一人である小町田粲爾(こまちだ・さんじ)が、田の次(たのじ)という芸妓と偶然に再会する場面から話は始まる。じつは、田の次は本名をお芳(よし)といい、粲爾の父で明治政府の役人だった浩爾(こうじ)と、その妾(めかけ)で元芸者のお常が、ふとした偶然から拾った孤児で、粲爾とは兄妹同然に育てられてきたのである。ところがその後、浩爾が失職したため妾を囲っておくことができなくなり、お常はやむなく芸者に戻り、お芳にも同じ道を歩ませることになった。そういうわけで、幼馴染同士の粲爾と田の次は互いにひかれあっているのだが、事情を知らない周囲から見れば、前途ある学生が女遊びにうつつをぬかしているようにしか見えない。そのせいで粲爾は次第に追い詰められていく。

 いっぽう、粲爾の学友で資産家の息子である守山友芳(もりやま・ともよし)には、明治元年(1868)の上野戦争の際、生き別れになった妹、おそでがいた。友芳は、これまた偶然に出会った皃鳥(かおどり)という遊女が、実は妹なのではないか、と疑い始める。

 以上の本筋と並行して、気ままでお調子者の倉瀬蓮作(モデルは逍遥自身に、別の友人を足し合わせたものという)、飄々とした、自他ともに認める奇人の任那透一(にんな・とういち)(モデルはジャーナリストの山田一郎)、スイカを拳割りする粗野な男で、男色家の桐山勉六(モデルは三宅雪嶺だとする説があるが、逍遥は否定している)、その友人で知恵もなければ勇気もない須河悌三郎(すがわ・ていざぶろう)、などといった一癖ある書生たちの行状記が次々と語られてゆく。最後は、田の次ことお芳こそが守山友芳の本当の妹であることが明らかになり、大団円を迎える。

 さて、問題の野々口精作はというと、全20回(章)のうち第6回「詐[いつわり]は以て非[ひ]を飾るに足る 善悪の差別[けじめ]もわかうどの悪所通ひ」だけに登場する。この回は1885年8月に刊行された。以下、岩波文庫版によって見ていく。

 「年の頃は二十二三、ある医学校の生徒にして、もう一二年で卒業する、野々口精作といふ田舎男」。帰省から帰ってきたばかりのこの男が、友人の倉瀬蓮作とばったり出会い、池之端(現・東京都台東区、上野不忍池の周辺)の「蓮玉」という蕎麦屋(実在の蕎麦屋で、正確には「蓮玉庵」といい、当時は上野不忍池のほとりにあった。現在は池之端仲町通りに移転)で一杯やる……というだけの話である。じつのところ、この場面は本筋とまったく関係ない

 野々口は倉瀬に対して、帰省中「親類の野郎共めが、皆々我輩を信用して、倅共[せがれども]を三人まで今回我輩に委託したぞ。蓋[けだ]し東京へ帰つて後も、同じ所に下宿をして我輩の薫陶を受[うけ]させいたといふ請願サ」とこぼす。というのも、見かけは質素というより粗放磊落で、自分ではぬけぬけと「謹直方正の人間」と言い張るこの男、じつはとんだ放蕩者で、おまけに嘘つきだからである。たとえば、父親に金をせびる口実がなくなったので、病気を装おうとして、酒を六合も飲んだ上に「下谷からお茶の水まで」(約4km)全力疾走した上で病院に駆け込んだという。それでもこの男、「我輩は親の金はつかふけれど、別にたいした外債も醸[かも]さないぞ。それでも五十円位はあるが」と語る。なにしろ、彼の通っている学校には他にもひどい借金魔がおり、筆頭は2000円なので、50円というのは少ない方なのである。

 貨幣価値の計算は難しいのだが、1881年頃の1円は、だいたい現在の4000〜5000円くらいになる。つまり50円は20〜25万円、2000円は800〜1000万円くらいとなる。

 ただしこの男、放蕩ぶりを隠すのが巧妙な偽善者で、「校長も証人も親父も阿兄[あにき]も、各々我輩を信用して、曽[かつ]て疑ふもの一人もなしサ。金を送つてよこせというてやれば、安心して送つてよこすし、証人の所へ頼んでも、疑はないで貸してよこすぞ」とうそぶく。野々口が倉瀬をさそって遊郭へ向かう、というところで第6回は終わる。まさしく、「いつわりはもって非を飾るに足る、善悪のけじめも若人(わこうど)の悪所通い」(「わからない」と「若人」をかけている)というサブタイトル通りの、猫かぶりの小悪党の話である。なお逍遥は、「本篇(第六回をいふ)中の書生の如きは、決して上流の書生にあらねば、看客[みるひと]其積[そのつもり]にして読みたまへ」とわざわざコメントしている。

 その後、野々口は二度と再登場しない(名前だけは第7回と第18回下で言及されている)。最終回(第20回)のエピローグで、次のように語られているだけである。

 野々口はいかにしけん、池の端[第6回の場面]以来倉瀬もきかず、放蕩家[ほうたうもの]などと悪くはいへど、野々口の如きは利発者[りはつもの]なり、あの術[て]でお医者さまになつたる時には、屹度[きっと]甘くやるに相違ないとは、是又倉瀬の独断論なり。蓋し保証[うけあ]はれぬ話にこそ。

 確認しておこう。各種野口英世伝が伝える「野々口精作」像のうち、田舎から東京に出てきた放蕩者の医学生、という設定までは確かに合っている。しかし、それ以外は全くのデタラメで、まず主人公ではないどころか、本筋と何一つ関係のない一端役にすぎないし、将来を楽しみにされている真面目な人物という描写は一切なく、最初から放蕩者として登場する。堕落のきっかけが語られることもないし、何より、周囲から見捨てられる場面など存在しない。むしろ、その放蕩ぶりを学校や親族や保証人には巧妙に隠しており、友人からは「放蕩者といえば悪くきこえるが、地は利発者だから、無事に医者になった際には案外うまくやるかもしれない」と思われているのである。

第4回につづく

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2016年11月24日

『当世書生気質』と野口英世改名の謎(2)野口清作が野口英世になるまで

第1回

 まず、野口英世の改名の、正確ないきさつを確認しておこう。

 野口清作(英世)は1893年(明治26)3月、数え年18歳(満16歳)で猪苗代高等小学校を卒業した後、会津若松の会陽病院に勤務し、医師としての修業を始めることになった。当時の制度では、医学校を卒業しなくとも、医師開業試験に合格することで医師免許を得ることができた。医師開業試験は前期と後期の2回があり、それぞれ1年半以上(つまり計3年以上)の「修学」が受験資格とされていたが、実際にはかなりルーズで、病院での徒弟修業なども「修学」として認められていた。

 1896年(明治29)9月、野口は数え年21歳(満19歳)で勉学と医術開業試験受験のため上京し、10月に前期試験に合格した。その後、会陽医院時代に知り合った高山歯科医学院(のち東京歯科医学院、東京歯科医学専門学校を経て現・東京歯科大学)講師の血脇守之助(ちわき・もりのすけ)(1870-1947)を頼りながら勉学を続け、翌1897年(明治30)5月に医術開業試験の予備校である済生学舎(日本医科大学の間接的な前身)に入学、10月に後期試験に合格し医師免許を得ている。その後、ひとまず高山歯科医学院講師となり、11月に順天堂病院に助手として就職、1898年(明治31)10月に伝染病研究所(伝研、現・東京大学医科学研究所)に移籍した。その後、海港検疫官補などを歴任したのち、1900年(明治33)12月、数え年25歳(満24歳)のときに渡米した。その後は1915年(大正3)に一時帰国しただけほかは、死去するまで海外で過ごしている。

 野口が改名を決意したのは1898年夏、順天堂病院在籍中のことである(伝研在籍中としている文献があるが、これは奥村鶴吉〔編〕『野口英世』が、伝研移籍を誤って1898年4月としたことの影響と思われる)。小林栄の後年(1939年)の回想によれば、改名のいきさつは次のようなものだったという。

 丁度[ちょうど]その頃、私[小林栄]の家内が病気にかゝつた。なか/\なほらない。それは腎臓病であった。博士[野口清作=英世]の方へ報知したれば、心配して大家の説だの、薬等を送ってよこして居ったが、なか/\はかどらない。とても耐[こら]へられないで、[野口本人が猪苗代に]やって来た。日夜看病に尽力、まことに親切であった。

[…]流石の病気もだん/\よい方になって、先づ安心といふ事になった。当時の野口清作、少し退屈を催してあったのか、どこからか小説の様なものをもって来て、見て居ったが、はったと刺激を受けて歎息と憤慨との様子があらはれた。彼いふには、「先生大変なことが出来ました。この本を見て下さい。実に残念で堪へられません。」腕組になって、切歯扼腕といふ有様であった。

「何事であるか。」「この本を見て下さい。大変な事です。」

「そんな厚い本を見てゐられない。」「いや、すこうし見て下さるとわかる。」

 それは坪内逍遙博士の『当世書生気質』といふ本であったが、見たところがなるほど驚いた。

「これは貴様が悪い事をした事を坪内先生に見つけられたのであらう。」

「決してわたしではありません。決して致しません。」

「然しそれはどうもあやしい。『野々口精作』医学生、天才肌の将来有望なる青年とある。どうもお前の事によくあたってをるではないか。これは坪内先生が見たやうに思ふがどうだ。」

「私に似てをるから、私は残念でたまりません。決して私ではありません。残念でたへられないから、何とかして下さい。」

 顔色をかへて奮激してをる。詐[いつわ]りでないやうに思はれた。[小林栄「野口英世の思出」丹実〔編著〕『野口英世――その生涯と業績 第1巻 伝記』講談社、1976年、所収、231-232頁]

 40年以上も経ってからの回想を口述筆記したものなので、内容の正確さには多少疑問がある。たとえば「野々口作」とあるが、後で触れるように、小林は後年(1930年)に逍遥本人から指摘されるまで、ずっと「野々口作」だと思い込んでいたのである。また、野々口精作は確かに医学生だという設定だが、「天才肌の将来有望なる青年」などという話は作中には一切出てこない。ついでながら、逍遥が文学博士となったのは、実際には翌1899年である。

 小林は『当世書生気質』の具体的な内容を説明していないので、野口がいったい何に憤慨したのか、この記述からはさっぱりわからない。野口清作と名前のよく似た野々口精作という人物が、あまり良くない役回りで登場するらしい、ということがわかる程度である。この話からすると、どうやら野口清作青年は、野々口精作登場の場面までを読んで憤激し、小林にその部分だけを読むように求めたらしい。つまり、二人とも小説を最後まできちんと読んだ形跡がないのである。

 小林は野口が野々口のモデルなのではないかと疑い、野口はやけに必死になってそれを否定しているのだが、そもそも、『当世書生気質』は1885〜86年(明治18〜19)に分冊形式で発表され、1886年に単行本にまとめられたものである。執筆時の逍遥が、当時満8歳の小学生だった野口清作の名前を知り得たはずもない。いうまでもなく、単なる偶然の一致である。なお、野口が目にしたのがどの版かは不明である。10年以上も前に出版された小説をなぜ読む気になったのかも不明なのだが(「知人から薦められて読んだ」としている文献もあるが、小林の回想にはそのような話は出てこない)、前年に出された『太陽』博文館創業十周年紀念臨時増刊(1897年6月)に全文が再録されているので、これを読んだのかもしれない。

 引用に戻る。

「然し不思議な事だ。困った事だ。何とかするといって、名誉毀損の訴を起す訳にも行くまい。大層苦しければ、改名する外あるまい。外に工夫はない。」

「どうぞ改名して下さい。」「いや、今すぐに改名は出来ない。少し時日を待つ外ない。その中に考へて見よう。」

 それで不承々々[ふしょうぶしょう]、その話をそれまでで打ちとめた。しかし不愉快な様子をして居ったのは気の毒のやうでもあった。

 それから二三日過ぎて催促を受けた。「待て、今ちっと考へる。」

 そのあした(翌日)、

「一つ考へたが、『英世』といふことがどうかと思ふ。英といふ字は小林家の実名の頭字[かしらじ]だ、これは立派な字だ。英雄等といふ時に使ふ字だ。世の字は世界、広い意味をもってをる。さうすると、医者の英雄になって、世界によい仕事をしろといふ事になるのだ。あんまり立派すぎる。過分であらう。近頃は人間より名前が勝って、まことに不相応なをかしい事が世の中に大分にあるやうだ。お前の名もその通り、人間より名の方が立派になっては可笑しいものにならう。名負けはせぬか、どうだ。」「いや、まことに結構です。どうぞその名にして下さい。大いに奮励して名に負けないやうに致します。きつと奮励いたします。」[丹〔編著〕『野口英世 第1巻』232頁]

 小林としては、数日置いて頭を冷やさせるつもりだったのだろうが、野口は意固地になっていたらしい。

 なお、今でもそうだが、戸籍上の改名というものは簡単にできるものではなく、それなりに正当な理由というものが必要とされていた。そこで小林はからめ手を考え出す。正当な改名の理由の一つに、同じ町村内に同姓同名者がいる、というものがあったので、それを利用したのである。

 戸籍面も改名しようとして村長[野口の本籍地である翁島村の村長]に相談し、同村に同名の人をつくる事にして、蜂屋敷[現・猪苗代町大字堅田字蜂屋敷。当時は千里村所属]といふ所の佐藤清作といふ青年と、その親に頼んで、三城潟[現・猪苗代町大字三ツ和字三城潟。当時は翁島村所属。野口の出生地]の野口といふ人のうちに籍を移した。それで野口清作が同村に二人出来た。それから願って改名したのでありました。大分日数がかゝつてあった。[丹〔編著〕『野口英世 第1巻』232頁]

 さて、野口清作青年がそれほどまで憤慨した『当世書生気質』とは、どのような小説なのか?

第3回につづく

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『当世書生気質』と野口英世改名の謎(1)野口清作と野々口精作

 野口英世(1876-1928)は出生時の戸籍名を「清作」といい、1898年(明治31)、数え年23歳のときに「英世」と改名した(正式に戸籍名を改めたのは翌1899年10月)。「英世」という名を考案し、戸籍名変更のために尽力したのは、清作の猪苗代高等小学校(現・猪苗代町立猪苗代小学校)時代の恩師、小林栄(1860-1940)である。

 ついでながら、もちろん本人は「ひでよ」のつもりでいたし、英語論文でも Hideyo Noguchi と署名していたのだが、生前、この名前は、日本ではもっぱら音読みで「えいせい」と読まれていた。

 この改名が、坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)(1859-1935)の小説『当世書生気質』(とうせいしょせいかたぎ)(1885-86)の影響だ、という話はつとに知られている。この小説に、「野口清作」と酷似した「野々口精作」(「清」ではなく「精」であることに注意)という名前の不良医学生が登場するのを苦にして改名した、というのである。

 たとえば、財団法人野口英世記念会発行の『少年伝記 野口英世』(1978年)には次のようにある。

ある人が、

「清作くん、この本は坪内逍遙という人のかいた『当世書生気質』という小説だよ。よんでみたまえ、おもしろいよ」

と、本をかしてくれました。

 清作はよんでいくうちに、なるほどおもしろくて、ぐんぐんとひきいれられていきました。小説の中に、自分とよくにた名の医学書生がでてくるからです。「野々口精作」といって、自分の名まえ、「野口清作」によくにています。

[…]

 よみすすんでいくうちに、清作は、だんだんいやな気持ちになってきました。小説にでてくる主人公の「野々口精作」は、みんなから、しょうらいをたのしみにされていたのに、あるつまらない事件から、だんだんわるくなって、とうとうさいごには、だれからもあいてにされなくなってしまうという、すじだったのです。

 清作は、名まえがにているばかりでなく、医学書生であることなども、なんだか、自分のことがかかれた小説のようにおもえました。

「先生、この『当世書生気質』をよんで、すっかりかんがえてしまいました。どうも、ぼくによくにているところあるし、それに、清作という名もよくないなあ。ぼく、なんだか、この小説の清作になりそうな気がします。」

「あはは、なにをくだらないことをいうのだ。しっかりしたまえ。しかし、それほど気にかかるなら、名まえをかえてみたまえ。改名をするんだよ。」

 小林先生が、わらいながらいいました。[滑川道夫『少年伝記 野口英世』野口英世記念会、1978年、79-80頁]

 野口英世の伝記類には、これと同じような記述がしばしば見られる。ところが、じつは、ここに紹介された『当世書生気質』の内容は全くのデタラメなのである。確かに、野々口精作という名前の男が登場することは事実である。しかし、まず、この男は主人公ではなく本筋と無関係な場面にチョイ役で登場する人物にすぎない。しかも、この男は最初から最後まで、猫かぶりの堕落したお調子者として描かれている。地元ではきちんとした学生を装っているらしいので、「みんなから、将来を楽しみにされていた」というのは当てはまるといえなくもない。しかし、作中で「あるつまらない事件」が起こることはなく、したがって「だんだん悪くなって、とうとう最後には、誰からも相手にされなくなってしまう」ということもない。

 医師・医学史家の秋元寿恵夫(1908-94)は、1971年(昭和46)に出版した少年少女向け伝記『人間・野口英世』の中で、「『当世書生気質』のどこをさがしても、野口の伝記作者がひきあいにだしているような話は、いっさい見あたらないのです」「べつに野々口は、この小説の主人公でもなんでもないのです」と指摘している。野口英世の伝記類でこの誤りを指摘したのは、この秋元の本が最初と言われている。どうやら、それまでの伝記作家たちは、そもそも『当世書生気質』の内容を確かめてすらいなかったようなのである。

 いい加減な話なのだが、いったいなぜこんなことになったのだろうか?

第2回につづく

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活動再開

しばらくこちらの方にほとんど投稿しておりませんでしたが(Twitterも休止していた)、このあたりでなんとなく活動を再開してみることにします。また予告なく活動を停止するかもしれませんけど。
メインのノートPCが故障したり、いろいろふんだりけったりな今日この頃です。
posted by 長谷川@望夢楼 at 00:49| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月15日

「望夢楼」移転のお知らせ

@Nifty @homepage サービス終了にともない、「望夢楼」を@niftyホームページサービス(LaCoocan)に移転しました。新URLは以下になります。

http://boumurou.world.coocan.jp/

リンク、ブックマーク等の修正をお願いします。
posted by 長谷川@望夢楼 at 17:46| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月28日

同時代史学会・第40回定例研究会のお知らせ

3月12日の同時代史学会[http://www.geocities.jp/doujidaisigakkai/]定例研究会で、例の教育勅語の国民道徳協会訳等について報告させていただくことになりましたので、ご紹介しておきます。

■同時代史学会・第40回定例研究会

テーマ:戦後史のなかの象徴天皇制

<報告>

 「昭和天皇の「皇室外交」にみる象徴天皇制の展開過程」
 舟橋正真(日本大学大学院博士後期課程・日本学術振興会特別研究員DC)

 「現代語「訳」を通して見る教育勅語の戦後的受容
  ―教育勅語の戦後史のための試論―」
 長谷川亮一(千葉大学・東邦大学非常勤講師)

<コメンテーター>
 赤澤史朗(立命館大学名誉教授)

日時:2016年3月12日(土)14:00〜17:45
場所:専修大学 神田キャンパス1号館4階ゼミ室41
   http://www.senshu-u.ac.jp/univguide/profile/campus.html
参加費:無料
※会員外の方にもお声をおかけ下さい
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2016年01月01日

2016年

 喪中につき新年のご挨拶は失礼させていただきます。
 2015年はいろいろ皆様方にお世話になました。2016年もよろしくお願い申しあげます。
 4月以来(だったよね?)ウェブ上からフェードアウトしてしまい、いろいろウェブ上でのおつきあい、お返事等を滞らせてしまって(メールのやりとりはしていたのですが)、申し訳ありませんでした。単純に多忙のため書き込みをせずにいるうちに、なんとなく再開が面倒くさくなってしまったのです。
 新年はぼちぼち再開していきたいと思います。
posted by 長谷川@望夢楼 at 00:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月11日

平泉澄「そのような間違いが出るほど、我が国の歴史は古いので、それはむしろ楽しいこと」

 たびたび登場していただいている平泉澄の『少年(物語)日本史』より。

(※『少年(物語)日本史』については2005年10月3日「「動物園の猿の子が、人になって生れてきた例がありますか」」 http://clio.seesaa.net/article/7629186.html 、平泉澄については2013年6月6日「平泉澄と仁科芳雄と石井四郎」http://clio.seesaa.net/article/365379599.html 、6月17日「平泉澄「この刀によって私は陸軍というものを鍛え直した」」 http://clio.seesaa.net/article/366604713.html 、神武天皇即位紀元については2014年2月10日「資料:『日本書紀』による古代天皇の年齢」 http://clio.seesaa.net/article/387977700.html 、2月11日「「建国記念の日」の基礎知識」 http://clio.seesaa.net/article/388018490.html 、2月15日「『開化問答』の祝祭日問答」 http://clio.seesaa.net/article/388710217.html も参照。)

世界各国各民族、あるいは各宗教に、いろいろ紀元が立てられていますが、そのどれを見ても、正確に事実を実証し得るものは、ほとんでありますまい。今年昭和四十五年は、それらの紀元では、次のようになります。

  インド教暦紀元      二〇二六年
  回教暦紀元        一三四九年
  フリーメーソン紀元    五九七〇年
  ユダヤ紀元        五七三〇年
  コンスタンチノープル紀元 七四七八年
  アレクサンドリア紀元   七四六二年
  マケドニア紀元      二二八一年
  スペイン紀元       二〇〇八年
  ペルシャ紀元       一三三九年
  キリスト紀元(西暦)   一九七〇年

 これを見て、どう思いますか。最後のキリスト紀元のほかは、歴史的事実としては、まず信用がむつかしいと思われるでしょう。ところがそのキリスト紀元すら、事実とは違うのです。すなわちそれはキリストの誕生を、紀元元年とする建前ですが、実はその計算に誤りがあって、キリストの生れたのは、紀元元年ではないのです。[平泉澄『少年日本史(上)』講談社学術文庫、1979年、37-38頁]

 1970年が基準なのは、『物語日本史』がこの年の発行だからである。

 この文章には少しおかしなところがある。よく見ると、「回教暦紀元」と「ペルシャ紀元」は「キリスト紀元」よりも値が小さい。つまり紀元元年の年代が新しい。それなのに、なぜ「最後のキリスト紀元のほかは、歴史的事実としては、まず信用がむつかしいと思われるでしょう」と言えるのだろうか。

 平泉は、『日本書紀』に記された神武天皇の即位年代が不自然に古いことを認め、「皇紀は、事実よりも五、六百年延びている」ことを認めている。そして、西暦紀元前660年という年代が、中国起源の予言思想である讖緯説に基づく辛酉(しんゆう)革命説に基づいて算出されたことも認める。

 辛酉革命説とは、干支が60年に一度の辛酉(しんゆう、かのと・とり)にあたる年には天命が革(あらた)まり、大変革が起こる、とする説である。

 神武天皇の即位年代が辛酉革命説に基づく創作ではないか、とする説は、江戸時代の藤貞幹(とう‐ていかん、1732-97)や伴信友(ばん‐のぶとも、1773-1846)などにも見られるが、本格的には明治期に入ってから、那珂通世(なか‐みちよ、1851-1908)の「日本上古年代考」(1888年)によって確立された(星野良作『研究史神武天皇』吉川弘文館、1980年、他)。

 平安時代の昌泰4年(901)、三善清行(みよし‐の‐きよゆき、847-918)は『革命勘文』を朝廷に提出し、この年が辛酉年にあたることから改元するように主張、朝廷はこれを受け入れて元号を「延喜」と改めた。日本での辛酉改元はこれが最初の例で、その後、永禄4年(1561)と元和7年(1621)の2回を除き、幕末まで続けられている。このとき清行が引用した『易緯』鄭玄註(鄭玄[じょうげん、127-200]は後漢代の学者)によれば、6甲(甲が6回=60年)が1元、7元×3=21元が1蔀(ぼう)で「合わせて1320年」(「合千三百廿年」)、これがひとつの大きな周期になっているという。清行はそこから、神武天皇即位から1320年後の斉明天皇7年(661年)が2蔀目の始まりだ、と見なした。しかし、正しく計算すると、1蔀は1320年ではなく1260年(60年×21)になるはずである。そこから那珂は、基準年は斉明天皇7年ではなく推古天皇9年(601年)であり、そこから遡って1260年前の紀元前660年が神武天皇の即位年に定められた、と考えたのである(那珂通世「上世年紀考」初出1897年、松島榮一〔編〕『明治文學全集 78 明治史論集(二)』筑摩書房、1976年、所収)。

 平泉澄は、歴史学者としてこの那珂説を受け入れつつ、「我が国の古代史に、年の延びすぎがあっても、それは珍しいことではなく、かつまたそれは讖緯の説の責任であって、我が国の歴史自体の責任ではないのです。[…]そのような間違いが出るほど、我が国の歴史は古いので、それはむしろ楽しいことで、少しも心配する必要はないのです」(38頁)と主張する。つまり、悪いのは中国から渡来した讖緯説だ、というわけだ。その上で、事実ではないからといって神武天皇紀元(皇紀)を捨てるべきではない、と主張するのである。

 それはともかくとして、いったい上に引用した表はなんなのだろうか?

 とりあえず、逆算して元年を算出しておこう。

紀元 西暦1970年 元年
インド教暦紀元 2026年 前57年
回教暦紀元 1349年 622年
フリーメーソン紀元 5970年 前4001年
ユダヤ紀元 5730年 前3761年
コンスタンチノープル紀元 7478年 前5509年
アレクサンドリア紀元 7462年 前5493年
マケドニア紀元 2281年 前312年
スペイン紀元 2008年 前39年
ペルシャ紀元 1339年 632年
キリスト紀元(西暦) 1970年 1年

 まずキリスト紀元から。イエス・キリストはユダヤ王ヘロデの治世に生まれたとされる(《マタイ福音書》2章)。ところがヘロデ王は紀元前4年に死去しているので、当然、イエスの生誕はそれ以前でなければならなくなってしまう。この紀元を考案したのは6世紀ローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスであるが、彼の決定した年代は、歴史的根拠というよりも神学的計算に基づいたものである。この辺りのややこしい事情については、岡崎勝世『聖書 vs. 世界史――キリスト教的歴史観とは何か』(講談社現代新書、1996年)に詳しい。

 「インド教暦紀元」とあるのは、北インドで多く用いられる、紀元前57年を紀元とするヴィクラマ紀元のこと。ネパールではビクラム暦として公用暦となっている。ヴィクラマーディティヤという王がシャカ族との戦争に勝利した年を紀元にしたとされる。なお、ヴィクラマ暦での1年の始まりは、西暦でいう4月中旬である。他の暦法も1年の始まりが西暦とは異なるのだが、それを言い出すとややこしいことになるので、その点は割愛させていただく。

 奇妙なのは「回教暦紀元」と「ペルシャ紀元」である。「回教暦」というのは622年を紀元とするヒジュラ暦のつもりだろう。「ヒジュラ」(ヘジラ、聖遷)とは、イスラームの教祖であるムハンマドが、622年にマッカ(メッカ)からヤスリブ(マディーナ、メディナ)に移り住んだ出来事のことである。しかし、 1970-622+1=1349 と計算したのならとんでもない間違いだ。ヒジュラ暦は1年を354日とする純粋な太陰暦なので、太陽暦の1年とは合わないのである。1970年はヒジュラ暦では1389/90年にあたる。一方の「ペルシャ紀元」はおそらくイラン暦(ヒジュラ太陽暦)のつもりなのだろうが、こちらの方こそ 1970-622+1=1349 でよいのに、なぜか10年少ない数字を出している。どうやら、平泉澄はイスラームの暦法についての基礎知識がなかったようだ。

 「マケドニア紀元」とあるのは、紀元前312年を紀元とするセレウコス紀元と思われる。この年はアレクサンドロス大王の部下であったセレウコス(1世)が自立し、セレウコス朝を開いた年である。

 「スペイン紀元」は中世のイベリア半島で用いられた紀元。紀元前38年を紀元とする。ローマのイベリア半島支配が本格的に始まった年とされる。

 残りの「フリーメーソン紀元」「ユダヤ紀元」「コンスタンチノープル紀元」「アレクサンドリア紀元」は、いずれも『旧約聖書』にある天地創造を紀元元年とする暦法であり、「創造紀元」「世界紀元」などと呼ばれる。この年代に様々な説があったため、由来は同じなのにいくつもの紀元が生じてしまったのである。なお「コンスタンチノープル紀元」は一般にはビザンティン紀元と呼ばれることが多い。

 ――と、ここまで説明してきたことからも明らかなように、「キリスト紀元のほかは、歴史的事実としては、まず信用がむつかしい」というのは事実に反している。確かに天地創造紀元のたぐいは論外としても、セレウコス紀元やヒジュラ紀元は、少なくともキリスト教紀元よりは信憑性がある。おそらくこの表は、内容のいい加減さから見て、よく調べもせずにどこかから適当に引っぱってきたものなのだろう。

 それにしても、「大東亜戦争はアジア解放のための戦いだった」などと主張している人物が、イスラームの暦法についてろくな知識もない(仏滅紀元やインドのサカ紀元に言及がないところからすると、その辺りも知らない)のはひどい――というと、いささか言い過ぎだろうか。

posted by 長谷川@望夢楼 at 18:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月01日

2015年 あけましておめでとうございます

 本年もなにとぞよろしくお願い申し上げます。

 ……2014年中に書き上げる、書き上げると言っていた原稿ですが、まだ脱稿できません……とほほ。なんとか今年こそは新しい本を出したいと思っています。
posted by 長谷川@望夢楼 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする