- 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。
いよいよ、題名の「大東亜戦争」の発端、ハル・ノートの話になる。
さて、皆様方、この大東亜戦争十一月のいわゆる二十五日には、ハル長官から日本に無理難題が来ました。[33頁]
十一月の二十五日その中国に対して降伏せよ、日本の武装解除を行い、財産を中国に移管せよ、日・独・伊防共協定を破棄せよ、南方方面の市場、このインド方面を初め[原文のママ]とした英国の得意先に、日本の安い繊維品が出て、英国のランカシアンの織り物が売れないという経済上の立場から、日本を目の上のたん瘤にしたのは当時の英国でした。つまり南方方面の市場を放棄せよ、この五項目の内、一項目といえでも認めることは出来ないとなれば、これをもって最後通達宣戦布告に変えるという通知は、十一月の二十五日にやって参りました。[34頁]
どうやら、これはハル・ノートのことらしい。「らしい」というのは、ハル・ノートの説明としては何一つとして正しい箇所がないからである。
まず日付を11月25日だとしているが(しかも3回も繰り返している)、実際にハル・ノートが駐米日本大使に手交されたのは1941年11月26日(日本時間27日)である。たかが1日2日の違いと思ってはいけない。後で見るように、ここの1日の違いは重要な意味があるからである。
また、ハル・ノートは形式的には日米間の和平協定についての非公式な提案であり、日本に対する要求書ではない。もちろん、実際には提案という形式で対日要求を示したものではあるのだが、その項目数は10項目である。具体的な内容を要約すると――
- 英・中・日・蘭・ソ連・タイ・米各国による相互不可侵条約の締結。
- 米・英・中・日・蘭・タイ各国政府による、フランス領インドシナの領土主権尊重、および貿易・通商に関する平等待遇に関する協定の締結。
- 日本軍の中国(China)およびインドシナからの撤退。
- 中国において重慶国民政府(蒋介石政権)以外の政権を支持しない。(したがって、1940年に日本の支援で作られた汪兆銘政権は支持しない。)
- 中国における租界・居留地権益および治外法権の放棄。
- 日米両政府による通商協定締結のための協議開始。
- 日米両政府が互いに行っている資産凍結措置を撤廃する。
- 円・ドル為替の安定に関する協定。
- 日米両国のいずれかが第三国と締結した協定について、太平洋地域全般の平和確立・保持と矛盾する解釈をしない。
- 他国政府に対してこの協定案の基本的な政治的・経済的姿勢を遵守させる。
見ての通り、「降伏」「武装解除」「財産移管」などといった要求はどこにもない。
三上がいっている「日・独・伊防共協定」(1937年)は、おそらく日独伊三国同盟(1940年)の間違いだろう(混同されやすいが、別の条約である)。ハル・ノートの第9項に、日米いずれかが第三国と結んだ協定について「太平洋地域全般の平和確立及保持に矛盾する」解釈を禁止する条項があり、これは日独伊三国同盟の空文化だと解釈されているが、同盟そのものを破棄せよ、という要求はしていない。
さらに「南方方面市場の放棄」というのはどういう意味なのだろうか。ハル・ノートにはインドの市場の話なんてひとこともないのだが。
そして最も重要なのは、「一項目といえでも認めることは出来ないとなれば、これをもって最後通達宣戦布告に変える」などという文言など存在しないし、口頭でも伝えられていない、ということである。だいたい、それでは最後通牒そのものである。
確かにハル・ノート手交の時点で、アメリカはもはや開戦は時間の問題だと見ており、だからこそあえて原則論を突きつけてきたと考えられている。ただし、それは日本側も同じである。日本海軍の機動部隊が真珠湾攻撃のために択捉(エトロフ)島の単冠(ヒトカップ)湾を出発したのは日本時間11月26日朝6時頃、つまりハル・ノートが手交される約25時間前であった(12月1日までに日米交渉が妥結すれば引き返すということにはなっていたが)。手交の日付が重要な意味を持つ、というのはこのためである(あるいは三上はこのことを知っていて、わざと1日早く偽ったのかもしれない)。
[…]インドのパルはこう申されました。このような無理難題を浴びせ掛けられたら、モナコやルクセンブルグのような小さい国でも、矛をとって立ち上がったであろうと、[…][34頁]
これは三上だけの問題ではないが、よく誤解されている箇所なので注意しておこう。『パル判決書』の正確な文面は以下の通りである。
現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができたのである。すなわち「今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に送ったものとおなじような通牒を受取った場合、モナコ王国[原文のママ、正しくは公国]やルクセンブルグ大公国でさえも合衆国にたいして戈をとって起ちあがったであろう」。[東京裁判研究会『共同研究パル判決書(下)』講談社学術文庫、1984年、441頁]
よく読めばわかるように、じつはこの発言はパル判事本人の言葉ではなく、他人の発言からの引用なのである(パル自身も同調していることは明らかだが)。具体的にいえば、ノック(Albert Jay Nock, 1870-1945)という人物の『メモアーズ・オブ・ア・スーパーフルアス・マン』(Memoirs of a Superfluous Man, 1943)にある発言を、東京裁判でブレイクニー弁護人が引用し、それをパルが孫引きしたのだ(須藤眞志『真珠湾〈奇襲〉論争』講談社選書メチエ、2004年、151-152頁)。
そもそも、この比喩自体、よく考えると変である。日本が中国と仏領インドシナに出兵している、ということがハル・ノートの前提になっている。つまり、モナコやルクセンブルクがフランスに出兵して膠着状態になっているところへイギリスが文句をつけてきた、などといった前提でもつけくわえない限り、適切な比喩にならないのである。
(第9回につづく)