2016年11月29日

『当世書生気質』と野口英世改名の謎(6・完)野口英世は野々口精作にならなかったか?

第1回第5回

 そもそも、『当世書生気質』が「清作」から「英世」への改名の原因になったことを知っている人間は、二人しかいないはずである。いうまでもなく、野口英世と小林栄である。

 野口が改名当時、周囲に改名の事情をどのように説明したのかは気になるところなのだが、あいにく、そのあたりは奥村鶴吉の『野口英世』にも記されていない。

 一方の小林は、『当世書生気質』が前途有望な医学生・野々口作の堕落と破滅の物語だと本気で信じていた節がある。逍遥宛の手紙で「主人公たる野々口作といふ医学生」などと書いていることからしてそうなのだが、東京歯科医学専門学校〔編・発行〕『野口英世 其生涯及業蹟』(1928年)には次のような記述がある。

 其時分清作は既に改名して居た、其の由来として小林氏の語らるゝ処によれば、清作が順天堂勤務中小林氏の御母堂[原文のママ]が腎臓病に罹り病勢軽からぬ事を聞くや、帰省して前後三十餘日熱心に看護につとめ、漸く快方に赴きたる頃一日[ある日、の意]坪内逍遥氏の書生気質と云ふ小説を繙いた処が、其中に野口清作[原文のママ]なる人物あり、初めは勉学に熱心将来に望をかけられたが後酒色に溺れ、遂に堕落し終ると云ふ筋が書てあつた。当の清作大に気持ちを悪くし遂に改名を志して之を小林氏に相談し其同意を得て英世と改めたのである。[東京歯科医学専門学校〔編〕『野口英世 其生涯及業蹟』東京歯科医学専門学校、1928年、32-33頁

 「小林氏の語らるゝ処」と言いながら小林の妻を母と取り違えるという初歩的なミスがあり、やや信頼性に疑問が残るが、どうやら、誤伝の出所として怪しいのは小林だということになりそうだ。そもそも、小林自身の回想の通りなら、彼は『当世書生気質』を野々口精作のくだりしか読んでいないはずだし、その後、再読の機会があったわけでもないようだ。

 小林栄は、教え子・野口英世の顕彰にすこぶる熱心な人物であった。これは憶測でしかないのだが、野口が世界的に有名な医学者になってのち、小林が取材に答えて改名のいきさつを語っているうちに、記憶違いや思い込みが生じた、ということではないだろうか。それをさらに、無責任な伝記作家たちが確認もせずに書いていった結果、もとの小説の内容とは全く違った話が出来上がってしまったのではないか。

 さて、野口清作改め英世は、改名を機に心機一転、これまでの行状を改めて真人間になった――といえば話は綺麗におさまるのだが、あいにく、そうはならなかった。伝記を読む限り、改名後も行状が特に変わった様子がないどころか、むしろ悪化した節がある。いったいなんのために改名したんだ、と、いぶかしくなるところである。

 1899年(明治32)5月、伝染病研究所助手として図書の管理を担当していた野口は、高額な貴重書数冊を紛失するという不祥事を起こす。奥村鶴吉は、無断で友人に貸し出したところ勝手に売り払われた、としているが、真相は不明である。少なくとも、この件で北里柴三郎所長(1853-1931)の信用を大きく損ねたのは事実のようで、野口は責任をとらされて横浜海港検疫所へ左遷されている。もっとも、月給は13円から35円に増えた。

 なお、当時の1円は現在のおよそ4000円である。もっとも、庶民レベルでの生活実感としては、その3〜4倍くらいの価値に見積もったほうがいいかもしれない。ちなみに、1897年(明治30)の巡査の初任給が9円、1900年(明治33)の小学校教員の初任給が10〜13円である(週刊朝日〔編〕『値段の明治大正昭和風俗史 上』朝日文庫、1987年)。

 同年10月、清国の牛荘[ニュウチャン](現・遼寧省海城[ハイチョン]市)でペストが発生したため、日本からも医師団を派遣することになり、北里は野口を推薦した。ところが、野口は支給された旅費96円を、出発前に借金の返済などで使い果たしてしまい、仕方なく血脇守之助に泣きついている。牛荘では月給200両[テール](のち300両に増額。当時の日本円で約300〜400円)の高級取りだったが、その月給を一晩で使い果たすほどの豪遊を繰り広げたため、ろくに貯金もできなかったという。

 1900年(明治33)にアメリカに渡った際のエピソードはさらに無茶苦茶である。義和団の武装蜂起が起こり、牛荘が危険になったため、野口は1900年6月に帰国する。この間、真面目に貯金してさえいれば渡米費用は十分に貯められたはずなのだが、なにしろ上述の通りの状況なので、ちっとも貯まっていなかった。故郷の幼馴染で資産家の息子の八子弥寿平(やご・やすへい)に無心しようとしたところ、さすがに見かねた小林栄に止められるし、北里柴三郎から金銭面での信用を失ったのが祟り、医学関係者からの出資は見込めず、八方ふさがりになってしまう。

 そこで野口は、ある資産家の娘と婚約し、その持参金200円を前借りして渡米費用にあてることにした。ところが、切符すらもまだ買わないうちに、彼は横浜で開かれた送別会で、自分の送別会なのに「僕に一切任しておいてくれ」と言い出し、一流料亭で豪遊を繰り広げたあげく、こともあろうに、肝心の渡米費用にあてるはずの金を一晩でほとんど使い果たしてしまったのである。翌日、さすがに真っ青になった彼は、東京に戻って血脇に泣きつく。さすがの血脇も、呆れかえってしばらくは二の句がつげなかったというが(当たり前だ)、いまさら渡米できない、ということになったら話がさらに面倒なことになる。やむなく血脇は高利貸しから300円あまりを借りたが、さすがにこの金を直接野口に手渡すわけにはいかず、自分で切符を買って野口に渡したという。

 この後日談がさらにひどくて、野口は結局、長いこと言を左右にしたあげく、1905年(明治38)に婚約を解消してしまうのである。婚約金300円を立て替え返済する羽目になったのは、またしても血脇であった。この金はずっと後の1915年(大正4)7月になって、野口が帝国学士院恩賜賞を受賞した際、その賞金で血脇に返済している。

 こうした一連の行状は奥村の『野口英世』に詳述されているのだが、「偉人・野口英世」のイメージに反するため、戦前に書かれた野口英世伝ではほとんど無視されるか、あるいは話を大幅にねじ曲げられていた。読者のほうも聖人君子としての野口英世像を求めるため、なかなか訂正される機会もなかったのである。戦後になると、こうしたマイナス面を含めた野口英世の全体像を描こうとする伝記も出てくるのだが、そうした側面が一般に知られるようになるのは、筑波常治『野口英世』(1969年)や秋元寿恵夫『人間・野口英世』(1971年)、そして渡辺淳一の伝記小説『遠き落日』(1975〜78年連載、1979年刊)あたりからのことだろう。

 1912年にアメリカ人女性メリー・ダーディスと結婚してからは、さすがに放蕩癖はおさまったといわれているが、金銭感覚のほうは、ついに最後まで身につかなったらしい。1915年に一時帰国した際も、すでにロックフェラー医学研究所の正員となっていたにもかかわらず、例によって旅費が捻出できず、旧知の星製薬社長・星一(ほし・はじめ。1873-1951。作家・星新一の父)に「ハハミタシ、ニホンニカエル、カネオクレ」(母見たし、日本に帰る、金送れ)と電報を送る始末であった。奥村は、「彼の財布には、どの国の金銭も決して滞在することを承知しなかつたのである」(485頁)と評している。

 ある意味で、野口英世と野々口精作には、確かに似たところがある。どちらも本人は問題だらけの人物なのに、世間にはその事実が巧妙に隠され、立派な人間だと思われている。もっとも野口英世の場合、世間に事実を隠したのは本人というよりも、世界的偉人・野口英世は非の打ちどころのない模範的人間であってほしい、と願う周囲の人間たちや伝記作家たち――そして、その読者たちだったのだが。

(おわり)

参考文献

  • 秋元寿恵夫[1969]「筑波常治著 野口英世 名声に生きぬいた生涯 “野口神話”のカラクリをあばく 類書と同じ解釈に陥った点も‥‥」『週刊読書人』第771号(読書人、1969年4月14日号)
  • 秋元寿恵夫[1971]『人間・野口英世――医学につくした努力の生涯』〔少年少女世界のノンフィクション 26〕(偕成社)
  • 『今ふたたび野口英世』編集委員会〔編〕[2000]『今ふたたび 野口英世』(愛文書院)
  • エクスタイン,ガスタフ[1959]内田清之助〔訳〕『野口英世伝』(東京創元社)
  • 奥村鶴吉〔編〕[1933]『野口英世』(岩波書店) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213588
  • 週刊朝日〔編〕[1987]『値段の明治大正昭和風俗史 上』〔朝日文庫〕(朝日新聞社)
  • 高田早苗[1927]『半峰昔ばなし』(早稲田大学出版部) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192045
  • 丹実〔編著〕[1976]『野口英世――その生涯と業績 第1巻 伝記』(講談社)
  • 筑波常治[1969]『野口英世――名声に生きぬいた生涯』〔講談社現代新書〕(講談社)
  • 坪内逍遙[1926]『當世書生気質』〔明治文学名著全集 第一篇〕(東京堂) http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/tomon/tomon_12163/
  • 坪内逍遙[1930]「野口英世博士發奮物語――見よ! この母、この師、而してこの人」『キング』第6卷第10號(大日本雄辯會講談社、1930年10月號)116-123頁
  • 坪内逍遙[1933]『柿の蔕』(中央公論社) http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/tomon/tomon_16417/ https://books.google.co.jp/books?id=wujJrVur8pgC
  • 坪内逍遙[2006]『当世書生気質』〔岩波文庫〕(岩波書店)
  • 東京歯科医学専門学校〔編〕[1928]『野口英世 其生涯及業蹟』(東京歯科医学専門学校) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177786
  • 中山茂[1995]『野口英世』〔同時代ライブラリー〕(岩波書店)
  • 滑川道夫[1978]『少年伝記 野口英世』(野口英世記念会)
  • 渡辺淳一[1990]『遠き落日 上』〔集英社文庫〕(集英社)
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2016年11月27日

『当世書生気質』と野口英世改名の謎(5)野口英世の虚像と実像

第1回第4回

 先述したように野口の上京は1896年9月のことだが、間もなく彼は悪癖を身につけてしまう。遊蕩癖と浪費癖、そして借金癖である。幼いころから貧乏であったにもかかわらず――というよりはむしろ、おそらくはそのせいで、彼には金銭感覚というものが全くといっていいほど身についていなかった。少しでも収入があると、すぐに友達に食事をおごったり遊里に行ったりして、あっという間に使い果たしてしまう。そして、そのたびに周囲にたかる、という行状を続けていたのである。貧農の家に育ったせいもあり、もともと幼いころから周りの友達にたかる癖があったのだが、都会にきて悪い遊びを覚えてしまい、その癖が悪化した。当然ながら悪評が立つのは避けられない。要するに、各種野口英世伝が記す「野々口精作」の行跡は、じつは、小説中の野々口精作よりも、実在の野口清作のほうによく似ていたのである。

 ところが、生前から没後すぐの時期にかけて書かれた野口英世の伝記は、そのほとんどが、そうした実像を隠して、野口を、あたかも完璧な聖人君子であるかのように描くものだった。なにしろ、アメリカで自分の伝記――1921年刊の渡部毒楼(善助)『発見王野口英世』だとされる――を一読した野口英世本人が、あまりの美化ぶりに呆れかえって

「まずい本だ。あの本に書いてあるような完全な人間なんているもんか。あの本に書いてあるような完全な人間になりたいと思う者なんてないだろう。あれは人間じゃないよ。人生はあんなふうにまっ直ぐに行くもんじゃないんだ。浮き沈みがあるんだ。浮き沈みのない人生なんて作り話にあるだけだ。」[ガスタフ・エクスタイン/内田清之助〔訳〕『野口英世伝』東京創元社、1959年、226頁]

とこきおろした、というエピソードがあるくらいである。逍遥が誤解したのも無理はない(なお『発見王野口英世』では、改名の理由は「野口清作では百姓臭くて、我ながら医師のような気がしない」[渡部毒樓『發見王野口英世』伊東出版部、1921年、38頁]となっており、『当世書生気質』に関するエピソードは出てこない。これに限らず、この本にはいい加減な記述が少なくなく、野口本人が酷評したというのもうなずける)。

 ちなみに、「婦人関係なぞはなかつた」というのも事実ではない。会津の会陽医院に勤務していた頃、野口は山内ヨネという女学生に恋をして、匿名でラヴレターを送ったりしている。その後、彼女は女医を目指して済生学舎に入学したため、野口と同窓になった。野口は彼女に頭蓋骨の標本をプレゼントしたり、検疫官の制服を着て気を引こうとしたりしたが、全く相手にされなかったという。とはいえ、彼女が女医となって会津に戻り、地元の医師と結婚するのは、野口の渡米後のことであり、失恋の痛手に耐えかねて渡米した、というのはさすがに作り話である。

 学歴こそないものの、常に本を手放さないほど勉学熱心な医学生でありながら、同時に、その本を持ったまま、金もないのに遊郭に遊びに行ってしまう、だらしなく金遣いの荒い遊び人で借金魔、という東京時代の野口の二面性は、東京歯科医学専門学校教授の奥村鶴吉(1881-1959)が、1933年(昭和8)発行の大著『野口英世』で詳細に明らかにした。奥村は血脇守之助宅で野口と数ヶ月間同居していたことがあり、また、アメリカでも野口の世話になったことがあって、野口の行状をよく知っていたのである。この伝記は、数多ある野口英世の伝記の中でも、もっとも基本的な文献のひとつとして扱われている。

 ところが、この奥村の伝記は、一方では『当世書生気質』についての誤解を助長することになってしまうのである。同書もまた、この小説の筋書きを次のように説明していたからである。

[…]その小説[『当世書生気質』]中に偶々出て来る医学書生に、彼の姓名に僅か「野」の一字加へただけの「野々口清作」[原文のママ]といふものがあつた。この野々口は、彼を知る人総てから将来を嘱望された秀才であつたが、ある機会から手もつけられぬ遊蕩児となつて、漸次堕落して行くといふ筋になつてゐた。彼[野口清作=英世]は驚愕[びっくり]して本を閉ぢた。彼と姓名が酷似するのみか、恰[あたか]も照魔鏡にかけられた如くに、彼がこの日頃、東都に於ける自分の醜態を今更の如く、まざ/\と思ひ浮べ、ぶる/\つと身震ひをして、もうそれ以上読むに堪へなかつた。[奥村鶴吉〔編〕『野口英世』岩波書店、1933年、195-196頁

 くどいようだが、『当世書生気質』には「彼を知る人総てから将来を嘱望された秀才」という描写もなければ「ある機会」についての描写もなく、「漸次堕落して行く」という描写もない。

 奥村『野口英世』執筆の時点では、逍遥はまだ健在だった。奥村『野口英世』と、「ドクトル野口英世と『書生気質』」が収録された逍遥の『柿の蔕[へた]』は、じつは発行年月日が同じ(1933年7月5日)である。逍遥本人に取材してさえいれば誤解は解けただろうし、逍遥の困惑も解消されただろうと思われるのだが、奥村は、先に触れた、小林栄から提供された逍遥の手紙(1930年5月16日付)を紹介し、『当世書生気質』が1885年(明治18)発表の作品であり、名前の類似は単なる偶然である、ということを示しただけで、十分だと思ってしまったようである。逍遥が手紙で『キング』に書くつもりだ、と知らせているのに、『キング』を確認した形跡も、なにより『当世書生気質』の内容を確認した形跡もない。

 奥村だけではない。その後の野口英世の伝記作家たちも、誰も『キング』を確認しようとしなかったようなのである。問題のエッセイは、丹実(たん・みのる)の大著『野口英世』(全4巻、1976〜77年)の文献目録にもない。渡辺淳一(1933-2014)による伝記小説『遠き落日』(1975〜78年連載、1979年刊)に至っては、「逍遙は英世のことを、随筆くらいでは書いたのかもしれないが、はっきりとした記録はない」などと書かれている(集英社文庫版、上巻、55頁)。どうやら、当の逍遥本人の発言であるにもかかわらず、野口英世研究者の間ではほとんど知られていないらしい。

 そして、奥村が間違いを訂正できなかったこともあり、その後に書かれた数多の伝記も、この間違いをそのまま引き継いでしまうことになる。

 1969年(昭和44)、秋元寿恵夫は、4月14日付『週刊読書人』に寄せた筑波常治(つくば・ひさはる)『野口英世』の書評で、「逍遥の『当世書生気質』をよくよんでみればわかる通り、野々口清作[原文のママ]はこの小説の主人公でも何でもなく、ましてや「大志を抱いて上京し、医者になるべく修業したのであったが、しだいに遊蕩に身をもちくずして、救いがたい状態に堕落していく」という筋立てでもない」ことを指摘した。このときまで、野口英世の没後40年以上、そして逍遥自身が間違いを指摘してから40年近くの間、野口の伝記作家たちは、誰も『当世書生気質』の内容を確認しなかった(あるいは、確認しても話を訂正しなかった)ようなのである。

 それどころか、秋元が誤りを指摘した後も、この誤伝は長く尾を引くことになる。渡辺淳一『遠き落日』や北篤『正伝野口英世』(1980年)など、秋元の『人間・野口英世』を参考文献として挙げている伝記にすら、なぜか同じ誤りが見られる。丹実『野口英世の生涯』(1976年、丹〔編〕『野口英世 第1巻』所収)にいたっては、『当世書生気質』の野々口精作登場の場面を長々と引用している(つまり、少なくともその場面は読んでいる)にもかかわらず、「この小説が、野々口精作という医学校の生徒がしだいに堕落するという筋書」だと説明しているのである。逍遥ならずとも、「一体、どこをどう読んだのであろう?」と首をひねりたくなるところである。

 この誤伝が、いつ、どのあたりから始まったのかはいまのところ不明なのだが、少なくとも野口英世の生前にすでに広まっていたことは間違いない。それどころか、生前の青少年向け読み物で広められていた話は、今よりもさらにデタラメだった。たとえば、1921年刊の『大正新立志伝』には次のようにある。

小林氏はその頃大評判の坪内逍遥博士の小説『書生気質』を一読したところが、その作中の人物に、野々口清作[原文のママ]といふ男があつて、天才肌ではあるが、後にはひどく、堕落するやうな経路が書かれてゐる。ところがその時、野々口清作[原文のママ]と呼んだ彼[野口清作=英世]は、その人物と姓名もまづそつくりで性格も多少似通つてゐるところから、小林氏は『野々口[原文のママ]もさうなつては困る。将来はどうあつても一大事業をやつて英名を世界に轟かさなければならぬ』といふので、英名の英と世界の世とを一つづゝとつて、英世と名づけたといふことである。[為藤五郎〔編〕『大正新立志伝』大日本雄弁会、1921年、36-37頁

 どうやらこの著者は、「英世」の名付け親が小林栄であることを知って、改名も猪苗代高等小学校在校時代のことだと誤解した上、『当世書生気質』を読んだのも小林栄だということにしてしまったようである。同じようなデタラメは『奮闘努力近代立志伝』(1924年)にも見られる。

 坪内逍遥博士の『書生気質』を読んだものは、篇中の主人公として現はれる野口清作[原文のママ]の名を知つて居るであらう。[…]野口英世氏は、その小年[原文のママ]時代の名を野々口清作[原文のママ]と云つたのである。書生気質の主人公野々口清作[原文のママ]が天才でありながら堕落する経路を読んだ氏の恩師小林氏は、氏の将来を慮つた結果、「世界に英名を轟かす」といふ意味から英世の名に改めてくれたのであつた。[経済之日本社編輯部〔編〕『奮闘努力近代立志伝』経済之日本社、1924年、221頁

 「坪内逍遥博士の『書生気質』を読んだもの」は、まず真っ先に、野々口精作が「篇中の主人公」ではないことを知るはずである。なんのことはない、書いた本人も読んではいないのだ。

 なお『当世書生気質』は、1897年(明治30)に『太陽』増刊号に再録されたのち(時期的に見て、野口が目にしたのはおそらくこの版)、30年近く再刊されなかった。おそらく逍遥が、この「旧悪全書」の再刊を嫌がったためだろう。1926年(大正15)に東京堂『明治文学名著全集』第1篇として再刊されたのちは再刊の機会が増え、『逍遥選集』別冊第1(春陽堂、1927年)、『現代日本文学全集』第2篇(改造社、1929年)、『明治大正文学全集』第3巻(春陽堂、1932年)、岩波文庫(1937年)などに再録されている。誤伝が広まった原因のひとつには、この作品が一時入手困難だったことがあるのかもしれない。

 それにしても、この誤伝を広めたのは誰なのだろうか?

第6回につづく

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2016年11月26日

『当世書生気質』と野口英世改名の謎(4)知らぬは逍遥ばかりなり?

第1回第3回

 各種野口英世伝が伝える『当世書生気質』のあらすじと、実際の小説の内容が全く違っている、という事実をいち早く指摘したのは、じつは、他ならぬ坪内逍遥本人である。

 1930年(昭和5)、逍遥は『キング』10月号に「野口英世博士発奮物語」というエッセイを発表した。このエッセイは、のち、「ドクトル野口英世と『書生気質』」と改題の上、坪内『柿の蔕[へた]中央公論社、1933年[http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/tomon/tomon_16417/]に再録されている(『逍遥選集』には未収録)。以下、『柿の蔕』による。

 話のきっかけは、この年5月、逍遥が小林栄から次のような問い合わせの手紙を受け取ったことである。

[…]明治三十年の頃順天堂病院に一医学生たりし当時の野口清作は御著書「書生気質」なる本を読みて該書中に主人公たる野々口清作[原文のママ]といふ医学生ありて恰も野口清作を呪ふが如き筋立なるを知りて深く驚歎いたし候自分も之に同情して英世と改名いたさせ世界の医界の英雄たれと訓戒致し候処本人も大いに奮起し遂に野口英世博士と相成り申し候右は偶然の御作意にして候哉今以て不思議に存じ候按ふに御著中の野々口清作の言動は野口清作の立志奮励に頗る有力なる刺激と相成り候次第に候願はくは当時の御趣意御漏らし下されたく別包記念写真呈上御願い申し候野口と自分とは義父子の間柄に候

(明治30年のころ、順天堂病院の一医学生だった当時の野口清作は、ご著書『書生気質』なる本を読んで、その本の中に主人公である野々口清作という医学生があり、あたかも野口清作を呪うような筋立てになっていることを知って深く驚きなげきました。私[小林]もこれに同情して英世と改名させ『世界の医学界の英雄になれ』と訓戒いたしましたところ、本人も大いに奮起し、ついに野口英世博士となりました。これは偶然のご作意なのでしょうか、今もって不思議に思っております。思うに、御著書中の野々口清作の言動は、野口清作の立志奮励にすこぶる有力な刺激となった次第です。願わくば当時のご趣意をお教え願えないでしょうか、別封しました記念写真を差し上げますので、お願いいたします。野口と私とは義父子の間柄です。)

 逍遥は「野々口作」なる人物をとっさには思い出せなかったが、『逍遥選集』を読み返して、「野々口作」が第6回に「たつた一度だけ顔を出す人物」で「無論、主人公ではない」ことを確かめている。

 すでに野々口精作登場の場面は紹介したが、あらためて逍遥自身の説明を引いておこう。

[…]此[この]粗放、此[この]磊落[らいらく]は、其[その]実、父母、親戚、学校当事者等を欺瞞するための小策略。野々口精作は、つまり、仮面を被つた放蕩者、要するに、今の世の学生には、斯[こ]ういふ風がはりなものもあるといふ作意なのである。此人物は此條下だけで立消えてしまつてゐる。

 逍遥にとってみれば、確かに名前がよく似ているとはいえ、なぜ、野口清作青年が、この小説に発奮させられ、改名を決意したのか、さっぱりわからない。野口英世の伝記は生前から多数書かれており、その中には改名のいきさつを記した文献も少なくなかったのだが、どうやら逍遥本人は、このときまで全くこの話を知らなかったようなのである。

 逍遥は5月16日付で小林に返信を出す。この手紙は奥村鶴吉〔編〕『野口英世』に引用されているので、そこから引用する。

復 故野口博士に関する御追憶談は洵に耳新しく深き感興を以て拝読致し候彼の拙作は明治十七年起稿十八年出版のいたづらかき甚しき架空人物の姓名なども大方出たらめに候あの比故博士は多分九歳か十歳におはし候ひけむ姓名の類似は申す迄もなく偶然に候何故医学生にあの如き放蕩者を作りいだし候ひしかと申すに当時東京大学医学部と称し候ひし本郷の医学校は其専門の然らしめし所か学生中に洒落者多く銭づかひもあらきよし風聞盛んなりし故さてこそあの如き諷刺を試み候ひしに過ぎずもつとも借金番附の如きは多少よりどころありしものに候

いづれにせよ四十五六年前の悪作おもひ出すさへ冷汗淋漓に候然るにあの如きものが思ひがけずも真個世界的大国手故博士発憤の一機縁と相成しとは一に是れ貴下の御高諭と故博士の英邁なる天資の然らしめし所たるや申す迄もなき儀と存じ候

さりとて世に珍しき御物がたり若しおさしつかえへなくば御仰せ越しのまゝに故博士の小伝をも加へて拙文につゞり例へばキングの如き誌上にて公にせんには今一世に瀰漫する惰気蕩気を多少廻らすに足るべきかと考へ候[…][奥村鶴吉〔編〕『野口英世』岩波書店、1933年、197-198頁

(返信。故野口博士に関する御追憶談はまことに耳新しく、深い感興を以て拝読いたしました。かの拙作は、明治17年起稿・18年出版の、いたずら書きもはなはだしいもので、架空人物の姓名なども大方デタラメです。あのころ、故博士は多分9歳か10歳だったのではないでしょうか[明治18年には数え年10歳]。姓名の類似は、申すまでもなく偶然です。なにゆえ、医学生としてあのような放蕩者を創作しましたかと申しますと、当時、東京大学医学部と称しておりました本郷の医学校[1930年当時は東京帝国大学医学部]は、その専門のせいでしょうか、学生中にしゃれ者が多く、金使いも荒いという風聞が盛んであったので、それであのような諷刺を試みたにすぎません。もっとも、[作中に登場する]借金番付のごときは、多少よりどころがあるものです。

 いずれにせよ、45〜6年前の悪作であり、思い出すことさえ冷汗が流れます。それなのに、あのようなものが思いがけずも、本当に世界的な大国手[名医]である故博士の発憤の一機縁となったとは、一にこれ、貴下の御教えと、故博士のすぐれた生まれつきの資質がそうさせたことは、申すまでもないことと思います。

 しかしながら、世にも珍しいご物語。もしお差支えなければ、お伝えいただいたままに、故博士の小伝をも加えて拙文につづり、例えば『キング』のような雑誌にて公にすれば、いまひとつ、世にはびこるだらけた気分、しまりのない気分を多少変化させるのに十分ではないかと考えます。)

 かくて、野口英世改名のいきさつを、当時の国民的雑誌であった『キング』に紹介しようと考えた逍遥は、詳しい事情を小林に問い合わせるとともに、自分でも下調べを始めた。すると、次のような噂話が耳にはいってきた。

 或[ある]人は、博士の洋行は失恋の結果だつたといふ噂だといひ、或人は、彼れは青年時代には中々の放蕩者だつたといふ噂だといた。双方とも無証拠で、単なる噂話であつたが、『書生気質』との関係を説明するには、むしろ誘惑的な材料であつた。

 いっぽう、野口英世伝のたぐいを読んでみると、そこではおおむね、『当世書生気質』は次のような話だとされていた。

「年齢、風采等までも同じやうな野々口清(実は精)作といふは田舎から上京した秀才の医学生、それが友人に誘はれて或芸妓になじみ、学業を怠り、其上、不摂生をしたために病気になり、果は女にも捨てられ、失恋と病苦とで悲観して自殺する」云々。

 逍遥はますます困惑する。

 ところが、小説中の精作にはそんな経歴は少しもない。いや、作の主人公小町田粲爾といふ人物とても、芸妓と馴染むといふ事はあるが、騙されたわけではなく、随つて失恋はせず、病気にもならず、自殺もしない。一体、どこをどう読んだのであらう?

 ……まったくもって同感である。

 逍遥は各種野口英世伝や小林との通信、野口を知る人たちとの聞き取りを通じて、野口が放蕩者だったという噂話を否定する。ところがその結果、なぜ野口が『当世書生気質』に発奮したのか、そもそも、いったいどこから「失恋と病苦とで悲観して自殺する」なんて話が出てきたのか、逍遥はさっぱりわからなくなってしまう。

 それにしても、清作[実在の野口清作=英世]は一意学問に精進してゐた真摯熱誠実の貧学生、或人の噂したやうに、放蕩する餘裕なぞがある筈はなく、又あらゆる意味で婦人関係なぞはなかつたといふ事だ。とすると、境遇、性格、風采までが、相酷似してゐたから、とは、一体、何を指すのか?

 逍遥は、野口が重病で順天堂病院に入院中だったものと誤解して、病気で前途を悲観していた時期に読んだために内容を勘違いしたのではないか、と推測した。しかし、このエッセイが『キング』誌に掲載された後で、逍遥は小林から、野口が『当世書生気質』を読んだのは、猪苗代で小林の妻を看病中だったときのことだと教えられる。それを知った逍遥は、「明敏な頭脳の持主であつた筈[はず]の博士[野口]が、どうしてそんな粗忽[そこつ]な読み方をしたの歟[か]、不思議でならない」とますます困惑している。

 ところが、じつは逍遥が最初に聞いた噂話のほうが真相に近かったのだ。確かに、野口清作青年が「一意学問に精進してゐた真摯熱誠実の貧学生」だったのは事実なのだが、彼は、それと同時に、間違いなく「中々の放蕩者」でもあったのである。

第5回につづく

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『当世書生気質』と野口英世改名の謎(3)『一読三歎 当世書生気質』

第1回第2回

 逍遥の一読三歎 当世書生気質』(いちどくさんたん とうせいしょせいかたぎ)は、最初、「春のやおぼろ」(春廼舎 朧)名義で、1885年(明治18)6月から翌1886年(明治19)1月にかけて分冊形式で刊行された(全17号)。坪内逍遥の最初の小説で、『小説神髄』(1885年9月〜1886年3月刊、執筆は『当世書生気質』より前)で逍遥が主張した近代的リアリズム小説論の実践篇、という意味合いを持っている。当時、逍遥は満26歳。3年前に東京大学文学部政治科を卒業したばかりであり、東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師をつとめていた。

 文学史的な位置づけから言えば、この小説は日本初の近代小説になりそこねた作品、とでも言えるだろうか。『小説神髄』の実践篇といいながらも、江戸の戯作文学の影響が色濃く残っているからである。文体も、会話文では当時の話し言葉が用いられているが、地の文はいまだ文語体である。言文一致体リアリズム小説の完成は、2年後に発表された二葉亭四迷『浮雲』(1887〜89年)まで待たなければならない。

 逍遥自身は後年、『当世書生気質』や『小説神髄』などの初期作品を自ら「予の旧悪全書」と自嘲し、再刊を嫌がった。『逍遥選集』(春陽堂、1926〜27年)刊行の際にも再録を渋ったが版元に押し切られ、「別冊」に収めている。なお、逍遥の全集は2016年現在も刊行されておらず、この『逍遥選集』が事実上の全集となっている。

 『当世書生気質』は、東大在学時代の学友たちの言動を下敷きにして書かれており、登場する書生たちは、作中では私塾(私立の専門学校)の学生という設定になっているが、実際のモデルは東大の学生である。当時、日本国内の大学は東京大学ただ一校のみであり(「帝国大学」になるのは1886年)、その学生はエリート中のエリートであった。

 時代設定は作品発表より3年前の明治15年(1882年)、つまり逍遥の在学時代(逍遥は「明治十四五年」としているが、作中で登場人物が明治15年4月の板垣退助遭難事件に言及する場面があるため、明治15年と特定できる)。東京の飛鳥山で、ある大学の書生たちが運動会を開いた際に、その一人である小町田粲爾(こまちだ・さんじ)が、田の次(たのじ)という芸妓と偶然に再会する場面から話は始まる。じつは、田の次は本名をお芳(よし)といい、粲爾の父で明治政府の役人だった浩爾(こうじ)と、その妾(めかけ)で元芸者のお常が、ふとした偶然から拾った孤児で、粲爾とは兄妹同然に育てられてきたのである。ところがその後、浩爾が失職したため妾を囲っておくことができなくなり、お常はやむなく芸者に戻り、お芳にも同じ道を歩ませることになった。そういうわけで、幼馴染同士の粲爾と田の次は互いにひかれあっているのだが、事情を知らない周囲から見れば、前途ある学生が女遊びにうつつをぬかしているようにしか見えない。そのせいで粲爾は次第に追い詰められていく。

 いっぽう、粲爾の学友で資産家の息子である守山友芳(もりやま・ともよし)には、明治元年(1868)の上野戦争の際、生き別れになった妹、おそでがいた。友芳は、これまた偶然に出会った皃鳥(かおどり)という遊女が、実は妹なのではないか、と疑い始める。

 以上の本筋と並行して、気ままでお調子者の倉瀬蓮作(モデルは逍遥自身に、別の友人を足し合わせたものという)、飄々とした、自他ともに認める奇人の任那透一(にんな・とういち)(モデルはジャーナリストの山田一郎)、スイカを拳割りする粗野な男で、男色家の桐山勉六(モデルは三宅雪嶺だとする説があるが、逍遥は否定している)、その友人で知恵もなければ勇気もない須河悌三郎(すがわ・ていざぶろう)、などといった一癖ある書生たちの行状記が次々と語られてゆく。最後は、田の次ことお芳こそが守山友芳の本当の妹であることが明らかになり、大団円を迎える。

 さて、問題の野々口精作はというと、全20回(章)のうち第6回「詐[いつわり]は以て非[ひ]を飾るに足る 善悪の差別[けじめ]もわかうどの悪所通ひ」だけに登場する。この回は1885年8月に刊行された。以下、岩波文庫版によって見ていく。

 「年の頃は二十二三、ある医学校の生徒にして、もう一二年で卒業する、野々口精作といふ田舎男」。帰省から帰ってきたばかりのこの男が、友人の倉瀬蓮作とばったり出会い、池之端(現・東京都台東区、上野不忍池の周辺)の「蓮玉」という蕎麦屋(実在の蕎麦屋で、正確には「蓮玉庵」といい、当時は上野不忍池のほとりにあった。現在は池之端仲町通りに移転)で一杯やる……というだけの話である。じつのところ、この場面は本筋とまったく関係ない

 野々口は倉瀬に対して、帰省中「親類の野郎共めが、皆々我輩を信用して、倅共[せがれども]を三人まで今回我輩に委託したぞ。蓋[けだ]し東京へ帰つて後も、同じ所に下宿をして我輩の薫陶を受[うけ]させいたといふ請願サ」とこぼす。というのも、見かけは質素というより粗放磊落で、自分ではぬけぬけと「謹直方正の人間」と言い張るこの男、じつはとんだ放蕩者で、おまけに嘘つきだからである。たとえば、父親に金をせびる口実がなくなったので、病気を装おうとして、酒を六合も飲んだ上に「下谷からお茶の水まで」(約4km)全力疾走した上で病院に駆け込んだという。それでもこの男、「我輩は親の金はつかふけれど、別にたいした外債も醸[かも]さないぞ。それでも五十円位はあるが」と語る。なにしろ、彼の通っている学校には他にもひどい借金魔がおり、筆頭は2000円なので、50円というのは少ない方なのである。

 貨幣価値の計算は難しいのだが、1881年頃の1円は、だいたい現在の4000〜5000円くらいになる。つまり50円は20〜25万円、2000円は800〜1000万円くらいとなる。

 ただしこの男、放蕩ぶりを隠すのが巧妙な偽善者で、「校長も証人も親父も阿兄[あにき]も、各々我輩を信用して、曽[かつ]て疑ふもの一人もなしサ。金を送つてよこせというてやれば、安心して送つてよこすし、証人の所へ頼んでも、疑はないで貸してよこすぞ」とうそぶく。野々口が倉瀬をさそって遊郭へ向かう、というところで第6回は終わる。まさしく、「いつわりはもって非を飾るに足る、善悪のけじめも若人(わこうど)の悪所通い」(「わからない」と「若人」をかけている)というサブタイトル通りの、猫かぶりの小悪党の話である。なお逍遥は、「本篇(第六回をいふ)中の書生の如きは、決して上流の書生にあらねば、看客[みるひと]其積[そのつもり]にして読みたまへ」とわざわざコメントしている。

 その後、野々口は二度と再登場しない(名前だけは第7回と第18回下で言及されている)。最終回(第20回)のエピローグで、次のように語られているだけである。

 野々口はいかにしけん、池の端[第6回の場面]以来倉瀬もきかず、放蕩家[ほうたうもの]などと悪くはいへど、野々口の如きは利発者[りはつもの]なり、あの術[て]でお医者さまになつたる時には、屹度[きっと]甘くやるに相違ないとは、是又倉瀬の独断論なり。蓋し保証[うけあ]はれぬ話にこそ。

 確認しておこう。各種野口英世伝が伝える「野々口精作」像のうち、田舎から東京に出てきた放蕩者の医学生、という設定までは確かに合っている。しかし、それ以外は全くのデタラメで、まず主人公ではないどころか、本筋と何一つ関係のない一端役にすぎないし、将来を楽しみにされている真面目な人物という描写は一切なく、最初から放蕩者として登場する。堕落のきっかけが語られることもないし、何より、周囲から見捨てられる場面など存在しない。むしろ、その放蕩ぶりを学校や親族や保証人には巧妙に隠しており、友人からは「放蕩者といえば悪くきこえるが、地は利発者だから、無事に医者になった際には案外うまくやるかもしれない」と思われているのである。

第4回につづく

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2016年11月24日

『当世書生気質』と野口英世改名の謎(2)野口清作が野口英世になるまで

第1回

 まず、野口英世の改名の、正確ないきさつを確認しておこう。

 野口清作(英世)は1893年(明治26)3月、数え年18歳(満16歳)で猪苗代高等小学校を卒業した後、会津若松の会陽病院に勤務し、医師としての修業を始めることになった。当時の制度では、医学校を卒業しなくとも、医師開業試験に合格することで医師免許を得ることができた。医師開業試験は前期と後期の2回があり、それぞれ1年半以上(つまり計3年以上)の「修学」が受験資格とされていたが、実際にはかなりルーズで、病院での徒弟修業なども「修学」として認められていた。

 1896年(明治29)9月、野口は数え年21歳(満19歳)で勉学と医術開業試験受験のため上京し、10月に前期試験に合格した。その後、会陽医院時代に知り合った高山歯科医学院(のち東京歯科医学院、東京歯科医学専門学校を経て現・東京歯科大学)講師の血脇守之助(ちわき・もりのすけ)(1870-1947)を頼りながら勉学を続け、翌1897年(明治30)5月に医術開業試験の予備校である済生学舎(日本医科大学の間接的な前身)に入学、10月に後期試験に合格し医師免許を得ている。その後、ひとまず高山歯科医学院講師となり、11月に順天堂病院に助手として就職、1898年(明治31)10月に伝染病研究所(伝研、現・東京大学医科学研究所)に移籍した。その後、海港検疫官補などを歴任したのち、1900年(明治33)12月、数え年25歳(満24歳)のときに渡米した。その後は1915年(大正3)に一時帰国しただけほかは、死去するまで海外で過ごしている。

 野口が改名を決意したのは1898年夏、順天堂病院在籍中のことである(伝研在籍中としている文献があるが、これは奥村鶴吉〔編〕『野口英世』が、伝研移籍を誤って1898年4月としたことの影響と思われる)。小林栄の後年(1939年)の回想によれば、改名のいきさつは次のようなものだったという。

 丁度[ちょうど]その頃、私[小林栄]の家内が病気にかゝつた。なか/\なほらない。それは腎臓病であった。博士[野口清作=英世]の方へ報知したれば、心配して大家の説だの、薬等を送ってよこして居ったが、なか/\はかどらない。とても耐[こら]へられないで、[野口本人が猪苗代に]やって来た。日夜看病に尽力、まことに親切であった。

[…]流石の病気もだん/\よい方になって、先づ安心といふ事になった。当時の野口清作、少し退屈を催してあったのか、どこからか小説の様なものをもって来て、見て居ったが、はったと刺激を受けて歎息と憤慨との様子があらはれた。彼いふには、「先生大変なことが出来ました。この本を見て下さい。実に残念で堪へられません。」腕組になって、切歯扼腕といふ有様であった。

「何事であるか。」「この本を見て下さい。大変な事です。」

「そんな厚い本を見てゐられない。」「いや、すこうし見て下さるとわかる。」

 それは坪内逍遙博士の『当世書生気質』といふ本であったが、見たところがなるほど驚いた。

「これは貴様が悪い事をした事を坪内先生に見つけられたのであらう。」

「決してわたしではありません。決して致しません。」

「然しそれはどうもあやしい。『野々口精作』医学生、天才肌の将来有望なる青年とある。どうもお前の事によくあたってをるではないか。これは坪内先生が見たやうに思ふがどうだ。」

「私に似てをるから、私は残念でたまりません。決して私ではありません。残念でたへられないから、何とかして下さい。」

 顔色をかへて奮激してをる。詐[いつわ]りでないやうに思はれた。[小林栄「野口英世の思出」丹実〔編著〕『野口英世――その生涯と業績 第1巻 伝記』講談社、1976年、所収、231-232頁]

 40年以上も経ってからの回想を口述筆記したものなので、内容の正確さには多少疑問がある。たとえば「野々口作」とあるが、後で触れるように、小林は後年(1930年)に逍遥本人から指摘されるまで、ずっと「野々口作」だと思い込んでいたのである。また、野々口精作は確かに医学生だという設定だが、「天才肌の将来有望なる青年」などという話は作中には一切出てこない。ついでながら、逍遥が文学博士となったのは、実際には翌1899年である。

 小林は『当世書生気質』の具体的な内容を説明していないので、野口がいったい何に憤慨したのか、この記述からはさっぱりわからない。野口清作と名前のよく似た野々口精作という人物が、あまり良くない役回りで登場するらしい、ということがわかる程度である。この話からすると、どうやら野口清作青年は、野々口精作登場の場面までを読んで憤激し、小林にその部分だけを読むように求めたらしい。つまり、二人とも小説を最後まできちんと読んだ形跡がないのである。

 小林は野口が野々口のモデルなのではないかと疑い、野口はやけに必死になってそれを否定しているのだが、そもそも、『当世書生気質』は1885〜86年(明治18〜19)に分冊形式で発表され、1886年に単行本にまとめられたものである。執筆時の逍遥が、当時満8歳の小学生だった野口清作の名前を知り得たはずもない。いうまでもなく、単なる偶然の一致である。なお、野口が目にしたのがどの版かは不明である。10年以上も前に出版された小説をなぜ読む気になったのかも不明なのだが(「知人から薦められて読んだ」としている文献もあるが、小林の回想にはそのような話は出てこない)、前年に出された『太陽』博文館創業十周年紀念臨時増刊(1897年6月)に全文が再録されているので、これを読んだのかもしれない。

 引用に戻る。

「然し不思議な事だ。困った事だ。何とかするといって、名誉毀損の訴を起す訳にも行くまい。大層苦しければ、改名する外あるまい。外に工夫はない。」

「どうぞ改名して下さい。」「いや、今すぐに改名は出来ない。少し時日を待つ外ない。その中に考へて見よう。」

 それで不承々々[ふしょうぶしょう]、その話をそれまでで打ちとめた。しかし不愉快な様子をして居ったのは気の毒のやうでもあった。

 それから二三日過ぎて催促を受けた。「待て、今ちっと考へる。」

 そのあした(翌日)、

「一つ考へたが、『英世』といふことがどうかと思ふ。英といふ字は小林家の実名の頭字[かしらじ]だ、これは立派な字だ。英雄等といふ時に使ふ字だ。世の字は世界、広い意味をもってをる。さうすると、医者の英雄になって、世界によい仕事をしろといふ事になるのだ。あんまり立派すぎる。過分であらう。近頃は人間より名前が勝って、まことに不相応なをかしい事が世の中に大分にあるやうだ。お前の名もその通り、人間より名の方が立派になっては可笑しいものにならう。名負けはせぬか、どうだ。」「いや、まことに結構です。どうぞその名にして下さい。大いに奮励して名に負けないやうに致します。きつと奮励いたします。」[丹〔編著〕『野口英世 第1巻』232頁]

 小林としては、数日置いて頭を冷やさせるつもりだったのだろうが、野口は意固地になっていたらしい。

 なお、今でもそうだが、戸籍上の改名というものは簡単にできるものではなく、それなりに正当な理由というものが必要とされていた。そこで小林はからめ手を考え出す。正当な改名の理由の一つに、同じ町村内に同姓同名者がいる、というものがあったので、それを利用したのである。

 戸籍面も改名しようとして村長[野口の本籍地である翁島村の村長]に相談し、同村に同名の人をつくる事にして、蜂屋敷[現・猪苗代町大字堅田字蜂屋敷。当時は千里村所属]といふ所の佐藤清作といふ青年と、その親に頼んで、三城潟[現・猪苗代町大字三ツ和字三城潟。当時は翁島村所属。野口の出生地]の野口といふ人のうちに籍を移した。それで野口清作が同村に二人出来た。それから願って改名したのでありました。大分日数がかゝつてあった。[丹〔編著〕『野口英世 第1巻』232頁]

 さて、野口清作青年がそれほどまで憤慨した『当世書生気質』とは、どのような小説なのか?

第3回につづく

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『当世書生気質』と野口英世改名の謎(1)野口清作と野々口精作

 野口英世(1876-1928)は出生時の戸籍名を「清作」といい、1898年(明治31)、数え年23歳のときに「英世」と改名した(正式に戸籍名を改めたのは翌1899年10月)。「英世」という名を考案し、戸籍名変更のために尽力したのは、清作の猪苗代高等小学校(現・猪苗代町立猪苗代小学校)時代の恩師、小林栄(1860-1940)である。

 ついでながら、もちろん本人は「ひでよ」のつもりでいたし、英語論文でも Hideyo Noguchi と署名していたのだが、生前、この名前は、日本ではもっぱら音読みで「えいせい」と読まれていた。

 この改名が、坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)(1859-1935)の小説『当世書生気質』(とうせいしょせいかたぎ)(1885-86)の影響だ、という話はつとに知られている。この小説に、「野口清作」と酷似した「野々口精作」(「清」ではなく「精」であることに注意)という名前の不良医学生が登場するのを苦にして改名した、というのである。

 たとえば、財団法人野口英世記念会発行の『少年伝記 野口英世』(1978年)には次のようにある。

ある人が、

「清作くん、この本は坪内逍遙という人のかいた『当世書生気質』という小説だよ。よんでみたまえ、おもしろいよ」

と、本をかしてくれました。

 清作はよんでいくうちに、なるほどおもしろくて、ぐんぐんとひきいれられていきました。小説の中に、自分とよくにた名の医学書生がでてくるからです。「野々口精作」といって、自分の名まえ、「野口清作」によくにています。

[…]

 よみすすんでいくうちに、清作は、だんだんいやな気持ちになってきました。小説にでてくる主人公の「野々口精作」は、みんなから、しょうらいをたのしみにされていたのに、あるつまらない事件から、だんだんわるくなって、とうとうさいごには、だれからもあいてにされなくなってしまうという、すじだったのです。

 清作は、名まえがにているばかりでなく、医学書生であることなども、なんだか、自分のことがかかれた小説のようにおもえました。

「先生、この『当世書生気質』をよんで、すっかりかんがえてしまいました。どうも、ぼくによくにているところあるし、それに、清作という名もよくないなあ。ぼく、なんだか、この小説の清作になりそうな気がします。」

「あはは、なにをくだらないことをいうのだ。しっかりしたまえ。しかし、それほど気にかかるなら、名まえをかえてみたまえ。改名をするんだよ。」

 小林先生が、わらいながらいいました。[滑川道夫『少年伝記 野口英世』野口英世記念会、1978年、79-80頁]

 野口英世の伝記類には、これと同じような記述がしばしば見られる。ところが、じつは、ここに紹介された『当世書生気質』の内容は全くのデタラメなのである。確かに、野々口精作という名前の男が登場することは事実である。しかし、まず、この男は主人公ではなく本筋と無関係な場面にチョイ役で登場する人物にすぎない。しかも、この男は最初から最後まで、猫かぶりの堕落したお調子者として描かれている。地元ではきちんとした学生を装っているらしいので、「みんなから、将来を楽しみにされていた」というのは当てはまるといえなくもない。しかし、作中で「あるつまらない事件」が起こることはなく、したがって「だんだん悪くなって、とうとう最後には、誰からも相手にされなくなってしまう」ということもない。

 医師・医学史家の秋元寿恵夫(1908-94)は、1971年(昭和46)に出版した少年少女向け伝記『人間・野口英世』の中で、「『当世書生気質』のどこをさがしても、野口の伝記作者がひきあいにだしているような話は、いっさい見あたらないのです」「べつに野々口は、この小説の主人公でもなんでもないのです」と指摘している。野口英世の伝記類でこの誤りを指摘したのは、この秋元の本が最初と言われている。どうやら、それまでの伝記作家たちは、そもそも『当世書生気質』の内容を確かめてすらいなかったようなのである。

 いい加減な話なのだが、いったいなぜこんなことになったのだろうか?

第2回につづく

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2015年02月11日

平泉澄「そのような間違いが出るほど、我が国の歴史は古いので、それはむしろ楽しいこと」

 たびたび登場していただいている平泉澄の『少年(物語)日本史』より。

(※『少年(物語)日本史』については2005年10月3日「「動物園の猿の子が、人になって生れてきた例がありますか」」 http://clio.seesaa.net/article/7629186.html 、平泉澄については2013年6月6日「平泉澄と仁科芳雄と石井四郎」http://clio.seesaa.net/article/365379599.html 、6月17日「平泉澄「この刀によって私は陸軍というものを鍛え直した」」 http://clio.seesaa.net/article/366604713.html 、神武天皇即位紀元については2014年2月10日「資料:『日本書紀』による古代天皇の年齢」 http://clio.seesaa.net/article/387977700.html 、2月11日「「建国記念の日」の基礎知識」 http://clio.seesaa.net/article/388018490.html 、2月15日「『開化問答』の祝祭日問答」 http://clio.seesaa.net/article/388710217.html も参照。)

世界各国各民族、あるいは各宗教に、いろいろ紀元が立てられていますが、そのどれを見ても、正確に事実を実証し得るものは、ほとんでありますまい。今年昭和四十五年は、それらの紀元では、次のようになります。

  インド教暦紀元      二〇二六年
  回教暦紀元        一三四九年
  フリーメーソン紀元    五九七〇年
  ユダヤ紀元        五七三〇年
  コンスタンチノープル紀元 七四七八年
  アレクサンドリア紀元   七四六二年
  マケドニア紀元      二二八一年
  スペイン紀元       二〇〇八年
  ペルシャ紀元       一三三九年
  キリスト紀元(西暦)   一九七〇年

 これを見て、どう思いますか。最後のキリスト紀元のほかは、歴史的事実としては、まず信用がむつかしいと思われるでしょう。ところがそのキリスト紀元すら、事実とは違うのです。すなわちそれはキリストの誕生を、紀元元年とする建前ですが、実はその計算に誤りがあって、キリストの生れたのは、紀元元年ではないのです。[平泉澄『少年日本史(上)』講談社学術文庫、1979年、37-38頁]

 1970年が基準なのは、『物語日本史』がこの年の発行だからである。

 この文章には少しおかしなところがある。よく見ると、「回教暦紀元」と「ペルシャ紀元」は「キリスト紀元」よりも値が小さい。つまり紀元元年の年代が新しい。それなのに、なぜ「最後のキリスト紀元のほかは、歴史的事実としては、まず信用がむつかしいと思われるでしょう」と言えるのだろうか。

 平泉は、『日本書紀』に記された神武天皇の即位年代が不自然に古いことを認め、「皇紀は、事実よりも五、六百年延びている」ことを認めている。そして、西暦紀元前660年という年代が、中国起源の予言思想である讖緯説に基づく辛酉(しんゆう)革命説に基づいて算出されたことも認める。

 辛酉革命説とは、干支が60年に一度の辛酉(しんゆう、かのと・とり)にあたる年には天命が革(あらた)まり、大変革が起こる、とする説である。

 神武天皇の即位年代が辛酉革命説に基づく創作ではないか、とする説は、江戸時代の藤貞幹(とう‐ていかん、1732-97)や伴信友(ばん‐のぶとも、1773-1846)などにも見られるが、本格的には明治期に入ってから、那珂通世(なか‐みちよ、1851-1908)の「日本上古年代考」(1888年)によって確立された(星野良作『研究史神武天皇』吉川弘文館、1980年、他)。

 平安時代の昌泰4年(901)、三善清行(みよし‐の‐きよゆき、847-918)は『革命勘文』を朝廷に提出し、この年が辛酉年にあたることから改元するように主張、朝廷はこれを受け入れて元号を「延喜」と改めた。日本での辛酉改元はこれが最初の例で、その後、永禄4年(1561)と元和7年(1621)の2回を除き、幕末まで続けられている。このとき清行が引用した『易緯』鄭玄註(鄭玄[じょうげん、127-200]は後漢代の学者)によれば、6甲(甲が6回=60年)が1元、7元×3=21元が1蔀(ぼう)で「合わせて1320年」(「合千三百廿年」)、これがひとつの大きな周期になっているという。清行はそこから、神武天皇即位から1320年後の斉明天皇7年(661年)が2蔀目の始まりだ、と見なした。しかし、正しく計算すると、1蔀は1320年ではなく1260年(60年×21)になるはずである。そこから那珂は、基準年は斉明天皇7年ではなく推古天皇9年(601年)であり、そこから遡って1260年前の紀元前660年が神武天皇の即位年に定められた、と考えたのである(那珂通世「上世年紀考」初出1897年、松島榮一〔編〕『明治文學全集 78 明治史論集(二)』筑摩書房、1976年、所収)。

 平泉澄は、歴史学者としてこの那珂説を受け入れつつ、「我が国の古代史に、年の延びすぎがあっても、それは珍しいことではなく、かつまたそれは讖緯の説の責任であって、我が国の歴史自体の責任ではないのです。[…]そのような間違いが出るほど、我が国の歴史は古いので、それはむしろ楽しいことで、少しも心配する必要はないのです」(38頁)と主張する。つまり、悪いのは中国から渡来した讖緯説だ、というわけだ。その上で、事実ではないからといって神武天皇紀元(皇紀)を捨てるべきではない、と主張するのである。

 それはともかくとして、いったい上に引用した表はなんなのだろうか?

 とりあえず、逆算して元年を算出しておこう。

紀元 西暦1970年 元年
インド教暦紀元 2026年 前57年
回教暦紀元 1349年 622年
フリーメーソン紀元 5970年 前4001年
ユダヤ紀元 5730年 前3761年
コンスタンチノープル紀元 7478年 前5509年
アレクサンドリア紀元 7462年 前5493年
マケドニア紀元 2281年 前312年
スペイン紀元 2008年 前39年
ペルシャ紀元 1339年 632年
キリスト紀元(西暦) 1970年 1年

 まずキリスト紀元から。イエス・キリストはユダヤ王ヘロデの治世に生まれたとされる(《マタイ福音書》2章)。ところがヘロデ王は紀元前4年に死去しているので、当然、イエスの生誕はそれ以前でなければならなくなってしまう。この紀元を考案したのは6世紀ローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスであるが、彼の決定した年代は、歴史的根拠というよりも神学的計算に基づいたものである。この辺りのややこしい事情については、岡崎勝世『聖書 vs. 世界史――キリスト教的歴史観とは何か』(講談社現代新書、1996年)に詳しい。

 「インド教暦紀元」とあるのは、北インドで多く用いられる、紀元前57年を紀元とするヴィクラマ紀元のこと。ネパールではビクラム暦として公用暦となっている。ヴィクラマーディティヤという王がシャカ族との戦争に勝利した年を紀元にしたとされる。なお、ヴィクラマ暦での1年の始まりは、西暦でいう4月中旬である。他の暦法も1年の始まりが西暦とは異なるのだが、それを言い出すとややこしいことになるので、その点は割愛させていただく。

 奇妙なのは「回教暦紀元」と「ペルシャ紀元」である。「回教暦」というのは622年を紀元とするヒジュラ暦のつもりだろう。「ヒジュラ」(ヘジラ、聖遷)とは、イスラームの教祖であるムハンマドが、622年にマッカ(メッカ)からヤスリブ(マディーナ、メディナ)に移り住んだ出来事のことである。しかし、 1970-622+1=1349 と計算したのならとんでもない間違いだ。ヒジュラ暦は1年を354日とする純粋な太陰暦なので、太陽暦の1年とは合わないのである。1970年はヒジュラ暦では1389/90年にあたる。一方の「ペルシャ紀元」はおそらくイラン暦(ヒジュラ太陽暦)のつもりなのだろうが、こちらの方こそ 1970-622+1=1349 でよいのに、なぜか10年少ない数字を出している。どうやら、平泉澄はイスラームの暦法についての基礎知識がなかったようだ。

 「マケドニア紀元」とあるのは、紀元前312年を紀元とするセレウコス紀元と思われる。この年はアレクサンドロス大王の部下であったセレウコス(1世)が自立し、セレウコス朝を開いた年である。

 「スペイン紀元」は中世のイベリア半島で用いられた紀元。紀元前38年を紀元とする。ローマのイベリア半島支配が本格的に始まった年とされる。

 残りの「フリーメーソン紀元」「ユダヤ紀元」「コンスタンチノープル紀元」「アレクサンドリア紀元」は、いずれも『旧約聖書』にある天地創造を紀元元年とする暦法であり、「創造紀元」「世界紀元」などと呼ばれる。この年代に様々な説があったため、由来は同じなのにいくつもの紀元が生じてしまったのである。なお「コンスタンチノープル紀元」は一般にはビザンティン紀元と呼ばれることが多い。

 ――と、ここまで説明してきたことからも明らかなように、「キリスト紀元のほかは、歴史的事実としては、まず信用がむつかしい」というのは事実に反している。確かに天地創造紀元のたぐいは論外としても、セレウコス紀元やヒジュラ紀元は、少なくともキリスト教紀元よりは信憑性がある。おそらくこの表は、内容のいい加減さから見て、よく調べもせずにどこかから適当に引っぱってきたものなのだろう。

 それにしても、「大東亜戦争はアジア解放のための戦いだった」などと主張している人物が、イスラームの暦法についてろくな知識もない(仏滅紀元やインドのサカ紀元に言及がないところからすると、その辺りも知らない)のはひどい――というと、いささか言い過ぎだろうか。

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2014年02月15日

『開化問答』の祝祭日問答

 小川為治『開化問答』(明治7〜8年=1874〜75年刊)は明治初年に出された啓蒙書で、「旧平」氏が文明開化に対する不平不満を語り、それに対して「開次郎」氏がその認識の誤りを正し、文明開化のありがたさを説く、という内容の書物である。しかし、今日の目から見て興味深いのは、「旧平」氏の発言内容が、いかにも当時の保守的な老人なら言い出しそうなこと、という設定になっているため、逆説的に当時の民衆意識をある程度までうかがい知ることができる、という点である。まあ、あくまで知識人である著者(だと思われるのだが、経歴はよくわかっていない)が想像した「保守的な老人」、ということには注意しておく必要があるが。

 あちこちで紹介されている話ではあるが、ここでは、その二編(1875年5月刊)にある、祝祭日についての問答を抜き書きしてみることにしよう。

 なお、底本には明治文化研究会〔編〕『明治文化全集 第二十一巻 文明開化篇』(日本評論社、1993年復刻版)を用い、国会図書館デジタルコレクションで公開されている原本[二編巻上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798422 巻下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798423]を参照した。また、引用にあたっては読みやすさを考え、漢字表記や仮名遣い、送り仮名などを現代風に改めていることをお断りしておく。強調は引用者による。

 まず、旧平の語る不満から。なお、本題は1873年(明治6)の太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦なのだが、長くなるので省略し、祝祭日についての箇所のみ抜き出したことをあらかじめお断りしておく。

これまで世間において旧来の暦を用いきたり、何一つ差支うることもなかりしに、何をもって先年政府において足辺より鳥のたつごとく急に太陽暦をとり用い、これをお廃しなさりしか、更に合点のゆかぬ次第でござる。[…]その上改暦以来は五節句・盆などという大切なる物日(ものび)を廃し、天長節・紀元節などというわけのわからぬ日を祝う事でござる。四月八日はお釈迦の誕生日、盆の十六日は地獄の釜の蓋のあく日というは、犬打つ童も知りております。紀元節や天長節の由来は、この旧平の如き牛鍋を食う老爺というも知りません。かかる世間の心にもなき日を祝せんとて、政府より強いて赤丸を売る看板のごとき幟(のぼり)や提燈(ちょうちん)を出さするはなおなお聞けぬ理屈でござる。元来祝日は世間の人の祝う料簡が寄り合うて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日を強いて祝わしむるは最も無理なることに心得ます。

 天長節は現在の「天皇誕生日」(当時は明治天皇の誕生日である11月3日)、紀元節は現在の「建国記念の日」(2月11日)にあたる祝日である。

 「物日」は祝祭日のこと。「五節句」(五節供)は人日(じんじつ=正月7日)・上巳(じょうし=3月3日)・端午(たんご=5月5日)・七夕(しちせき=7月7日)・重陽(ちょうよう=9月9日)。いずれも中国起源の祝祭日であるが、明治6年太政官布告第1号(1873年1月4日)[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787953/75]により公式に廃止されている。旧暦4月8日は釈迦の誕生日、すなわち灌仏会(かんぶつえ。仏生会・誕生会・降誕会・龍華会・浴仏会・花祭などとも呼ぶ)。北伝(大乗)仏教ではこの日とされているのだが、その歴史的根拠は明確ではない。

 さて、これに対する開次郎の反論は、というと――

元来愚癡(ぐち)[おろか]なる人物は道理の真偽にかかわらず、ただ古来よりのしきたり・ならわしをのみ信仰して、いかほどよき事柄にても新しく思う事へは容易に移らざる者でござる。さりながらこの愚癡なる人の料簡にのみ任せおきては、とても世の中が文明開化の場所に至ることあたわざるゆえ、世間を文明開化にせんと思う政府は、まず世人の迷執を打破り万民の耳目を新たにせざればかなわぬわけにて、これ五節句・物日などをお廃しなされし次第でござる。全体足下の論ぜらるる所の五節句などという日の大本を穿鑿(せんさく)すれば、みなわけもなき日にて、祝うべき筋は少しもないわけでごさる。かくの如き日を祝わんためにこれまで家業を休み、上下を着用してありがたそうにおめでとうござります。恐悦にぞんじますなどと騒ぎまわりたるは実に小児遊びのようにて、今更笑止千万にぞんじられます。そこで、ただ今祝日として用いる所の紀元節は、神武天皇様の始めて天子様の御位に即しられ日なり、天長節とは今の天子様の御誕生日の事にて、実にこれ等の日は日本に生れたる人の必ず大切に祝うべきはずの日でござる。ゆえに政府にて一年中よりかかる貴き日五日を撰み出し、これを祭日に定め、世間一般に祝う事となされたるわけでござる。

 これは啓蒙書なので、旧平は結局、「一々肝に銘じ感心いたしました」「この旧平一言の異論もござりませぬ」と、あっさりと引きさがってしまう。

 「五日」とあるが、明治6年太政官布告第344号(1873年10月14日)[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787953/335]で定められた祝祭日は、元始祭(1月3日)・新年宴会(1月5日)・孝明天皇祭(1月30日)・紀元節(2月11日)・神武天皇祭(4月3日)・神嘗祭(9月17日)・天長節(11月3日)・新嘗祭(11月23日)の計8日である。祭日だけを数えて5日としたのかもしれないが、それでは祝日である紀元節と天長節は入らなくなってしまう。

 この中には、神嘗祭や新嘗祭のように長い歴史のある祭祀もあるが、たとえば神武天皇祭は元治元年(1864)、天長節は慶応4年(明治元年、1868)、元始祭は明治3年(1870)、そして紀元節は1873年(明治6)にそれぞれ新設されたものである(天長節は古代に行われた時期もあるが、事実上明治の新設といえる)。さらに、近代的な教育制度もまだ始まったばかりにすぎない。つまり、これらを旧平が「わけのわからぬ日」「由来は…知りません」と言うのも、無理もない話なのである。それにしても、開次郎の「大本を穿鑿すれば、みなわけもなき日にて」という言葉は、明治政府による祝祭日にもそのままはね返ってきかねないのだが……。

 なお、五節句は、明治政府による廃止命令の後も、農村部を中心に残り続けた。明治政府の国定祝祭日が学校教育などを通じて定着するようになるのは、日露戦争(1904〜05)以後のことといわれている(有泉貞夫「明治国家と祝祭日」『歴史学研究』第341号、1968年10月)。

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2014年02月11日

「建国記念の日」の基礎知識

 ちょっとしたメモ書きとして――。

 「建国記念の日」は1966年(昭和41)の「国民の祝日に関する法律」(祝日法)改正で新設された祝日で、「建国をしのび、国を愛する心を養う」日とされている(「建国記念日」ではなく「建国記念日」である。お間違えなきよう、念のため)。その起源は、1873年(明治6)に始められ、1948年(昭和23)祝日法の公布・施行とともに廃止された「紀元節」であり、もともとは初代天皇とされる神武天皇の即位を記念した祝日であった。

 ところで、なぜ2月11日が神武天皇即位の日なのか。

 『日本書紀』巻第三に

辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮
(辛酉年の春正月の庚辰の朔に、天皇、橿原宮に即帝位[あまつひつぎしろしめ]す)

とある。つまり神武天皇は辛酉年の1月1日(旧正月)に即位したことになる。当然ながら、この暦は中国や日本で用いられていた太陰太陽暦であり、西暦(グレゴリオ暦)との間には1〜2ヶ月程度のズレがある。

 この辛酉年は西暦に直すと紀元前660年である。それでは辛酉年正月一日を西暦に直すと紀元前660年2月11日なのか、というと、話はそう簡単ではない。

 太陰太陽暦では、朔(新月)の日を月の1日とし、次の朔までの間を1月とする。月の満ち欠けの1周期(朔望月)は約29.53日なので、1ヶ月は29日(小の月)ないし30日(大の月)となる。12ヶ月をもって1年とするが、このままでは1年が約354日にしかならず、次第に季節とのズレが生じる。そのため、数年ごとに閏月を置いて1年を13ヶ月にすることで季節とのズレを調整する。大の月・小の月の順序や閏月の挿入には複雑な計算が必要になるため、さまざまな暦法が考え出された。つまり、使っている暦法によって、太陽暦との対応関係が違ってくるのである。

 さて、明治5年(1872)11月15日太政官布告第343号[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787952/199]により、翌年からの太陽暦(グレゴリオ暦)施行に際して、1月29日を「神武天皇御即位相当」の日として祝日とし、さらに明治6年(1873)3月7日太政官布告第91号[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787953/112]でこの日を「紀元節」と呼ぶことにした。なぜ1月29日だったのかといえば、単純に、明治6年の旧正月が1月29日だったからである。

 しかしその後、あらためて暦法を検討しなおした結果、明治6年10月14日太政官布告第344号[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787953/335]で、紀元節は2月11日に変更され、以後、この日に固定されることになった。

 ただし、ここにはいくつかの問題がある。まず、「推古朝以前に関する《日本書紀》の暦法が紀元節設定当時には明らかではなかったので,神武天皇即位日とされた辛酉年正月元日を太陽暦に換算することは不可能であったはずであり,2月11日の日付は当時の学問水準に照らしても無根拠であった」(赤沢史朗「紀元節」『世界大百科事典』CD-ROM版、1998年)。

 さらに、紀元前660年という年代が問題である。『日本書紀』による古代の天皇の在位年数は、おしなべて異常に長い。たとえば神武天皇は在位76年、数え年127歳で死去。第6代孝安天皇は在位102年、137歳で死去。第11代垂仁天皇は在位99年、140歳で死去、といった具合である。それどころか記事中に矛盾があるものもあって、たとえば第12代景行天皇は在位60年、106歳で死去したとされているが、立太子時の年齢と照合すると、143歳だとしないとつじつまが合わない。要するに、在位年数があからさまに不自然に引き伸ばされているのである。したがって、仮に神武天皇(に該当する人物)が実在したとしても、その時代は紀元前660年よりもはるかに下った年代だと考えなければならない。結局のところ、神武天皇即位日をグレゴリオ暦の2月11日に特定する根拠は、存在しないのでする。

 さて、戦後、 GHQ/SCAP の介入により紀元節は祝日としての地位を失った。しかし、1951年(昭和26)にサンフランシスコ講和条約が調印されたころから、神社本庁などの保守・右翼勢力を中心とする紀元節復活運動が始める。

 「建国記念日」を追加する祝日法改正法案は提出と廃案を繰り返したあげく、1966年(昭和41)、祝日の名前を「建国記念日」とし、法律文中には具体的な日付を記載せず「政令で定める日」とすることで妥協がまとまり、1966年6月の改正で「建国記念の日」が追加された。その後に設置された「建国記念日審議会」は12月に「2月11日」とする答申を行い、第1次佐藤栄作内閣は昭和41年12月9日政令第376号「建国記念の日となる日を定める政令」[http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S41/S41SE376.html]により、「建国記念の日は、二月十一日とする」と決定したのである。

 このとき、自民党が当然のごとく2月11日を支持したのに対し、日本社会党は5月3日(1947年に日本国憲法が施行された日)、公明党は4月28日(1952年にサンフランシスコ講和条約の発効により日本の国家主権が回復した日)、民社党は4月3日(推古天皇12年[604]、聖徳太子が憲法十七条を制定したとされる日。ただし、この日付は太陰太陽暦による)を主張、他に8月15日(終戦記念日=1945年)などを主張する向きもあった。(4月28日は奄美・沖縄では日本の主権から公式に切り離された「屈辱の日」だが、当時は沖縄「復帰」前であったこともあり、そのあたりのことはあまり問題にされなかったようである。)

 アメリカ人日本研究者のケネス・ルオフは「審議会は世論調査を実施したが、四七パーセント強の日本人が二月十一日を支持していた。もし二月十一日を建国記念日とすることに反対する人々が、一本化した代替案に結集できていれば、この日を祝日とるすことを阻止できたに違いない」(ルオフ/木村剛久+福島睦男〔訳〕『国民の天皇――戦後日本の民主主義と天皇制』岩波現代文庫、2009年、275頁)と指摘している。その通りではあろうが、そもそも、政府・自民党の用意した「2月11日に反対するのであれば代案を示せ」という土俵にうっかり乗ってしまった時点で、勝負は決してしまったというべきだろう。

 なお、神話上の建国の日をもって国家の祝日としている国は、日本のほか韓国(開天節=10月3日。紀元前2333年、檀君が古朝鮮を建国したとされる日。もとは太陰太陽暦だが現在は太陽暦で祝われている)だけである。もっとも、韓国は独立記念日にあたる光復節(8月15日。1945年に日本の植民地支配が終了した日。また、1948年に大韓民国が成立した日でもある)も祝日としている。

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2014年02月10日

資料:『日本書紀』による古代天皇の年齢

  • この表は、『日本書紀』と『古事記』が共通して記載する、推古天皇までの歴代天皇の年齢をまとめたものである。なお便宜上、神功皇后についても記載した。
  • この時期には「天皇」の称号はまだ存在していないと考えられているが、便宜上『日本書紀』に基づき「天皇」とする。
  • 天皇の代数・諡号は現行の『皇統譜』による。
  • 主として新編日本古典文学全集本『日本書紀』(小島憲之+他=校注、小学館、1994〜98年)を参照した。
  • 即位年と崩御年は西暦で記した。なお、これはあくまで『日本書紀』の記載をそのまま西暦に換算したものである。
  • 年齢は数え年である。『日本書紀』に崩御時の年齢が明記されているものについてはそのまま記し、生年や立太子時の年齢から算出可能なものについてはその旨を記した。
  • 「若干」(そこばく)は原文のママ。
『日本書紀』による古代天皇の年齢
諡号 即位年 崩御年 在位年数 年齢 年齢(『古事記』) 備考
1 神武 前660 前585 76 127 137
2 綏靖 前581 前549 33 84 45
3 安寧 前549 前511 38 57 49 立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは67歳となる)。
4 懿徳 前510 前477 34 77 45 立太子時の年齢から算出。
5 孝昭 前476 前393 83 114 93 立太子時の年齢から算出。
6 孝安 前392 前291 102 137 123 立太子時の年齢から算出。在位期間が100年を越える唯一の天皇。
7 孝霊 前290 前215 76 128 106 立太子時の年齢から算出。
8 孝元 前214 前158 57 116 57
9 開化 前158 前98 60 115 63 立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは111歳となる)。
10 崇神 前97 前30 68 120 168 立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは119歳となる)。『古事記』では最年長。
11 垂仁 前29 70 99 140 153 『日本書紀』では最年長(ただし景行天皇の項も参照)。
12 景行 71 130 60 106 137 立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは143歳となり、『日本書紀』では垂仁天皇を超えて最年長となる)。106歳とすると立太子時にはまだ生まれていないことになる。
13 成務 131 190 60 107 95 立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは98歳となる)。
14 仲哀 192 200 9 52 52 『古事記』『日本書紀』で一致。立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは53歳となる)。
- 神功 201 269 69 100 100 摂政。『古事記』『日本書紀』で一致。
15 応神 270 310 41 110 130 生年と合わない(生年からは111歳となる)。
16 仁徳 313 399 87 - 83 『水鏡』『帝王編年記』等110歳。
17 履中 400 405 6 70 64 立太子時の年齢と合わない(立太子時の年齢からは77歳となる)。『扶桑略記』『一代要記』等67歳。
18 反正 406 410 5 - 60
19 允恭 412 453 42 若干 78
20 安康 453 456 3 - 56
21 雄略 456 479 23 62 124 生年から算出。
22 清寧 480 484 5 若干 - 『神皇正統記』39歳、『水鏡』41歳、『皇代記』42歳。
23 顕宗 485 487 3 - 38 『一代要記』等48歳。
24 仁賢 488 498 11 - - 『水鏡』『本朝皇胤紹運録』等50歳、『帝王編年記』等51歳。
25 武烈 498 506 8 - - 『扶桑略記』『水鏡』18歳、『帝王編年記』『皇代記』等57歳、『天書』等61歳。
26 継体 507 531 25 82 43 『日本書紀』は在位年数を28年とする異伝を記す。
27 安閑 531 535 2 70 -
28 宣化 535 539 3 73 -
29 欽明 539 571 32 若干 - 『皇年代略記』63歳、『一代要記』62歳、『神皇正統記』81歳。
30 敏達 572 585 14 - - 『皇代記』『本朝皇胤紹運録』48歳、『扶桑略記』『愚管抄』24歳、『神皇正統記』61歳。
31 用明 585 587 2 - - 『皇年代略記』69歳、『神皇正統記』41歳。
32 崇峻 587 592 5 - - 平安期以降の史料に72歳または73歳とある。
33 推古 592 628 35 75 -
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2013年01月20日

1920年代の体罰の実例

 日本の法律では、学校教育での体罰は1879年以来(1885〜90年の間を除き)法的に禁止されてきた、ということは前述した。が、これはもちろん、実際に体罰が存在しなかったことを意味するわけではない。

 河野通保『学校事件の教育的法律的実際研究』上巻(文化書房、1933年)「第八章 教育者の懲戒権問題」近代デジタルライブラリーには、1920〜30年代の新聞報道に現われた、教師のゆきすぎた懲戒が引き起こしたトラブル事例が数多く掲載されている。同書には生徒の自殺やお礼参りなどの事例も取り上げられているが、ここでは、体罰の事例を年代順に抜き書きしてみる。

 以下は原文そのままではなく、適宜表現を現代的に修正したり、要約したりしていることをお断りしておく。「訓導」は小学校の正規教員、つまり現在の「教諭」。「受持訓導」は担任教諭。年齢は当時は数え年表記なので、満年齢では1〜2歳下となる。当時の制度では尋常小学校6年(満6〜12歳)のみが義務教育であり、その上は高等小学校2年(満12〜15歳)、または中学校5年(満12〜17歳)。つまり高等科1・2年は現在の中学1・2年、中学4・5年は現在の高校1・2年と同じ年齢になる。

  • 1923年1月:佐世保市[長崎県]外某小学校3年生受持訓導A(39)は、算術の授業中、答えの合わなかった児童を、十数名の答えの出来た児童に命じて殴打、あるいはつねらせて泣き叫ぶのを傍観し自らも青竹の鞭を持って殴打したので、父兄間の大問題となった。
  • 1923年7月:東京市外渋谷町某小学校尋常科3年生Bは、授業中受持のC訓導が非常な見幕で叱責した上、体罰を科したので学校を休んでいることが判明、父兄側および町学務課の大問題となった。取調べによると、C教員は3日間にわたり、あるいはなぐり、あるいは耳を引っ張りなどして極度の憎しみの情をもってBを体罰したことが判明した。Bはこれがため脳神経を極度に刺激し一種の恐怖に襲われていると附近の医師が診断したので、父親は訴訟を起こす模様である。
  • 1924年8月:北海道亀田郡某小学校訓導Dは高等科1年生E・尋常科4年生Fの両名に暴行を加え、Fを死に至らしめた椿事がある。当日D訓導は両生徒が廊下で遊んでいる際、「この天気のよいのに家の中にいる奴があるか」と乱暴にもEの両耳をつまんで戸外に引き出し、Fの腰部を足で蹴ったので、Fは暴行後4日目ついに死亡し、Eは片耳をもぎとられたので大問題となり所轄警察署で取調べ中である。

……晴れの日に廊下で遊んでいたので殺された、という恐ろしい事例である。

  • 1924年9月:新潟県某中学5年生Gは「下越オリムピック大会」に槍投げの選手として出場し、もろくも敗れたというのでH教諭が立腹し、夕刻運動場においてGを足蹴にかけ校長室に引き入れて鉄拳制裁を加えたことが生徒間に知れ、生徒に憤慨し同教諭を難詰するところがあったが、Gが槍投げの練習をしなかったのは高等学校入学準備のためだと。
  • 1924年12月:埼玉県某市尋常高等小学校等5年生受持訓導I(24)は、教室の掃除中、中高2年生J(15)が尋常2年教室用バケツを使用したのでこれをとがめたところ、Jが抗弁したので、さんざん打擲した上、そのバケツで数杯の冷水を頭から浴びせたため、Jは寒中のこととて帰宅後発熱し39℃の高熱に苦しんでいる。
  • 1925年1月:鶴岡市[山形県]某小学校K・Lの両訓導は受持5・6年生40余名を殴打したことが知れ教育界の大問題となった。原因は生徒等が教師にあだ名をつけたためである。
  • 1925年1月:新潟県東頸城郡某小学校訓導M(25)は、高等科2年生Nが教室内で汽車を見て万歳を叫んだとして竹棒で同人を殴打し、なお同級生一同に命じて殴打せしめ、ついに大股部に全治2週間の傷を負わせたこと発覚、警察官・視学官等が取り調べ中。
  • 1925年1月:千葉県印旛郡某小学校6年クラス39名が、学校からの帰途、寒さをしのぐため山林内でたき火したことを聞知した受持O訓導は大いに怒り、児童が登校するや教室内に一列にならべて殴打し、これがため児童は同訓導の処置を恐れ、ついに申し合わせて休校してしまった。父兄等はO訓導の苛酷なる処置に憤慨し、協議の結果同訓導排斥運動を起こし、村長や校長を訪れ、その処置をなじり紛擾中である。
  • 1926年2月:横須賀市外某尋常高等小学校訓導P(27)は、高等科1年生Q(13)の父Rから傷害罪で告訴され、横須賀署に召喚、取り調べを受けた。P訓導は去る日の朝、自転車で通行を厳禁されたSトンネル内を自転車で走って来たので、通学途次のQ等が「先生降りねばいけません」と注意したところ、訓導は大いに怒り、いきなり自転車から飛び降りQを捕らえて殴打した上、柔道2段の腕で投げ飛ばした。その際Qは傍のレンガで頭部を強打し一週間の負傷を受けたのである。同訓導はS町の飲食店を飲み歩き乱暴を働いていた由で、この暴行事件を起こすや、S町民は非常に憤慨してその処分を町当局に迫っている。

生徒に注意されたことに逆ギレした暴力教師! よく考えるとこれ、校外だから「体罰」じゃないな。武道をやっている人間が人格者とは限らない、という話でもある。

  • 1926年7月:埼玉県川越市外某小学校代用教員T(21)は、受持の6年生U(13)が宿題をやって来なかったのを憤り、頭部その他数ヶ所を殴打したため、Uは極度の恐怖に襲われた結果精神に異常を来し、同地方教育界の大問題となろうとしている。
  • 1926年11月:福島県安積郡某尋常高等小学校尋常科5年生V(12)は11月21日より休校していたが30日死亡した。その原因については端無くも20日受持次席訓導W(38)に殴打されたのが原因で床につき、ついに死に至った事が判明し、学校当局は極力事件をもみ消しているが、父兄間では大問題となし、近く村民大会を開き、Vの父Xは告訴するといきまいている。

殴られた理由は不明。

  • 1927年5月:東京・千駄ヶ谷某小学校6年生Y(12)は、学校の帰途、同級のZと喧嘩し、Zの足部に過傷を負わせたが、YとZの両家は平素より懇意な間柄なので無事にすんでいたところ、翌日Yが登校するや、クラス担当のa訓導(27)が前日の喧嘩についてYを厳しく訓戒した。このクラスは翌日鎌倉・江の島方面へ遠足することになっており、生徒一同はその費用として各自75銭ずつをその朝訓導に差し出したが、a訓導より厳戒されたせいか、平素より神経質のYはすでに差し出した遠足費用の返還を乞い、「明日は遠足に行かない」と申し出たところ、a訓導は非常に怒ってやにわにYの頭部に鉄拳を加え、さらにえり首をつかんで教壇まで引きずり行き、同人の頭部をはげしく数回教卓に激突せしめた後、「帰れ」と怒鳴りつけたので、Yは泣きながら帰宅した。a訓導の制裁により後頭部を激打したためか、その夜から発熱すると共にはげしい発作的な精神異常を来し、裸体で屋根に駆けのぼったり、泣きながら戸外へ駆けだしたり、何者かにおびえて突然叫び声をあげたりし始めた。父bは驚いて附近の医師の診察を乞うと、後頭部の異常なる打撃のため病弱なる頭脳をさらに痛めた結果であると診断したので、さっそく校長を面詰し一時は告訴するとまで憤慨したが、町議等が仲裁して、ようやく、Yの治療代は学校で負担し、a訓導は他へ転任させることとしてひと段落した。校長は「[a訓導は]生徒からも親しまれ、父兄の信用もあるのですが、かかる事件を起こしたことは同君のためにも気の毒」「Yという少年は級でも操行のよくない生徒」「発作的に気が狂ったりするのはべつにa訓導の制裁が原因しているのではなく、幼少からそんな性癖があるのです」と語っている

釈明の余地のない暴力行為だと思うのだが、校長のコメントがひどすぎる。

  • 1928年7月:東京府立某中学校では、体操柔道師範柔道5段c氏の暴力沙汰が問題となり、全校生徒ならびに先輩等は学校当局に対し積極的警告を発しようとしている。c教諭は平素生徒を取り扱うのに暴力をもって臨み、先日も、運動場の掲示板に落書きしてあったのを同教諭が発見し、そこに集まっていた5年生丙組に「だれが書いたか出ろ」と言ったところ、dが「私が書きました」と申し出たので、「学校全部の落書きはお前がしたのだろう」と言って、なぐる、蹴るの暴力沙汰に及び、鼻血をだしているdを50メートルも引きずり、e師範が駆けつけたがこれも傍観するにすぎなかったので、5年生は「理非を明かにせぬ間は授業を受けない」と憤慨し、ついに重大問題化するにいたったのである。
  • 1929年1月:千葉県印旛郡某小学校高等科1年f(13)・同級生g(14)の両名は、授業中雑談したとして、受持訓導hは憤慨し、教授用のコンパスで両名の頭部をなぐったが、コンパスの針が刺さり、両名とも深さが骨膜に達する重傷を負い、血まみれになってその場に昏倒したという騒ぎがある。訓導は事の意外に驚き、ただちに医師を招き手当てを施し、学務委員や村有力者を介して秘密に示談を懇請しているが、農民組合千葉県連合会本部は「真相を調査し断固たる処置をとる」といきまいている。
  • 1930年10月:京都市上京区某小学校で訓導の児童に対する暴行事件が暴露し、京都市教育界の大問題となった。同校尋常科6年生のi(13)が中等学校入学試験の予習のため、登校するのに5分間遅れたため「今日は休む」と言い出したので、母親が同校を尋ね、受持j訓導(26)に欠席する旨を届け出たところ、訓導はその後、むりやりにiを呼び出し、学校で無法にもなぐる、蹴る、つねる、のひどい目に会わして、悲鳴をあげさせぬように口に手ぬぐいをねじこむ、等の暴行を加え、同校の真向かいにあるiの家まで悲鳴がもれ聞こえるので、母親が学校に駆けつけると、同訓導は何食わぬ顔をして、しかもiを引きとめ、自分の下宿に連れ帰り、痛さに悩むiを更にしかりつけて、氷を買いにやり、痛むところを当てさせ四時間ほど寝かした上で帰宅させたが、これが端緒となって同訓導の日ごろの乱暴が判明した。市学務課から2名の視学が主張、詳細に実情調査を行い、j訓導の受持児童42名中、少しも被害を受けない者はわずか3名しかいないことを突き止めたので、ますます問題は大きくなっている。
  • 1931年9月:東京市外目黒町某小学校の訓導k(25)が、尋常1年生lの「書取りの出来が悪い」として持っていたムチでlの後頭部を殴打し、lは帰宅後発熱、m校長(37)は見舞いに行きひどく恐縮し心痛していた。m校長は見舞いから2日後の夕方に自宅で脳溢血により急死したが、k訓導の過失を極度に心痛した結果ではないかという風説がたった。

 ……抜き書きしていて胸が悪くなってきた。

 注意しておいてほしいのは、こうした事件が横行していた、ということとともに、これらが生徒や父兄の抗議などで問題化し、新聞沙汰になっている、ということである。つまり、当時の社会通念においても、こうした体罰は認められていなかったのである。

タグ:体罰 教育史
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日本の学校教育における体罰の禁止

 現行の学校教育法(2011年6月3日最終改正)においては、「体罰」は違法とされている。

第十一条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。 法令データ提供システム

 学校教育法自体は1947年(昭和22)に制定された法律だが、この条文はこのとき新しく作られたものではなく、明治期からずっと存在していた法的規定を引き継いだものである。

 学校における体罰の禁止について規定した最初の法令は、1879年(明治12)の「教育令」である。

教育令(明治12年太政官布告第40号、1879年9月29日公布)法令全書][Wikisource

第四十六条 凡学校二於テハ生徒二体罰 殴チ或ハ縛スルノ類 ヲ加フヘカラス

 註記で、体罰の具体例として「殴る」「縛る」といったことをわざわざ挙げているのが特徴である。

 この条項は1880年(明治13)の第2次「教育令」(明治13年太政官布告第59号、1880年12月28日公布)法令全書][Wikisourceでも受け継がれたが、1885年(明治18)の第3次「教育令」(明治18年太政官布告第23号、1885年8月12日公布)官報][Wikisourceでは削除されてしまい、1896年(明治19)の「小学校令」(明治19年勅令第14号、1886年4月10日公布)官報][Wikisourceでも規定は置かれなかった。しかし、1890年(明治23)の第2次「小学校令」で、体罰禁止規定は5年ぶりに復活する。

小学校令(明治23年勅令第215号、1890年10月7日公布)官報][Wikisource

第六十三条 小学校長及教員ハ児童ニ体罰ヲ加フルコトヲ得ス

 1900年(明治33)の第3次「小学校令」で「懲戒」に関する規定が付け加えられ、「体罰」は「懲戒」の但し書き規定となった。これが基本的には現行の「学校教育法」まで引き継がれることになる。

小学校令(明治33年勅令第344号、1900年8月20日公布・9月1日施行)官報][Wikisource

第四十七条 小学校長及教員ハ教育上ト認メタルトキハ児童ニ懲戒ヲ加フルコトヲ得但シ体罰ヲ加フルコトヲ得ス

国民学校令(昭和16年勅令第148号、1941年3月1日公布・4月1日施行)官報

第二十条 国民学校職員ハ教育上必要アリト認ムルトキハ児童ニ懲戒ヲ加フルコトヲ得但シ体罰ヲ加フルコトヲ得ズ

学校教育法(昭和22年法律第25号、1947年3月31日公布・4月1日施行)官報

第十一条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。但し、体罰を加えることはできない。

 要するに、日本の学校教育では、「体罰」は1879年以来ずっと(1885〜90年の短期間を除き)法的には禁止されてきたのである。

 ところで、この「体罰」とは、具体的にはどの程度のことを指していたのだろうか。

 1891年(明治24)8月、某県から文部省に、「校舎の内外を掃除」「教場の一隅に直立せしむる」は体罰に該当し、「教授時間後留置」は体罰にあたらない、とする解釈は妥当か、という照会がなされ、これに対しては文部省普通学務局長が、これらはすべて体罰にあたらない、とする解釈を示している(渋谷徳三郎『教育行政上の実際問題』敬文館、1922年, p. 103)。また同書は、懲戒については慣例的に「譴責、直立、留置等」(つまり、叱る、教室内に立たせる、放課後に残す)が認められており、「掃除其の他雑役」(要するにバツ当番)は懲戒として不適当だ、と指摘している。いずれにせよ、戦前の解釈においても、直接身体に危害を与える行為(ビンタなど)が体罰とされていたことは間違いない。

タグ:教育史 体罰
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2012年02月20日

「国際連合規格調整委員会」の謎

 国際標準化機構(ISO)設立の経緯を調べていて、少々厄介な問題に突き当たった。
 簡単にいえば、第一次世界大戦前に存在した万国規格統一協会(ISA)が、第二次世界大戦の勃発により機能停止に追い込まれた後、1944年に連合国が UNSCC (United Nations Standards Coordinating Committee)を設立、1947年、 ISA と UNSCC が統合されて ISO となる、というのが大まかな流れなのだが……。
 さて、問題はこの UNSCC である。ほとんどの日本語文献は、この団体を「国際連合規格調整委員会」もしくは「国連規格調整員会」と訳している(たとえば飯塚幸三〔監修〕『世界の規格便覧 第1巻 国際編』日本規格協会、2005年、257頁)。
 確かに、 United Nations とあるのだから「国際連合」と訳したくはなる。しかし、 UNSCC の設立年は1944年である。国際連合(United Nations)の設立は1945年10月24日。国連憲章の起草を行ったサンフランシスコ会議の開会にさかのぼっても1945年4月。つまり、 UNSCC 設立の時点では、「国際連合」はまだ存在しないのだ。
 1944年の時点で “United Nations” とあったら、ふつうは「連合国」を指す。したがって UNSCC は「国際連合規格調整委員会」ではなく「連合国規格調整委員会」と訳すのが正しいのではないか?
(ちなみに、「国際連規格調整委員会」と訳した文献もあるのだが[喜多尾憲助「ISOおよびIECの最近の活動」『日本原子力学会誌』第42巻第10号、2000年。 doi:10.3327/jaesj.42.1000]、これでは間違いの上塗りである。)

 ……ということにしてみたのだが、一難去ってまた一難。こんどは ISA の正式な設立年がわからない。
 たいていの事典類には1926年設立とあるし、だいいち、 ISO の公式ウェブサイトに掲載されている「The ISO story」に、はっきり1926年設立と書かれている[http://www.iso.org/iso/about/the_iso_story/iso_story_founding.htm]。ところが、通商産業省〔編〕『商工政策史』第9巻(商工政策史刊行会、1961年)によると、じつは1926年の時点では「会則の整理と細則等を議決」しているのだが、「ほかの国際団体との協力問題に関する意見が一致しなかつたので、協会の設立を具体化する時期についてはなお考慮することとし」たという(p. 220)。で、正式な発足は1928年10月なのだという。つまり、会則の決定と正式な発足との間に2年のズレがあるらしい。

 ……と、こういう細かいことばかり気にしているから、肝心の「ISA という国際組織が第一次世界大戦後という時期に設立されたことの意味」という話をきちんと盛り込むのを、うっかり忘れていたりするのである。
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2011年12月24日

クリスマスツリーと政教分離原則

 手元に詳しい資料がないので、とりあえずネット上で容易に確認できる記事を示す。

 1964年(昭和39)7月31日、衆議院社会労働委員会[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0188/04607310188060a.html]における林修三・内閣法制局長官の答弁より。

 文脈を確認しておくと、まず、長谷川保(はせがわ・たもつ)委員(日本社会党)が、この年8月15日の全国戦没者追悼式を靖国神社境内で挙行することになったことを、政教分離上問題があるのではないか、という理由から取り上げる。

 なお、全国戦没者追悼式は、日本遺族会などの要望により、1963年から毎年8月15日に開催されることになった(これ以前にも、対日講和条約発効の1952年5月2日と、千鳥ヶ淵戦没者墓苑竣工式の1959年3月28日に開催されている)。最初の1963年は日比谷公会堂での開催であり、翌1964年も当初は同じ場所での開催が閣議決定されていたのだが、それが「遺族等の強い要望」という理由で靖国神社に変更されたのである。社会党からは小林進や滝井義高らも参戦し、政府を追及している。

○長谷川(保)委員 […]御承知のように、全国の公共団体これは国の機関も同様でありますが、国の機関あるいは公共団体におきまして、建築物あるいは橋をつくる、鉄道を敷く、こういうようなときにやはり神道の儀式をもっておはらいその他のことをやるのであります。これに国の金あるいは公共の金が出るとすれば、これは明らかに憲法違反だと思いますけれども、この点は法制局長官としてどう考えられますか。

○林説明員 いまおっしゃったような起工式とか竣工式とかに、いわゆる神式でございますかの行事が行なわれていることは、どうも事実のようであります。これは行ない方にはいろいろあるようでございまして、工事業者がやっている場合もあるようでございますが、しかしやはり公共団体等がみずからやっている例も多いようでございます。この点につきまして私どももかねて考えておるわけでございますが、かつて、実は少し問題は違いますが、例のクリスマスのツリーを国鉄の駅の前に立てたということで問題が起こったことがございます。その際に私ども意見を聞かれまして、ああいうクリスマス・ツリーは、日本においてはすでに宗教的色彩を失って一種の習俗的な行事であるというふうになっているんじゃないか、あれを見て直ちにだれも宗教的感じを抱かないんじゃないか、そういうふうにわれわれ申しまして、あの程度のものはいいじゃないかということを申したことがございます。いまの起工式あるいは竣工式につきましても、実は私ども、すでに日本のいわゆる古来の習俗というようなことになっておるんじゃないか。これはいろいろの例を見ましても、仏教信者がおはらいをするときにもああいうものを使う、あるいは竣工式、起工式にはああいう式をやる、あるいは役所のたとえば火よけに秋葉神社のお札を持ってくるというのは、これは必ずしもその人が神道であるということに結びつかないで、日本においてはすでに一つの習俗的なものになっている、こう考えていいんじゃないかと私ども考えて、そういうようなこととしてどうも認めざるを得ないんじゃないかと思っておるわけでございます。

○長谷川(保)委員 それは全くのひどい話でありまして、これは神の降臨を祈って、御承知のようにのりとも日向の橘之小戸とかなんとかいうことを言う。これは全くの神道の儀式であります。これを単なる習俗ということはいけない。むしろやはり国あるいは公共のものは、そういう宗教を入れる必要はない、何も入れる必要はないのであります。したがって起工式なら起工式、竣工式なら竣工式を無宗教でおやりになればいいのでありまして、そういう形ですでに行なっているところもあります。実業家などでもあります。この間も私はある件で関係したのでありますが、本田モーター、あれなどはもう起工式なんて何もやりません。そういうことでいいんだと思います。[…]

 国鉄(現在のJR)は当時は国有企業(日本国有鉄道)の運営だったため、こうした問題が生じたわけである。

 ちなみに、長谷川(1903-94)はクリスチャンであり、聖隷福祉事業団・聖隷学園などの創立者として知られる社会運動家・教育家でもある。林がクリスマス・ツリーの件を持ち出したのは、クリスチャンである長谷川の批判をかわそうとする狙いから、ということかもしれない。

 結局、翌1965年からは全国戦没者追悼式は日本武道館で行われるようになり、現在に至っている。

 長谷川が問題とした「神道の儀式」すなわち地鎮祭については、のちに津地鎮祭訴訟(1965〜77年)として実際に裁判で争われているが、第一審では習俗的行為として合憲とする判決、控訴審では宗教的行為であり違憲とする逆転判決、上告審では、やはり習俗的行為として合憲とする再逆転判決が下されている(ただし、最高裁判決は裁判官中8名が合憲、5名が違憲と判断したもの)。

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2011年05月14日

地方紙に見る関東大震災についてのデマ記事(続)

 前回、「名古屋大震災」「富士山噴火」の記事を入れていなかったので、それも含めて補足。今回は号外だけでなく、本紙に掲載されてしまったものも含んでいる。

 ちなみに、このころはまだラジオ放送が行われていないので、新聞が最も速報性の高いメディアだった。このころの号外は、現代でいえば、テレビやラジオのニュース速報に近いものである。関東大震災の際には、1日に3度も4度も出した新聞社もある。

 なお、こうしたデマ記事が掲載されてしまった背景について、少し説明しておくべきだろう。まず、東京の電信・電話施設は、地震発生とともに物理的に壊滅してしまい、東京は文字通り音信不通になってしまった。鉄道や道路も寸断されており、被災地への直接取材もままならない。おまけに、東京の新聞社はすべて物理的に壊滅している。つまり、地方紙にとっては、震災発生から数日の間は、信頼のできる情報がもたらされない、情報の裏をとりたくてもとれない、という状況に陥ってしまったのである。そのため、あらゆる手段をとって情報をかき集めた結果が――いかがわしい伝聞記事や噂話のオンパレードとなってしまった、というわけである。

◎名古屋大震災

名古屋も全滅?/詳細いまだ不明

(二日午前五時船橋無線電信局発小樽碇泊丁抹丸受信)[…]▲第七信傍受せし所に依れば横浜及名古屋は全滅せり

名古屋全滅の原因も地震と火災

名古屋地方にも強震火災起り全滅せりとの噂あり(三日仙台逓信局着信)[『小樽新聞』9月3日付号外第3、9月4日付本紙にも再録]

 「船橋無線電信局」というのは、千葉県東葛飾郡塚田村行田(現・船橋市)にあった海軍無線電信所船橋送信所のこと。東京近郊で唯一生き残った無線施設として、東京の被害状況を全国に伝える役割をになった。ただし、それが同時に、東京での流言やデマまで一緒に全国に広めてしまった、ということもよく知られている。出所が船橋送信所である、というのが正しいとすれば、これもその一例かもしれない。それにしても、「噂」レベルの話を見出しつきの記事にするとは……。

◎富士山が噴火

●東京大災震(第一報)/横浜、横須賀、全滅か

[…]震源地は三説ありて一は鹿島灘と云ひ或は富士山の爆発と云ひ或は天城山の爆発と云ひ何れが真なるや不明なり。

(九月二日午前七時本社特報)[『荘内新報』号外第1報]

 三つとも全部ハズレ。ちなみに天城山は火山ではあるが、その活動は約20万年前に終わっている。

◎横浜が海底に沈没

●震源地は天城山 第十二報/横浜全市海底に没して跡方なし

大強震、震源地は天城山にして、伊豆、伊東、下田方面は惨状言語に絶し倒壊家屋無数死者亦[また]算すべからず 所沢飛行隊は八台の飛行機を以て、東京市上空を偵察中、遂に皇居に延焼せるを確認せるも何等施すべき策なくして空しく引揚げ日光田母沢御用邸に御避暑中の陛下に奏上する所ありたり

◇名古屋電報

当地惨害甚しく駿河町は全滅し死者七八百名宛然生地獄を現出す

[…]

◇所沢特報

当場飛行機八台をして横浜市を偵察せしめたるに、仝市全部水中に没し、一の家屋を発見する能はず空しく引上たるも更に飛行活躍しつゝあり

[…](二日午後十時半特報)[『荘内新報』号外第12報]

 天城山が震源、というのはまだ許せるとしても、「皇居炎上を確認」「名古屋大震災」「横浜沈没」あたりは唖然とせざるをえない。いったいどこから情報を集めてきたのだろう。「名古屋電報」というのはほんとうに名古屋からの電報なのか。駿河町という地名は名古屋にも東京にもあるんだが。

◎山本権兵衛首相「暗殺?」

山本権兵衛伯暗殺?/各種の情報は何うやら真らしい/大混雑中に何者かの兇手に殪[たお]

山本権兵衛伯の暗殺説は全市無警察の状態なれば、未だ俄[にわか]に信を置き難いが長野運輸事務所より高崎へ高崎より大宮へ大宮より更に東京上野駅に連絡した情報は三回とも山本伯の暗殺説を伝へてゐるから或はどさくさ紛れに山本伯は何者かの兇手に見舞はれたのではないかと思惟される(長野電話)[『京都日出新聞』9月2日付本紙夕刊]

 「?」をつければいいって問題じゃないだろう。3回問い合わせた結果が同じだから事実である可能性が高い、というのもひどい理屈だ。

◎「不逞鮮人」が山本首相を暗殺、摂政宮裕仁親王も行方不明

●山本首相暗殺??/主義者の暴動

[…]尚[なお]茲[ここ]に驚愕すべきは、山本首相が一日午後不逞鮮人の為に暗殺せられたりとの報あり、

然も尚恐懼すべきは摂政宮殿下が一日午後自動車に召されて何れかの方面にか御出向遊ばされたる侭[まま]行方杳{よう]として知れず憂慮に堪えざるものあり

不逞鮮人主義者一派は混乱に乗じて暴動を起し、赤羽火薬庫砲兵工廠を襲ひ爆発せしめたり

但し吾人は是等の報道の希[こいねがわ]くは嘘報ならん事を祈るものなり(九月二日午後四時特報)[『荘内新報』号外第9報]

 「不逞鮮人主義者一派は…」の箇所は、この種のデマの典型的なパターン。朝鮮人や社会主義者が、いかに偏見の目で見られていたかを露骨に示している。

 「不逞鮮人の暴動」というデマが山本首相暗殺デマに結び付けられている、というだけでもひどいのだが、なんと摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)が行方不明だという。こんなものすごいデタラメを報じておきながら(しかも典拠が示されていない)、「嘘報ならん事を祈る」もなにもないもんだ。

 他紙の大部分が、とりあえず摂政宮は無事、と報じている中で、このパターンは珍しい。

●山本権兵衛伯暗殺の噂/不逞鮮人の仕業といふも真偽全く不明

山本伯が大の地震騒ぎの中に不逞鮮人の為めに暗殺されたとの報があり又不逞鮮人及び反政府党が共謀砲兵工廠及海軍省を爆発せしめたとの報がある山本首相の暗殺されたといふ報は上野運輸事務所から出たものだといふことだが未だ何等根拠とすべきことなく信ずべき材料も無い(二日青森発)[『小樽新聞』9月3日付本紙]

 「何等根拠とすべきことなく信ずべき材料も無い」と思ってるんなら報道するなよ。

◎伊豆七島全部噴火、いっぽう伊豆大島は異状なし

伊豆七島噴火/大地震の再襲来はあるまいと気象台員語る

【高崎電話】伊豆七島は目下全部噴火して居る之[こ]れに関し中央気象台員は語る『噴火してももう大丈夫だ大地震は再び来ぬのが原則である』と

海嘯に襲れた下田/一時陥没を伝へられた大島は異状なし

【静岡電話】伊豆大島は通信不能の為め状況が知れず一時全島陥没したとの説があつたが電信も通じ何等の異状もなかつた事が判明した[…]此の日[9月1日]伊豆大島の三原山が噴火するのではないかと下田、稲取両町民は不安に襲はれ殆ど全町民は二日二晩竹藪の中に避難したが四日大島へ電信も通じ天城通い自動車が開通して居る(静岡経由下田来電)[『九州日報』9月6日付号外第2]

 何が凄いかって、このあからさまに矛盾する2つの記事は、同じ号外の紙面で仲良く隣り合っているのである。出所が異なるとはいえ、変だと思わなかったんだろうか。

 「噴火してももう大丈夫だ、大地震は再び来ぬのが原則である」という中央気象台(気象庁の前身)のコメントも問題がある(そもそも噴火自体もデマだし、このコメントも実際に出されたものかどうか不明だが)。確かに同程度の規模の地震が同じ場所で繰り返し起きる、ということはないにせよ、余震はまだ続いている。4ヶ月後の1924年1月15日には、 M 7.3 (つまり兵庫県南部地震=阪神・淡路大震災と同じ規模)の「丹沢地震」が発生、神奈川県中南部を中心に死者19人を出している。

◎松方正義に聞く“死んだ感想”

松方公元気に復る

鎌倉別邸に静養中負傷した松方老公は目下勧銀[日本勧業銀行=現・みずほ銀行]理事川上直之助氏別邸に静養中であるが左大腿部外全身八ケ所の擦過打撲傷を負つたが今日では大腿部を除く外は全部治療し極めて元気である九日川上氏邸に公を訪ふと漸く歩けるやうになつたと病室から縁側に進み藤椅子に依つて団扇を使ひ乍[なが]ら『死んだものが居るのだから幽霊の写真が出来よう』と悪口を叩きニコ/\しながら[…](東京電話)[『福岡日日新聞』9月11日付号外]

 最後におまけ。「死亡」と大々的に誤報されてしまった元老の松方正義から、新聞記者にひとこと。なお、この記事には松方の写真は掲載されていない。

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2011年05月10日

地方紙号外に見る関東大震災についてのデマ記事

 先日(5月1日)、 Twitter でこんな話を書いたところ、予想外に反響があった。

  • 関東大震災のときに地方紙に載ったデマは、例の「不逞鮮人」関係を除いても酷いもので、報道の通りなら伊豆諸島はすべて水没し、富士山は爆発し、名古屋は壊滅し、高橋是清や松方正義は死亡し、宮城(皇居)は炎上し、山本権兵衛首相は暗殺されているはず。 posted at 00:16:34

 せっかくなので、新聞資料ライブラリー〔監修〕『シリーズその日の新聞 関東大震災 上 激震・関東大震災の日』(大空社、1992年)に収録されている地方紙の号外の中から、明らかなデマ記事をいくつか抜き出してみた。以下の抜き書きは、1923年9月4日ごろまでのものの中から目についたものを適当に選んだだけであり、網羅的なものではないことをお断りしておく。漢字は新字体に直した。[…]は引用者註。散発的な誤報もあれば、「松方公薨去」のように、本格的に信じられていた誤報もある。

 記事を見ていると、東京発の情報が途絶えている中で、地方紙の側が、なんとかして情報をかきあつめようと四苦八苦しているのがわかる。もちろん正しい情報も掲載されているのだが、しかし、このような虚報が大量に流されていたのもまた事実である。なお、ここでは挙げていないが、明らかに最も目につくのが「朝鮮人が爆弾や毒薬を持って暴れている」の類の悪質なデマである。

◎槍ヶ岳が噴火

大地震の原因は槍ケ岳の爆発

大地震の原因は日本アルプスの槍ケ岳の爆発と判明した[『小樽新聞』9月2日号外]

 そもそも火山じゃない。

◎秩父山が噴火

秩父連山大爆発/噴煙天に冲す

秩父連山は卅日噴火を始め一日正午に至り俄然噴煙天に冲して大爆発をしたものらしく之を高崎方面で眺むれば寧ろ壮観で今回の大地震は秩父連山の大爆発によるものあらうとも伝えられてゐる(長野来電)[『大阪毎日新聞』9月2日付号外第2]

 やっぱり火山じゃない。

◎横須賀が沈没

横須賀は陥没/所在不明

(二日午前十一時四十分青森発無線通信)横須賀陥没し所在を知る能[あた]はず[『小樽新聞』9月2日付号外第2]

 ちなみに、同じ号外に「青森発」として「不逞鮮人横行の為め取締困難を極む東京」というデマ記事が載せられている。

◎伊豆大島が沈没

島影を認め得ぬ小笠原と大島/海中に陥没せるものらしい

小笠原大島等は強震のため渺茫[べうぼう]たる海原と化し海上から視察するも島影をみとめ難く海中に没したものらしい(二日宇都宮発)[『小樽新聞』9月3日付号外第2]

新島出現す/大島が見えない

千葉警察部の報道によれば伊豆大島の前方に新しき島が出現し大島は新島に遮られて見えなくなつたと一説には大島は陥落して見えなくなつたのではあるまいかと噂されて居る[『名古屋新聞』9月4日付号外第2]

震源地大島/全島沈下して全島民溺死

今回の震源地なる伊豆大島全島沈下した為め島民全部溺死したとの説あるが消息不明の為め詳細判明せず[『名古屋毎日新聞』9月4日付号外]

◎宮城(皇居)炎上

宮城の一部焼失/鉄道省は全焼す/札幌鉄道局に達せる情報

二日午後二時まで札幌鉄道局に達した情報によれば宮中の一部焼失鉄道省は全焼し[…][『小樽新聞』9月2日付号外第2]

(※追記――鉄道省本庁舎の炎上は事実です。誤解されそうなので念のため。)

宮城今尚鎮火せず

[…]宮城も尚焼けつゝある(二日午前六時大阪運輸事務所着電)[『大阪毎日新聞』9月2日付号外第2]

全市火の海/宮城も半焼

【長野電話】東京市の火事は二日午前二時半に至るも尚ほ止まず[…]尚ほ宮城も遂に半焼した[…][『九州日報』9月2日付号外]

(※追記――宮城の一部に飛び火があったところまでは事実なので、最初の2つは完全な虚報とまではいえない。とはいえ、「半焼」は明らかに行き過ぎ。)

◎松方正義が死亡

松方公薨去

重傷を負ふて危篤に陥つた松方老公は遂に薨去した享年八十九歳(名古屋)[『京都日出新聞』9月3日付附録]

松方公薨去/鎌倉で負傷中の処

鎌倉に静養中の松方公が負傷したことは既報のごとくなるが引続き加療中の所三日薨去した(三日青森発)[『小樽新聞』9月4日付号外第1]

松方公逝去

松方公は鎌倉別邸に避暑中であつたが震災と同時に家屋倒潰し公は二日屋根の下敷になつて惨死して居たので三日重態の旨宮内省に届出でた[『名古屋新聞』9月4日付号外第2]

 最も代表的な「著名人が死亡」の虚報。松方正義(元老、公爵)は実際には1924年死去。なお、『名古屋新聞』の記事には、「惨死」後に「重態」を届け出る、という矛盾がある。

◎高橋是清が死亡

高橋総裁以下政友会幹部廿名圧死/本部で協議中俄然建物倒壊す

【名古屋電話】一日午後一時政友会本部で幹部会を開き協議中であつた高橋総裁以下二十名の幹部は本部建物倒壊の為め非難する暇なく全部圧死したとの情報を中央線列車乗組の車掌が齎らした[『九州日報』9月3日付号外第4]

政友会本部倒潰し高橋総裁圧死/幹部廿名と協議中の災厄

政友会高橋総裁は幹部二十名と本部にて政策問題につき協議中本部倒壊し高橋総裁は圧死したと(四日青森発)[『小樽新聞』9月4日付号外第1]

 高橋是清(元首相、立憲政友会総裁)は実際には1936年の2・26事件で殺害されている。

◎華頂宮博忠王が死亡

華頂宮薨去/横須賀隧道内で土砂崩壊の為

海軍少尉華頂宮博忠王殿下(二十二歳)には安否不明なりしも横須賀第一隧道内に於て御乗車の列車に土砂崩壊し薨去遊ばされたり[『名古屋新聞』9月4日付号外第2]

 華頂宮博忠王は実際には1924年死去。

◎島津忠重が死亡

島津公圧死

島津忠重公は去る一日大崎の本邸にて圧死した[『名古屋新聞』9月4日付号外第2]

 島津忠重(旧薩摩藩主島津家当主、公爵)は実際には1968年死去。

◎山本権兵衛首相暗殺

山本伯暗殺の風説/未だ尚ほ信ぜられず

内閣瓦解の後に大命を拝して新閣僚の選定に努めつつあつた山本権兵衛伯は一日激震の最中何者かに暗殺されたといふ風説伝はる、流言頻々たる折柄本社は尚ほ極力精探中であるが未だ信ぜられず[『大阪朝日新聞』9月2日付号外第2]

山本伯身辺の風説/確証も打消材料も共に無い

山本首相が暗殺されたといふ流説が専ら伝はつたそれを聞いた者は上野運輸事務所の者の口から出たといふが此場合の事とて何ら根拠ありとも認められぬと同時に又打消すべき確証もない(名古屋来電)[『大阪毎日新聞』9月2日付号外第2。ほとんど同一の文章が『九州日報』9月2日付号外にも「長野電話」としてある]

 ことがあまりに重大なためか、さすがに未確認情報だと断っている。

◎名古屋市でも震災

名古屋全滅は風説ならん/名古屋鉄道局から札鉄へ業務上の通信

名古屋は震災を被つて全滅したと云ふ噂があつたが三日午後四時三十五分名古屋発同十一時十三分札幌鉄道局着電に依ると、中央線浅川塩山間不通の処猿橋塩山開通すとの電頼があつた、之に依ると右風説は虚構であらうと[『小樽新聞』9月4日付号外第2]

 この場合はデマ訂正だが、つまりそれ以前にそういうデマが広まっていたということである。何が陰鬱かといって、同じ号外に「不逞鮮人水道に毒薬を投ず」「爆弾携帯の不逞鮮人四百名逮捕」といった悪質なデマ記事が載っていることだろう(400人もが携帯できる量の爆弾なんか、いったいいつ、どこで用意したというのだ?)。

 ……あれ? 富士山噴火が無いな。見落としたか。

(21:00 若干の誤記を修正、追記を付け加えました。)

(5月16日追記。「富士山噴火」「名古屋市でも震災」については続きを参照のこと。)

posted by 長谷川@望夢楼 at 01:56| Comment(1) | TrackBack(1) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月14日

「政治とカネ」という表現

 さて、震災のためにどうでもよくなってしまった気がするのですが、そもそも地震が起こったときに何を調べてたかというと、 Twitter で書いた次の件が気になって、読売新聞(ヨミダス文書館)と朝日新聞(聞蔵IIビジュアル)で全文検索をかけていたのですね。

# 「政治とカネの問題」という言い方がかなり気持ち悪くて仕方ない。うさんくさい。いつから定着してしまったんだろう。 10:49 PM Mar 7th webから

 まず読売新聞(1986年〜)。分量が多いので3年ごとに区切って、単純検索で本文に「政治とカネ」という表現がどのくらい使われているのかを調べたもの。(1986年はゼロ。1996〜99年だけ4年間になっているが、間違いに気付いて訂正しようと思った矢先に地震が襲って来た。)

年次政治とカネ政治と金
1987-1989 49 36
1990-1992 109 41
1993-1995 115 40
1996-1999 44 24
2000-2002 364 55
2003-2005 496 62
2006-2008 977 76
2009-20112016 81

 次に朝日新聞(1984年〜)(追記:『AERA』『週刊朝日』を含む)。

年次政治とカネ政治と金
1984-1986 7 0
1987-1989 100 45
1990-1992 152 55
1993-1995 173 86
1996-1998 44 20
1999-2001 90 23
2002-2004 614 115
2005-20071153 96
2008-20101961 145
2011 118 3

 各記事の詳細なチェックを行っていないが、1980年代末〜90年代初頭は、明らかにリクルート事件(1988年)や東京佐川急便事件(1992年)とリンクしている。橋本龍太郎内閣期(1996〜98)、小淵恵三内閣期(1998〜2000)あたりでは減少、安倍晋三内閣期(2006〜07)あたりから急増しているようである。3年ごとでなく、もうちょっと細かく区切ってみないと、あまり確実なことはいえない。

 また、『朝日新聞』での見出しの初出は、1952年10月21日付夕刊のコラム「今日の問題 政治と金」(コラム)で、昭電疑獄(1948年)に関連した内容。「政治とカネ」という表現では、1956年4月6日付朝刊の都留重人による署名記事「危機に立つ民主主義(4)驚く心こそ必要 ひどすぎる政治とカネの悪縁」。いずれにせよ、もともとは明白な汚職と関連した表現であったことは間違いない。まあ、だから何だ、といえるほどの分析はできていないが。

 ついでに「血税」の件。

# 現代的な意味での「血税」という言葉の使い方もかなり気持ち悪いと思う。もちろん語源的には徴兵制度のことなのだが(そんくらいみんな知ってるよなぁ)、それがいつから「血の出るような思いで納める苛酷な税」(『広辞苑』第6版による第2義)という意味で使われるようになったんだろう。 10:51 PM Mar 7th webから

 『朝日新聞』1951年4月8日付朝刊の「声」欄に、「血税の行方」という投稿が載せられている。案外古い、というより、もしかしたら戦前に遡る表現なのかもしれない。

(追記)……と書いてから、ふと思いついて神戸大学新聞記事文庫で検索をかけてみた。なんだ、1913年の『報知新聞』で、すでに「国民の血税を以て一私設会社の私服を肥やすは断じて賛す可からざる所」という表現が使われているではないか。(ID 00139248)

posted by 長谷川@望夢楼 at 23:32| Comment(7) | TrackBack(0) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月05日

日本側の新聞報道に見る桂林号事件

 「消えたハワイ・クリッパー飛行艇」で簡単に触れた桂林号事件(1938年8月24日)について、『新聞集成昭和編年史 十三年度版III』(新聞資料出版、1991年)に収録にされた、日本の新聞に報じられた日本側の公式発表に基づいて、事件の概略を見てみることにする。もちろん、当時の公式発表が信頼できるか、といえば、そんなことは決してないのだが、当時の日本側が認めた事実だけからも、この事件の性格をある程度うかがうことはできる。なお、引用文は資料性に鑑み、漢字を新字体に置き換えたほかは訂正を加えていない。

 まず状況を確認しておく。1938年(昭和13)8月から10月にかけて、日本軍は武漢作戦・広東作戦を並行して行い、華南各地で中国軍と激しい戦闘を繰り広げた。この時点では香港(当時イギリス領)は戦場にはなっていないが、その周辺は戦場になっていたわけである。なお、この直前に日本軍は広東(広州)爆撃を行っており、戦略爆撃による非戦闘員を巻き込んだ無差別殺戮として国際的批難を浴びている。

 1938年8月24日朝、中国航空公司(中航、 CNAC)のダグラス DC-2 旅客機「桂林号」(Kweilin)が、香港から武漢に向かう途上、マカオ附近で珠江に不時着し、乗員・乗客17名中14名が死亡ないし行方不明となる、という事件が起こった。犠牲者の中には、浙江財閥の大物であった徐新六(1890-1938)と胡筆江(1881-1938)が含まれていた。徐は浙江興業銀行董事長兼総経理、胡は中南銀行総経理・交通銀行総行董事長であり、二人とも重慶で開かれる予定の銀行家大会に出席する予定だった。

 この事件について、中国側は、同機は日本海軍機の不法射撃にあったものである、と発表した。これに対し日本海軍当局は、中国側の「デマ」に反論する、として次のような発表を行った(『東京日日新聞』8月26日付夕刊「支那のデマ粉砕/海軍機の行動当然/ダグラス機遭難事件」。〔…〕は引用者註)。

同日午前九時頃香港西方約卅浬〔30海里=約56キロメートル〕珠江上空を飛行中のわが海軍航空隊の水上機部隊が大型機一機を認めたるところ、同機には第三国旗及び赤十字旗のマークを付してをらず、且〔か〕つわが部隊を逃避せんとしたのでそれを敵機と認め追撃すると澳門〔マカオ〕北方廿浬〔20海里=約37キロメートル〕の河中に不時着したので直ちに低空飛行を試み、仔細に検査したるところ、同機の右翼上に漢字をもつて『郵』と認めてあつたので直ちに攻撃を中止して基地に帰還したものである、当時の情況によれば旅客機なることを判断し得ず、かつ珠江付近は純然たる作戦地帯にしてわが方の行動は理の当然といふべきである

 要するに、「たしかに日本軍側が攻撃したのは事実だが、それは中国軍機と誤認したからである。交戦区域を目立つ標識もつけずに飛んでいる方が悪い!」というわけである。“不時着”の原因を作ったのが日本側にあることは明らかで、なにが「デマ粉砕」なのかよくわからないのだが、とにかく、不法ではないし、わざとでもない、ということらしい。

 事態はこれだけでは済まなかった。当時の中航は中国政府(蒋介石政権)とパン・アメリカン航空(パンナム)の合弁企業で、資本の55%は中国政府、45%はパンナムの出資であった。そして、桂林号の操縦士もアメリカ人であった。そのため、8月26日にアメリカ側は公文をもって抗議を申し入れてきた。

 これに対し、8月31日、外務省情報部は、調査の結果明らかになったとする当時の状況を発表している(『大阪朝日新聞』9月1日付朝刊「わが海軍機の措置不当に非ず/中国航空公司機不時着事件/米の申入れに回答す」)。

現地状況 本月〔1938年=昭和13年8月〕二十四日帝国海軍機五機は粤漢線〔粤漢(えつかん)鉄路。武漢・広州間を結ぶ鉄道路線。「粤」は広東省の別名。現在は京広鉄路の一部〕方面に向つて進航中たま/\午前九時三十分淇澳島〔きおうとう。珠江河口にある島。→ Google マップ〕上空においてその北方約二千メートルの辺りに突如高度約二千メートルをもつて西方に向ひ飛行中の標識不明の大型陸上機を発見せるをもつてこれを確認すべき近接高度をとりたり、しかるに右大型機はわが海軍機の近接を認むるや急に方向を西北方に転じ全速力をもつて断雲〔ちぎれ雲〕中に逃避せり、叙上近接行動は該機確認の目的をもつてなされたるものなるが左のごとき逃避運動を見るにおよんでわが方は既往数次の事例に鑑みこれをもつて我が艦艇攻撃乃至〔ないし〕偵察の目的をもつて来襲したる敵機に相違なしと判断し雲の上方に二機、下方に三機を配し右敵機を攻撃するの姿勢をとりたり、間もなく下方に待機中の我が海軍機は右敵機を前方に発見したるをもつて直〔ただち〕にこれを追躡〔ついしょう。追跡〕しつゝ攻撃を加へたるに同機はなほも盛んに断雲を利用して逃避せんと試みたるも我が方の追躡急なりしため遂に横門溪口〔珠江デルタの河口の一つ。→ Google マップ〕の西方十六キロの中洲の南側江中に着水するに至れり、わが飛行機は最初六型陸上機を発見してよりその逃避するを敵機として追躡し遂にその着水するに至るまで概ね右敵機の後方に位置しをりたるため視認状況不良にして終始該機を敵機と認めをりしものなるも右敵機が着水するやわが海軍機は状況確認のため下降し該機の上空に近接しその機種を判別し得る状態となりたるところその機種に疑義を抱くに至りたるをもつて直ちに攻撃を中止したり
状況右の如く該機着水後わが方はその機種につき疑惑を持つにいたるまでには多少の時間ありしを以てその間(極めて短時間)引続き攻撃を加へたる飛行機あるもその機体については絶対に射撃を行はざりしものなり、次いでわが海軍機は高度を二〇メートルまで下げて着水敵機を偵察せるところはじめて該機が金属製ダグラス型旅客機にして何らの塗粧標識を有せず、たゞ『郵』の記号を右翼上面および右側胴体に記入せられをるを認めたるをもつてそのまゝ引揚げたり、なほ着水機上には操縦者一名と後方客席入口附近に乗客二、三名あるを認めたるも着水地位が陸岸に近かりしより見てこれら人員は対岸に泳ぎつきたるものと推定したる次第なり

 つまり「まぎらわしい行動をとった方が悪い」「確かに着水後も攻撃は続けた。しかし、それは誤認に気付かなかったためだし、機体は撃っていない」「乗員乗客は助かると思ったからそのまま見捨てた」というわけである。

 8月31日付の日本側の対米公式回答は次のようなものであった(前掲『大阪朝日新聞』による、一部のみ抜粋)。

〔…〕査するに本件は我が方作戦行動区域内において〔…〕支那軍軍用機と紛らはしき行動を取りたる中国航空公司所属の航空機が帝国海軍機によりて敵機と認められて追躡および攻撃を受けたるにより発生したるものにしてその結果アメリカ市民たる同公司所属操縦士が危険に遭遇し、また非戦闘員たる乗客乗員に死傷を生じたることは遺憾とするところなるも、叙上の事実に鑑み帝国政府としてはわが海軍機の取りたる行動は不当にあらずとなすものにして、また右航空機の所属会社が支那国の法人たるにかんがみ直接第三国との間に問題を生ずべき事案にあらずとの見解を持する事態に有之候〔これありそうろう〕、〔…〕

 さて、これに懲りて少しは慎重になったのか、と思うと、桂林号事件から半月も経たないうちに、今度は欧亜十五号事件が引き起こされている。

 9月5日朝、欧亜航空公司(Eurasia Aviation Corporation)の香港発昆明行きユンカース旅客機「欧亜十五号」が、広州市北方の広東省源潭附近(→ Google マップ)で、粤漢鉄路を攻撃中の日本軍機から攻撃を受けた。同機は広西省中部の柳州(→ Google マップ)に不時着、乗員乗客7名は全員無事であった。欧亜航空はルフトハンザドイツ航空と中国側の合弁企業であったため、日本は、今度はドイツの抗議を受けることになる。

 同日、外務省は次のような談話を発表する(『東京朝日新聞』9月7日夕刊「無通告で飛んでまた旅客機事件/外務省真相を発表」)。

〔…〕我が方は先に香港総領事から飛行のコース、出発時間、操縦士の国籍等を予め通知されたい旨を欧亜航空公司に対し通告しておいたが右の事項を通知し来たる事実なく従つて同日も平常コースを辿[たど]りたるや否や判明せず、尚今月三日東京駐在ドイツ大使館附武官から我が海軍に対し欧亜機の保護につき申入れあつたが航空安全保障は困難なりと拒絶した事情もある、従つて航空機側に於いて航空安全を望むならば周密なる手配をすべしと言ふべきである

 9月6日、大本営海軍報道部長は次のような談話を発表した(『大阪朝日新聞』9月7日付朝刊「わが飛行圏内で旅客機の安全保証し難し/海軍報道部長談を発表」)。

〔…〕
そも/\『わが飛行機の行動する地域においては支那旅客機の飛行に対しその安全を保障する能はざること』は九月三日外務省より帝国政府の見解として発表せられたるところにして、右は空中においては旅客機と軍用機との識別極めて困難なること、支那飛行機は従来しば/\広東湾その他の方面においてわが方を攻撃偵察したること、並[ならび]に旅客機といへどもそのまゝ軍用に供し得ることなどに鑑み当然のことなりと認む
帝国海軍はもちろん支那旅客機を故意に攻撃する意思なきも既往二回の経験により旅客機と軍用機との識別殆[ほと]んど不可能なるにかんがみ支那旅客機の安全に関しては前記帝国政府の見解によるのほかなきを痛感する次第なり

 要するに「安全を保障できないから飛ぶな」ということである。

 結局、この一件はうやむやのうちに片づけられてしまったようである。

※なお、ハーグ空戦法規案(The Hague Rules of Air Warfare, 1922-23. 条約としては成立しなかったが、慣習法としてしばしば参照される)第33・34条には、次のような規定がある。

ARTICLE XXXIII: Belligerent non-military aircraft, whether public or private, flying within the jurisdiction of their own State, are liable to be fired upon unless they make the nearest available landing on the approach of enemy military aircraft.

【第33条】自国の管轄下を飛行している交戦国の非軍用航空機は、政府機・民間機を問わず、敵国の軍用航空機が接近してきた際には、可能な限り最も近くに着陸しなければ、攻撃をまぬがれることができない。

ARTICLE XXXIV: Belligerent non-military aircraft, whether public or private, are liable to be fired upon, if they fly (1) within the jurisdiction of the enemy, or (2) in the immediate vicinity thereof and outside the jurisdiction of their own State, or (3) in the immediate vicinity of the military operations of the enemy by land or sea.

【第34条】交戦国の非軍用航空機は、政府機・民間機を問わず、(1)敵国の管轄下を飛行しているか、(2)自国の管轄外の最も近い空域を飛行しているか、(3)敵国が地上ないし海上で軍事作戦をとっている最も近い空域を飛行している場合、攻撃をまぬがれることができない。

 桂林号事件が最終的に不問に付されたのは、この影響もあるようである。

posted by 長谷川@望夢楼 at 09:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月11日

「建国記念の日」とは?

「二〇〇〇年六月二十日の非公式の対談で、龍谷大学で地域政策を担当している富野暉一郎教授のゼミの学生六人は、建国記念の日は何を祝うのかと尋ねられて、大間違いの答えを出した。ある学生はこれは日本が米国から独立を回復した日だと話した。科学的なサンプルではなけれども、これは建国記念の日が何であるかを説明できる日本人がいかに少ないかを示唆している。」
――ケネス・ルオフ/木村剛久+福島睦男〔訳〕『国民の天皇――戦後日本の民主主義と天皇制』岩波現代文庫, 2009年, p. 484 註154. (原著2001年)

 そのうち紹介しようと思って失念していた。戦後の紀元節復活運動(≒建国記念の日制定運動)については、同書第5章に詳しくまとめられています。

posted by 長谷川@望夢楼 at 20:17| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月02日

キャプテン・クック対ベニョフスキ

 クック『太平洋探検』(6)(岩波文庫、2005)を読んでいて、妙な記述を見つけた。クック一行がウナラスカ島(アレウト(アリューシャン列島)の一島で、当時はロシア領)滞在中の1778年10月14日の項に、「エラシム・グレゴリオフ・シン・イスミロフ」というロシア人の談話が書きとめられているのである。

 一七七一年五月に、彼はロシア船でボルシェレツコイ〔ボルシェレツク〕を出帆し、〔北緯〕四七度にあるマリーカンという千島列島のひとつまで航海した、と言っている。そこには港とロシア人の居留地がある。この島から、彼は日本まで航海した。日本滞在は短かった。というのは、彼もその仲間もキリスト教徒であると日本人たちが知ったとき、立ち去るように合図したからだが、ただしわれわれが彼のことばを理解したかぎりでは、侮辱や強制はされなかったという。
 日本から彼は広東に行き、そこからフランス船でフランスに渡って、フランスからペテルブルグに行き、再度ここに派遣されたというわけだった。最初に彼が乗った船がどうなったかは、知ることができなかった。また航海の主な動機もわからなかった。おそらく海路、日本または中国と通商を開こうとしたのではないか。(p. 201)

 特に訳註も何もついていないが、これは明らかに、かのベニョフスキの航海のことではないか!

 ベニョフスキ・モーリツ(Benyovszky Móric, 1746-86。ハンガリー人なので「ベニョフスキ」が姓。「ベニョフスキー」と書かれることが多いが、「ベニョフスキ」が正しい)は、荒唐無稽と言いたくなるくらい数奇な生涯を送った大冒険家である。そして、それと同時に、良く言ってもほら吹き、悪く言えば虚言癖の持ち主で、自らの回想録を脚色とホラ話まみれにしてしまい、事情を知らない読者を楽しませるとともに、後世の研究者を困惑させることになる、というなんとも曰くつきの人物である。

 この男については――いちばん手っ取り早いのは、みなもと太郎の大河ギャグ漫画『風雲児たち』の「放浪の異国人」から「不動如莫迦」まで(希望コミックス版第6巻「海から来た男」リイド社版第5巻。「ベニョヴスキー」と表記されている)を見ていただくことでしょうかね。マンガ的な誇張はありますが、おおむね事実に即して描かれています。珍妙奇天烈なほら吹き男として描かれていますが、実際の本人もだいたいあんなもんです。

 ベニョフスキは、自らの回想録によれば、1741年にハンガリー人の伯爵である父と、ポーランド人の男爵夫人の母との間に生まれたという。彼は後年、これを根拠に自ら男爵だの伯爵だのと名乗っている。だが、実際の生年は1746年で、しかも父親は伯爵ではなく、本人は貴族の称号を名乗る権利はなかったという。生誕地は現在のスロヴァキア(当時はハンガリー王国の一部で、ハプスブルク家領)である。

 1768年、当時事実上ロシアの支配下にあったポーランドで、ロシアに対する反乱が起ると、彼はポーランド側についてこれに参加し、ロシア軍の捕虜となって、脱走と再逮捕を繰り返した末、はるばるカムチャツカに流刑となった。

 ところが1771年、彼は他の流刑囚と謀って反乱を起こし、官船を奪ってカムチャツカから脱出する。彼らはそれから、水と食料の供給のため、日本沿岸――土佐・阿波および奄美大島――に立ち寄るのである。このとき彼は、長崎オランダ商館に宛て、ロシアが近々日本に攻めてくる、という手紙を書き残している。しかしこれは、彼の生来の虚言癖と、ロシアに対する腹いせからくる大嘘であった。

 なおオランダ商館はこの手紙を翻訳して幕府に提出している。このとき、ベニョフスキの名前は誤って「ハン・ベンゴロウ」とされてしまった(本人がドイツ貴族風に「フォン・ベニョフ」 von Benyow と名乗ったのを、「ファン・ベンゴロ」 van Bengoro と誤読したのだと推定されている)。この手紙はその後、工藤平助や林子平をはじめとする日本側の知識人に大きな衝撃を与え、その後の日本人のロシア認識に大きな影響を与えてゆくことになる。なお、工藤の『赤蝦夷風説考』や林の『海国兵談』では、ハンベンゴロウはどういうわけかロシアのスパイだとされている。ベニョフスキがこれを知ったら、どんな顔をしただろうか。

 ともかくベニョフスキ一行は、その後マカオを経てフランスに渡っている。ベニョフスキ自身は、1773年、フランス政府に雇われてマダガスカルに渡り、この島の植民地経営を担当する。だが、一行のうち17名はロシアに帰国することを希望し、女帝エカテリーナII世の赦免を受けシベリアへと戻っていった。イスミロフはこのときの帰国組の一人であったようである。

 なおその後、ベニョフスキは植民地の経営に失敗しヨーロッパに舞い戻る。その後、1785年になって彼は、米英資本の協力を得て再びマダガスカルに乗り込んだ。このとき、彼は言うに事欠いて「マダガスカル皇帝」を名乗っていたという。1786年、彼はフランス軍との交戦中に戦死した。誇張とホラ話にまみれた彼の回想録が刊行されたのは、その直後のことである。

 クックはおそらくベニョフスキについてはほとんど何も知らなかっただろうし、イスミロフとしてもあまり詳しいいきさつについては話したがらなかったのだろう。それにしても、なんとも珍妙な邂逅もあったものだ。

 それにしても、ベニョフスキという人間のことは、日本でももう少し知られていいと思う。なにしろ、日本人の間に「ロシアが日本に攻めてくる!」というイメージを流布させることに最大の貢献を果たし、後々まで日本人の対ロシア認識に強烈な影響を与えたのは、間違いなくこの男なのだから。

 特に、その回想録に完訳が無く、日本に関する部分の抄訳(『ベニョフスキー航海記』平凡社東洋文庫、1970)のみというのは残念である。まあ、これはなにもベニョフスキに限った話ではなく、ラ=ペルーズの『世界周航記』やクルーゼンシュテルンの『世界周航記』などもそうなんですけどね。

posted by 長谷川@望夢楼 at 15:15| Comment(2) | TrackBack(1) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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