2009年11月16日

三里塚・芝山連合空港反対同盟の結成日付の謎

 前のエントリを読み返していて思い出したことをひとつ。

 『千葉県の歴史 別編 年表』(千葉県、2009年)の編纂作業に携わっていたときに、どうしても正確な日付が確定できなかった事項がいくつかある。この年表では、日付の明示と、『近代日本総合年表』並みの出典明示を編集方針にしていたのであるが、信憑性の高い文献では日付が明示されていない、という厄介な問題がいくつも発生してしまったのだ。

 たとえば行川アイランド(勝浦市、2001年閉園)の開園日付。ネット上では「1964年(昭和39)8月13日」という日付が流布しているが、これは、もとはといえば『千葉大百科事典』(千葉日報社、1982年)の「行川アイランド」の項に基づいたものと思われる。ところが、この『千葉大百科事典』は間違いが多くて信頼性に欠け、年表編纂の際、典拠として使うのは一切止めよう、という申し合わせができてしまったほどの困った代物なのだ。で、それに代わるものとして新聞報道を捜してみたものの、開園を報じた記事がいくら探しても見つからない。結局、開園1年後くらいの頃に『千葉日報』で「昨年五月に開店」とかなんとか報じられていたのを見つけ出し、なんとかその記事を典拠として「5- 行川アイランドが開業する.」という恰好をつけてみたのだが、個人的には、今でもこの日付はどうにかならないかと思っている。

 もうひとつが、「三里塚・芝山連合空港反対同盟」(以下「連合反対同盟」と略記)の結成日付である。成田空港反対運動の中心であり、戦後千葉県史を語るうえで絶対に避けて通れることのできないこの組織であるが、じつは、どうしてもその結成日付が特定できなかったのだ。もちろん、些事ではあるのだが……。

 まず、『年表』の1966年(昭和41)の「社会・文化・その他」の項には次のようにある。

〔6月〕 -28 三里塚新国際空港設置反対同盟が結成される(三里塚空港反対同盟). -30 三里塚空港設置反対芝山地区同盟が結成される(芝山町空港反対同盟).

〔7月〕 -10 三里塚空港反対同盟と芝山町空港反対同盟共催の新空港閣議決定粉砕総決起大会が開かれる(のちに三里塚芝山連合空港反対同盟へ進展,委員長戸村一作).

 「のちに」という曖昧な書き方(ぼくが挿入したんだが)が情けないが、こうとしか書けなかった。

 二次文献を見ると、たとえば『新東京国際空港公団20年のあゆみ』(1987年)などが7月10日説、『千葉県議会史 議員名鑑』(1985年)、『成田市史 近現代編』(1986年)などが8月20日説をとっている。連合反対同盟(熱田派)も関与した『成田空港問題シンポジウム記録集〈資料編〉』(1995年)にいたっては、7月10日説と8月22日説が両方登場する、というありさまなのである。ちなみに、先ほど信頼できないと書いた『千葉大百科事典』は12月説である。その他、県側、警察側、反対運動側などの関連文献に片っ端から当たってみたのだが、大きく分けて7月10日説と8月20日説に分かれるものの、他にも7月4日だとか11月とかいうものもあったりして、いずれが正しいのかがさっぱりわからない。

 厄介なのは、当事者の記述ですら信頼できるとは限らない、ということだ。たとえば、連合反対同盟(北原派)事務局長である北原鉱治氏の著書『大地の乱 成田闘争』(御茶の水書房、1996年)には、8月20日に開かれたという結成大会の回想が細かく記されている。北原氏は、戸村一作委員長とともに、最も初期から反対運動に取り組んだ活動家の一人であり、連合反対同盟が1980年代に熱田・北原・小川の三派に分裂、熱田派と小川派が空港容認に転じたのちも、現在もなお空港反対の旗を降ろしていない。そういう人物の記述なら信頼できる、と思われるかもしれない。ところが、実際には8月20日には、そもそもそんな大会など開かれていないのである。じつは、北原氏が回想しているのは、6月28日に開かれた三里塚空港反対同盟結成大会のことなのだ。この調子では、二次文献はまず信用できないことになる。

 それでは一次史料はどうなのか。初期反対運動の主要な史料は『成田市史 現代編史料集』(成田市、1984年)と『千葉県の歴史 資料編 近現代9(社会・教育・文化3)』(千葉県、2007年)に収められているのだが、どちらを見ても結成の日付が出てこない。千葉県立中央図書館は反対運動のビラなども保存しているが、それを見てもよくわからない。

 結局、同時代的な新聞報道に当たらなければ結論が出ないことになる。そこで『千葉日報』および『朝日』『読売』などの千葉版を追ってみてわかったことは以下の通り。

 まず、7月10日には確かに決起大会が開かれているが、連合反対同盟を結成したという記述はない。また、先述したとおり、8月20日には何の会合も開かれた形跡がない。

 そして、8月23日付『朝日新聞』千葉版「統合へ近く合同委員会/芝山町と三里塚の反対同盟」に、次のようにある。

 三里塚新国際空港反対同盟(戸村一作委員長)はこのほど開いた委員会で、隣接する山武郡芝山町の反対同盟(瀬利誠委員長)と統合し、三里塚空港設置三里塚・芝山統合反対同盟(仮称)を発足させることを申合わせた。

「このほど」というのが曖昧だが、この委員会は8月22日に開かれたと見てよさそうである。

 次に、10月1日付『読売新聞』千葉版「あす撃退総決起大会/反対同盟 一万人動員し阻止へ」には、以下のようにある。

 三里塚空港反対同盟〔…〕はあす二日午後一時から成田市営グラウンドで“空港撤回、公団撃退総決起大会”を開く。
 この大会は〔…〕山武郡芝山町の空港反対同盟と、今後共闘して、空港建設を阻止することに大きなねらいがあるわけで、あらたに「三里塚芝山連合新国際空港反対同盟」を結成する。

これを見ると、10月2日の大会で連合反対同盟が成立したかのように見える。たしかに、10月3日付新聞各紙の報道によれば、この大会は「三里塚・芝山連合新空港反対同盟」名義で行われているのだが、どういうわけか、この連合反対同盟が新しく結成された、という記述がないのである。

 以上から見ると、8月22日申し合わせ、10月2日結成と推測できるのだが、はっきりそうと述べた記事がない以上、断定ができない。それに、新聞はしばしば間違いを犯すものである。結局、10月2日の大会は年表に載らなかった。

ラベル:千葉県
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2009年01月02日

加納久朗『新しい首都建設』

 1962年(昭和37)から1963年(昭和38)にかけて千葉県知事をつとめた、加納久朗(かのう・ひさあきら、1886-1963)という人物がいる。

 父の加納久宜(かのう・ひさよし、1847-1919)は上総一宮藩*1の最後の藩主で、のち子爵となり、鹿児島県知事(在任1894-1900)、一宮町長(在任1912-19)を歴任している。久朗自身は横浜正金銀行*2のロンドン支店支配人、取締役などを歴任、戦後は日本住宅公団*3の初代総裁(在任1955-59)を経て、1962年(昭和37)の千葉県知事選挙に自民党の支援を経て立候補、現職の柴田等を破り当選。しかし、就任当時すでに70代の高齢ということもあり、在任わずか110日で急逝している。

*1 現在の千葉県長生郡一宮町を中心とした藩。 *2 1880年から1946年まで存続した半官半民の外国為替専門銀行。現在の三菱東京UFJ銀行の前身のひとつ。 *3 現在の独立行政法人都市再生機構の前身のひとつ。

 さて、その加納が1959年(昭和34)10月に時事通信社より上梓した、『新しい首都建設』という書がある。加納は、この前年に東京湾の大規模埋め立てによる新首都建設を提唱しており、本書はこの計画の解説書となっている。

 まず、加納が提唱する埋め立て計画は次のようなものである(〔…〕内は引用者註。強調は引用者による。以下同じ)。

 まず、いまの晴海埠頭を頂点として、一方は千葉県の富津岬まで一直線に線をひいて、その内側、つまり千葉県寄りを全部埋立ててしまう、この埋立てによって二億四千三百〔万〕坪すなわち約八百三平方キロの土地が新たにできる。もう一方は同じく晴海から羽田岬まで直線を引いて、神奈川県寄りを埋立ててしまう、これで九百五十万坪約三十一平方キロの土地ができるから、両方合わせて、二億五千二百五十万坪すなわち約八百三十四平方キロの土地を新たに造成しうる計算になる。これは現在の東京二十三区の面積一億七千五百万坪にたいして、実にその約一倍半の面積をつくることになるわけである。〔p. 29〕

 つまり東京湾の東半分をすべて埋め立てるというプランなのである。そして、この埋立地に皇居を含め首都機能を移転し、新首都「ヤマト」*4を建設する。また、富津岬附近に国際空港を設置する。水資源は利根川上流に沼田ダム*5を建設し、さらに霞ヶ浦と印旛沼を貯水池化することによってまかなう。

*4 この呼び名については、次のような「ある人」の提案を受け入れたのだという。「〔「東京」という名は〕中国の真似である。こんどは新しく、民主的でかつ国際的な首都をつくるのだから、必ずしも「新東京」という名称に固執する必要はない。そこで日本本来の名称である「ヤマト」と呼ぶことにしたらどうか、というのである」(p. 26)。 *5 群馬県沼田市一帯を日本最大級の巨大ダム湖とする構想。建設省関東地方建設局の正式な事業であったが、地元の猛反対により1972年(昭和47)に白紙撤回された。→ Wikipedia:沼田ダム計画

 なお、産業計画会議*5が1959年(昭和34)7月29日に発表した『東京湾2億坪埋立についての勧告』(ネオトウキョウプラン)は、加納が中心となって取りまとめたものである。やはり大規模埋め立て計画ではあるが、加納自身の「ヤマト」プランとは内容が異なっている。ちなみに、現在の東京湾アクアラインへとつながる東京湾横断堤・横断橋構想は、この計画の中で提唱されたものである。

*5 “電力の鬼”の異名をとった実業家、松永安左エ門(1875-1971)が主催したシンクタンク。なお、『東京湾2億坪埋立についての勧告』と同時に、沼田ダムの建設を提唱した『東京の水は利根川から』も発表されている。

 では、これだけの大規模埋め立てに使う土はいったいどこから持ってくるのか。

 しかしなんにしても、これだけの埋立てをやるに必要な土の量は、ちょっとやそっとのことではない。そこで私は、房総半島の山々をとり崩して、その岩石や土砂を埋立てに使うのが、あとでも述べるように一石二鳥でも三鳥でもあって、一ばんいいと考えている。〔pp. 42-43〕

 房総丘陵の山々を埋め立てに利用する、というのは、1960年代の埋め立てにおいて実現することになる。しかし、加納の案が凄いのはそこからである。

 まず鹿野山〔かのうざん。現・君津市にある山〕である。鹿野山の付近は雑木林が多く、小さい山々が起伏しているが、一ばん高い鹿野山でも三百六十メートル〔現在の地形図では 379m〕にすぎない。この付近の土は、赤土と砂利がまじったものであって、これを崩すのはむずかしいことではない。つぎは鋸山〔のこぎりやま。現・富津市と鋸南町の境界にある山〕である。これも高さはわずか三百二十五メートル〔現在の地形図では 329.5m〕である。ただ鋸山の方はほとんど全山が水成岩から成っているので、この山を崩すには従来のようなダイナマイトによる爆破方法ではなく、核爆発によって山全体をゆるませ、岩石を掘りとるという方法を考えている。この核爆発を利用する方法は、アメリカがソビエトの了解のもとに、一九六〇年にアラスカで核爆発による築港工事を行なうことを計画しているが、アメリカの科学者の調べによると、ダイナマイトを使ってやると五千六百万ドルもかかるものが、核爆発を利用すると五百万ドルの費用ですむ計算になるという。また放射能は地下爆発の場合、すべて岩と土砂が吸収してしまうから、人体への害にはならない。したがって、鋸山の爆破にこれを利用することは可能であり、合理的である。〔p. 43〕

 正直いってこの箇所を読んだときは唖然とした。観光名所である鹿野山や鋸山を崩して埋め立てに使う、というプランもさることながら、それに核爆発を用いる、という豪快さが凄まじい。

 「アラスカで核爆発による築港工事」とは、「チャリオット計画」(Operation Chariot またはプロジェクト・チャリオット Project Chariot)のことと思われる(→ Wikipedia: チャリオット作戦)。“水爆の父”エドワード・テラーの提唱によるもので、水爆を用いて掘り込み式の港を作る計画であったが、地元の猛反対などにより1962年に中止に追い込まれている。

 核爆発を土木工事に利用することは「平和的核爆発」と呼ばれ、冷戦期に米ソをはじめ各国で研究が進められた。特にソ連では大々的に実験が進められたものの、放射能汚染問題がついに解決できずに終わっている。貯水湖として作られたはずだったが、放射能汚染で使い物とならなくなった、セミパラチンスク核実験場(カザフスタン)の「原子の湖」ことチャガン湖などがよく知られている。また、1970年代には、クラ地峡(マレー半島の付け根にある地峡、タイ領)を水爆で掘削し、運河を作るという計画が問題になったことがある。

 で、山を取り崩して平たくなった房総半島は、大規模農地として活用する、というプランなのだが……。

 加納のこのプランは、その後のさまざまな首都機能移転構想や東京湾大規模開発構想の原形となった。言うまでもなく、加納のプランが実際に実行されることはなかった。とはいえ、加納の後継者である友納武人知事(1914-99, 在任1963-75)のもと、千葉県では大規模埋め立て事業が次々と実施される。全域の 3/4 が埋立地からなる浦安市、全域が埋立地からなる千葉市美浜区などが典型的であろう。そして結果的に、千葉県内では自然海岸のほとんどが消失し、次々と山が削られ、後には農地ではなく、大量のゴルフ場が残されることになったのである。

 それにしても、実際に鋸山が水爆で取り崩されるようなことがなかったのは幸いだった、というべきだろう。

ラベル:千葉県 戦後史
posted by 長谷川@望夢楼 at 08:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 千葉県の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月02日

幻の「房総新幹線」構想

 最近、とある仕事で千葉県関係の古い新聞や雑誌などに大量に目を通す機会があり、その中でいろいろ妙な記事が目にとまることがあった。この「房総新幹線」もその一つである。
 あらかじめ念のためにいっておくが、実際に一部着工されながら未成線に終わった「成田新幹線」(東京――成田空港間)とは全く別のモノである。

 『千葉日報』1969年(昭和44)1月1日付朝刊に、「千葉県の未来図 二十年後の郷土の姿」と題された地図が掲載されている。千葉県が同年3月に公式に策定することになる「千葉県長期計画」に基づいた将来の千葉県の予想図である。
 この地図には、房総半島を横断する「房総新幹線」なるものが描きこまれている。この「新幹線」は、「東京湾横断堤」から木更津を経て鴨川に至る、というルートをとっている。

 この路線について、『千葉県新長期計画書』(千葉県企画部企画課=編集・発行、1969年3月)には、

「東京湾房総横断路線
 東京湾横断橋,横断堤の完成に伴い鉄道を敷設するとともに,都心と南房総,九十九里地域を直結する木更津―茂原,木更津―鴨川線等地域開発路線の建設を促進する。
 このうち鴨川―東京間については,新幹線方式の採用を検討する。」(p. 240.)

とある。なお「千葉県新長期計画」は、基準年次を昭和40年(1965年)、目標年次は昭和60年(1985年)とする計画であった。
 ここで、「東京湾横断橋」「東京湾横断堤」は、ともに東京湾環状道路計画の一環として計画された路線である。「横断堤」は川崎〜木更津間をつなぐ堤として計画されたもので、のちに東京湾アクアラインという形で実現することになる。また「横断橋」のほうは、富津岬から浦賀水道をはさんで三浦半島に至る橋として計画されたもので、のちの「東京湾口道路」計画とほぼ同じものである。
 つまり、ここでは川崎〜木更津間の「横断堤」上に新幹線を走らせ、さらに、その延長として、鴨川まで新幹線を通す、という案だったわけである。

 木更津から鴨川方面へは、途中まで久留里線が伸びているが、これとは別の路線とする案であったようである。いずれにせよ、鴨川まで新幹線を通すためには、房総丘陵をむりやり、ほとんど直線状に突っ切る必要がある。
 はっきりいって、どこまで本気だったのかよくわからない計画である。安房鴨川は現在でも東京から特急で2時間半かかる遠隔地だが、新幹線の建設・維持費用に見合うだけのメリットがあるとも思えない。高度経済成長期の夢のかけらと考えるべきなのだろう。
ラベル:千葉県 戦後史
posted by 長谷川@望夢楼 at 01:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 千葉県の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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