前に書いた「動物園の猿の子が、人になって生れてきた例がありますか」との関連で。まず最初に、以下に引用する文章は戦前、1932年(昭和7)に発表されていることをお断りしておこう。
今日のマルクス学説の流行は明かにダーウヰンの進化論により補助せられ、而〔しか〕して〔…〕科学といふことに一種の魔力を感ぜしめられて居る。多くの学者はダーウヰンの立てた進化論を無批判的に真理なりと考へて居る。嘗〔かつ〕て亜米利加〔アメリカ〕に於てダーウヰンの進化論を教へることを禁じた時に、日本の学者は、亜米利加のやうな文明国がそんなことをするのは、甚〔はなは〕だ不似なことだと述べて居つたのを記憶して居る。しかし亜米利加が進化論を禁止したことは、私の立場から言ふと尚〔なお〕当然のことゝ言はなければならぬ。何故ならば、簡単に進化説を信じて居る者から言ふと、我々の先祖は猿、或〔あるい〕は一種の猿のやうなものであつたといふことになる、我々日本人の先祖は猿だつた、といふことで、満足が出来るか出来ないか。日本人の精神からは我々の先祖は神であつたといふことは言へるかも知れぬが、猿だつた、或はゴリラに似たやうなものであつたといふやうな馬鹿なことは言ふ者はない。蓋〔けだ〕し進化論とは何を意味するか。其の批判がなくてはならぬ。
進化論とは蓋し犬だの猫だのといふ抽象的の概念を取扱ふたものである。例へば犬だの、猫だのといふ沢山の生物を概念的に取扱つて、是と是とは能〔よ〕く似て居る。是と是とも能く似て居る。それらを並べて見ると、簡単なものから複雑なものになるといふのである。しかるに行灯〔あんどん〕、洋灯〔ランプのこと〕、電灯、ネオンサインが茲〔ここ〕にあるとして、此の行灯を幾ら叩いて居つても洋灯にはならない。又、洋灯を幾ら叩いて居つても電灯にはならない。電灯を幾ら叩いて居つてもネオンサインにはならぬ。洋灯が出来たから行灯が無くなつたかといふと、依然として行灯はある。電灯が出て来ても、洋灯は依然として洋灯である。ネオンサインが出て来ても電灯は依然として電灯である。而してネオンサインは永久にネオンサインである。即ち、日本人は結局日本人、初めから日本人であつて、終り迄〔まで〕日本人である。他所から来たといふことは、所謂〔いわゆる〕学者の空理空論から言ふのであつて、日本人は何所〔どこ〕迄も日本人である。唯之〔これ〕を室内照明器といふ概念に統一することによつて、初めて洋灯が電気灯になり、電灯がネオンサインになつたといへるのである。進化論を真理として考へる唯物史観論者は、行灯に代へるに洋灯を以てし、洋灯に代へるに電灯を以てする単なる置替へに過ぎない。だから又、左翼派の進化論を考へて居る人は具体的なる概念進化といふことを其の立場とする弁証法に対して、唯物史観的のものを置替へて居るに過ぎない。室内照明器といふ概念の内に於てのみ、初めて行灯が洋灯になり、洋灯が電灯になつて来るといふ止揚の働きが出て来ることに気付かぬからである。抽象的概念の立場からすれば、皆単なる置替へに過ぎなくなる。しかも置替へをして、それが真理なりと考へて居るのであるが、故に置替へるにこれを以てするだけで、その間に少しも進化といふことがない。ダーウヰンの頭は立派なものであるが、其のダーウヰンの頭を其の侭〔まま〕持つて来て無批判に進化論はかくの如きものと考へるからいけないのである。そんな進化論は、所謂軍学者が見台〔書見台〕を叩いてやつて居るのと、何等差違のない抽象的知識にすぎぬのである。
――紀平正美『日本精神と弁証法』(思想問題研究会〔編〕『紀平正美 日本精神と弁証法 安岡正篤 日本精神の根本』(青年教育普及会、1932)所収、pp.32-34)。強調は引用者による。〔…〕内はルビおよび引用者註。
……ランプや電灯はこどもを産まないだろうに。
著者の文意が誤解されないよう、あえてやや長めに引用してみた。まず気づくことは――どうやらこの著者は「進化論」というものを根本的に理解していないらしい、ということである。
著者の紀平正美〔きひら・ただよし〕(1874-1949)はヘーゲル哲学の紹介などで知られる哲学者で、『哲学概論』(岩波書店、1915)・『行の哲学』(岩波書店、1923)・『なるほどの哲学』(畝傍書房、1942)・『皇国史観』(皇国青年教育協会、1943)など多くの著書がある。また、文部省の国策研究機関であった国民精神文化研究所(1932年設置。1943年国民錬成所と合併して教学錬成所となる。1945年廃止。現在の国立教育政策研究所の前身)の所員として、独自の日本主義的哲学の育成と普及に努めたことで知られる。ま、要するに御用哲学者のやからといっていいだろう。
個人的な感想をひとこと述べさせていただくと、このひとの書いた文章は基本的にやたらと晦渋で、何が言いたいのやらよくわからないまま我慢して読み進めていくと、最後の結論はたいてい「天皇陛下万歳」だったりするので、ものすごく脱力する。まあ、筆者は1930〜40年代の著作しか見ていないので、それ以前の文章はまた違っているかもしれないのだが、そのことはさておく。
まず、「亜米利加に於てダーウヰンの進化論を教へることを禁じた」というのは、おそらく悪名高い「スコープス裁判」(モンキー裁判ともいう。→ Wikipedia: 進化論裁判)前後の事情を指して言っているのであろう。1925年3月、テネシー州議会が、同州の公立学校で「聖書に教えられている神による人間の創造を否定するいかなる説を教えることも、そしてそれにかわって、人間は下等な動物に由来するという説を教えることも違法とする」という州法(バトラー法 Butler Act)を定めた(全米レベルで進化論の教授を禁じたわけではない。念のため)。同年5月、同州デイトンの高校教師ジョン・トマス・スコープス(John Thomas Scopes, 1900-70)が、進化論を教えたとして逮捕され、起訴された(デイトンの有力者が町を有名にしようとして意図的に裁判を引き起こした、といわれている)。同年7月に開かれた裁判は、検事側に元民主党大統領候補にして元国務長官ウィリアム・ジェニングス・ブライアン(William Jennigs Bryan, 1860-1925)、弁護側に当代最高の弁護士といわれたクラレンス・ダロウ(Clarence Seward Darrow, 1857-1938)が立ったことで良く知られている。もっとも結局、判決では、進化論の正否やバトラー法の合憲性に関する議論は棚上げされて、法令違反のみが問題とされ、スコープスは罰金100ドルの有罪判決を受けている(ただし、法手続き上の問題からこの判決は事実上無効となった)。なお、バトラー法はその後一度も適用されることはなかったが、それが廃止されたのは実にそれから42年後、1967年のことである。(参考:スティーヴン・ジェイ・グールド『ニワトリの歯』下(ハヤカワ文庫、1997)所収「デイトン探訪」)
さて紀平は、このバトラー法の立場は「当然のこと」と言い出すのである。なぜなら、「日本人の精神からは我々の先祖は神であつたといふことは言へるかも知れぬが、猿だつた、或はゴリラに似たやうなものであつたといふやうな馬鹿なことは言ふ者はない」、あるいは「〔日本人が〕他所から来たといふことは、所謂学者の空理空論から言ふのであつて、日本人は何所迄も日本人」だからである。進化論否定をしたがるのは、なにもキリスト教原理主義者ばかりではないのだ。
ちなみに、「沢山の生物を概念的に取扱つて、是と是とは能く似て居る。〔…〕それらを並べて見ると、簡単なものから複雑なものになる」というのは、アリストテレス流の「自然の階梯」(scala naturae)という考え方であって、進化論のはるか以前からあるものである。これを「簡単なものから次第により複雑なものが生じた」と考えない限り、進化論にはならない。そして、進化論に関するダーウィン(とウォーレス)の最大の功績は、「進化」というアイディア自体を思いついたことではなく(アイディア自体についてはエラズマス・ダーウィンやラマルクなど多くの先達がある)、そのメカニズムとして自然選択説(自然淘汰説)という理論を生み出したことにある。ところが紀平は、進化論と「自然の階梯」の区別がついていないらしい。
紀平の文章のばかばかしさ加減は、以下のように置き換えてみればわかりやすいと思う。
「イノシシ、ブタがここにあるとして、このイノシシをいくら叩いておってもブタにはならない。ブタができたからイノシシが無くなったかというと、依然としてイノシシはある。すなわち、ブタは結局ブタ、初めからブタであって、終りまでブタである。他所から来たということは、いわゆる学者の空理空論から言うのであって、ブタはどこまでもブタである。ただこれを偶蹄目イノシシ科という概念に統一することによって、初めてイノシシがブタになったといえるのである。」
もちろんイノシシをどうにかしたところでいきなりブタになるわけはないが、にもかかわらずブタはイノシシの子孫なのである。紀平の議論は、要するに世代交代という要素を無視した「空理空論」にすぎない。
結局のところ、紀平が言いたいのは、「日本人の精神」の立場よりすれば、日本人は神々の子孫なのであって、猿のようなものの子孫などではない、ということになるのだろう。
この文章は見ての通りマルクス主義を批判するくだりの中にあるのだが、なにしろ紀平は「私には経済的知識は全くない」と断ってから批判を始めているので、後は推して知るべし、というところである。まあ、確かに進化論と唯物史観を安易に結びつけるのはいろいろ問題があるところではあるが、だからって、こんな進化論に対する誤解に基づく批判をやってもしょうがないだろうに。
posted by 長谷川@望夢楼 at 00:57|
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疑似科学・懐疑論・トンデモ
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