2009年11月22日

じつは1960年まで海図に残っていた中ノ鳥島

 以前、官報情報検索サービスhttps://search.npb.go.jp/]で「中ノ鳥島」を検索してみたときのことである。法令文中に中ノ鳥島が出てくることは予想通りだったのだが、ひとつ、予想もしなかったものが引っかかってきた。1960年(昭和35)3月19日付で出された次の航路告示である。

1960年3月19日付海上保安庁告示(航)第11号(『官報』第9971号掲載)、35年401項

(2) 海図840号〔34-742〕
南方諸島小笠原群島、父島の東北東方約 700M [引用者註:海里、約1300km](30°48′N., 154°24′E. 概位)に図載の危険界線をめぐらした島嶼記号および同北側至近に図載の危険界線をめぐらした暗岩記号を付記の島名「中ノ鳥島」および“(E.D.)”と共に各削除する。
(出所 水路部)

 航路告示は海図などの補足・訂正情報として出される航海安全情報で、その呼称は水路報告(1879年)→水路告示(1886年)→航路告示(1949年)→水路通報(1961年)と変わっている。現在ではインターネット上での配信[http://www1.kaiho.mlit.go.jp/TUHO/tuho_db/tuhoserch.html]が中心となっているが、1883年(明治16)から1973年(昭和48)までは『官報』にも掲載されていた。

 中ノ鳥島が1946年(昭和21)11月22日付の水路告示第46号(昭和21年296項)で海図から削除された、という話は再三述べてきた通りなのだが、これでは、それから14年後の1960年になってもう一回削除されている、ということになってしまう。

 これはどういうことなのか、というと……ヒントは「海図840号」というところにある。この海図は「印度洋」。現行の海図では W840 「インド洋」にあたる。

 1946年の水路告示で「中ノ鳥島」を削除することが指定されたのは、9つの海図(48号「南方諸島」、1006号「本州東部及北海道」、1007号「本洲東部・北海道及樺太」、2101号「東京海湾至トラック諸島」、800号「太平洋北西部」、825号「日本至ハワイ諸島」、1号「日本総部及附近諸海」、838号「太平洋北部」、809号「太平洋」)と3つの水路書誌(1号A『本洲沿岸水路誌』、50号『大洋航路誌』、220号『普通水路図誌目録』)である。つまり、このとき840号は指定から漏れていたことになる。「印度洋」という図名からするとあまり関係ないように見えるかもしれないが、この海図の範囲には日本の南方海域、つまり中ノ鳥島があることになっていた海域も含まれている。

 要するに、1946年の削除指示に際して漏れがあり、1種類の海図だけ、1960年まで中ノ鳥島が残っていた、ということになる。1972年(昭和47)まで海図に生き残っていたロス・ジャルディン諸島には劣るものの、なかなかしぶといと言うべきだろう。

posted by 長谷川@望夢楼 at 16:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 中ノ鳥島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月19日

中ノ鳥島のリン鉱試掘鉱区

 久々に中ノ鳥島についての新知見を得たので、少し記しておく。(なんの話かわからない方は、中ノ鳥島(その1)〜(その4)を参照のこと。)

 1913年に中ノ鳥島探検隊を派遣した平尾幸太郎は、農商務省(現在の農水省と経産省の前身)から正式に中ノ鳥島のリン鉱(グアノ)試掘権を得ていた、という新聞報道が以前から気になっていた。当時の鉱業法(明治38年法律第45号。現在の同名の法律はこれを全面改正したもの)では、リン鉱山は農商務省の管轄とされており、その試掘にあたっては各地の鉱山監督署長に届け出ることが義務づけられていたのである(第21条)。
 中ノ鳥島は小笠原島に属することになっていたので、東京鉱山監督署(現在の経済産業省原子力安全・保安院関東東北産業保安監督部の前身)の管轄となる。そこで、東京鉱山監督署に関する資料にあたってみたところ、中ノ鳥島のリン鉱試掘許可が実際に出されていたことが判明したのである。

(1)1908年12月 山田禎三郎(ほか2名)

登録番号 東京試登録第4号
鉱区所在地 小笠原島中ノ鳥島地内
鉱種 燐
面積 635,670坪
鉱業権者 山田禎三郎 外2名
住所 東京市小石川区諏訪町
登録年月日 明治41年(1908)12月4日

典拠:『官報』第7643号(1908年12月16日付)、『東京鉱山監督署 鉱業概覧 第一次(明治四十二年)』(東京鉱山監督署、1910年、国立国会図書館近代デジタルライブラリー所収)。

 最初に許可を得たのは、発見届の提出者である山田禎三郎自身であった。「外2名」が何者かは不明。63万5670坪という妙に具体的な数字がいったいどこから出てきたのかも不明である。
 当時の鉱業法では、試掘権の存続期間は登録の日から2年間とされていた(第18条)。これに従い、この試掘権は2年後の1910年(明治43)12月に自動失効となったようである。

(2)1911年1月 内田真

登録番号 東京試登録第8号
鉱区所在地 小笠原島中ノ鳥島
鉱種 燐
面積 635,670坪
鉱業権者 内田眞
住所 東京市芝区南佐久間町
登録年月日 明治44年(1911)1月

典拠:東京鉱山監督署〔編〕『東京鉱山監督署管内鉱区一覧(明治四十五年七月一日現在)』(東京鉱山監督署、1912年)。

 この試掘届については『官報』では確認できなかった(見落としの可能性もあるが)。
 この「内田真」が、平尾幸太郎の前に試掘権を持っており、詐欺取財容疑で投獄されたという「内田某」であろう。この男が何者かはよくわからないが、先に見た『東京鉱山監督署 鉱業概覧 第一次(明治四十二年)』によれば、1908年(明治41)7月に鳥島のリン鉱試掘権を得ている。
 この試掘権も、2年後に自動失効となったようである。

(3)1913年11月 平尾幸太郎(ほか1名)

登録番号 東京試登録第14号
鉱区所在地 小笠原島中ノ鳥島
鉱種 燐
面積 708,500坪
鉱業権者 平尾幸太郎 外1名
住所 大阪市北区曽根崎
登録年月日 大正2年(1913)11月14日

典拠:『官報』第405号(1913年12月3日発行)、東京鉱山監督署〔編〕『東京鉱山監督署管内鉱区一覧(大正三年七月一日現在)』(東京鉱山監督署、1914年)。なお、『東京鉱山監督署管内鉱区一覧(大正四年七月一日現在)』(東京鑛山監督署、1915年)では、平尾の単独名義となっている。

 平尾幸太郎の試掘許可。実際に登録がなされたのは吉岡丸を派遣する直前だったことがわかる。「外1名」とは、新聞報道に登場する松井淳平であろうか。面積が1割ほど増えているが、その理由は不明。
 この試掘権も、2年後に自動失効となったようである。

 これ以降についてはまだ細かい確認はしていないのだが、島自体が見つからないというのに、届け出る人間があったとは思えない。
 なお、届け出にあたっては、当然、図面などが東京鉱山監督署に提出されているはずなのだが、あいにくこの時期の書類は関東大震災によりほとんど焼失してしまったらしい。残念。
posted by 長谷川@望夢楼 at 01:02| Comment(2) | TrackBack(0) | 中ノ鳥島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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