2013年11月23日

日本近海で海底火山の噴火により新島が出現した事例

 簡単なメモとして。

 安永8年(1779)に始まった桜島の噴火で、約1年間にわたる海底火山の活動により、桜島の北方に次々と新島が誕生した。この島々は「安永諸島」と呼ばれる。特に、最大の島である新島(しんじま)は、浸食が続いているものの現存している。
 なお、これ以前、文明8年(1476)の噴火で、沖小島・鳥島が出現したともいわれている。
http://goo.gl/maps/RMzXu

 1933年(昭和8)1月26日、千島列島でラッコの保護・取締のための調査航海を行っていた農林省の白鳳丸は、阿頼度島(アライドまたはアライト。現在のアトラソフ島)の東方で、海底噴火により新島が出現しているのを発見した。この島は、白鳳丸船長・武富栄一の名をとって「武富島」(たけとみとう)と命名された(沖縄県八重山列島の「竹富島」と混同しないように注意)。その後、アライト島とは砂州で陸続きとなっている。
(1952年発効のサンフランシスコ講和条約により日本は千島列島の領有権を放棄しているが、出現当時は日本領だったことから、便宜上ここで紹介する。)

 1934年(昭和9)に始まった鹿児島県南方の硫黄島(いおうじま)の火山活動で、海底火山の噴火により、1934年12月、硫黄島東方に新島が誕生した。この島は12月末にいったん消滅したが、翌1935年1月に再出現、「昭和硫黄島」と命名された(別名「硫黄新島」「新硫黄島」。後述する火山列島の新硫黄島と混同しないように注意)。
http://goo.gl/maps/Byh5k

 1973年(昭和48)5月、小笠原諸島西方の西之島東方沖で海底火山の活動が始まり、9月に新島が出現、12月に海上保安庁により「西之島新島」と命名された。翌1974年3月、新島が西之島本島と陸続きになったことが確認された。
 西之島の新島部分はその後の浸食で縮小したが、2013年(平成25)11月20日、西之島のさらに南東約500m沖の地点に新島が噴出したことが確認された。


 以下は、新島出現後、短期間で消滅した事例。

 1870年(明治3)、伊豆諸島南方の須美寿島東方で海底火山の噴火により新島が出現したとされ、「火山島」と命名された(ややこしいが、島の名前が「火山島」 Volcano island)。この島は高さ40フィートだったとされる。1872年にも目撃報告があるが、1880年(明治13)以来再三の調査にもかかわらず再発見されず、1896年(明治29)3月29日付で海図から削除されている。海底火山の活動によって出現した一時的な新島だったとも、須美寿島ないしベヨネース列岩の位置誤認ともいわれる。

 1904年(明治37)12月5日、小笠原諸島・火山列島の南硫黄島北東沖で、海底火山「福徳岡ノ場」の活動により新島が形成されているのが、硫黄島の住民により発見された。硫黄島民は翌1905年(明治38)2月にこの島の上陸調査を行い、「新硫黄島」と命名している。しかし、その後短期間のうちにこの島は消滅した。
 1914年(大正3)1月25日、新硫黄島は再出現した。しかし、この島も1916年6月までに消失した。
 1986年(昭和61)1月18日、福徳岡ノ場の活動が確認され、20日には新島の3度目の出現が確認された。しかし、この島は3月末までに消失した。
 福徳岡ノ場は最近では2005年7月、2010年2月に噴火している。

 1946年(昭和21)2月、伊豆諸島南方のベヨネース列岩東方に新島が出現していることをイギリス軍艦ウラニア号が確認し、「ウラニア島」と命名した(Urania. 「ウラヌス」 Uranus とする文献あり)。しかしこの新島は同年12月には消滅した。
 1952年(昭和27)9月17日、カツオ漁船・第十一明神丸が同じ海底火山の活動による新島を発見、海上保安庁水路部は発見船にちなみ「明神礁」と命名した。この新島は9月23日に消滅。10月に新島が再出現するが、翌1953年3月に消滅。4月に3度目の新島が出現するも、9月に消滅。以後も火山活動は続いているが、新島の形成は確認されていない。
 これ以前にも1870年(明治3)と1896年(明治29)に新島を形成したとする文献があるが、詳細は不明。
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2012年04月27日

尖閣諸島が個人所有となった経緯

 先日明らかにされた東京都による尖閣諸島購入計画については、実効支配という観点からいえば、はっきりいって無意味だと思う。そもそも、この島々はもともと日本側が実効支配しているのである。だいたい現在も国(総務省)が借り受けているのだし。公有地にすることで管理が安定するというメリットがあるとしても、所有すべきなのは国・沖縄県・石垣市のいずれかであって、直接何の関係もない東京都が出張ってくる意味は無い。

 私有地のままにしておくと外国政府が購入する恐れがある、と心配される向きもあるかもしれないが、国内法上の土地所有権と、国際法上の領有権とは別の概念である。だいたい、日本の国内法に基づいて土地を購入し、その土地を不動産登記したとすれば、とりもなおさず、日本政府によるその土地の領有権と管理権を認めていることになってしまう。したがって、本気で尖閣諸島の領有権を主張するつもりがあるのなら、尖閣諸島の土地を日本の国内法に基づいて購入したりしてはならないはずである。

 それはともかくとして、そもそも、なぜ尖閣諸島が(日本国の国内法上)私有地となっているのか、ということについて、簡単にまとめておきたいと思う。なお、言うまでもないが、以下の記述はすべて「日本国の国内法上」という前提付きでの話である。中華人民共和国と中華民国(台湾)は、そもそも日本による尖閣諸島の領有自体を認めていないので、両政府の立場からすると、尖閣諸島が日本の国内法に基づいて不動産登記されているということ自体が認められないことになるからである。

 さて、いわゆる尖閣諸島のうち、私有地になっているのは、南小島沖縄県石垣市登野城2390番地)、北小島(2391番地)、魚釣島(釣魚島。2392番地)、久場島(黄尾嶼。2393番地)の4島である。大正島(久米赤島、赤尾嶼。2394番地)は、地籍の設定が行われたのが1922年(大正11)になってからであり、当時から現在に至るまで国有地である(『季刊沖縄』第63号、南方同胞援護会、1972年)。また、沖ノ北岩・沖ノ南岩・飛瀬の3岩礁は、そもそも土地台帳に記載がなく地番も設定されていない(浦野起央『【増補版】尖閣諸島・琉球・中国――日中国際関係史【分析・資料・文献】』三和書籍、2005年)。

 魚釣島と久場島は、1895年(明治28)1月14日の閣議決定に基づき沖縄県に編入された。同年6月、那覇在住の実業家・古賀辰四郎(1856〜1918)が、久場島に対する「官有地拝借御願」を内務大臣に提出した。翌1896年(明治29)4月、沖縄県八重山郡が新設された際、魚釣島・久場島は北小島・南小島とともに八重山郡の所属となったらしいのだが、この編入手続きに関する行政記録は発見されておらず、ひとつの謎となっている。同年9月、内務大臣は古賀に対し、魚釣島・久場島・北小島・南小島の4島を「30年間無償」という破格の条件で貸与する許可を出した。拝借願が久場島1島の拝借のみを求めているのに、他の3島がおまけでくっついてきた理由はよくわからない。

 古賀の目的はアホウドリ猟であったが、アホウドリは乱獲のため数年で島から姿を消してしまい、その後、古賀はカツオ漁とカツオ節の製造に乗り出すことになる。古賀は1918年(大正7)に死去、その後に長男の古賀善次(1893〜1978)が開拓事業を受け継ぐ。そして1926年(大正15)、ついに貸借期限の30年が切れてしまった。

 その後、古賀善次は4島の有償貸借を一年更新で続けていたが、1932年(昭和7)に内務省から有償払い下げを受け、4島は古賀善次の私有地になることになった。この経緯について、古賀善次本人は、いくつかのインタヴュー記事で次のように述べている。

 大正七年[1918]、父は、六十三歳にしてこの世を去り、私が跡を継ぎました。そして大正十五年[1926]には三十年の借地期限も切れたのです。
 そこでしばらくは借地料を払ってカツオ節工場を経営していたのですが、だんだんそれが負担になってきましたので、昭和六年[1931]に払い下げを申請し、翌年許可されました。その日から魚釣島、久場島、南小島、北小島の四島は私の所有ということになったわけなのです。[古賀善次/若林弘男=インタビューと構成「毛さん佐藤さん 尖閣列島は私の“所有地”です」『現代』第6巻第6号、講談社、1972年6月、144頁]

 昭和七年五月二十日(一九三二年)、借りていた魚釣島と久場島(黄尾嶼)の両島を国から払い下げを受けました。値段は魚釣島(面積三百五十七町)[約3.5km2]の場合、二千八百二十五円でした。また同じ年の七月十五日には、南小島と北小島も買い取りました。[新藤健一「所有者が初めて明かす往年の尖閣列島」『世界画報』第305号、国際情報社、1977年10月、64頁。なお、同記事では古賀善次が1977年現在も4島を所有しているかのように書かれている。]

 しかし、その数年後には4島は無人島化する。

 魚釣島、久場島、北小島、南小島の四島が私の所有地ですが、戦後は別に用事もなく、ぜんぜん行っていません。事業は昭和十五年[1940]までカツオ漁を中心にやっていました。でも、第二次大戦のぼっ発で石油の配給がストップしたため、やめて引揚げてきました。カツオ節を作るには、いぶすための燃料が不可欠だったからです。[新藤「往年の尖閣列島」62頁]

 この4島のうち、久場島を除く3島は、1974年(昭和49)に古賀善次から、現所有者である埼玉県在住のさる実業家(K氏)に売却されている。このとき久場島が別扱いになったのは、この島が戦後に米軍の演習場(黄尾嶼射爆撃場)に指定されたことと関係があると思われる(沖縄県知事公室基地対策課FAC 6084 黄尾嶼射爆撃場)。古賀善次のインタヴューには次のようにある。

 戦後、私の所有する島のひとつ久場島を、米軍は射爆場として使いはじめました。
 使いはじめたのは終戦直後かららしいんですが、米軍が私に借地料を払うようになったのは昭和二十五年[1950]からです。
 地料は年額一万ドルあまり。無期限使用となっていました。[古賀「尖閣列島は私の“所有地”です」145頁]

[…]久場島(黄尾嶼)も実は米軍の射爆場として使われているんです。昭和二十七、八年[1952〜53]頃からだったと思いますが、その時で年額一万一千百四ドルを使用料としてもらっています。最近では年額三百五、六十万円を防衛施設庁を通して受け取っています。[新藤「往年の尖閣列島」65頁]

 ただし、浦野起央『【増補版】尖閣諸島・琉球・中国』では、琉球列島高等弁務官が久場島を軍用地に指定し、古賀善次との間に地代契約を結んだのは、1958年(昭和33)7月となっている。

 ちなみに国有地である大正島も射爆撃場に指定されている(FAC 6085 赤尾嶼射爆撃場)。もっとも、両射爆撃場はともに、1979年(昭和54)以後は特に訓練は行われていないという。

 古賀善次は1978年(昭和53)に死去、その妻の古賀花子も1988年(昭和63)に死去した。善次夫妻にはこどもがいなかったため、古賀辰四郎の直系は断絶している。久場島の所有権は、花子の遺言でK氏に譲渡されることになった(『朝日新聞』1988年1月22日付朝刊3面「南海の無人島、所有者の死去で宙に浮く」、同・1997年8月9日付朝刊22面「「この国」を想う 2 尖閣諸島」)。

 さて、1997年(平成9)5月6日、西村眞悟衆議院議員(当時)らが魚釣島に上陸した。この際、橋本龍太郎首相、梶山静六内閣官房長官(当時)をはじめとする政府関係者は、所有者(K氏)が上陸許可を出していないことを根拠として、西村議員らの行動を非難している。特に梶山官房長官は、5月7日の記者会見において、無断上陸は軽犯罪法違反にあたるとの見解を示した(『朝日新聞』1997年5月7日付夕刊「新進党、西村氏らの魚釣島上陸は軽犯罪法違反」、『読売新聞』同日付「尖閣諸島上陸の西村氏らは違法」)。おそらく、軽犯罪法第1条第32号の「入ることを禁じた場所又は他人の田畑に正当な理由がなくて入つた者」に抵触すると思われる(住居も囲みも無いため、住居侵入罪は成立しない)。

 1997年8月9日付『朝日新聞』は次のように報じている。

 [古賀辰四郎の]息子の善次夫妻は七四年から八八年にかけて、家族ぐるみの親交があった埼玉県大宮市の結婚式場経営者(五五)の一家に四島を約三千八百万円で譲った。七八年に亡くなった善次さんは「(尖閣は)美しい島。自然のままにしてほしい」と言い残した。
 結婚式場経営者は、毎年約七十万円の固定資産税を石垣市に支払っている。以前、石原慎太郎元運輸相が「一坪運動」として買い取りを打診してきたが断った。経営者に代わって式場の総務部長(六六)は言う。
 「勝手に灯台を建てたり、上陸したり。迷惑なんです。(帰属問題は)国が考えること。そっとしておいてほしい」[『朝日新聞』1997年8月9日付朝刊22面「「この国」を想う 2 尖閣諸島」]

 この問題に対して、西村議員側は「日本国の領土を日本国の国会議員が視察することは当然のことで、法的にも瑕疵はない」と主張している(『読売新聞』1997年5月6日付夕刊2面)。(要するに、地主が「入るな」と言っている土地に勝手に入っておいて開き直って威張っている、という状況なのだが、確かに微罪でしかないとはいえ、触法行為の疑いは否定できない。日本国の領土だと主張するのであれば、なおさら、その土地では日本国の法律に従うべきなのではないか?)

 2003年(平成15)1月1日付『読売新聞』朝刊は、日本政府(総務省)が前年10月、久場島以外の3島について、K氏から年間約2256万円で借り上げる賃借契約を結んだ、ということをスクープした。同紙は、政府側の考えについて以下のように報じている。

 「尖閣は国の固有の領土。これは微動だにしない」(政府関係者)との基本姿勢を踏まえた上で、どうすれば尖閣諸島の民有地を政府が安定して管理できるか、自然環境保護の観点などからも様々な検討が行われ、最終的に「賃借権設定」という手段に落ち着いたという。
 国が所有者に相応の賃料を支払うことで、島の転売に一定の歯止めをかけることができるほか、仮に所有者が第三者に転売しても、賃借人としての権利を主張できる。また、国は賃借権に基づき、第三者が不法上陸したり、勝手に建造物を建てたりすることを阻止できる。尖閣諸島では、これまで、日本の政治団体が灯台などを建設したり、国会議員が上陸したりして、中国、台湾側が抗議した経緯がある。
 政府は、来年度以降も毎年、契約を更新していく方針という。

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2011年09月19日

三好和義『世界遺産・小笠原』

 三好和義氏による小笠原群島の写真集『世界遺産・小笠原』(朝日新聞出版、2011年9月20日発売。 ISBN 978-4-02-250910-9)の巻末に、解説として、小笠原の歴史をごく簡単に書かせていただきました(「無人島(ボニン・アイランズ)小史」, pp. 110-111)。
 他に、出口智弘氏(山階鳥類研究所)の「絶滅宣言を超えて〜アホウドリ繁殖地復元の取り組み」、安井隆弥氏(小笠原野生生物研究会)の「進化の島・小笠原で出会う植物の魅力」、千喜良登氏(小笠原ホエールウォッチング協会)の「イルカとクジラに出会える海」も収録されています。ちなみに、ぼくの執筆分だけ他の執筆者に比べてあからさまに多いのですが、もとの分量では小笠原の短い割に複雑な歴史を正確に説明しきれるかどうか自信がなかったので、無理を言って分量を増やしてもらったものです。

http://rakuen344.jp/
楽園写真家・三好和義公式ウェブサイト

http://publications.asahi.com/
朝日新聞出版

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2008年09月02日

水谷新六の出生

 少し古いニュースですが、今年の3月、三重県桑名市教育委員会の調査により、水谷新六の出生が判明した、という報道がありました。

南鳥島を発見、開拓/「水谷新六」は桑名出身」(『伊勢新聞』2008年3月6日付)

〔…〕一昨年に東京都公文書館で、昨年国立公文書館で海外旅券の申請書と、戸籍簿を発見。〔…〕

 海外旅券の申請書によると、「三重県伊勢国桑名郡桑名村二十六番地」とあり、生年月日は嘉永三(一八五〇)年三月五日と明記。戸籍簿には「明治二十八年十一月一日相続三重県桑名郡益生村字益生平民川上松蔵次男入籍」と明記され、生年月日は嘉永三年三月三日とあった。

 日付は違うものの嘉永三年三月生まれであったことが分かり、新六は島の発見届を提出した時四十七歳であったことが判明した。また新六は結婚していたことも判明。資料によると「明治三十年九月十七日(東京府)本所柳島町十番地久下彦右衛門長女 なを」とあり、「なを」という女性と入籍していたことが分かった。なをは当時三十二歳だった。

 さらに「川上松蔵の二男」と明記されていたこと、益生村の出身であることなどが分かった。

 また、別の書類に新六の大正四年付の自著があることから六十五歳までは生存していたことも確認した。市教委によると水谷新六は川上松蔵の二男で、水谷家に養子に入り、東京へ出て呉服商に従事していたのだろうといい、幕末から明治にかけて「益生村」に住んでいたと思われる「川上松蔵」氏の子孫、縁せき、知り合いからの情報がほしいとしている。また新六の妻「久下彦右衛門長女なを」の情報もほしいとしている。

 これまで竹下源之介「南鳥島占領秘話――米の野望砕いた水谷新六」(『週刊朝日』1943年9月12日)に基づいて嘉永6年(1853)生まれとしていたんですが、じつは嘉永3年(1850)生まれだったとのこと。

 ちなみに、水谷には南鳥島の開拓者という側面のほか、スペイン領時代(1899年まで)のミクロネシア交易の開拓者、という側面もあります。そちら方面からの解明も期待したいところ。

 「グランパス島」もいろいろ書き直したいところはあるんだけれど……。

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2006年12月11日

『図解 島国ニッポンの領土問題』の基礎的な間違い

中澤孝之+日暮高則+下條正男『図解 島国ニッポンの領土問題――激怒する隣国、無関心な日本』(東洋経済新聞社、2005年8月)

 昨年刊行されたこの本、沖ノ鳥島についての言及(pp. 48-49, 94-95)があるので読んでみたのだが――歴史認識がどうとかいう以前に、ごく基礎的な箇所に重大な間違いがいくつも見られるので、あきれ返ってしまった。それぞれの経歴と専門から見て、中澤氏が北方領土、日暮氏が尖閣諸島、下條氏が竹島について執筆したのだろうが、なんともお粗末な内容である。まったくお勧めできません。

 以下、基礎的な間違いをいくつか指摘しておこう。といっても、「1960年に日本がアメリカと安全保障条約を締結する」(p. 19. 「改正」の間違い。締結は1951年)といった些末なミスはあげつらってもしょうがないので見逃し、「領土問題」という本題にかかわる重大なミスのみにとどめる。なお、〔…〕内は引用者註である。

他国が手出しできない自国領=排他的経済水域(略称:EEZ)〔「日本の領土・東西南北、知ってますか?」, p. 10.〕

 EEZは「領域」(領土・領海・領空)とは異なる概念である。EEZは他国が全く「手出しできない」わけではない。たとえば、航行の自由、上空飛行の自由、海底電線および海底パイプラインを敷設する自由などは認められている(国連海洋法条約第58条第1項)。

 サンフランシスコ平和条約は、〔日本と〕韓国との間にも軋轢をもたらした。
 というのも、〔…〕竹島が、この条約で日本領となったからだ。〔同, p. 14.〕

 対日講和条約にはそもそも「竹島」についての言及はない

 それは1945年9月27日、連合国軍総司令部が日本漁船の操業区域を制限した境界線(「マッカーサーライン」)から竹島が外れたことから始まった。1946年1月29日、連合軍司令部は、鬱陵島・済州島とともに竹島を韓国領と明記した「訓令第677号」を公布した。〔…〕サンフランシスコ平和条約の最終案で「マッカーサーライン」は廃止され、竹島は日本領に復帰することになった。〔「竹島の現状・歴史・経緯」, p. 25.〕

 SCAPIN-677(「訓令第677号」)が言っているのは、鬱陵島・竹島・済州島は日本の行政上の管轄範囲から外される、ということであり、「韓国領」なんて記述はどこにもない。だいたい1946年当時、「韓国」という国は正式にはまだ存在していない。また、マッカーサー・ラインは漁業権の問題であって、領土問題と直接にリンクするわけではない。

 日本は早くから北方領土の存在を知り、すでに1644(正保元)年にはクナシリ島、エトホロ島(択捉島のこと)などの地名を明記した地図(正保御国絵図)が編纂され多くの日本人が渡航していた。〔「北方領土の現状・歴史・経緯」, p. 16.〕

 松前藩がクナシリ島に商場(交易場)を設けたのは1754年、「正保国絵図」からじつに100年以上も後のことである。いったいどんな文献に、17世紀半ば、すでに北方領土に「多くの日本人が渡航していた」などと書かれているのだろう。ぜひ教えていただきたいものである。「正保国絵図」の地名は確かにある程度正確だが、地形の方はまったくのデタラメで、実地調査に基づくものかどうかは疑わしい(当時すでに松前藩の支配は厚岸あたりにまで及んでいたので、ある程度の知識はあったと思われるが)。ただし、この「日本人」にアイヌが含まれているとすれば話は別だが、それでは「渡航」がおかしくなる。いや、まさか、日本人やロシア人が来るまで千島列島は無人だった、なんて思っているわけではない……よねぇ……? (いや、アイヌの「ア」の字も出てこないもので……。)

帝政ロシアは18世紀初めにカムチャツカ半島を支配した後、千島列島の北部に進出したが、ロシア人がウルップ(得撫)島(択捉島の北に位置)から南に足を踏み入れたことは一度もなかった。鎖国政策をとっていた江戸幕府が択捉島以南の島々に番所を置いて外国人の侵入を防いでいたためだ。〔同〕

 「ロシアの勢力」などならまだしも、「ロシア人」では完全な間違い。まず、1739年にベーリング探検隊のシュパンベルグとウォルトンが千島列島を海路南下し、房総半島にまで達している。1768年にはイヴァン・チョールヌイがエトロフ島に来航し、1770-71年にウルップ島で現地のアイヌとの衝突を引き起こしている。1786年にはエトロフ島に渡った最上徳内がロシア人と接触。1807年にはフヴォストフがエトロフ島の日本番所を攻撃(フヴォストフ事件)、1813年にはゴロヴニンが国後島を測量中に日本側に捕縛されている(ゴロヴニン事件)。当時のこの地域の国境観念は曖昧だったのであり、だからこそ、プチャーチンによる日魯和親条約(1855年)の締結交渉にあたっては、国境問題が真っ先に取り上げられたのである

 なお、この一文、どうやら北海道庁のサイト内の「北方領土対策本部」にある以下の一文(もしくは類似の文章)を引き写したもののようである。

■ロシアは、18世紀のはじめ頃から「千島」に進出を開始し、しばしば、探検隊を送り調査しただけでなく、ラッコの捕獲などを行ったこともありましたが、択捉島のすぐ北の得撫島を越えて、南下してきたことは、一度もありませんでした。
 これは、江戸幕府が、択捉島及びそれより南の島々に番所を置いて、外国人の侵入を防ぎ、これらの島々を治めていたことによります。〔北方領土の歴史

 この北海道庁の見解もいろいろ問題含みなのだが、そのことはひとまず措いておこう。

 日本とロシアとの交流は1854(嘉永7)年にロシア帝国(皇帝ニコライ1世)海軍のプチャーチン提督率いる「ディアナ号」が下田に来航したときに始まる。〔「北方領土の現状・歴史・経緯」, p. 16.〕

 日露間の正式な外交交渉は、アダム・ラクスマンの来航(1792-93)に始まり(このことは p. 13 の年表にも出ている!)、その後のニコライ・レザーノフの来航(1804-05)と続いている。(これ以前の1778年にロシア商人シャバリンが蝦夷島(北海道本島)のノッカマップに来航し、松前藩に交易を求めたこともある。)ついでにいえば、プチャーチンの初来航は1853年(嘉永6年)。このときの乗船はパルラダ号であり、最初の来航地は長崎である。1854年のディアナ号による下田来航は2度目なのである。

 このあたりの話は、日露関係史についてのきちんとした書物であれば、たいてい触れられているところである。

 18世紀に〔領海の幅が〕3カイリ(約5・6キロ)とされたのが最初で、その前は「領海」という概念はなく、海=公海、すなわちだれもが自由に航行できるものだった。〔「排他的経済水域と驚きの面積ランキング」, p. 44.〕

海もまた特定の国家や権力者のものだという考えが初めて提唱されたのは、近代国際法の父といわれるグロティウス(1583〜1645)が「戦争と平和の法」(1625年)を著したときのことだ。〔大陸棚で領域広がる? 〜国連海洋法条約」, p. 52.〕

 少なくともどちらかは間違っているとはっきりわかる箇所。そして、結論からいってしまえば、どちらも間違いである。グロティウスは『海洋自由論』(1609)において、当時ヨーロッパに広まりつつあった「領海」概念を批判して「公海」概念を擁護した。これに対してイギリスのジョン・セルデンは『閉鎖海論』(1636)で「領海」概念を擁護する。1702年にバインケルスフークが、領海の幅を、陸地から撃った大砲の弾丸がとどくまでの距離とする「着弾距離説」を提唱、その後、この説が3カイリ説として受け入れられるようになる――というのは、まともな国際法の解説書であればきちんと載っている話である。

 〔国連〕海洋法条約の第121条〔第1項〕では「島」の要件として、「自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、満潮時においても水面上にあるものをいう」と定めている。要は、満潮時に水没してしまうものは「岩」であり、露出しているものが「島」と決めているのである。〔「日本の最南端、沖ノ鳥島ははたして島か」, p. 48〕

 〔沖ノ鳥島を「岩」だとする〕中国側の根拠もまた、海洋法条約による。同条約では、「島」の要件としてまた、「人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は(専用水域となるべき)大陸棚を有しない」〔第121条第3項〕とも書いている。確かに、沖ノ鳥島は無人島であり、対外的にEEZを主張できない側面もある。〔同, p. 49〕

 著者たちは沖ノ鳥島の「島・岩」問題をなにか勘違いしているらしい。まず、満潮時に水没するのは「岩」ではなく「低潮高地」。「岩」(第121条第3項)と「低潮高地」(第13条)はまったく異なる概念である。

 そして中国は、沖ノ鳥島は第121条第3項にいう「岩」だと主張しているのである。第121条第1項にいう「島」であることを否定しているわけではないし、まして日本の領有権を否定しているわけでもない。つまり、正確には「島ではなく岩」ではなく、「島でもあるが岩でもある」という主張なのであり、したがって第121条第1項を持ち出しても何の反論にもならないのである。このあたり、よく誤解されているので、念のため。これに対し日本政府は、第121条第3項にいう「岩」ではない、と主張しているわけである。なお、著者たちは日本の権益を支持する立場のようだが、この文章では、どうも中国の主張のほうが妥当だと考えているように読み取れてしまうのだが。

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2005年04月21日

「恨みは深し明神礁」

 だいぶ以前の話になるが、「恨みは深し明神礁」という歌を知らないか、というメールをいただいたことがあった。そのときは全く何もわからず、お答えすることも出来ないままになってしまい、そのままずっと気にかかっていた。

 幸い、しばらく前に九段下の昭和館に行った際、そこの映像・音響室でこの歌を聞くことができた。

「恨みは深し明神礁」
  作詞:大高ひさを
  作曲・編曲:長津義司
  歌:田端義夫
  演奏:テイチク管弦楽団
  レコード:帝国蓄音器株式会社

 題名からもわかるように、第五海洋丸の遭難を悼んだ歌である。発行年は不詳だが、版元の帝国蓄音器は1953年に社名を「テイチク株式会社」と改称しているので(その後「テイチクエンタテインメント」と改称し現在に至る)、遭難事故(1952年9月24日)から間もない時期に発行されたものであることは間違いなさそうだ。

 あいにく歌詞カードが見られなかったので正確な歌詞はわからないし、わかったところで全文を引用すると著作権上のトラブルが生じることになるが、ともかくこの中で田端義夫は

♪ああ我が領土極めんと 気負いて船出


と歌っている。
 おそらく当時の一般的感覚としては、やはり「日本の新領土・明神礁!」というイメージが強かったのだろう。当事者たちはおそらく、この島がうたかたの幻にすぎないことを予測していたはずなのだが。
posted by 長谷川@望夢楼 at 04:36| Comment(2) | TrackBack(1) | 地図・島嶼・領域 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

SCAPIN-677

 そういえば SCAPIN-677 の成立過程に関する実証研究ってあるんだろうか?
 と、いきなり SCAPIN-677 といっても何のことやらわからないと思うが、 SCAPIN というのは GHQ/SCAP (連合国最高司令官総司令部、いわゆるGHQ)が日本政府に対して発した指令書で、日本占領政策の基本文書である。で、この SCAPIN-677 というのは、1946年1月29日に発せられた(2月2日に一般公表されたため、「2・2宣言」と呼ばれることもある)もので、連合国占領下における日本政府の実効支配範囲を定めたものである。

 ちなみに、「幻想諸島航海記」の「中ノ鳥島(その1)」で言及しているのがこの文書ですね。
 この文書には、沖縄・奄美諸島・小笠原諸島および千島列島を日本政府の実効支配範囲から除外することが明言されており、沖縄返還問題や北方領土問題を論じる際に無視することのできない代物である。また、リァンクール岩礁(竹島)が除外範囲に含まれていることから、韓国側による獨島=竹島の領有権の主張の根拠のひとつとなっている。
 ここでこの指令の法的意義を論じることはしないが、おそらく GHQ/SCAP とていい加減な線引きをしたのではなく、それなりに根拠をもって線引きをしたはずで、その辺りの記録が占領期文書のどこかに残っているのではないかと思うんだが。そういう研究はあるんだろうか。ぼくが無知なだけかなあ。

 ……もっとも、実は SCAPIN-677 の除外範囲にはなぜか伊豆諸島全域も含まれていたりして、伊豆大島では慌てて独自憲法(!)制定に走ったりする、という事件も引き起こしてはいるんですけどね。

 いや、自分で調べりゃいいのだが……占領期史料はマイクロフィルムの形で国会図書館の憲政資料室に収められているのだが、あまりに膨大すぎてどこから手をつけていいのかもわからなかったりするのである。
posted by 長谷川@望夢楼 at 03:57| Comment(3) | TrackBack(0) | 地図・島嶼・領域 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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