中澤孝之+日暮高則+下條正男『図解 島国ニッポンの領土問題――激怒する隣国、無関心な日本』(東洋経済新聞社、2005年8月)
昨年刊行されたこの本、沖ノ鳥島についての言及(pp. 48-49, 94-95)があるので読んでみたのだが――歴史認識がどうとかいう以前に、ごく基礎的な箇所に重大な間違いがいくつも見られるので、あきれ返ってしまった。それぞれの経歴と専門から見て、中澤氏が北方領土、日暮氏が尖閣諸島、下條氏が竹島について執筆したのだろうが、なんともお粗末な内容である。まったくお勧めできません。
以下、基礎的な間違いをいくつか指摘しておこう。といっても、「1960年に日本がアメリカと安全保障条約を締結する」(p. 19. 「改正」の間違い。締結は1951年)といった些末なミスはあげつらってもしょうがないので見逃し、「領土問題」という本題にかかわる重大なミスのみにとどめる。なお、〔…〕内は引用者註である。
他国が手出しできない自国領=排他的経済水域(略称:EEZ)〔「日本の領土・東西南北、知ってますか?」, p. 10.〕
EEZは「領域」(領土・領海・領空)とは異なる概念である。EEZは他国が全く「手出しできない」わけではない。たとえば、航行の自由、上空飛行の自由、海底電線および海底パイプラインを敷設する自由などは認められている(国連海洋法条約第58条第1項)。
サンフランシスコ平和条約は、〔日本と〕韓国との間にも軋轢をもたらした。
というのも、〔…〕竹島が、この条約で日本領となったからだ。〔同, p. 14.〕
対日講和条約にはそもそも「竹島」についての言及はない。
それは1945年9月27日、連合国軍総司令部が日本漁船の操業区域を制限した境界線(「マッカーサーライン」)から竹島が外れたことから始まった。1946年1月29日、連合軍司令部は、鬱陵島・済州島とともに竹島を韓国領と明記した「訓令第677号」を公布した。〔…〕サンフランシスコ平和条約の最終案で「マッカーサーライン」は廃止され、竹島は日本領に復帰することになった。〔「竹島の現状・歴史・経緯」, p. 25.〕
SCAPIN-677(「訓令第677号」)が言っているのは、鬱陵島・竹島・済州島は日本の行政上の管轄範囲から外される、ということであり、「韓国領」なんて記述はどこにもない。だいたい1946年当時、「韓国」という国は正式にはまだ存在していない。また、マッカーサー・ラインは漁業権の問題であって、領土問題と直接にリンクするわけではない。
日本は早くから北方領土の存在を知り、すでに1644(正保元)年にはクナシリ島、エトホロ島(択捉島のこと)などの地名を明記した地図(正保御国絵図)が編纂され多くの日本人が渡航していた。〔「北方領土の現状・歴史・経緯」, p. 16.〕
松前藩がクナシリ島に商場(交易場)を設けたのは1754年、「正保国絵図」からじつに100年以上も後のことである。いったいどんな文献に、17世紀半ば、すでに北方領土に「多くの日本人が渡航していた」などと書かれているのだろう。ぜひ教えていただきたいものである。「正保国絵図」の地名は確かにある程度正確だが、地形の方はまったくのデタラメで、実地調査に基づくものかどうかは疑わしい(当時すでに松前藩の支配は厚岸あたりにまで及んでいたので、ある程度の知識はあったと思われるが)。ただし、この「日本人」にアイヌが含まれているとすれば話は別だが、それでは「渡航」がおかしくなる。いや、まさか、日本人やロシア人が来るまで千島列島は無人だった、なんて思っているわけではない……よねぇ……? (いや、アイヌの「ア」の字も出てこないもので……。)
帝政ロシアは18世紀初めにカムチャツカ半島を支配した後、千島列島の北部に進出したが、ロシア人がウルップ(得撫)島(択捉島の北に位置)から南に足を踏み入れたことは一度もなかった。鎖国政策をとっていた江戸幕府が択捉島以南の島々に番所を置いて外国人の侵入を防いでいたためだ。〔同〕
「ロシアの勢力」などならまだしも、「ロシア人」では完全な間違い。まず、1739年にベーリング探検隊のシュパンベルグとウォルトンが千島列島を海路南下し、房総半島にまで達している。1768年にはイヴァン・チョールヌイがエトロフ島に来航し、1770-71年にウルップ島で現地のアイヌとの衝突を引き起こしている。1786年にはエトロフ島に渡った最上徳内がロシア人と接触。1807年にはフヴォストフがエトロフ島の日本番所を攻撃(フヴォストフ事件)、1813年にはゴロヴニンが国後島を測量中に日本側に捕縛されている(ゴロヴニン事件)。当時のこの地域の国境観念は曖昧だったのであり、だからこそ、プチャーチンによる日魯和親条約(1855年)の締結交渉にあたっては、国境問題が真っ先に取り上げられたのである。
なお、この一文、どうやら北海道庁のサイト内の「北方領土対策本部」にある以下の一文(もしくは類似の文章)を引き写したもののようである。
■ロシアは、18世紀のはじめ頃から「千島」に進出を開始し、しばしば、探検隊を送り調査しただけでなく、ラッコの捕獲などを行ったこともありましたが、択捉島のすぐ北の得撫島を越えて、南下してきたことは、一度もありませんでした。
これは、江戸幕府が、択捉島及びそれより南の島々に番所を置いて、外国人の侵入を防ぎ、これらの島々を治めていたことによります。〔北方領土の歴史〕
この北海道庁の見解もいろいろ問題含みなのだが、そのことはひとまず措いておこう。
日本とロシアとの交流は1854(嘉永7)年にロシア帝国(皇帝ニコライ1世)海軍のプチャーチン提督率いる「ディアナ号」が下田に来航したときに始まる。〔「北方領土の現状・歴史・経緯」, p. 16.〕
日露間の正式な外交交渉は、アダム・ラクスマンの来航(1792-93)に始まり(このことは p. 13 の年表にも出ている!)、その後のニコライ・レザーノフの来航(1804-05)と続いている。(これ以前の1778年にロシア商人シャバリンが蝦夷島(北海道本島)のノッカマップに来航し、松前藩に交易を求めたこともある。)ついでにいえば、プチャーチンの初来航は1853年(嘉永6年)。このときの乗船はパルラダ号であり、最初の来航地は長崎である。1854年のディアナ号による下田来航は2度目なのである。
このあたりの話は、日露関係史についてのきちんとした書物であれば、たいてい触れられているところである。
18世紀に〔領海の幅が〕3カイリ(約5・6キロ)とされたのが最初で、その前は「領海」という概念はなく、海=公海、すなわちだれもが自由に航行できるものだった。〔「排他的経済水域と驚きの面積ランキング」, p. 44.〕
海もまた特定の国家や権力者のものだという考えが初めて提唱されたのは、近代国際法の父といわれるグロティウス(1583〜1645)が「戦争と平和の法」(1625年)を著したときのことだ。〔大陸棚で領域広がる? 〜国連海洋法条約」, p. 52.〕
少なくともどちらかは間違っているとはっきりわかる箇所。そして、結論からいってしまえば、どちらも間違いである。グロティウスは『海洋自由論』(1609)において、当時ヨーロッパに広まりつつあった「領海」概念を批判して「公海」概念を擁護した。これに対してイギリスのジョン・セルデンは『閉鎖海論』(1636)で「領海」概念を擁護する。1702年にバインケルスフークが、領海の幅を、陸地から撃った大砲の弾丸がとどくまでの距離とする「着弾距離説」を提唱、その後、この説が3カイリ説として受け入れられるようになる――というのは、まともな国際法の解説書であればきちんと載っている話である。
〔国連〕海洋法条約の第121条〔第1項〕では「島」の要件として、「自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、満潮時においても水面上にあるものをいう」と定めている。要は、満潮時に水没してしまうものは「岩」であり、露出しているものが「島」と決めているのである。〔「日本の最南端、沖ノ鳥島ははたして島か」, p. 48〕
〔沖ノ鳥島を「岩」だとする〕中国側の根拠もまた、海洋法条約による。同条約では、「島」の要件としてまた、「人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は(専用水域となるべき)大陸棚を有しない」〔第121条第3項〕とも書いている。確かに、沖ノ鳥島は無人島であり、対外的にEEZを主張できない側面もある。〔同, p. 49〕
著者たちは沖ノ鳥島の「島・岩」問題をなにか勘違いしているらしい。まず、満潮時に水没するのは「岩」ではなく「低潮高地」。「岩」(第121条第3項)と「低潮高地」(第13条)はまったく異なる概念である。
そして中国は、沖ノ鳥島は第121条第3項にいう「岩」だと主張しているのである。第121条第1項にいう「島」であることを否定しているわけではないし、まして日本の領有権を否定しているわけでもない。つまり、正確には「島ではなく岩」ではなく、「島でもあるが岩でもある」という主張なのであり、したがって第121条第1項を持ち出しても何の反論にもならないのである。このあたり、よく誤解されているので、念のため。これに対し日本政府は、第121条第3項にいう「岩」ではない、と主張しているわけである。なお、著者たちは日本の権益を支持する立場のようだが、この文章では、どうも中国の主張のほうが妥当だと考えているように読み取れてしまうのだが。