2022年04月11日

仙石和道『大熊信行と凍土社の地域文化運動――歌誌『まるめら』の在地的展開を巡って』(論創社)について

たいへんお久しぶりです。長谷川です。ご無沙汰して申し訳ありません。

この度、瀬畑源君をはじめ友人一同とともに、亡友・仙石和道君(1974〜2019)の遺稿『大熊信行と凍土社の地域文化運動――歌誌『まるめら』の在地的展開を巡って』(論創社、2022年4月、288頁、3000円+税)を出版することになりました。4月12日発売の予定です。

大熊信行と凍土社の地域文化運動論創社
仙石和道 著/瀬畑源 編集代表/今井勇、小野寺茂、長谷川亮一、村松玄太 編集
ISBN 978-4-8460-2153-5

序にかえて――仙石和道君の大熊信行研究について 池田元
序章 研究の課題と方法
第一章 高岡高等商業学校時代の大熊信行――歌誌『まるめら』における在地的展開を中心として
第二章 『越後タイムス』における地域文化運動――土田秀雄を中心として
第三章 土田秀雄の地域文化運動――短歌運動を支えた人々を巡って
第四章 歌誌『まるめら』における在地的展開――凍土社と柏崎ペンクラブを巡って
第五章 大日本言論報国会時代の大熊信行――雑誌『公論』を巡って
第六章 戦後の柏崎図書館運動――歌誌『まるめら』の終焉から戦後の復興を巡って
終章
「あとがきにかえて」
編集代表あとがき 瀬畑源

仙石君が博士学位請求論文(未提出)として執筆していたもので、内容的にはほぼ完成していたのですが、そのままの形での出版には若干の難があったため、瀬畑君らが中心となって、誤記の修正や出典の再確認等を行い、大熊信行となじみの深い論創社から出版していただくことになったものです。いわゆる遺稿集という形ではなく、あくまで学術書としての出版になります。

本書は仙石君が2006年から2015年にかけて執筆した論文をもとに、学位請求論文として再構成したものです――が、ここまで書けていたならあと1〜2年は早く提出できてたんじゃないか、さすがにちょっと時間かけすぎだろう、いまさら言っても詮無いけどさ、という文句が思い浮かばなくもありません(遅筆という点では私も他人のことは言えなのだけれど)。

主題は、仙石君が長きにわたって研究を重ねていた経済学者・歌人の大熊信行(1893〜1977)ですが、大熊個人の思想に焦点を当てたものというよりは、大熊が主宰した歌誌『まるめら』(1927〜41、ただし大熊の関与は1938年まで)と、高岡(富山県)や柏崎(新潟県)などにおける地域文化活動との接点が主題となっています。大熊は歌人としては口語・非定型(自由律)の独自の短歌理論を提唱していますが、それが地域の短歌活動に強い影響と、一方で反発をもたらしたことは、本書で詳細に論述されています。また、タイトルにある「凍土社」(1927〜37頃)は、大熊の小樽商業高等学校時代の教え子であった、柏崎商業学校教諭の土田秀雄(1901〜62)が設立した短歌(和歌)結社。その関連もあり、大熊とは接点のない土地の同人でありながら、大熊と『まるめら』から強い影響を受けていたことを、仙石君は執念深い資料収集をもとに、細かく論証していきます。

もっとも、仙石君のもともとの問題関心は、知識人と戦争責任をめぐる問題にあったはずで――そのことは、「あとがきにかえて」として収録された『越後タイムス』掲載のエッセイに触れられている――、その点からいえばかなりの遠回りをした感も否めません。本来なら、ここでひとまとめをしたうえで、ここから大熊の短歌運動と大熊自身の思想との関わりについての議論へと進むところだったのでしょうが、それはついに果たされずに終わってしまいました。

本書は大熊信行のオーガナイザーとしての側面に光を当てたものですが、仙石君もまたオーガナイザーでした。我々編者一同と仙石君との関係については、編者代表である瀬畑君が「あとがき」で触れていますが、彼は一橋大の吉田裕ゼミや明治大の山田朗ゼミ、後藤総一郎ゼミなどに他大学から参加し、修士課程在籍中の2001年頃から、知り合いの院生たちに声をかけて独自の勉強会を立ち上げており、千葉大修士課程在籍中だった私にも参加を呼びかけてきました。私は千葉大の学部生だったころ、『世界』(第656号、1998年12月)掲載の座談会「大学生は『戦争論』をこう読んだ」に参加したことがあり、その件で彼から一度メールをもらったことがあったのです。その後、彼は2002年に図書館情報大学の大学院博士後期課程に進学するのですが(2004年に筑波大に統合)、そこで大熊信行の研究者である池田元先生(筑波大学教授=当時、現・名誉教授)と知り合い、2004年から2007年にかけて「時代思想の会」という研究会を定期的に開いていました。編者一同は仙石君に半ばかき集められるような形で、この「時代思想の会」に参加することになったのです。なお、このときに彼から、戦時中の総合雑誌『公論』の共同研究を持ちかけられたこともあります。軍国主義を鼓舞した雑誌として知られながら、国会図書館にもきちんと揃っていないので、バックナンバーを探して現物に当たってみたのですが、結局、仙石君は「大日本言論報国会時代の大熊信行――雑誌『公論』を巡る一考察」(『出版研究』第37号、日本出版学会、2006年) https://doi.org/10.24756/jshuppan.37.0_165 (本書第5章)をまとめたものの、私のほうは特に何の成果も出していないことが、今となっては心残りとなっています。

思うところは色々あるのですが、本書の紹介としてはひとまずこのくらいで筆を置くことにしましょう。
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2013年11月25日

歴史学系学会・関係者等による特定秘密保護法案関連声明

(このページは適宜更新します。)

久保亨・歴史学研究会委員長ほか「特定秘密保護法案に対する歴史学関係者の緊急声明」(2013年10月30日)
http://rekiken.jp/announcement201311.html
http://www.nihonshiken.jp/component/content/article/29-toppage/447-2013-11-22-06-49-49.html
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/movement/tokuteihimituhogohou_seimei20131105.pdf
http://www.jca.apc.org/rekkyo/data/etc/timefile/2013y/331030seimei.pdf
http://www.geocities.jp/doujidaisigakkai/announcements/announcement20131030.html
http://space.geocities.jp/japanwarres/
※歴史学研究会、日本史研究会、歴史科学協議会、歴史教育者協議会、同時代史学会、東京歴史科学研究会、日本の戦争責任資料センターの各代表、および宮地正人・国立歴史民俗博物館前館長による共同声明。賛同署名を募っている。 http://chn.ge/1hEH5WP

歴史学研究会委員会「特定秘密保護法案に対する反対声明」(2013年11月1日)
http://rekiken.jp/appeals/appeal20131101.html

日本アーカイブス学会「「特定秘密保護法案」に対する意見表明」(2013年11月15日)
http://www.jsas.info/modules/news/article.php?storyid=148

歴史科学協議会「特定秘密保護法案の廃を求める総会決議」(2013年11月16日)
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/movement/2013soukaiketugi_tokuteihimituhogohouann.pdf

久保亨・歴史学研究会委員長ほか「特定秘密保護法に反対する歴史学関係者の第2次緊急声明」(2013年11月22日)
http://rekiken.jp/announcement201311.html
http://www.geocities.jp/doujidaisigakkai/announcements/announcement20131122.html
※歴史学研究会、日本史研究会、歴史科学協議会、歴史教育者協議会、同時代史学会、東京歴史科学研究会、日本の戦争責任資料センターの各代表、および宮地正人・国立歴史民俗博物館前館長による共同声明。

日本科学史学会「「特定秘密保護法案に対する歴史学関係者の緊急声明」に関して」(2013年11月25日)
http://historyofscience.jp/?p=1798
※上掲「特定秘密保護法案に対する歴史学関係者の緊急声明」および「第2次緊急声明」への賛同声明。
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2013年06月17日

平泉澄「この刀によって私は陸軍というものを鍛え直した」

 先日の「平泉澄と仁科芳雄と石井四郎」(6月6日)について、以下のブログでご紹介をいただいた。そこでは、有馬学氏からの伝聞として、問題の平泉澄インタビューでの、平泉本人の無茶苦茶な言動が紹介されている。

 ……で。

 先日、国立国会図書館に行ったついでに伊藤隆氏の回想録『日本近代史――研究と教育』(私家版、1993年1月序)を確認してみたところ、平泉澄インタビューについての記述が出てきたので、その箇所を紹介しておく(伊藤氏は当時、東京大学文学部助教授。[…]内は引用者註。強調は引用者による。以下同じ)。

 [昭和]五三年度[1978]は、斯波義慧氏や茅誠司元総長などの聞き取りを行い、また福井県まで出張して、平泉澄氏の聞き取りを行った。平泉氏はとにかく権威主義で、満洲事変以後について話されたときに、「これから私が日本を指導した時代についてお話します」と始まったのにはやりきれなかった。また陸大での講義の時に「これが大和魂である」と言って日本刀をすらりと抜いてという話の際に、予め奥さんに用意させていたらしい日本刀を実際に我々の目の前で抜いて見せたのには私は鼻白む思いであった。しかし酒井氏[酒井豊=当時、東京大学百年史編集室員]を初め若い諸君は面白がって、酒井氏などは「先生ちょっとそのまま」とか言って、平泉氏もポーズをとり、写真撮影をしたが、これも私には予想外の出来事であった。二日間正座で聞かねばならぬ「お話」が終わってお茶になった時に、奥さんが「主人は血圧が高いのに、テレビのプロレスが好きで困ります」という話をされ、私が平泉氏に「どうしてプロレスがお好きですか」と開いたら、「隠忍に隠忍を重ねて、最後にパッと相手を倒すという所が日本精神に通じる」と答えたので、私はその稚気に溜飲が下がったような気がした。とにかくこれまでにない奇妙な聞き取りであった。[伊藤隆『日本近代史――研究と教育』私家版、1993年序, pp. 293-294.]

 「陸大」(陸軍大学校)とあるのは伊藤氏の記憶違いで、陸軍士官学校が正しい。インタビュアーの前でわざわざ日本刀を抜いて見せた、という話は、やはりインタビュアーの一人であった照沼康孝氏(当時、東京大学百年史編集室員)も回想の中で触れている。

 その他覚えているのは銀時計と刀である。銀時計はいわゆる恩賜の銀時計である。これについては、氏が卒業の際が行事があった最後であったと述べ、更に声を落して録音を止めるように言い、その理由として社会主義運動が盛んになり、天皇の暗殺計画が伝えられたためであると語った。これは初めて聞く話であったが、その真偽の程は今もって定かではない。刀は大振りの日本刀であった。どういう話からそうなったのか明確に思い出せないが、陸軍士官学校へ話をしに行った際に持参し、この刀のようになれと言ったとのことであり、その刀を持って来て我々の眼の前で抜いて見せてくれた。かなり重そうであり、少々鈍く光る刀であった。[照沼康孝「百年史編集室と私」『東京大学史紀要』第6号、東京大学史史料室、1987年3月, pp. 98-99.]

 前段の天皇暗殺計画云々についての真偽は不明。

 この場面、当のインタビューでは次のようになっている。なお、平泉が陸軍士官学校での初講義を行ったのは、1934年(昭和9)4月16日である(若井敏明『平泉澄』ミネルヴァ書房、2006年, pp. 209-210)。

そのときに私は刀を持って行った。大刀をひっさげて行って、東条さん[東條英機=当時、陸軍士官学校幹事]にちょっと会釈をして壇にのぼり、演壇上に刀を置いて話を始めた。
 この刀は終戦後、人に預けてこちらへ帰ったものだから、預かってくれた人が進駐軍を怖がって、これを土中へ隠した。それで刀が少し崩れましたわい。文久二年十二月[1863年1〜2月]、二尺五寸[約 75.8cm]、大刀ですわ。これをひっさげて行ったんです。そして壇上でこれを抜いた。陸軍よ、この刀のごとくにあれ。第一に強くあれ、戦争に負ける陸軍を見たくはない。戦えば必ず勝てり。いかなるものでも手向うものをたたき斬るその力を持て、弱き陸軍をわれわれは見る気がしない。この刀は何ものをもたたき斬るんだ。その武力を持て。第二に陸軍よ、その武力をなんじの私の意思によって発動するものではないぞ。陛下の勅命によって動け。私の意思を遮断するこの刀を見よ、ここに「山はさけ海はあせなん世なりとも君にふたごころわがあらめやも。」これは将軍[源]実朝の歌ですが、すべては陛下によって決する、それ以外私の意思によって動かしてはならん。それはみんなが何とも言えぬ驚きだったんです。
 当時はみんな陸軍を恐れておった。五・一五や満州事変からあとはそうでしたが、その陸軍に対して大喝一声これをやった。この刀によって私は陸軍というものを鍛え直した。世間の知らんものは、私が陸軍と結託し、また阿諛して威張っているようなことをいう。そんなものではない。陸軍が私を畏れ敬った。
 これは土中に置いたために刃が崩れたんですが、明治維新直前の日本精神の生粋ですわ。文久二年というちょうどそのときが。この刀自体はたとえ刃が少し欠けても、歴史的な意味では昭和の日本史の中で重要な働きをしたんですよ。[「平泉澄氏インタビュー(5)」『東京大学史紀要』第18号、2000年3月, p. 65.]

 ……「83歳の老人が、遠くからわざわざ昔話を聞きに来てくれた、自分の孫ぐらいの年配の後輩たちに向かって、思い出の日本刀を抜き出して見せて自慢した」というのは、なんとか笑い話で済ませてもよさそうだが、「39歳で博士号を持つ東京帝国大学助教授が、陸軍士官候補生たちの前で、抜き身の日本刀を構えて『陸軍よ、この刀のごとくにあれ』と大見栄を切ってのけた」というのは、さすがに笑えない。

 ただしこの講義、じつは重要なのは後段の「すべては陛下によって決する、それ以外私の意思によって動かしてはならん」というところにあったらしい。つまり、満洲事変以後表面化してきた出先機関の独断専行や青年将校の暴走を抑える、というところに、真の意図があったようである(若井『平泉澄』参照)。もっとも、だとすればその意図は必ずしも成功したとはいえない。平泉は1936年(昭和11)の2・26事件を防ぐことはできなかったし、1945年(昭和20)の宮城事件に至っては、首謀者である畑中健二・竹下正彦・井田正孝らは、いずれも平泉澄の門下生だったからである。

 また「日本を指導した」云々であるが、それに近い発言もインタビュー中に登場する。

 平泉澄は1932年(昭和7)12月5日、昭和天皇に「楠木正成の功績」という題目で進講を行った。この内容について、原田熊雄『西園寺公と政局』(1936年8月7日)には、湯浅倉平内大臣(1874-1940, 在任1936-40)が「後醍醐天皇を非常に礼讃して、いかにも現実の陛下に当てつけるやうな話し方」で「陛下はあんまりおもしろく思つておいでにならなかつたらしい」と語っていた、とある。もっとも、湯浅は「木戸[幸一]も「実につまらないことを申上げたものだ」と言つてをつた」と語っていたというが、当の『木戸幸一日記』(1932年12月5日)には、木戸自身は「感銘深く陪聴した」とある(以上、若井『平泉澄』, pp. 198-201 参照)。少なくとも、原田熊雄や湯浅倉平あたりからは煙たがられていたが、湯浅の後任者である木戸幸一からは好意的に見られていたようだ。それはともかく、その後の状況について、平泉は以下のように語っている。

 ところが、これが世の中に与えたのは、とにかく平泉というものが非常に重いものになってしまった。陛下の御前に呼び出されたことによって非常に重くなった。大ぜいの陪聴者がそれぞれの感銘を持って帰って、何かの機会にむしろ喜んで話をしたでしょうね。宮中のことは外へもれないはずなんだけれども大体のことがもれてしまった。
 そこで今度はみんな私の話を聞きたいという。宮中のことは別にして、どういうふうに考えるか、日本はどうなるんだ、どうすべきかということを、みんな尋ねてくるようになった。そこで初めて私は本格的に働けるようになったんです。実質上、日本の指導的な地位に立ち得たんです。[…]日本中そのときはどうしていいかわからなかったわけです。政治、軍事、教育、学問、どういう方向にいったい日本は向かうべきであるのか、だれも見当がつかない。それをこうだということを、私が確信を持って断定し得る力は、ドイツ、フランスで養われたし、そしてそれを言い得る地位は実は陛下によって与えられた。陛下が与えてくださったご意思ではないにせよ、実質上はそこにおいて私がそういう立場を確保した。[「平泉澄氏インタビュー(5)」『東京大学史紀要』第17号、1999年3月, p. 122.]

 よく考えると、要は「御進講がきっかけで名が知られ、話を聞きに来る人が増えた」という話である。が、これが平泉の解釈では「日本の指導的地位に立った」ということになるらしい。

 こういうと誇大妄想めいて聞こえるのだが、ただ、平泉が政界や軍の上層部と親しかったのは事実で、特に近衛文麿からはブレーンの一人として扱われていた節がある(この辺りの事情についても、若井『平泉澄』を参照)。『西園寺公と政局』では、「平泉といふ人はもう学者仲間からはまるで相手にされないで、今は或る程度まで実際の政治活動に携はつてゐるといふことである」などと言われているが、具体的に何をやっていたのかは、いまひとつよくわかっていない。もっとも、海軍条約派の岡田啓介・米内光政・井上成美といった面々からは嫌われていたらしく、また内務省・文部省方面とも疎遠で、そのため教育への影響力も限定的であったのであるが。

posted by 長谷川@望夢楼 at 07:37| Comment(0) | TrackBack(1) | 歴史学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月06日

平泉澄と仁科芳雄と石井四郎

 手元の資料を整理していたらこんなものが出てきた。

  • 「東京大学旧職員インタビュー(3) 平泉 澄氏インタビュー(6)」『東京大学史紀要』第17号(東京:東京大学史史料室、2000年3月)

 東京大学百年史編集室(現・東京大学史史料室)が1978年11月に平泉澄(ひらいずみ・きよし、1895〜1984)に対して行った聞き取りで、平泉の没後、『東京大学史紀要』第13〜17号に掲載された。平泉は元東京帝国大学文学部国史学科教授で、戦時下において独特の国体論的歴史学を展開したことで知られる。インタビュアーは伊藤隆・酒井豊・狐塚裕子・照沼康孝の4名である。したがって、終戦から33年経った時点での、満83歳の老人による回想である、ということはいちおう注意しておきたい。

 そのインタビューの結末近くで、平泉はこんなことを語っている([…]内は引用者註)。

[…]世界は大動乱に陥り日本は大国難に遭遇するということを私は看破して、欧州滞在を切りあげて帰る、前から日本は大変なことだと思っていたが、いよいよそれがせっぱ詰まってきて帰るでしょう。同じ時にヨーロッパにおって、これは大変だということに気がついて、そこで対策を講じなくてはならないと考えたものが、私のほかに二人ある。これが世にも不思議なことに、全部大正七年[1918]の東大卒業生です。[…]
 そのときに出た一人は仁科芳雄。これが理工科の銀時計です。欧米へ行って、原爆をもって国を守る以外にはないということを考える。もう一人は石井四郎陸軍中将。これは石井部隊ですが私と四高[第四高等学校=現・金沢大学]で同期生ですが、厳密にいうとこの人は医学部だから昭和八年東大の卒業だと思うんですが、仁科さんもわれわれも大正七年には東大におったんです。
 この三人は連絡はないんです。私は仁科さんは知らん。石井さんは知っておったが、石井が偉い男だということは知らなかった。[…]
 そのうちに石井さんの本当のことを全部私は知ってね。これは大変なことだと思った。化学兵器をもって国を守るんです。陸軍の最後の手段はこれだった。非常に厳重にこれは秘匿されておった。しかし、いよいよ戦局が急迫したとき、私は石井さんを訪ねた。陸軍大臣には会えても石井さんには会えないというくらい全部守られておる。それを石井さんに連絡したら、おいでなさい、話しておくということで会いに行きましたわい。全く隔離されたところで、厳重な警戒のうちにおる。会って石井さんが言うには、あなたはみんな知っておるんだから隠すことはしない、みんな話しする。おれのところで考えておることはこれだけだというんで、全部の計画、準備、設備、みんな話をしてくれた。石井さん、いざというときは頼むぜというので、非常にこれは自分には頼みになった。
 もう一つの原爆のほうも頼みにしたんですが、これは貴族院でたびたび長岡半太郎氏がしゃべった。あれがよけいなことをしゃべった。やるのなら黙ってやればいい、できもしないものをしゃべるというのはよけいなことなんです。よけいなことを言われたなと思いますが、これは結局できずに終わった。
 そのときに仁科さんの下におった人が二人ばかり、この春、テレビに出たんですが、その話を聞いて私は非常に憤慨したんです。われわれは仁科博士の下で原爆の研究に従事したけれども、それは原爆をつくって実戦に用いようという意図ではなかった。自分らがこのことに関係しておったのは、いかにして陸軍の徴兵を免れかるかということを考えて、そのためにここに入っておったのだ。研究するものは理論を研究したのであって、実際には関係しておらんと繰り返し言ったんです。それはどこまで本当なのか、今の時世に媚びて言ったのかわしはわからん。しかし、事実は何もできなかったんです。当時、もう一週間早ければできたというが、事実はそんなものではありません。五十年も遅れていたんですと言いました。いまさら何を言うかと思いましたがね。本当に自分の命を捨てる気のないものは、こういうことになるんです。石井さんのほうは用意しておったが、これは陛下のお許しがないので、とうとう行われない。そこで何とかしてふつうの兵器で戦って、いわゆる逆転を私はやりたい。私はプロレスが好きでね。猪木がさんざん負けて、これはあかんかと思うと、彼は逆転する。それは何とも言えぬ楽しみですわ。それはどんなに負けても最後の一戦で勝てば、終わりよければ万事よしなんです。それで回天でも何でも一生懸命やった。[pp. 76-78.]

 ……どうやら平泉澄はアントニオ猪木信者だったらしい。

 三人の略歴を簡単に示しておこう。

 平泉澄(ひらいずみ・きよし、1895〜1984):1918年東京帝国大学文科大学国史学科卒業。1921年東京帝国大学文学部講師、1926年文学博士(東京帝国大学、「中世に於ける社寺と社会との関係」)、同助教授。1930〜31年ヨーロッパで在外研究。1935年同教授、1945年辞任。1948〜52年公職追放。著書『中世に於ける精神生活』(1926)・『我が歴史観』(1926)・『闇斎先生と日本精神』(1932)・『菊池勤王史』(1941)・『少年日本史』(1970)・『悲劇縦走』(1980)他多数。

 平泉は1930年3月に在外研究のため渡欧するが、2年計画のところを1年3ヶ月で切り上げ、満洲事変の直前に帰国している。若井敏明『平泉澄』(ミネルヴァ書房、2006年)によれば、滞欧中の1931年4月にスペインで無血革命が起きて王制が廃止されたことにより、共産主義や革命への危機感を感じて帰国したものという。

 仁科芳雄(にしな・よしお、1890〜1951):1918年東京帝国大学工科大学電気工学科卒業。1921年(財)理化学研究所(理研)研究員。1921〜28年イギリス、ドイツ、デンマークで在外研究。1930年理学博士(東京帝国大学、「錫(50)よりタングステン(74)に至る諸元素のL吸収スペクトル並に其の原子構造との関係に就て」)。陸軍・理研の原爆開発計画「ニ号研究」に従事。1946年理研所長、1948年理研解散にともない(株)科学研究所社長。

 「銀時計」というのは、東京帝国大学の成績優秀者に対して卒業時に天皇から授与される「恩賜の銀時計」のことで、平泉と仁科が卒業した1918年まで実施されていた。なお、平泉自身も授与を受けている。

 石井四郎(いしい・しろう、1892〜1959):1920年京都帝国大学医学部卒業。1927年医学博士(京都帝国大学、「グラム陽性双球菌に就ての研究」)。1928〜30年海外視察。1931年陸軍軍医学校教官。1932年、軍医学校内に防疫研究室を設立。1936年、関東軍防疫部(のち防疫給水部=満洲第731部隊)を編成し細菌兵器の研究に従事。1942年北支那方面軍第一軍軍医部長に転出するが、1945年軍医中将に昇任し防疫給水部長に復帰、直後に終戦。

 さて、上述した略歴からも明らかなように、このインタビューにはいくつか基本的な事実誤認が含まれている。まず、平泉と石井が同じ旧制第四高等学校の出身なのは事実だが、石井が東大出身というのは平泉の勘違いで、卒業年次も異なる。ついでにいえば、細菌兵器が専門の石井が「化学兵器をもって国を守る」というのも少々おかしい。また、仁科は世界恐慌が始まる前の1928年12月に帰国しており、1930年3月に渡欧した平泉とは時期的にズレがある。さらに、仁科が渡欧中に「原爆をもって国を守る以外にはないということを考え」た、というのもおかしい。原子爆弾の製造可能性がSFではなく現実的問題として取り沙汰されるようになるのは、1938年にオットー・ハーンとフリードリヒ・シュトラスマンが核分裂を発見して以降のことだからである。要するに、「大正七年の東大卒業生」3人が「同じ時にヨーロッパにおって……対策を講じなくてはならないと考えた」という話は、平泉澄の思い違いの産物にすぎないのである。

 また、「貴族院でたびたび長岡半太郎氏がしゃべった」という事実もない。確かに、戦時中の貴族院で、原子力が軍事利用できる可能性について触れた科学者議員はいる。しかし、それは長岡半太郎(1865〜1950)ではなく、田中舘愛橘(たなかだて・あいきつ、1856〜1952)である(第84回帝国議会貴族院本会議、1944年2月7日)。なお、昭和天皇が化学兵器の使用を止めさせた、という話の裏付けはとれなかった。実際のところ、日本軍が化学兵器を使わなかった理由は、報復攻撃を恐れたことが大きいと言われており、その恐れの少ない中国戦線ではしばしば使用していたことが知られている。

 晩年のインタビューにおける放言めいた発言であり、当然、記憶違いもあるであろうことは割り引いておく必要があるものの、ずいぶんいい加減な話ではある。

 末尾の「回天」は人間魚雷の「回天」のこと。平泉は、このインタビューの中で、「回天」の発案者の一人である黒木博司海軍大尉(1921〜44。「回天」試験中に事故死、少佐に特進)のことを「私の最愛の門下」と呼んでいる。

 さて、この話からは、平泉の認識を以下のように整理することができそうだ。

  1. 平泉澄は、日本の勝利のためなら核兵器や生物・化学兵器の使用も許される、と考えていたらしい。
  2. 平泉澄は、自分の言動が核兵器や生物・化学兵器の研究開発と同列に並べられるものだ、と考えていたらしい。
  3. 平泉澄は、秘密兵器による一発逆転勝利、などというマンガ的(プロレス的?!)な話が、現実的な話だと考えていたらしい。(しかも、その秘密兵器の具体例が特攻兵器。)

 なお、「本当に自分の命を捨てる気のないものは、こういうことになる」という発言の意味はいまひとつ明らかでないが、もし「だから原爆を完成させることができなかった」という意味であれば、「そんな精神論を言っているから戦争に勝てないんだ」とでも答えておけばよさそうである。

 そもそも、平泉の専門は日本中世史で、軍事に関する専門的著作は特にないはずなのだが、平泉はこのインタビューの中で、陸軍士官学校での講義などを通じて軍人に自分の信奉者が多かったことを自慢げに述べ、「私は陸軍というものを鍛え直した」「陸軍が私を畏れ敬った」などと豪語する。そして岡田啓介(1868〜1952)、米内光政(1880〜1948)、宇垣一成(1868〜1956)らが、東京裁判の主席検察官ジョゼフ・キーナンから平和主義者と称賛されたことを非難した上で、次のようなことを語っている。

実戦しておると、わしのところへくるよりほかはないわけです。米内[光政]さんなどは戦争に一ぺんも出たことがないし、岡田[啓介]さんも宇垣[一成]さんも実戦には出たことがない。実戦をやってみると彼らが地図で考えているようなものではない。下の人はみんな私によって動くというくらいの勢いなんです。それが海軍としては非常な不幸でしたね。陸軍は上層部もみな私を信頼してくださり、言っては悪いけれども東条[英機]さんでも小畑〔敏四郎〕さんでもそうですが、あとでいえば陸軍大臣阿南[惟幾]大将、これは入門願書を出されたんですよ、私に対して。それから下村大将が最後ですがね。手紙には最末の門人、下村定と書いてありますよ。全然態度が違うんです。[p. 76.]

 日露戦争(1904〜05)中、岡田啓介は装甲巡洋艦「春日」副長として日本海海戦などに参加しているし、米内光政も海軍中尉として駆逐艦「電」(いなづま)に乗り込んでいる。また宇垣一成も陸軍第八師団参謀として出征している。岡田は日露戦争のみならず日清戦争にも第一次世界大戦にも従軍した歴戦の将である。その三人を「実戦には出たことがない」と勝手に決めつけ、自分のほうが戦争のやり方をよく知っている、などと言い出すのだからまことに恐れ入る。むしろ、東條英機(1884〜1948)以下陸軍上層部が、こんな程度の軍事知識の持ち主を「信頼」していたとすれば、そっちの方がはるかに問題だろう。

 ……いや、もちろん、平泉の回想が正確なら、という話だが。

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2012年08月19日

研究プロジェクト報告書『日本における「標準化」の史的考察』

 私も参加しました2008〜2011年度千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書『日本における「標準化」の史的考察』が千葉大学学術成果リポジトリで全文公開されておりますので、内容を紹介しておきます。

『千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書 第217集 日本における「標準化」の史的考察』(千葉大学大学院人文社会科学研究科、2012年2月28日発行)

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116341
三宅明正「はしがき」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116342
長谷川亮一「近代日本における「標準化」の概念について」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116344
小川信雄「「科学技術」ということばにある政治性」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116345
長澤淑夫「三井財閥と会社法」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116346
三村達也「近代以降の日本における住宅計画学の成立と終焉――住宅の標準化という限界性に着目して」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116347
山口隆司「雑誌『家の光』にみる日本の戦時体制下農村社会の平準化」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116348
高木晋一郎「大正〜昭和戦前期の自動車政策にみる標準化・規格化」

http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00116349
高橋莞爾「世界標準化としてのISO国際規格についての考察」(研究ノート)
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2011年09月15日

安田浩先生について思い出すことなど

 日記を少し読み返してみた。安田先生の最初の入院は2009年10月のことだった。このときは突然の話であり、特に院生たち(ぼく自身はこのときすでに修了していたのだが、オーヴァードクターとしてゼミには顔を出していた)の間では状況がわからず、しばらく混乱したものである。その後、食道癌で、摘出手術ができないため放射線治療を受けている、という話が伝わってきた。

(19日追記:再確認したところ、間違いがあったので一部修正。安田先生が最初に食道癌と診断されて入院されたのは2007年1〜2月であり、摘出手術ができないので放射線治療を受けた、というのもこのときの話である。ただ、このときは安田先生の側からも、入院のため休講する旨の説明が通知があった。院生の間で混乱があったのは、2009年10月の、2度目の入院のときの話である。)

 11月にいったん復帰されたものの、2010年の春休みに再入院。その後に再復帰されたものの、2010年6月末を最後に授業を停止して再々入院となっていた。その後、今年(2011年)はじめにはまた再々復帰されたという話も噂に聞いていたのだが、タイミングが合わずにお目にかかる機会を逸していた。そういうわけで、この1年くらいの間は、直接お会いする機会がなく(実際、2010年6月を最後に、お会いしたという記憶がない)、それだけでも大きな心残りになってしまった。
 ついでながら、ぼくが2010年前期に、半期だけではあるが学部の「日本近代史a」の授業を受け持つことになったのも、もとはといえば安田先生が休講されるため代理が必要、という理由からである。
 入院の合間をぬうような形で大学院のゼミに顔を出した先生は、食道をやられているために声はたいへん弱々しく、そのくせ指導の厳しさはいつもとほとんど変わらず、院生が少しでもいい加減な報告をすると、容赦なく斬り込みを入れてくるのだった。

 ぼく自身も、ゼミでは批判されたことのほうが圧倒的に多い。論理的破綻については厳しく突っついてくるし、史資料の無批判な引用など、少しでも隙があると容赦なく突っ込んでくる。といって正確だが何の新しい知見もないような、論文の体をなしていないようなものも、当然のごとく批判する。『「皇国史観」という問題』についても、ほんとうはもっと言いたいことがあったのではないか、と思う。とはいえ修了後は「長谷川くんならもう就職できていいんだけど」と期待されていたこともあり、きちんとその期待に応えることができなかったのも心残りではある。
 とはいえ、後輩であるMくん(博士課程在籍のまま上海の大学に赴任中)の追悼文などを見ると、やはり現役の院生のほうが衝撃は大きいのではないかと思う。

http://blog.goo.ne.jp/mimutatsu1008/e/67932d6e1381199c264db9551bbd6981
安田浩先生のこと(2011-09-14 23:41:37)

 『歴史学研究』第877号(2011年3月)に、伊藤之雄氏に対する批判(「法治主義への無関心と似非実証的論法――伊藤之雄「近代天皇は『魔力』のような権力を持っているのか」(本誌831号)に寄せて」)が掲載された(※)が、その論調が、いかにも大学院ゼミでの院生の報告(それも、どちらかといえば出来の悪い方の……)に対する批判の調子そのままなので、苦笑させられたものである。
 発表当時、じつはすでにご本人も死期を悟っていて、今のうちに言いたいことを言っておこうと思っていたのでは、という噂があった。結局のところ、やはりそういうことだったんだろうか、と思う。
 なお、同論文も収録されるらしい最後の著作(これも死期を悟ってまとめられていたものなのだろうが……)『近代天皇制国家の歴史的位置』が、大月書店より10月7日より発売されるとのことである。

http://www.otsukishoten.co.jp/book/b94085.html
ISBN 9784272520855

 中国ではなかなか入手も難しそうだが、なるべく早く読みたい。


(※)なお、この批判が掲載されるまでの議論の経緯については、当事者のひとりである瀬畑源くんの blog に詳しい。以下を参照のこと。

http://h-sebata.blog.so-net.ne.jp/2006-10-05
書評:伊藤之雄『昭和天皇と立憲君主制の崩壊』

http://h-sebata.blog.so-net.ne.jp/2007-08-29
伊藤之雄氏「近代天皇は「魔力」のような権力をもっているのか」について

http://h-sebata.blog.so-net.ne.jp/2011-02-26
3年前の手紙


 ……あまり心残り心残りいっても仕方ない。自分にできるだけのことをがんばってこ。
posted by 長谷川@望夢楼 at 18:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月13日

安田浩先生の訃報

(以下の文章の大部分は11〜12日に書いたものの、訃報がマスメディアに流れるまで公表を差し控えていたものです。すでに『東京新聞』 http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/obituaries/CK2011091302000102.html などで訃報が流れましたので、こうして公表します。)

 9月10日。恩師の一人である安田浩先生が、10日に亡くなられた旨を、三宅明正先生から知らされた。
 ここ数年は癌のため何度も入退院を繰り返しており、それなりに覚悟はしていたのだが、不肖の弟子の一人として、悲しく残念な気持ちが無い、といえば大嘘になる。阜陽での授業が始まったばかりで、おまけに日本へ行くだけでも2日は見込まなければならない僻遠の地とあっては、今すぐ日本に帰れるわけもなく、中国から悼むことしかできないのが残念である。(じつは、しばらくお会いする機会が無く、赴任直前に直接ご挨拶をする機会がなかったので、それだけでも心残りなのである。)

 たまに誤解されるのだが、ぼくの千葉大学での学部以来の主任指導教員は三宅明正先生である。なぜかというと理由は単純で、ぼくが1995年に学部に入学した時点では、まだ安田先生は埼玉大学におられたからだ。とはいえ、修士論文と博士論文の副指導教員であるから、恩師であることには変わりない。
 院生の指導には厳しいほうで、特に、何よりも発表内容や論文の論理的整合性を重んじ、つじつまの合わない発表、思い込みが勝って論理構成が破綻しているような発表などについては容赦のない突っ込みを入れる方であった。とはいえ、それで鍛えられた院生は多いと思う。
 本当に残念なのは、結局、学位論文(『「皇国史観」という問題』)の「その次」をついに見せることができなかったことである。『地図から消えた島々』は差し上げたけれど。まあ、これからも学問研究と、そして今いる「中国」と向き合うことが、少しでも恩返しになれば……と思っている。
 ともあれ、あの独特の笑い声がもう聞けないのかと思うと、寂しい。

 他にも書くべきことと書きたいことはあるのだけれど、ひとまずはこの辺で。今晩の通夜は阜陽から祈らせていただくことにする。
 ……追悼のため『天皇の政治史』を読み返したいのだが、あいにく手元にないのだった。
posted by 長谷川@望夢楼 at 13:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月25日

同時代史学会公式サイト移転のお知らせ

 私が管理しております同時代史学会の公式サイトですが、 infoseek isweb ライトが今月(2010年10月)末でサーヴィスを全面終了するため、やむを得ず移転することになりました。
 新URLは以下の通りです。リンク、ブックマーク等をされている方々は、至急訂正されるようよろしくお願いする次第です。
http://www.geocities.jp/doujidaisigakkai/
ラベル:同時代史学会
posted by 長谷川@望夢楼 at 02:31| Comment(5) | TrackBack(0) | 歴史学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月22日

『市民が体験した千葉市の近現代史の調査報告書』

 昨2006年8月から今年2月にかけて、千葉市と千葉大が共同で千葉市民に対する聞き取り調査を行いました。聞き取り対象は1910〜30年代生まれの世代でした。その際には私も参加させていただいたのですが、その報告書『平成18年度 千葉市・大学等共同研究事業 市民が体験した千葉市の近現代史の調査報告書』(2007年3月発行)の「概要版」(PDF)が、千葉市企画調整局政策調整課大学連携千葉市・大学等共同研究事業共同研究事業実施一覧に掲載されています。
 内容は「概要」と、一橋大の小林啓祐さんの「戦災復興計画と千葉市民」、それに私の書いた「千葉市民の「戦争」体験」。本体にあたる聞き取り要旨は掲載されていません。小林さんの論文はともかく、私のは聞き取り要旨をもとに話を整理したものなので、要旨と切り離してしまうとわかりづらくなってしまうのではないか、と危惧するのですが……。
 ともあれ、興味のある方はご覧になってください。聞き取り要旨を含めた完全版をご覧になりたい方は、千葉市市政情報室千葉市図書館などへ行けば閲覧できるようです。

http://www.city.chiba.jp/kikakuchosei/chosei/download/kingendaisi.pdf
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2005年10月03日

安田浩+趙景達〔編〕『戦争の時代と社会』



安田浩+趙景達〔編〕『戦争の時代と社会――日露戦争と現代』(青木書店、2005)

 昨年の日露戦争100周年シンポジウムの内容が本になりました。

 じつは、ぼくの手も少しだけ加わっています。巻末の「近現代戦争年表」の作成を高口康太くんとともに担当させていただきました。
 この手の図表を作る作業は割に好きではあるのですが、いざ作ろうとすると手頃な資料が案外無かったり、文献によって年代の食い違いがあったりで、結構困惑するはめになりました。いちおう完成した年表を見ても、各々の戦争の呼称は果たしてこれでよかったのか、とか、まだまだ載せるべき戦争があったんじゃないか、とかいう気分になってきてしまいますね。いろいろ批判もありうるかと思います。
(実はすでに確認できている間違いがひとつ。日英同盟の終了年が1921年となっていますが、正しくは1923年です。すみません。)
posted by 長谷川@望夢楼 at 21:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月16日

アジア太平洋戦争下における文部省の修史事業と「国史編修院」

『千葉史学』(千葉歴史学会)第46号(2005年5月発行)に、論文「アジア太平洋戦争下における文部省の修史事業と「国史編修院」」を書きました。
 千葉歴史学会のウェブサイト [http://hist-q.f.chiba-u.ac.jp/users/chibareki/] も出来た由なので、支援リンクをしておこう。
posted by 長谷川@望夢楼 at 10:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年12月15日

歴史学の戦中と戦後――「皇国史観」と戦後歴史学の出発

長谷川亮一「歴史学の戦中と戦後――「皇国史観」と戦後歴史学の出発」(『同時代史学会 News Letter』第4号。PDF版

 お前は大学院生として何をやっとるのだ、という疑問を持たれた方に。こういう研究をしてます。Web上で読めますのでご参考までに(同時代史学会のウェブサイトはぼくが管理しているので、自分で掲載したのだが)。
posted by 長谷川@望夢楼 at 02:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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