被災地の方々に心よりお見舞いを申し上げるとともに、亡くなられた方々のご冥福を祈る次第です。また、現在救助を待ち望んでいる方々が、一刻も早く救助されるようお祈りいたします。何もできませんが……。
さて。
Twitter の方でも報告しましたが、当日、たまたま千葉大にいたため、ものの見事に帰宅困難者というやつになってしまいました。いくらなんでも歩いて帰れる距離じゃないので(明治時代の人なら歩けただろうが)、外房線の運航が再開されるまでの約28時間、ひたすら待ち続ける羽目に。何の参考にもならないと思いますが、回想がてら記しておきます。
そもそも11日に千葉大にいたのは、30分程度で終わるような、ちょっとした仕事の打ち合わせのため。その後、ネットでのちょっとした調べ物のために大学院棟4Fの某研究室に行き、それもおおむね終わったので、パソコンの画面を眺めつつ、さて図書館にでも行こうか、と思っていたところへ急に揺れが襲って来た。
初期微動が長かったので遠隔地での地震、本震もかなり強いものの身の危険を感じるほどではない……と思っていたのだが、その本震がなかなか終わらない。不安になってきたので机の下に入る(咄嗟に、ではないところが我ながら暢気で間抜けな所以である。断じて真似しないように)。正確に時間を測ったわけではないのでなんともいえないが、4〜5分は続いていたように思う。平積みになった資料やら本やらがぱたぱたと落ちる。この建物が倒壊したら助からないな、ま、このくらいなら潰れはしないだろうけれど、と漫然と考える。
揺れが収まったところで、パソコンからネットで情報を確認する。驚いたことにマグニチュード7.9(当初の速報値)、宮城県で最大震度7(栗原市築館)という。阪神・淡路大震災どころではない、関東大震災クラスではないか! この規模なら気象庁命名地震になるのは間違いない。震源は三陸沖だから津波が危ない。宮城には親戚も知人もいるので心配だ。
……が、この時点では、まさか関東圏でも相当な被害が及ぶ、とは思っていなかったのである。千葉市内では中央区で震度5強、稲毛区で5弱。かなり激しくはあるが、その程度といえばその程度である。津波は千葉にも押し寄せるだろうが、千葉大も自宅も海岸からは距離があるし、山がちな地形でもないから、危険なところにさえ近づかなければ大丈夫。危ないとすれば液状化現象くらいだろう……その程度に思っていた。
# 於・千葉大なう。あーびっくりした。ずいぶん長いこと揺れたな地震。 2:59 PM Mar 11th
# というかまだ揺れてる……千葉でこれだけとなると宮城が心配だ。 3:00 PM Mar 11th
# 稲毛区で震度5弱。帰るのがちょっと怖いなー。うちの部屋がそれはもう酷いことになってそうで。 3:06 PM Mar 11th
# また揺れてるし。 3:08 PM Mar 11th
しかしながら激しい余震が続いているので、さすがに建物の中にいるのは危ないと感じ、パソコンの電源を落として屋外に出た。屋外には学生やら教員やらが当惑気味に出ている。ポータブル・ラジオで状況を聞いている人がいて、ああいうものは日ごろから持ち歩いたほうがいいのかも、などと思う。
どうしようかと迷った。図書館に行くつもりだったのだが、この状況では閉館になっているかもしれない(実際、そうなっていた)。避難場所に行く、というのなら、そもそも千葉大自体が避難場所なのである。とにかく、明日のこともあるし、いったん帰途につくことにした。
とはいえ、東北地方はおそらく酷い事態になっているのだろうが、千葉ではたいしたことはなさそうだ、とひとごとのように考えながら、西千葉駅に着いてみると、JR線が全面ストップになっている。15:40頃だったと思う。再開までには5時間くらいかかる、というアナウンスが入る(この時点では同日中に再開されるはずだった)。21時くらいになってしまうではないか。ここで、ようやくことの重大さを認識し出す。
避難場所である千葉大に戻ろうかとも思った。しかし、どのみち帰宅には外房線を利用するので、西千葉駅から乗ったとしても千葉駅で乗り換えなければならない。それに、千葉駅前には大型モニタが設置されているから、西千葉よりも状況の把握は容易だろうし、それに新聞の号外なども出ているかもしれない――と思って、千葉駅まで歩くことにした。もともと両駅間は歩いてもせいぜい20分程度であり、よく歩いてはいるのである。後で、これは判断ミスだったんじゃないかとも思ったが、どのみち、どこかで足止めという羽目になるのは確実だったろう。
千葉駅に着いてみると、駅前のモニタではまだ広報などをやっていて、報道番組などは映していない。号外も出ている様子が無い。JR、京成、千葉都市モノレールはいずれも全面停止、バス停とタクシー乗り場は長蛇の列。
市内を40分ほど散策して戻ってみると、さすがにモニタはNHKテレビへと切り替えられていた。歩いている間に「東北地方太平洋沖地震」という命名がされており、さらに、マグニチュードが8.4に修正されている。と、観ているうちに規模が8.8に再修正された。もちろん日本地震観測史上最大の値である。
さらにテレビ画面は、津波が名取川を遡行し、次々と田畑や家々を呑みこむ、という画面を映し出した。あまりに異様な状況のため、一瞬、何が起こっているか理解できなかった。知識としては知っていたつもりでも、実感としては受け取っていなかった津波の恐ろしさが、まさか目の前に映し出されるとは。さらに、おそらく人が乗っているであろう、ランプの点いた車が津波に巻き込まれて流される――という場面が生中継で流された。さすがに、これはすぐに映像が切り替えられた。
――「海の壁」(吉村昭)だ。
どうやらとんでもない事態が起こっていることが、だんだん把握できてきた。電車はいっこうに動く様子が無い。明日は同時代史学会定例研究会が開催予定だが、この状況で実施できるのだろうか。
ニュースを見ると、JFEスチール東日本製鉄所(川鉄)とコスモ石油千葉製油所で火災が発生したとのこと(ただし、東日本製鉄所の方は、後で火災ではなかったことが判明する)。どうりでさっきから消防自動車が走りまわっていたわけだ。他にも鹿行大橋が落ちたらしいとか、さまざまな情報が飛び交う。
コンビニを覗いてみると、すでにおむすびやパンなどはほとんど売り切れている。菓子パンなどは残っているし、インスタント食品や飲料などの在庫は十分に残っているから、とりあえずの食糧危機ということはなさそうだが、流通ストップが長期化すると危ないかもしれない、と感じた。
とりあえず自宅に連絡しようと思って携帯から電話してみるが、いっこうにつながらない。地震直後にはつながっていたネットともつながらない。しかたがないので公衆電話に向かう。JR千葉駅東口の公衆電話は故障しているようなので、京成千葉駅の公衆電話に行ってみると、とんでもない長蛇の列。1時間ほど待たされた末、ようやく家に連絡がとれたのは19時過ぎだった。並んでいる間に、JR線の終日運行停止が決定。こうなると、千葉でなんとかして一泊しなければならない。
ホテルは端から諦め、ネットカフェか24時間営業のファミレスで過ごそうかと思い(後から考えれば、千葉大に引き返せば良かったのだが、このときはそうは考えなかった)、あちこち探してみたのだが、どこも入れそうにない。そもそも、ネットカフェやファミレスの中にすら、地震や、それにともなう流通停止の影響で営業を停止するものも出てきているのである。
一晩過ごす程度なら気にはしないのだが、まだ夜は寒い。屋外で過ごすのはさすがにつらい。千葉駅構内では、帰宅困難者の方々が大量に座り込んでいる。仕方ない、同じように夜を明かそう、この程度で風邪をひくこともないだろう……と決意したところに、22時過ぎ、「千葉市との協力により、400人分の避難場所が確保できました」というアナウンスが入る。どこが避難場所なのかという説明はなかったが、千葉駅からほど近い千葉市の施設ということならば千葉市民会館だろう、と思って案内されるままについていくと、案の定、その通りだった。
幸い、テレビモニタもあり、NHKニュースを映し出している。本を読んだりうとうとしたりしつつ、時間を過ごす。幸か不幸か、読む本だけは、たまたま沢山持っていたのである。明日は電車は動くのか、と、だんだん心配になってくる。
(長くなったので分割。12日分に続く)