これ〔『古事記』及び『日本書紀』で、世界創造の時に最初に神が出現した、とされていること〕はすこぶる重要な点です。なぜかといえば、我々が動物から進化したとするか、または野蛮な人間から発達したとするか、いや発達ではなくて、堕落してきたものとするか、それとも神から出たものとするか、その出発点の相違は、その民族の宗教に、道徳に、政治に、重大な影響があるからです。簡単に進化論をうけとる人は、人は猿から発達したようにいいやすいのですが、猿はいつまで経っても猿です。動物園の猿の子が、人になって生れてきた例がありますか。猿は猿、人は人、別のものです。それを誤解して、猿こそ我々の先祖であるとすれば、祖先崇拝は出てきますまい。先祖の恩徳を感謝する厳粛な祭は行われますまい。我々日本民族は、その祖先は神であったと信じ、敬い、そして祭ってきたのです。すなわちその生活は、奉仕の態度であって、「つつしみ」「うやまい」を正しいとし、「おごり」「たかぶり」を善くないとしてきたのです。
――平泉澄『物語日本史』(上)(講談社学術文庫、1978), p. 41. 強調は引用者による。〔……〕内は引用者註。
……そりゃあ、動物園の猿から人間の子が生まれるわきゃないわな。
平泉澄(ひらいずみ・きよし、1895-1984)は歴史家で、1935(昭和10)年から1945(昭和20)年にかけて東京帝国大学文学部国史学科教授を務めた人物。一般には「皇国史観の主唱者」として知られる(平泉自身は「皇国史観」という語を用いているわけではないし、また文部省とはそれほど密接な関係にあったわけでもなく、この表現は誤解を招くものであるが)。戦時中は陸軍の一部に強い影響力があったといわれ、1945年8月15日のクーデタ未遂事件(宮城事件)については彼の思想的影響を指摘する説もある。日本の降伏とともに大学を辞し、戦後は特に公職には就かなかったが、神道方面などに強い影響力を保ち続けた。
主として戦時中の言動のせいで、歴史学者としての彼の評価は非常に低く、博士論文である『中世に於ける社寺と社会との関係』などごく初期の二、三の著作こそ高く評価されているものの、それ以後の著作はほとんど学問的には相手にされていない。もっともその一方、現在もなお一部に熱烈な支持者を持っているのも事実である。東大で彼に直接学んだ歴史家の中でも、彼の評価はそれこそ両極端で、くそみそにこき下ろす向き(中村吉治、北山茂夫、色川大吉、永原慶二など)もあれば、非常に高く持ち上げる向き(平田俊春、村尾次郎、田中卓など)もある。
この『物語日本史』は、もともと『少年日本史』の題で1970(昭和45)年に時事通信社から刊行されたもので、題名の通り少年向けの日本通史である。現在は皇學館大学出版部から『少年日本史』の題で、また講談社から『物語日本史』の題でそれぞれ発行されており、隠れたロングセラーとなっている。
それにしても、このくだりを見ると、どうやら平泉は進化論をろくに理解していなかったらしい。人間が直接猿から生まれた、なんてことは、そもそも進化論は主張していない(正しくは「人間と猿は共通の先祖を持つ」)。もっとも、よく読むと「簡単に進化論をうけとる人」とあるので、あるいは平泉としては間違った理解の例として出しているつもりなのかもしれないが。
平泉の主張は、要するに、日本人は自らを神々の子孫だと考えてきたからこそ祖先崇拝をしてきたのであり、また謙譲の道徳精神も育ってきたのだ、ということであろう(ここから、道徳精神を植えつけるためには進化論よりも「神話」を優先して教えるべきだ、という主張が導き出される)。もっともらしいようにも聞こえるが、冷静に考えると穴だらけの議論である。自分が神々の子孫だと思っているからこそ傲慢になるのではないか、という意見だってあるだろう。始祖が猿だと考えられていれば祖先崇拝は行われないはず、というのもよく考えるとおかしな話である。たぶん彼の頭には、トーテミズムなどといったことは思い浮かばなかったのだろう。
ついでにいうと、『古事記』でも『日本書紀』でも、人類の誕生についてはっきり述べている記述はどこにも見当たらない。確かに、天皇をはじめ神々の子孫であるとされている人間はいるが、だからといってすべての人間が神々の子孫だとされているわけではないのである。