クック『太平洋探検』(6)(岩波文庫、2005)を読んでいて、妙な記述を見つけた。クック一行がウナラスカ島(アレウト(アリューシャン列島)の一島で、当時はロシア領)滞在中の1778年10月14日の項に、「エラシム・グレゴリオフ・シン・イスミロフ」というロシア人の談話が書きとめられているのである。
一七七一年五月に、彼はロシア船でボルシェレツコイ〔ボルシェレツク〕を出帆し、〔北緯〕四七度にあるマリーカンという千島列島のひとつまで航海した、と言っている。そこには港とロシア人の居留地がある。この島から、彼は日本まで航海した。日本滞在は短かった。というのは、彼もその仲間もキリスト教徒であると日本人たちが知ったとき、立ち去るように合図したからだが、ただしわれわれが彼のことばを理解したかぎりでは、侮辱や強制はされなかったという。
日本から彼は広東に行き、そこからフランス船でフランスに渡って、フランスからペテルブルグに行き、再度ここに派遣されたというわけだった。最初に彼が乗った船がどうなったかは、知ることができなかった。また航海の主な動機もわからなかった。おそらく海路、日本または中国と通商を開こうとしたのではないか。(p. 201)
特に訳註も何もついていないが、これは明らかに、かのベニョフスキの航海のことではないか!
ベニョフスキ・モーリツ(Benyovszky Móric, 1746-86。ハンガリー人なので「ベニョフスキ」が姓。「ベニョフスキー」と書かれることが多いが、「ベニョフスキ」が正しい)は、荒唐無稽と言いたくなるくらい数奇な生涯を送った大冒険家である。そして、それと同時に、良く言ってもほら吹き、悪く言えば虚言癖の持ち主で、自らの回想録を脚色とホラ話まみれにしてしまい、事情を知らない読者を楽しませるとともに、後世の研究者を困惑させることになる、というなんとも曰くつきの人物である。
この男については――いちばん手っ取り早いのは、みなもと太郎の大河ギャグ漫画『風雲児たち』の「放浪の異国人」から「不動如莫迦」まで(希望コミックス版第6巻「海から来た男」、リイド社版第5巻。「ベニョヴスキー」と表記されている)を見ていただくことでしょうかね。マンガ的な誇張はありますが、おおむね事実に即して描かれています。珍妙奇天烈なほら吹き男として描かれていますが、実際の本人もだいたいあんなもんです。
ベニョフスキは、自らの回想録によれば、1741年にハンガリー人の伯爵である父と、ポーランド人の男爵夫人の母との間に生まれたという。彼は後年、これを根拠に自ら男爵だの伯爵だのと名乗っている。だが、実際の生年は1746年で、しかも父親は伯爵ではなく、本人は貴族の称号を名乗る権利はなかったという。生誕地は現在のスロヴァキア(当時はハンガリー王国の一部で、ハプスブルク家領)である。
1768年、当時事実上ロシアの支配下にあったポーランドで、ロシアに対する反乱が起ると、彼はポーランド側についてこれに参加し、ロシア軍の捕虜となって、脱走と再逮捕を繰り返した末、はるばるカムチャツカに流刑となった。
ところが1771年、彼は他の流刑囚と謀って反乱を起こし、官船を奪ってカムチャツカから脱出する。彼らはそれから、水と食料の供給のため、日本沿岸――土佐・阿波および奄美大島――に立ち寄るのである。このとき彼は、長崎オランダ商館に宛て、ロシアが近々日本に攻めてくる、という手紙を書き残している。しかしこれは、彼の生来の虚言癖と、ロシアに対する腹いせからくる大嘘であった。
なおオランダ商館はこの手紙を翻訳して幕府に提出している。このとき、ベニョフスキの名前は誤って「ハン・ベンゴロウ」とされてしまった(本人がドイツ貴族風に「フォン・ベニョフ」 von Benyow と名乗ったのを、「ファン・ベンゴロ」 van Bengoro と誤読したのだと推定されている)。この手紙はその後、工藤平助や林子平をはじめとする日本側の知識人に大きな衝撃を与え、その後の日本人のロシア認識に大きな影響を与えてゆくことになる。なお、工藤の『赤蝦夷風説考』や林の『海国兵談』では、ハンベンゴロウはどういうわけかロシアのスパイだとされている。ベニョフスキがこれを知ったら、どんな顔をしただろうか。
ともかくベニョフスキ一行は、その後マカオを経てフランスに渡っている。ベニョフスキ自身は、1773年、フランス政府に雇われてマダガスカルに渡り、この島の植民地経営を担当する。だが、一行のうち17名はロシアに帰国することを希望し、女帝エカテリーナII世の赦免を受けシベリアへと戻っていった。イスミロフはこのときの帰国組の一人であったようである。
なおその後、ベニョフスキは植民地の経営に失敗しヨーロッパに舞い戻る。その後、1785年になって彼は、米英資本の協力を得て再びマダガスカルに乗り込んだ。このとき、彼は言うに事欠いて「マダガスカル皇帝」を名乗っていたという。1786年、彼はフランス軍との交戦中に戦死した。誇張とホラ話にまみれた彼の回想録が刊行されたのは、その直後のことである。
クックはおそらくベニョフスキについてはほとんど何も知らなかっただろうし、イスミロフとしてもあまり詳しいいきさつについては話したがらなかったのだろう。それにしても、なんとも珍妙な邂逅もあったものだ。
それにしても、ベニョフスキという人間のことは、日本でももう少し知られていいと思う。なにしろ、日本人の間に「ロシアが日本に攻めてくる!」というイメージを流布させることに最大の貢献を果たし、後々まで日本人の対ロシア認識に強烈な影響を与えたのは、間違いなくこの男なのだから。
特に、その回想録に完訳が無く、日本に関する部分の抄訳(『ベニョフスキー航海記』平凡社東洋文庫、1970)のみというのは残念である。まあ、これはなにもベニョフスキに限った話ではなく、ラ=ペルーズの『世界周航記』やクルーゼンシュテルンの『世界周航記』などもそうなんですけどね。
以前より徹夜城さんのサイト経由で拝見していました。
ハンベンゴロウとクック船長の夢の邂逅、大変興味深いお話でしたので、勝手ながら『風雲児たち』ファンサイトの掲示板で紹介させていただきました。
事後連絡になりましたがどうぞご容赦下さい。
東洋文庫の『ベニョフスキー航海記』は読みましたが、文章が回りくどくて、通読にかなり忍耐が要ったのを覚えています。当時の航海記はみんなあんな感じなんでしょうか?原著者の人格によるところも大きいように思いますが(笑)
>当時の航海記はみんなあんな感じなんでしょうか?
まあ、ぼくもそんなに読んでいるわけじゃないのでなんとも。岩波書店の『17・18世紀大旅行記叢書』が同時代の(史料として重要な)旅行記の多くを収録しているので、そのあたりと比較してみるのもいいかもしれません。