ところで、教科書展示の際に「つくる会」教科書をぱらぱらとめくっていて、ふと、以下の記述が気になった。
ロシアは,酷寒の地シベリアを経営するための食料など生活必需品の供給先を,日本に求めようと考えた。そこで,1792(寛政4)年,最初の使節ラックスマンを日本に派遣し,日本人漂流民を送りとどけ,幕府に通商を求めた。
鎖国下の幕府がこれを拒絶すると,ロシアは樺太(サハリン)や択捉島にある日本の拠点を襲撃したので,ロシアに対する恐怖感が高まった。(p.120)
……これって、誤解を招くというよりも、もはや間違いの域に達してるんじゃないだろうか。
まず、レザノフの名前が抜け落ちているのがおかしい。1792年にラクスマンが来航した際、幕府は長崎への入港許可証を交付している。1804年、露米会社総支配人ニコライ・レザノフは、その入港許可証を持って、ロシア皇帝の正式使節として長崎に来航した。しかし幕府は通商を全面的に拒絶。これに憤ったレザノフは、1806年、露米会社の部下であった二人の軍人、ニコライ・フヴォストフとガヴリル・ダヴィドフに日本北方の攻撃を命じた。武力行使によって日本との交易を開かせようとしたのである。フヴォストフとダヴィドフは、それに従い私的に樺太・択捉襲撃事件(フヴォストフ事件、文化の露冦。1806-07)を引き起こした――というのが、事件の大まかな経緯である。「ロシアは……襲撃した」と書くと、まるでロシア政府が公式に日本攻撃を計画したように読めるが、実際は、この事件自体はフヴォストフとダヴィドフの私的な海賊事件にすぎない。確かに「ロシアに対する恐怖感が高まった」のは事実であるが。
そもそも、その前段の「シベリアを経営するための食料など生活必需品の補給先を,日本に求めようと考えた」というのも少し怪しい。ラクスマンの場合は漂流民(大黒屋光太夫一行)の送還が主目的だったし、レザノフの場合、彼が気にかけていたのはシベリアではなく、自らが露米会社総支配人として経営していたロシア領アメリカ(アラスカ)である。
だいたいロシアは、当時日本で思われていたほど、日本との関係樹立に熱心だったわけではない。そのことは、1813年にゴロヴニン事件(1811年、国後島を測量中のディアナ号艦長ゴロヴニンが日本側に逮捕された事件)が解決した後、1853年にプチャーチンが長崎に来航するまで、実に40年間にわたって直接交渉が途絶えていることからも明らかである。
気になって旧版(市販本)の該当部分を確認してみると。
ロシアは,酷寒の地シベリアを経営するための食料など生活必需品の供給先を,日本に求めようと考えた。そこで,18世紀末から19世紀はじめにかけて,使節を日本に派遣し,通商を求めた。
幕府がこれを拒絶すると,ロシアは樺太(サハリン)や択捉島にある日本の拠点を襲撃したので緊張が高まった。(p.154)
……なるほど、改訂で「ラックスマン」という固有名詞を入れてしまったがゆえの失敗か。