- 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。
三上は、開戦を決定した御前会議について、こんな奇妙なことを語っている。12月1日、開戦前最後の御前会議の話らしい。
[…]陛下はこの期に及んでも難色を示された。武藤さん唯ひとりが陛下に迫りました。御前会議で、凡そ戦争哲学の示す処によれば、ジリ・ジリ・ジリと痛められ敵前上陸を受けて、工業施設すべてを破壊され、女・子供は強姦凌辱され、果たしてその国は立ち直れるのかねたとえ戦いに敗れてでも民族の総力を結集して打って出た国は立ち上がっている、陛下何を迷われます、御前会議の記録は明らかです、武藤さんは気の毒にこの一言で絞首刑に掛かるのでした。
陛下は、その時一人言のように、「北海道をアメリカに割譲してでも和解の道はないか」とつぶやかれたことが記録にあります。[35頁]
「御前会議の記録は明らかです」というが、そんな記録は存在しない。
御前会議に出席し、かつ戦犯として処刑された「武藤」といえば、武藤章(1892〜1948)しかいない。しかし、まず武藤章は当時は陸軍省軍務局長であって、陸軍大臣(東條英機)や参謀総長(杉山元)を差し置いて発言できるような立場ではない。第二に、武藤は開戦回避論者であった。そして最も重要なのは、武藤であろうが他の誰であろうが、御前会議の場で昭和天皇を説得する必要もなければ、食ってかかる意味もない、ということである。御前会議は確かに天皇臨席のもとで開かれてはいるのだが、天皇自身は基本的に発言しない習慣になっていたからだ。発言内容についての政治的責任を問われると、困ったことになるからである。この時点で開戦派が説得すべき相手は、天皇ではなく、開戦を渋っていた東郷茂徳外相や賀屋興宣蔵相ら一部閣僚たちの方だった。
当然、東京裁判で武藤章が死刑判決を受けたのも、そんなありもしない理由からではない。実際は、近衛第2師団長(1942年4月〜44年10月)としての北部スマトラでの戦争犯罪と、第14方面軍参謀長(1944年10月〜降伏)としてのフィリピンでの戦争犯罪の責任をとらされたのである。
さらにわけがわからないのは、昭和天皇の発言である。中国からの撤退は不可能だが、アメリカが要求してきたわけでもない北海道の割譲なら可能、というのはいったいどういうことなのだ?! どうやら三上は昭和天皇を平和主義者だと主張したいようなのだが、これではひいきの引き倒しもいいところである。
記録はこのへんで難しくなるのですが、ついに陛下のご裁可を得ず、真珠湾の攻撃をやったのが真相のようでした。[35頁]
そんなことがあるわけがない。昭和天皇は11月5日の時点で奇襲攻撃計画を知らされており、12月1日の御前会議で対米英開戦を裁可している。
(第10回につづく)