2017年01月19日

『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(3)マッカーサーは昭和天皇を逮捕するつもりだった?!

第1回第2回

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

 三上照夫の講演録はいちおう時系列順に沿ってはいるのだが、どこをとっても滅茶苦茶な内容なので、最初に、ネット上で最も広まっているのではないかと思われる、昭和天皇=マッカーサー会見に関する箇所を取り上げることにしたい。

陛下に対する占領軍としての料理の仕方は四つありました。一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にかける、一つは共産党をおだてあげて人民裁判の名に於いて、これを血祭りにあげる、三番目は中国へ亡命させて、中国で殺す、そうでなければ、二〇個師団の兵力に相当するかと脅えた彼等です。それとも暗から暗へ、一服もることによって陛下を葬るこどありました。いずれにしても陛下は殺される運命にありました。[42-43頁]

 1948年7月9日付『朝日新聞』は、アメリカ紙に載ったウィリアム・シムスなる評論家の評論の要旨を掲げており、その中に次のようなくだりがある。

マックアーサー元帥は天皇の精神的勢力は悪にも善にも利用できるとの意見を抱いており、天皇の存続はマックアーサー元帥にとつて廿ヶ師団にも匹敵する価値があるとみるべきものである、

 つまり、「天皇は20個師団に匹敵する」というのは、「天皇を占領統治に利用しなければ20個師団もの軍事力が必要になる」という意味であって、間違っても「天皇は20個師団並みに危険な存在」という意味ではない。当然、そんな理由で天皇殺害計画が立てられたはずもない。

皆様方、[昭和天皇が]九月二十一日ただ一人の通訳、武藤さんをつれて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。[43頁]

 まず日付が間違い。昭和天皇=マッカーサー第1回会見は1945年9月27日。また、通訳の名前も全然違う。実際の通訳は外務省参事官の奥村勝蔵である。奥村は、この会見の記録を「「マッカーサー」元帥トノ御会見録」(以下、《御会見録》と略記)として書き残した。1975年、ノンフィクション作家の児島襄(1927-2001)がこの記録を『文藝春秋』11月号に発表する。児島が入手元を公表しなかったせいもあり、その内容が正確かどうかは長い間不明であったが、2002年に外務省が『朝日新聞』の請求に応じて情報公開を行い、本物のほぼ正確な写しであったことが確認されている(『朝日新聞』2002年10月17日付夕刊)。

ついてに天皇をつかまえるべき時が来た、二個師団の兵力の待機をマッカーサーは命じました。陛下は命ごいに来られたものとの勘違いをし、マッカーサーは傲慢無尊にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶が終わり、「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命に於いて凡てが行われました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません、絞首刑は勿論のこと、如何なる極刑に処されても、何時でも応ずるだけの覚悟はあります」。弱ったのは武藤さんでした。その通り通訳していいのか。「しかしながら罪なき八千万の国民が住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」、陛下のご挨拶は淡々として……、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いといった中で、一切の責任はこの私にあります、絞首刑は勿論のこと、如何なる極刑に処せられもと申されたのは我らが天皇ただ一人だったということであります。陛下は我らを裏切らなかった。マッカーサーは驚いてスックと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせ、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーを差し上げるように」、マッカーサーは、今度は、一臣下のごとく直立不動で陛下の前に立ち、天皇とはこのようなものでありましたか、天皇とはこのようなものでありましたか、私も日本人に生まれたかったです、陛下、ご不自由でございましょう、私に出来ますることがあれば何んなりとお申しつけ下さい。陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、「命をかけて閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか、重ねて国民等の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」、マッカーサーは約束を破り、玄関まで送って出たのです。[43頁]

 「天皇とはこのようなものでありましたか、私も日本人に生まれたかったです」――これでは感激とか感服とかを通り越して、単に卑屈なだけである。

 まず、マッカーサーは天皇逮捕の準備などしていない。会見の開始状況からして大嘘で、《御会見録》によれば、2人は最初にまず部屋の入り口で握手を交わし(つまり、玄関までは行かなかったが、部屋の前までは出迎えたのである)、部屋の真ん中で写真撮影を行い、その後、マッカーサーが天皇に、ソファに座るよう勧めたという。つまり、有名な天皇とマッカーサーのツーショット写真は、会見が始まる直前に撮影されたものなのである。天皇の表情が硬く見えるのは、そのせいもあるのかもしれない。カメラマンたちが退出して3人だけになった後、天皇とマッカーサーは軽く前置きの会話を交す。それからマッカーサーは約20分間にわたり一方的な演説を行い、それが終わったあと、ようやく会談が始まったという。

 さて、この第1回会見に、大きな謎があることはよく知られている。

 マッカーサーが1964年に発表した『マッカーサー回想記』によれば、このとき昭和天皇は次のように発言したという。

「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」

 また、侍従長の藤田尚徳が1961年に公刊した『侍従長の回想』にも、《御会見録》からの要約として、次のような天皇の発言が引かれている。

「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らに責任はない。
 私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。このうえは、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」

 つまり、マッカーサーや藤田尚徳によれば、このとき天皇は自らに戦争責任があることを率直に認めたという。ところが、《御会見録》には、該当する発言は一切記されていないのである。

 可能性は三通り考えられる。(1)そもそも戦争責任発言など最初からなかった。(2)発言はあったのだが、奥村が筆記しなかった。(3)発言はあり奥村も筆記していたのだが、何らかの理由で事後的に削除された。

 『マッカーサー回想記』は公刊当時から内容に誤りが多いことが指摘されており、当事者の回想ながら信憑性は低い。いっぽう、《御会見録》は現場での逐語的な速記録ではなく、会見が終わった後で奥村が筆記したものである。そのため、奥村が書き落としたか、あるいは外務省が後から削除した、という可能性も否定できない。この点は現在も謎となっている。(以上、第一回会見については、松尾尊兊『戦後日本への出発』岩波書店、2002年、豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫、2008年、を参照。)

 しかし、昭和天皇が「八千万の国民」云々と具体的な数字を挙げてマッカーサーに援助を懇願した、などという話は、《御会見録》のみならず、他のどの文献にも出てこない。マッカーサーが初対面の昭和天皇に好感を持ったことは事実だが(自ら玄関まで送りだしたのは本当である)、三上は、いったいこんな話をどこから仕入れたのだろうか。

第4回に続く)

posted by 長谷川@望夢楼 at 18:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 疑似科学・懐疑論・トンデモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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