(第1回)
- 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。
この講演録を読んだ時点で、ぼくは三上照夫がどこの何者かを全く知らなかった。講演録の冒頭では、その略歴が次のように説明されている。
講師 三上照夫先生は、昭和三年[1928年]京都でお生まれになりまして、西ドイツのミュンヘン大学で(「第三の文化」についての研究で経済学博士の学位を取られ、又日本におきましては「上代史」の研究で文学博士の学位をも取られております。先生は、東京大学、京都大学、大阪大学の各大学の教授を歴任されておりまして、その折り、時の内閣であります佐藤内閣のブレーンとして活躍されて以来七代二十二年間、中曾根内閣まで、内閣のブレーン生活を送られている先生でございます。先生は、これから世の中がどうなるかという評論家的な立場ではなく、世の中をどうするかという立場に居られる先生であります。さらに先生は、大学教授二六一名で構成されております、文部省の諮問団体である日本松柏学会の会長の要職にもあられる方です。[28頁。括弧の対応が合っていないのは原文のママ。]
2つの博士号を持ち、3つの国立大学で教え、7代22年間にわたり内閣のブレーンをつとめ、文部省の「諮問団体」の会長でもある――というからには、さぞ名のある大学者であろう、と思いたくなるところである。
しかし、文学博士の学位は、いったいいつ、どこの大学で取得したのだろう。日本の大学に提出された学位論文のデータベースは CiNii Dissertations として公開されているが、「三上照夫」を検索しても、何も出てこない。ミュンヘン大学の方も、ドイツ国立図書館やミュンヘン大学附属図書館のオンライン目録では、それらしきものは見つからない。
講演が行われたのが1986年だとすれば、22年前は1964年。佐藤栄作内閣(1964年11月〜72年7月)の初期にブレーンとなったことになる。しかし、公刊されている『佐藤栄作日記』の索引に三上の名前はない。この時期の大学の教員(常勤職)については年刊の『全国大学職員録』に網羅されているので、1959年版と1964年版を見てみたが、東大・京大・阪大いずれにも三上の名前は見つからなかった。「日本松柏学会」が文部省の「諮問団体」という話も裏づけがとれない(だいたい、正式な諮問機関だったら「審議会」や「委員会」とかいった名前になるはずで、「学会」と称するのはおかしい。ちなみに、「学会」という名称には特に法的な制限はなどはなく、自由に名乗ることができる)。 Google で「日本松柏学会」を検索しても、三上照夫以外の情報が引っかかってこない。要するに、この経歴を客観的に裏づける資料が見つからないのである。
だいたい、学者であるはずなのに、著書も論文もほとんど見つからない。国会図書館サーチ、 CiNii Articles、 Google Scholar などで検索してみても、宮﨑貞行『天皇の国師――知られざる賢人三上照夫の真実』(学研パブリッシング、2014年)のほかは、明らかに同姓同名の別人の情報しか引っかかってこない。 CiNii Books では、他にエスペラントの著作がいくつか出てくるが、本人か同姓同名の別人かは確認できていない。
三上について書かれた一般書には、この宮﨑『天皇の国師』のほか、高橋五郎『天皇奇譚――「昭和天皇の国師」が語った日本の秘話』(学研パブリッシング、2012年。こちらは全くのオカルト本)がある。どちらも、三上は昭和天皇の御進講役で「天皇の国師」という異名をとった、という話が記されている(問題の講演録にはそんな話はひとことも出てこない)のだが、これまた裏づけがとれない。そのため、ここでは『天皇の国師』が、本名は「三上昭夫(てるお)」、1928年(昭和3年)生、1994年(平成6年)没としていること、「日本松栢学会」は1958年(昭和33年)に三上が組織した「学術団体」とされていること、などを紹介しておくにとどめる。
(第3回につづく)