2016年11月29日

『当世書生気質』と野口英世改名の謎(6・完)野口英世は野々口精作にならなかったか?

第1回第5回

 そもそも、『当世書生気質』が「清作」から「英世」への改名の原因になったことを知っている人間は、二人しかいないはずである。いうまでもなく、野口英世と小林栄である。

 野口が改名当時、周囲に改名の事情をどのように説明したのかは気になるところなのだが、あいにく、そのあたりは奥村鶴吉の『野口英世』にも記されていない。

 一方の小林は、『当世書生気質』が前途有望な医学生・野々口作の堕落と破滅の物語だと本気で信じていた節がある。逍遥宛の手紙で「主人公たる野々口作といふ医学生」などと書いていることからしてそうなのだが、東京歯科医学専門学校〔編・発行〕『野口英世 其生涯及業蹟』(1928年)には次のような記述がある。

 其時分清作は既に改名して居た、其の由来として小林氏の語らるゝ処によれば、清作が順天堂勤務中小林氏の御母堂[原文のママ]が腎臓病に罹り病勢軽からぬ事を聞くや、帰省して前後三十餘日熱心に看護につとめ、漸く快方に赴きたる頃一日[ある日、の意]坪内逍遥氏の書生気質と云ふ小説を繙いた処が、其中に野口清作[原文のママ]なる人物あり、初めは勉学に熱心将来に望をかけられたが後酒色に溺れ、遂に堕落し終ると云ふ筋が書てあつた。当の清作大に気持ちを悪くし遂に改名を志して之を小林氏に相談し其同意を得て英世と改めたのである。[東京歯科医学専門学校〔編〕『野口英世 其生涯及業蹟』東京歯科医学専門学校、1928年、32-33頁

 「小林氏の語らるゝ処」と言いながら小林の妻を母と取り違えるという初歩的なミスがあり、やや信頼性に疑問が残るが、どうやら、誤伝の出所として怪しいのは小林だということになりそうだ。そもそも、小林自身の回想の通りなら、彼は『当世書生気質』を野々口精作のくだりしか読んでいないはずだし、その後、再読の機会があったわけでもないようだ。

 小林栄は、教え子・野口英世の顕彰にすこぶる熱心な人物であった。これは憶測でしかないのだが、野口が世界的に有名な医学者になってのち、小林が取材に答えて改名のいきさつを語っているうちに、記憶違いや思い込みが生じた、ということではないだろうか。それをさらに、無責任な伝記作家たちが確認もせずに書いていった結果、もとの小説の内容とは全く違った話が出来上がってしまったのではないか。

 さて、野口清作改め英世は、改名を機に心機一転、これまでの行状を改めて真人間になった――といえば話は綺麗におさまるのだが、あいにく、そうはならなかった。伝記を読む限り、改名後も行状が特に変わった様子がないどころか、むしろ悪化した節がある。いったいなんのために改名したんだ、と、いぶかしくなるところである。

 1899年(明治32)5月、伝染病研究所助手として図書の管理を担当していた野口は、高額な貴重書数冊を紛失するという不祥事を起こす。奥村鶴吉は、無断で友人に貸し出したところ勝手に売り払われた、としているが、真相は不明である。少なくとも、この件で北里柴三郎所長(1853-1931)の信用を大きく損ねたのは事実のようで、野口は責任をとらされて横浜海港検疫所へ左遷されている。もっとも、月給は13円から35円に増えた。

 なお、当時の1円は現在のおよそ4000円である。もっとも、庶民レベルでの生活実感としては、その3〜4倍くらいの価値に見積もったほうがいいかもしれない。ちなみに、1897年(明治30)の巡査の初任給が9円、1900年(明治33)の小学校教員の初任給が10〜13円である(週刊朝日〔編〕『値段の明治大正昭和風俗史 上』朝日文庫、1987年)。

 同年10月、清国の牛荘[ニュウチャン](現・遼寧省海城[ハイチョン]市)でペストが発生したため、日本からも医師団を派遣することになり、北里は野口を推薦した。ところが、野口は支給された旅費96円を、出発前に借金の返済などで使い果たしてしまい、仕方なく血脇守之助に泣きついている。牛荘では月給200両[テール](のち300両に増額。当時の日本円で約300〜400円)の高級取りだったが、その月給を一晩で使い果たすほどの豪遊を繰り広げたため、ろくに貯金もできなかったという。

 1900年(明治33)にアメリカに渡った際のエピソードはさらに無茶苦茶である。義和団の武装蜂起が起こり、牛荘が危険になったため、野口は1900年6月に帰国する。この間、真面目に貯金してさえいれば渡米費用は十分に貯められたはずなのだが、なにしろ上述の通りの状況なので、ちっとも貯まっていなかった。故郷の幼馴染で資産家の息子の八子弥寿平(やご・やすへい)に無心しようとしたところ、さすがに見かねた小林栄に止められるし、北里柴三郎から金銭面での信用を失ったのが祟り、医学関係者からの出資は見込めず、八方ふさがりになってしまう。

 そこで野口は、ある資産家の娘と婚約し、その持参金200円を前借りして渡米費用にあてることにした。ところが、切符すらもまだ買わないうちに、彼は横浜で開かれた送別会で、自分の送別会なのに「僕に一切任しておいてくれ」と言い出し、一流料亭で豪遊を繰り広げたあげく、こともあろうに、肝心の渡米費用にあてるはずの金を一晩でほとんど使い果たしてしまったのである。翌日、さすがに真っ青になった彼は、東京に戻って血脇に泣きつく。さすがの血脇も、呆れかえってしばらくは二の句がつげなかったというが(当たり前だ)、いまさら渡米できない、ということになったら話がさらに面倒なことになる。やむなく血脇は高利貸しから300円あまりを借りたが、さすがにこの金を直接野口に手渡すわけにはいかず、自分で切符を買って野口に渡したという。

 この後日談がさらにひどくて、野口は結局、長いこと言を左右にしたあげく、1905年(明治38)に婚約を解消してしまうのである。婚約金300円を立て替え返済する羽目になったのは、またしても血脇であった。この金はずっと後の1915年(大正4)7月になって、野口が帝国学士院恩賜賞を受賞した際、その賞金で血脇に返済している。

 こうした一連の行状は奥村の『野口英世』に詳述されているのだが、「偉人・野口英世」のイメージに反するため、戦前に書かれた野口英世伝ではほとんど無視されるか、あるいは話を大幅にねじ曲げられていた。読者のほうも聖人君子としての野口英世像を求めるため、なかなか訂正される機会もなかったのである。戦後になると、こうしたマイナス面を含めた野口英世の全体像を描こうとする伝記も出てくるのだが、そうした側面が一般に知られるようになるのは、筑波常治『野口英世』(1969年)や秋元寿恵夫『人間・野口英世』(1971年)、そして渡辺淳一の伝記小説『遠き落日』(1975〜78年連載、1979年刊)あたりからのことだろう。

 1912年にアメリカ人女性メリー・ダーディスと結婚してからは、さすがに放蕩癖はおさまったといわれているが、金銭感覚のほうは、ついに最後まで身につかなったらしい。1915年に一時帰国した際も、すでにロックフェラー医学研究所の正員となっていたにもかかわらず、例によって旅費が捻出できず、旧知の星製薬社長・星一(ほし・はじめ。1873-1951。作家・星新一の父)に「ハハミタシ、ニホンニカエル、カネオクレ」(母見たし、日本に帰る、金送れ)と電報を送る始末であった。奥村は、「彼の財布には、どの国の金銭も決して滞在することを承知しなかつたのである」(485頁)と評している。

 ある意味で、野口英世と野々口精作には、確かに似たところがある。どちらも本人は問題だらけの人物なのに、世間にはその事実が巧妙に隠され、立派な人間だと思われている。もっとも野口英世の場合、世間に事実を隠したのは本人というよりも、世界的偉人・野口英世は非の打ちどころのない模範的人間であってほしい、と願う周囲の人間たちや伝記作家たち――そして、その読者たちだったのだが。

(おわり)

参考文献

  • 秋元寿恵夫[1969]「筑波常治著 野口英世 名声に生きぬいた生涯 “野口神話”のカラクリをあばく 類書と同じ解釈に陥った点も‥‥」『週刊読書人』第771号(読書人、1969年4月14日号)
  • 秋元寿恵夫[1971]『人間・野口英世――医学につくした努力の生涯』〔少年少女世界のノンフィクション 26〕(偕成社)
  • 『今ふたたび野口英世』編集委員会〔編〕[2000]『今ふたたび 野口英世』(愛文書院)
  • エクスタイン,ガスタフ[1959]内田清之助〔訳〕『野口英世伝』(東京創元社)
  • 奥村鶴吉〔編〕[1933]『野口英世』(岩波書店) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213588
  • 週刊朝日〔編〕[1987]『値段の明治大正昭和風俗史 上』〔朝日文庫〕(朝日新聞社)
  • 高田早苗[1927]『半峰昔ばなし』(早稲田大学出版部) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192045
  • 丹実〔編著〕[1976]『野口英世――その生涯と業績 第1巻 伝記』(講談社)
  • 筑波常治[1969]『野口英世――名声に生きぬいた生涯』〔講談社現代新書〕(講談社)
  • 坪内逍遙[1926]『當世書生気質』〔明治文学名著全集 第一篇〕(東京堂) http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/tomon/tomon_12163/
  • 坪内逍遙[1930]「野口英世博士發奮物語――見よ! この母、この師、而してこの人」『キング』第6卷第10號(大日本雄辯會講談社、1930年10月號)116-123頁
  • 坪内逍遙[1933]『柿の蔕』(中央公論社) http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/tomon/tomon_16417/ https://books.google.co.jp/books?id=wujJrVur8pgC
  • 坪内逍遙[2006]『当世書生気質』〔岩波文庫〕(岩波書店)
  • 東京歯科医学専門学校〔編〕[1928]『野口英世 其生涯及業蹟』(東京歯科医学専門学校) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177786
  • 中山茂[1995]『野口英世』〔同時代ライブラリー〕(岩波書店)
  • 滑川道夫[1978]『少年伝記 野口英世』(野口英世記念会)
  • 渡辺淳一[1990]『遠き落日 上』〔集英社文庫〕(集英社)
posted by 長谷川@望夢楼 at 02:23| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 研究は博打だ、と嘯いて競争者が見出せ無かった病原菌を次々と発見し名声を高めノーベ他の俊英がル賞すら取り沙汰された、実際はウィルス起因なので発見出来無かったのでは有るが、研究詐欺の本邦に於ける鼻祖の細かい私生活上の不行跡を詮索しても犯罪者実録の一端を読まされてる様で索莫感が。
Posted by 甕星亭主人 at 2016年12月05日 17:24
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