先述したように野口の上京は1896年9月のことだが、間もなく彼は悪癖を身につけてしまう。遊蕩癖と浪費癖、そして借金癖である。幼いころから貧乏であったにもかかわらず――というよりはむしろ、おそらくはそのせいで、彼には金銭感覚というものが全くといっていいほど身についていなかった。少しでも収入があると、すぐに友達に食事をおごったり遊里に行ったりして、あっという間に使い果たしてしまう。そして、そのたびに周囲にたかる、という行状を続けていたのである。貧農の家に育ったせいもあり、もともと幼いころから周りの友達にたかる癖があったのだが、都会にきて悪い遊びを覚えてしまい、その癖が悪化した。当然ながら悪評が立つのは避けられない。要するに、各種野口英世伝が記す「野々口精作」の行跡は、じつは、小説中の野々口精作よりも、実在の野口清作のほうによく似ていたのである。
ところが、生前から没後すぐの時期にかけて書かれた野口英世の伝記は、そのほとんどが、そうした実像を隠して、野口を、あたかも完璧な聖人君子であるかのように描くものだった。なにしろ、アメリカで自分の伝記――1921年刊の渡部毒楼(善助)『発見王野口英世』だとされる――を一読した野口英世本人が、あまりの美化ぶりに呆れかえって
「まずい本だ。あの本に書いてあるような完全な人間なんているもんか。あの本に書いてあるような完全な人間になりたいと思う者なんてないだろう。あれは人間じゃないよ。人生はあんなふうにまっ直ぐに行くもんじゃないんだ。浮き沈みがあるんだ。浮き沈みのない人生なんて作り話にあるだけだ。」[ガスタフ・エクスタイン/内田清之助〔訳〕『野口英世伝』東京創元社、1959年、226頁]
とこきおろした、というエピソードがあるくらいである。逍遥が誤解したのも無理はない(なお『発見王野口英世』では、改名の理由は「野口清作では百姓臭くて、我ながら医師のような気がしない」[渡部毒樓『發見王野口英世』伊東出版部、1921年、38頁]となっており、『当世書生気質』に関するエピソードは出てこない。これに限らず、この本にはいい加減な記述が少なくなく、野口本人が酷評したというのもうなずける)。
ちなみに、「婦人関係なぞはなかつた」というのも事実ではない。会津の会陽医院に勤務していた頃、野口は山内ヨネという女学生に恋をして、匿名でラヴレターを送ったりしている。その後、彼女は女医を目指して済生学舎に入学したため、野口と同窓になった。野口は彼女に頭蓋骨の標本をプレゼントしたり、検疫官の制服を着て気を引こうとしたりしたが、全く相手にされなかったという。とはいえ、彼女が女医となって会津に戻り、地元の医師と結婚するのは、野口の渡米後のことであり、失恋の痛手に耐えかねて渡米した、というのはさすがに作り話である。
学歴こそないものの、常に本を手放さないほど勉学熱心な医学生でありながら、同時に、その本を持ったまま、金もないのに遊郭に遊びに行ってしまう、だらしなく金遣いの荒い遊び人で借金魔、という東京時代の野口の二面性は、東京歯科医学専門学校教授の奥村鶴吉(1881-1959)が、1933年(昭和8)発行の大著『野口英世』で詳細に明らかにした。奥村は血脇守之助宅で野口と数ヶ月間同居していたことがあり、また、アメリカでも野口の世話になったことがあって、野口の行状をよく知っていたのである。この伝記は、数多ある野口英世の伝記の中でも、もっとも基本的な文献のひとつとして扱われている。
ところが、この奥村の伝記は、一方では『当世書生気質』についての誤解を助長することになってしまうのである。同書もまた、この小説の筋書きを次のように説明していたからである。
[…]その小説[『当世書生気質』]中に偶々出て来る医学書生に、彼の姓名に僅か「野」の一字加へただけの「野々口清作」[原文のママ]といふものがあつた。この野々口は、彼を知る人総てから将来を嘱望された秀才であつたが、ある機会から手もつけられぬ遊蕩児となつて、漸次堕落して行くといふ筋になつてゐた。彼[野口清作=英世]は驚愕[びっくり]して本を閉ぢた。彼と姓名が酷似するのみか、恰[あたか]も照魔鏡にかけられた如くに、彼がこの日頃、東都に於ける自分の醜態を今更の如く、まざ/\と思ひ浮べ、ぶる/\つと身震ひをして、もうそれ以上読むに堪へなかつた。[奥村鶴吉〔編〕『野口英世』岩波書店、1933年、195-196頁]
くどいようだが、『当世書生気質』には「彼を知る人総てから将来を嘱望された秀才」という描写もなければ「ある機会」についての描写もなく、「漸次堕落して行く」という描写もない。
奥村『野口英世』執筆の時点では、逍遥はまだ健在だった。奥村『野口英世』と、「ドクトル野口英世と『書生気質』」が収録された逍遥の『柿の蔕[へた]』は、じつは発行年月日が同じ(1933年7月5日)である。逍遥本人に取材してさえいれば誤解は解けただろうし、逍遥の困惑も解消されただろうと思われるのだが、奥村は、先に触れた、小林栄から提供された逍遥の手紙(1930年5月16日付)を紹介し、『当世書生気質』が1885年(明治18)発表の作品であり、名前の類似は単なる偶然である、ということを示しただけで、十分だと思ってしまったようである。逍遥が手紙で『キング』に書くつもりだ、と知らせているのに、『キング』を確認した形跡も、なにより『当世書生気質』の内容を確認した形跡もない。
奥村だけではない。その後の野口英世の伝記作家たちも、誰も『キング』を確認しようとしなかったようなのである。問題のエッセイは、丹実(たん・みのる)の大著『野口英世』(全4巻、1976〜77年)の文献目録にもない。渡辺淳一(1933-2014)による伝記小説『遠き落日』(1975〜78年連載、1979年刊)に至っては、「逍遙は英世のことを、随筆くらいでは書いたのかもしれないが、はっきりとした記録はない」などと書かれている(集英社文庫版、上巻、55頁)。どうやら、当の逍遥本人の発言であるにもかかわらず、野口英世研究者の間ではほとんど知られていないらしい。
そして、奥村が間違いを訂正できなかったこともあり、その後に書かれた数多の伝記も、この間違いをそのまま引き継いでしまうことになる。
1969年(昭和44)、秋元寿恵夫は、4月14日付『週刊読書人』に寄せた筑波常治(つくば・ひさはる)『野口英世』の書評で、「逍遥の『当世書生気質』をよくよんでみればわかる通り、野々口清作[原文のママ]はこの小説の主人公でも何でもなく、ましてや「大志を抱いて上京し、医者になるべく修業したのであったが、しだいに遊蕩に身をもちくずして、救いがたい状態に堕落していく」という筋立てでもない」ことを指摘した。このときまで、野口英世の没後40年以上、そして逍遥自身が間違いを指摘してから40年近くの間、野口の伝記作家たちは、誰も『当世書生気質』の内容を確認しなかった(あるいは、確認しても話を訂正しなかった)ようなのである。
それどころか、秋元が誤りを指摘した後も、この誤伝は長く尾を引くことになる。渡辺淳一『遠き落日』や北篤『正伝野口英世』(1980年)など、秋元の『人間・野口英世』を参考文献として挙げている伝記にすら、なぜか同じ誤りが見られる。丹実『野口英世の生涯』(1976年、丹〔編〕『野口英世 第1巻』所収)にいたっては、『当世書生気質』の野々口精作登場の場面を長々と引用している(つまり、少なくともその場面は読んでいる)にもかかわらず、「この小説が、野々口精作という医学校の生徒がしだいに堕落するという筋書」だと説明しているのである。逍遥ならずとも、「一体、どこをどう読んだのであろう?」と首をひねりたくなるところである。
この誤伝が、いつ、どのあたりから始まったのかはいまのところ不明なのだが、少なくとも野口英世の生前にすでに広まっていたことは間違いない。それどころか、生前の青少年向け読み物で広められていた話は、今よりもさらにデタラメだった。たとえば、1921年刊の『大正新立志伝』には次のようにある。
小林氏はその頃大評判の坪内逍遥博士の小説『書生気質』を一読したところが、その作中の人物に、野々口清作[原文のママ]といふ男があつて、天才肌ではあるが、後にはひどく、堕落するやうな経路が書かれてゐる。ところがその時、野々口清作[原文のママ]と呼んだ彼[野口清作=英世]は、その人物と姓名もまづそつくりで性格も多少似通つてゐるところから、小林氏は『野々口[原文のママ]もさうなつては困る。将来はどうあつても一大事業をやつて英名を世界に轟かさなければならぬ』といふので、英名の英と世界の世とを一つづゝとつて、英世と名づけたといふことである。[為藤五郎〔編〕『大正新立志伝』大日本雄弁会、1921年、36-37頁]
どうやらこの著者は、「英世」の名付け親が小林栄であることを知って、改名も猪苗代高等小学校在校時代のことだと誤解した上、『当世書生気質』を読んだのも小林栄だということにしてしまったようである。同じようなデタラメは『奮闘努力近代立志伝』(1924年)にも見られる。
坪内逍遥博士の『書生気質』を読んだものは、篇中の主人公として現はれる野口清作[原文のママ]の名を知つて居るであらう。[…]野口英世氏は、その小年[原文のママ]時代の名を野々口清作[原文のママ]と云つたのである。書生気質の主人公野々口清作[原文のママ]が天才でありながら堕落する経路を読んだ氏の恩師小林氏は、氏の将来を慮つた結果、「世界に英名を轟かす」といふ意味から英世の名に改めてくれたのであつた。[経済之日本社編輯部〔編〕『奮闘努力近代立志伝』経済之日本社、1924年、221頁]
「坪内逍遥博士の『書生気質』を読んだもの」は、まず真っ先に、野々口精作が「篇中の主人公」ではないことを知るはずである。なんのことはない、書いた本人も読んではいないのだ。
なお『当世書生気質』は、1897年(明治30)に『太陽』増刊号に再録されたのち(時期的に見て、野口が目にしたのはおそらくこの版)、30年近く再刊されなかった。おそらく逍遥が、この「旧悪全書」の再刊を嫌がったためだろう。1926年(大正15)に東京堂『明治文学名著全集』第1篇として再刊されたのちは再刊の機会が増え、『逍遥選集』別冊第1(春陽堂、1927年)、『現代日本文学全集』第2篇(改造社、1929年)、『明治大正文学全集』第3巻(春陽堂、1932年)、岩波文庫(1937年)などに再録されている。誤伝が広まった原因のひとつには、この作品が一時入手困難だったことがあるのかもしれない。
それにしても、この誤伝を広めたのは誰なのだろうか?
(第6回につづく)