逍遥の『一読三歎 当世書生気質』(いちどくさんたん とうせいしょせいかたぎ)は、最初、「春のやおぼろ」(春廼舎 朧)名義で、1885年(明治18)6月から翌1886年(明治19)1月にかけて分冊形式で刊行された(全17号)。坪内逍遥の最初の小説で、『小説神髄』(1885年9月〜1886年3月刊、執筆は『当世書生気質』より前)で逍遥が主張した近代的リアリズム小説論の実践篇、という意味合いを持っている。当時、逍遥は満26歳。3年前に東京大学文学部政治科を卒業したばかりであり、東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師をつとめていた。
文学史的な位置づけから言えば、この小説は日本初の近代小説になりそこねた作品、とでも言えるだろうか。『小説神髄』の実践篇といいながらも、江戸の戯作文学の影響が色濃く残っているからである。文体も、会話文では当時の話し言葉が用いられているが、地の文はいまだ文語体である。言文一致体リアリズム小説の完成は、2年後に発表された二葉亭四迷『浮雲』(1887〜89年)まで待たなければならない。
逍遥自身は後年、『当世書生気質』や『小説神髄』などの初期作品を自ら「予の旧悪全書」と自嘲し、再刊を嫌がった。『逍遥選集』(春陽堂、1926〜27年)刊行の際にも再録を渋ったが版元に押し切られ、「別冊」に収めている。なお、逍遥の全集は2016年現在も刊行されておらず、この『逍遥選集』が事実上の全集となっている。
『当世書生気質』は、東大在学時代の学友たちの言動を下敷きにして書かれており、登場する書生たちは、作中では私塾(私立の専門学校)の学生という設定になっているが、実際のモデルは東大の学生である。当時、日本国内の大学は東京大学ただ一校のみであり(「帝国大学」になるのは1886年)、その学生はエリート中のエリートであった。
時代設定は作品発表より3年前の明治15年(1882年)、つまり逍遥の在学時代(逍遥は「明治十四五年」としているが、作中で登場人物が明治15年4月の板垣退助遭難事件に言及する場面があるため、明治15年と特定できる)。東京の飛鳥山で、ある大学の書生たちが運動会を開いた際に、その一人である小町田粲爾(こまちだ・さんじ)が、田の次(たのじ)という芸妓と偶然に再会する場面から話は始まる。じつは、田の次は本名をお芳(よし)といい、粲爾の父で明治政府の役人だった浩爾(こうじ)と、その妾(めかけ)で元芸者のお常が、ふとした偶然から拾った孤児で、粲爾とは兄妹同然に育てられてきたのである。ところがその後、浩爾が失職したため妾を囲っておくことができなくなり、お常はやむなく芸者に戻り、お芳にも同じ道を歩ませることになった。そういうわけで、幼馴染同士の粲爾と田の次は互いにひかれあっているのだが、事情を知らない周囲から見れば、前途ある学生が女遊びにうつつをぬかしているようにしか見えない。そのせいで粲爾は次第に追い詰められていく。
いっぽう、粲爾の学友で資産家の息子である守山友芳(もりやま・ともよし)には、明治元年(1868)の上野戦争の際、生き別れになった妹、おそでがいた。友芳は、これまた偶然に出会った皃鳥(かおどり)という遊女が、実は妹なのではないか、と疑い始める。
以上の本筋と並行して、気ままでお調子者の倉瀬蓮作(モデルは逍遥自身に、別の友人を足し合わせたものという)、飄々とした、自他ともに認める奇人の任那透一(にんな・とういち)(モデルはジャーナリストの山田一郎)、スイカを拳割りする粗野な男で、男色家の桐山勉六(モデルは三宅雪嶺だとする説があるが、逍遥は否定している)、その友人で知恵もなければ勇気もない須河悌三郎(すがわ・ていざぶろう)、などといった一癖ある書生たちの行状記が次々と語られてゆく。最後は、田の次ことお芳こそが守山友芳の本当の妹であることが明らかになり、大団円を迎える。
さて、問題の野々口精作はというと、全20回(章)のうち第6回「詐[いつわり]は以て非[ひ]を飾るに足る 善悪の差別[けじめ]もわかうどの悪所通ひ」だけに登場する。この回は1885年8月に刊行された。以下、岩波文庫版によって見ていく。
「年の頃は二十二三、ある医学校の生徒にして、もう一二年で卒業する、野々口精作といふ田舎男」。帰省から帰ってきたばかりのこの男が、友人の倉瀬蓮作とばったり出会い、池之端(現・東京都台東区、上野不忍池の周辺)の「蓮玉」という蕎麦屋(実在の蕎麦屋で、正確には「蓮玉庵」といい、当時は上野不忍池のほとりにあった。現在は池之端仲町通りに移転)で一杯やる……というだけの話である。じつのところ、この場面は本筋とまったく関係ない。
野々口は倉瀬に対して、帰省中「親類の野郎共めが、皆々我輩を信用して、倅共[せがれども]を三人まで今回我輩に委託したぞ。蓋[けだ]し東京へ帰つて後も、同じ所に下宿をして我輩の薫陶を受[うけ]させいたといふ請願サ」とこぼす。というのも、見かけは質素というより粗放磊落で、自分ではぬけぬけと「謹直方正の人間」と言い張るこの男、じつはとんだ放蕩者で、おまけに嘘つきだからである。たとえば、父親に金をせびる口実がなくなったので、病気を装おうとして、酒を六合も飲んだ上に「下谷からお茶の水まで」(約4km)全力疾走した上で病院に駆け込んだという。それでもこの男、「我輩は親の金はつかふけれど、別にたいした外債も醸[かも]さないぞ。それでも五十円位はあるが」と語る。なにしろ、彼の通っている学校には他にもひどい借金魔がおり、筆頭は2000円なので、50円というのは少ない方なのである。
貨幣価値の計算は難しいのだが、1881年頃の1円は、だいたい現在の4000〜5000円くらいになる。つまり50円は20〜25万円、2000円は800〜1000万円くらいとなる。
ただしこの男、放蕩ぶりを隠すのが巧妙な偽善者で、「校長も証人も親父も阿兄[あにき]も、各々我輩を信用して、曽[かつ]て疑ふもの一人もなしサ。金を送つてよこせというてやれば、安心して送つてよこすし、証人の所へ頼んでも、疑はないで貸してよこすぞ」とうそぶく。野々口が倉瀬をさそって遊郭へ向かう、というところで第6回は終わる。まさしく、「いつわりはもって非を飾るに足る、善悪のけじめも若人(わこうど)の悪所通い」(「わからない」と「若人」をかけている)というサブタイトル通りの、猫かぶりの小悪党の話である。なお逍遥は、「本篇(第六回をいふ)中の書生の如きは、決して上流の書生にあらねば、看客[みるひと]其積[そのつもり]にして読みたまへ」とわざわざコメントしている。
その後、野々口は二度と再登場しない(名前だけは第7回と第18回下で言及されている)。最終回(第20回)のエピローグで、次のように語られているだけである。
野々口はいかにしけん、池の端[第6回の場面]以来倉瀬もきかず、放蕩家[ほうたうもの]などと悪くはいへど、野々口の如きは利発者[りはつもの]なり、あの術[て]でお医者さまになつたる時には、屹度[きっと]甘くやるに相違ないとは、是又倉瀬の独断論なり。蓋し保証[うけあ]はれぬ話にこそ。
- 『一讀三歎 当世書生氣質』第五號(晩青堂、1885年8月)
- 『一讀三歎 当世書生氣質』第十七號(晩青堂、1886年1月)
確認しておこう。各種野口英世伝が伝える「野々口精作」像のうち、田舎から東京に出てきた放蕩者の医学生、という設定までは確かに合っている。しかし、それ以外は全くのデタラメで、まず主人公ではないどころか、本筋と何一つ関係のない一端役にすぎないし、将来を楽しみにされている真面目な人物という描写は一切なく、最初から放蕩者として登場する。堕落のきっかけが語られることもないし、何より、周囲から見捨てられる場面など存在しない。むしろ、その放蕩ぶりを学校や親族や保証人には巧妙に隠しており、友人からは「放蕩者といえば悪くきこえるが、地は利発者だから、無事に医者になった際には案外うまくやるかもしれない」と思われているのである。
(第4回につづく)