2016年11月24日

『当世書生気質』と野口英世改名の謎(2)野口清作が野口英世になるまで

第1回

 まず、野口英世の改名の、正確ないきさつを確認しておこう。

 野口清作(英世)は1893年(明治26)3月、数え年18歳(満16歳)で猪苗代高等小学校を卒業した後、会津若松の会陽病院に勤務し、医師としての修業を始めることになった。当時の制度では、医学校を卒業しなくとも、医師開業試験に合格することで医師免許を得ることができた。医師開業試験は前期と後期の2回があり、それぞれ1年半以上(つまり計3年以上)の「修学」が受験資格とされていたが、実際にはかなりルーズで、病院での徒弟修業なども「修学」として認められていた。

 1896年(明治29)9月、野口は数え年21歳(満19歳)で勉学と医術開業試験受験のため上京し、10月に前期試験に合格した。その後、会陽医院時代に知り合った高山歯科医学院(のち東京歯科医学院、東京歯科医学専門学校を経て現・東京歯科大学)講師の血脇守之助(ちわき・もりのすけ)(1870-1947)を頼りながら勉学を続け、翌1897年(明治30)5月に医術開業試験の予備校である済生学舎(日本医科大学の間接的な前身)に入学、10月に後期試験に合格し医師免許を得ている。その後、ひとまず高山歯科医学院講師となり、11月に順天堂病院に助手として就職、1898年(明治31)10月に伝染病研究所(伝研、現・東京大学医科学研究所)に移籍した。その後、海港検疫官補などを歴任したのち、1900年(明治33)12月、数え年25歳(満24歳)のときに渡米した。その後は1915年(大正3)に一時帰国しただけほかは、死去するまで海外で過ごしている。

 野口が改名を決意したのは1898年夏、順天堂病院在籍中のことである(伝研在籍中としている文献があるが、これは奥村鶴吉〔編〕『野口英世』が、伝研移籍を誤って1898年4月としたことの影響と思われる)。小林栄の後年(1939年)の回想によれば、改名のいきさつは次のようなものだったという。

 丁度[ちょうど]その頃、私[小林栄]の家内が病気にかゝつた。なか/\なほらない。それは腎臓病であった。博士[野口清作=英世]の方へ報知したれば、心配して大家の説だの、薬等を送ってよこして居ったが、なか/\はかどらない。とても耐[こら]へられないで、[野口本人が猪苗代に]やって来た。日夜看病に尽力、まことに親切であった。

[…]流石の病気もだん/\よい方になって、先づ安心といふ事になった。当時の野口清作、少し退屈を催してあったのか、どこからか小説の様なものをもって来て、見て居ったが、はったと刺激を受けて歎息と憤慨との様子があらはれた。彼いふには、「先生大変なことが出来ました。この本を見て下さい。実に残念で堪へられません。」腕組になって、切歯扼腕といふ有様であった。

「何事であるか。」「この本を見て下さい。大変な事です。」

「そんな厚い本を見てゐられない。」「いや、すこうし見て下さるとわかる。」

 それは坪内逍遙博士の『当世書生気質』といふ本であったが、見たところがなるほど驚いた。

「これは貴様が悪い事をした事を坪内先生に見つけられたのであらう。」

「決してわたしではありません。決して致しません。」

「然しそれはどうもあやしい。『野々口精作』医学生、天才肌の将来有望なる青年とある。どうもお前の事によくあたってをるではないか。これは坪内先生が見たやうに思ふがどうだ。」

「私に似てをるから、私は残念でたまりません。決して私ではありません。残念でたへられないから、何とかして下さい。」

 顔色をかへて奮激してをる。詐[いつわ]りでないやうに思はれた。[小林栄「野口英世の思出」丹実〔編著〕『野口英世――その生涯と業績 第1巻 伝記』講談社、1976年、所収、231-232頁]

 40年以上も経ってからの回想を口述筆記したものなので、内容の正確さには多少疑問がある。たとえば「野々口作」とあるが、後で触れるように、小林は後年(1930年)に逍遥本人から指摘されるまで、ずっと「野々口作」だと思い込んでいたのである。また、野々口精作は確かに医学生だという設定だが、「天才肌の将来有望なる青年」などという話は作中には一切出てこない。ついでながら、逍遥が文学博士となったのは、実際には翌1899年である。

 小林は『当世書生気質』の具体的な内容を説明していないので、野口がいったい何に憤慨したのか、この記述からはさっぱりわからない。野口清作と名前のよく似た野々口精作という人物が、あまり良くない役回りで登場するらしい、ということがわかる程度である。この話からすると、どうやら野口清作青年は、野々口精作登場の場面までを読んで憤激し、小林にその部分だけを読むように求めたらしい。つまり、二人とも小説を最後まできちんと読んだ形跡がないのである。

 小林は野口が野々口のモデルなのではないかと疑い、野口はやけに必死になってそれを否定しているのだが、そもそも、『当世書生気質』は1885〜86年(明治18〜19)に分冊形式で発表され、1886年に単行本にまとめられたものである。執筆時の逍遥が、当時満8歳の小学生だった野口清作の名前を知り得たはずもない。いうまでもなく、単なる偶然の一致である。なお、野口が目にしたのがどの版かは不明である。10年以上も前に出版された小説をなぜ読む気になったのかも不明なのだが(「知人から薦められて読んだ」としている文献もあるが、小林の回想にはそのような話は出てこない)、前年に出された『太陽』博文館創業十周年紀念臨時増刊(1897年6月)に全文が再録されているので、これを読んだのかもしれない。

 引用に戻る。

「然し不思議な事だ。困った事だ。何とかするといって、名誉毀損の訴を起す訳にも行くまい。大層苦しければ、改名する外あるまい。外に工夫はない。」

「どうぞ改名して下さい。」「いや、今すぐに改名は出来ない。少し時日を待つ外ない。その中に考へて見よう。」

 それで不承々々[ふしょうぶしょう]、その話をそれまでで打ちとめた。しかし不愉快な様子をして居ったのは気の毒のやうでもあった。

 それから二三日過ぎて催促を受けた。「待て、今ちっと考へる。」

 そのあした(翌日)、

「一つ考へたが、『英世』といふことがどうかと思ふ。英といふ字は小林家の実名の頭字[かしらじ]だ、これは立派な字だ。英雄等といふ時に使ふ字だ。世の字は世界、広い意味をもってをる。さうすると、医者の英雄になって、世界によい仕事をしろといふ事になるのだ。あんまり立派すぎる。過分であらう。近頃は人間より名前が勝って、まことに不相応なをかしい事が世の中に大分にあるやうだ。お前の名もその通り、人間より名の方が立派になっては可笑しいものにならう。名負けはせぬか、どうだ。」「いや、まことに結構です。どうぞその名にして下さい。大いに奮励して名に負けないやうに致します。きつと奮励いたします。」[丹〔編著〕『野口英世 第1巻』232頁]

 小林としては、数日置いて頭を冷やさせるつもりだったのだろうが、野口は意固地になっていたらしい。

 なお、今でもそうだが、戸籍上の改名というものは簡単にできるものではなく、それなりに正当な理由というものが必要とされていた。そこで小林はからめ手を考え出す。正当な改名の理由の一つに、同じ町村内に同姓同名者がいる、というものがあったので、それを利用したのである。

 戸籍面も改名しようとして村長[野口の本籍地である翁島村の村長]に相談し、同村に同名の人をつくる事にして、蜂屋敷[現・猪苗代町大字堅田字蜂屋敷。当時は千里村所属]といふ所の佐藤清作といふ青年と、その親に頼んで、三城潟[現・猪苗代町大字三ツ和字三城潟。当時は翁島村所属。野口の出生地]の野口といふ人のうちに籍を移した。それで野口清作が同村に二人出来た。それから願って改名したのでありました。大分日数がかゝつてあった。[丹〔編著〕『野口英世 第1巻』232頁]

 さて、野口清作青年がそれほどまで憤慨した『当世書生気質』とは、どのような小説なのか?

第3回につづく

posted by 長谷川@望夢楼 at 19:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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