野口英世(1876-1928)は出生時の戸籍名を「清作」といい、1898年(明治31)、数え年23歳のときに「英世」と改名した(正式に戸籍名を改めたのは翌1899年10月)。「英世」という名を考案し、戸籍名変更のために尽力したのは、清作の猪苗代高等小学校(現・猪苗代町立猪苗代小学校)時代の恩師、小林栄(1860-1940)である。
ついでながら、もちろん本人は「ひでよ」のつもりでいたし、英語論文でも Hideyo Noguchi と署名していたのだが、生前、この名前は、日本ではもっぱら音読みで「えいせい」と読まれていた。
この改名が、坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)(1859-1935)の小説『当世書生気質』(とうせいしょせいかたぎ)(1885-86)の影響だ、という話はつとに知られている。この小説に、「野口清作」と酷似した「野々口精作」(「清」ではなく「精」であることに注意)という名前の不良医学生が登場するのを苦にして改名した、というのである。
たとえば、財団法人野口英世記念会発行の『少年伝記 野口英世』(1978年)には次のようにある。
ある人が、
「清作くん、この本は坪内逍遙という人のかいた『当世書生気質』という小説だよ。よんでみたまえ、おもしろいよ」
と、本をかしてくれました。
清作はよんでいくうちに、なるほどおもしろくて、ぐんぐんとひきいれられていきました。小説の中に、自分とよくにた名の医学書生がでてくるからです。「野々口精作」といって、自分の名まえ、「野口清作」によくにています。
[…]
よみすすんでいくうちに、清作は、だんだんいやな気持ちになってきました。小説にでてくる主人公の「野々口精作」は、みんなから、しょうらいをたのしみにされていたのに、あるつまらない事件から、だんだんわるくなって、とうとうさいごには、だれからもあいてにされなくなってしまうという、すじだったのです。
清作は、名まえがにているばかりでなく、医学書生であることなども、なんだか、自分のことがかかれた小説のようにおもえました。
「先生、この『当世書生気質』をよんで、すっかりかんがえてしまいました。どうも、ぼくによくにているところあるし、それに、清作という名もよくないなあ。ぼく、なんだか、この小説の清作になりそうな気がします。」
「あはは、なにをくだらないことをいうのだ。しっかりしたまえ。しかし、それほど気にかかるなら、名まえをかえてみたまえ。改名をするんだよ。」
小林先生が、わらいながらいいました。[滑川道夫『少年伝記 野口英世』野口英世記念会、1978年、79-80頁]
野口英世の伝記類には、これと同じような記述がしばしば見られる。ところが、じつは、ここに紹介された『当世書生気質』の内容は全くのデタラメなのである。確かに、野々口精作という名前の男が登場することは事実である。しかし、まず、この男は主人公ではなく、本筋と無関係な場面にチョイ役で登場する人物にすぎない。しかも、この男は最初から最後まで、猫かぶりの堕落したお調子者として描かれている。地元ではきちんとした学生を装っているらしいので、「みんなから、将来を楽しみにされていた」というのは当てはまるといえなくもない。しかし、作中で「あるつまらない事件」が起こることはなく、したがって「だんだん悪くなって、とうとう最後には、誰からも相手にされなくなってしまう」ということもない。
医師・医学史家の秋元寿恵夫(1908-94)は、1971年(昭和46)に出版した少年少女向け伝記『人間・野口英世』の中で、「『当世書生気質』のどこをさがしても、野口の伝記作者がひきあいにだしているような話は、いっさい見あたらないのです」「べつに野々口は、この小説の主人公でもなんでもないのです」と指摘している。野口英世の伝記類でこの誤りを指摘したのは、この秋元の本が最初と言われている。どうやら、それまでの伝記作家たちは、そもそも『当世書生気質』の内容を確かめてすらいなかったようなのである。
いい加減な話なのだが、いったいなぜこんなことになったのだろうか?
(第2回につづく)