2010年05月05日

日本側の新聞報道に見る桂林号事件

 「消えたハワイ・クリッパー飛行艇」で簡単に触れた桂林号事件(1938年8月24日)について、『新聞集成昭和編年史 十三年度版III』(新聞資料出版、1991年)に収録にされた、日本の新聞に報じられた日本側の公式発表に基づいて、事件の概略を見てみることにする。もちろん、当時の公式発表が信頼できるか、といえば、そんなことは決してないのだが、当時の日本側が認めた事実だけからも、この事件の性格をある程度うかがうことはできる。なお、引用文は資料性に鑑み、漢字を新字体に置き換えたほかは訂正を加えていない。

 まず状況を確認しておく。1938年(昭和13)8月から10月にかけて、日本軍は武漢作戦・広東作戦を並行して行い、華南各地で中国軍と激しい戦闘を繰り広げた。この時点では香港(当時イギリス領)は戦場にはなっていないが、その周辺は戦場になっていたわけである。なお、この直前に日本軍は広東(広州)爆撃を行っており、戦略爆撃による非戦闘員を巻き込んだ無差別殺戮として国際的批難を浴びている。

 1938年8月24日朝、中国航空公司(中航、 CNAC)のダグラス DC-2 旅客機「桂林号」(Kweilin)が、香港から武漢に向かう途上、マカオ附近で珠江に不時着し、乗員・乗客17名中14名が死亡ないし行方不明となる、という事件が起こった。犠牲者の中には、浙江財閥の大物であった徐新六(1890-1938)と胡筆江(1881-1938)が含まれていた。徐は浙江興業銀行董事長兼総経理、胡は中南銀行総経理・交通銀行総行董事長であり、二人とも重慶で開かれる予定の銀行家大会に出席する予定だった。

 この事件について、中国側は、同機は日本海軍機の不法射撃にあったものである、と発表した。これに対し日本海軍当局は、中国側の「デマ」に反論する、として次のような発表を行った(『東京日日新聞』8月26日付夕刊「支那のデマ粉砕/海軍機の行動当然/ダグラス機遭難事件」。〔…〕は引用者註)。

同日午前九時頃香港西方約卅浬〔30海里=約56キロメートル〕珠江上空を飛行中のわが海軍航空隊の水上機部隊が大型機一機を認めたるところ、同機には第三国旗及び赤十字旗のマークを付してをらず、且〔か〕つわが部隊を逃避せんとしたのでそれを敵機と認め追撃すると澳門〔マカオ〕北方廿浬〔20海里=約37キロメートル〕の河中に不時着したので直ちに低空飛行を試み、仔細に検査したるところ、同機の右翼上に漢字をもつて『郵』と認めてあつたので直ちに攻撃を中止して基地に帰還したものである、当時の情況によれば旅客機なることを判断し得ず、かつ珠江付近は純然たる作戦地帯にしてわが方の行動は理の当然といふべきである

 要するに、「たしかに日本軍側が攻撃したのは事実だが、それは中国軍機と誤認したからである。交戦区域を目立つ標識もつけずに飛んでいる方が悪い!」というわけである。“不時着”の原因を作ったのが日本側にあることは明らかで、なにが「デマ粉砕」なのかよくわからないのだが、とにかく、不法ではないし、わざとでもない、ということらしい。

 事態はこれだけでは済まなかった。当時の中航は中国政府(蒋介石政権)とパン・アメリカン航空(パンナム)の合弁企業で、資本の55%は中国政府、45%はパンナムの出資であった。そして、桂林号の操縦士もアメリカ人であった。そのため、8月26日にアメリカ側は公文をもって抗議を申し入れてきた。

 これに対し、8月31日、外務省情報部は、調査の結果明らかになったとする当時の状況を発表している(『大阪朝日新聞』9月1日付朝刊「わが海軍機の措置不当に非ず/中国航空公司機不時着事件/米の申入れに回答す」)。

現地状況 本月〔1938年=昭和13年8月〕二十四日帝国海軍機五機は粤漢線〔粤漢(えつかん)鉄路。武漢・広州間を結ぶ鉄道路線。「粤」は広東省の別名。現在は京広鉄路の一部〕方面に向つて進航中たま/\午前九時三十分淇澳島〔きおうとう。珠江河口にある島。→ Google マップ〕上空においてその北方約二千メートルの辺りに突如高度約二千メートルをもつて西方に向ひ飛行中の標識不明の大型陸上機を発見せるをもつてこれを確認すべき近接高度をとりたり、しかるに右大型機はわが海軍機の近接を認むるや急に方向を西北方に転じ全速力をもつて断雲〔ちぎれ雲〕中に逃避せり、叙上近接行動は該機確認の目的をもつてなされたるものなるが左のごとき逃避運動を見るにおよんでわが方は既往数次の事例に鑑みこれをもつて我が艦艇攻撃乃至〔ないし〕偵察の目的をもつて来襲したる敵機に相違なしと判断し雲の上方に二機、下方に三機を配し右敵機を攻撃するの姿勢をとりたり、間もなく下方に待機中の我が海軍機は右敵機を前方に発見したるをもつて直〔ただち〕にこれを追躡〔ついしょう。追跡〕しつゝ攻撃を加へたるに同機はなほも盛んに断雲を利用して逃避せんと試みたるも我が方の追躡急なりしため遂に横門溪口〔珠江デルタの河口の一つ。→ Google マップ〕の西方十六キロの中洲の南側江中に着水するに至れり、わが飛行機は最初六型陸上機を発見してよりその逃避するを敵機として追躡し遂にその着水するに至るまで概ね右敵機の後方に位置しをりたるため視認状況不良にして終始該機を敵機と認めをりしものなるも右敵機が着水するやわが海軍機は状況確認のため下降し該機の上空に近接しその機種を判別し得る状態となりたるところその機種に疑義を抱くに至りたるをもつて直ちに攻撃を中止したり
状況右の如く該機着水後わが方はその機種につき疑惑を持つにいたるまでには多少の時間ありしを以てその間(極めて短時間)引続き攻撃を加へたる飛行機あるもその機体については絶対に射撃を行はざりしものなり、次いでわが海軍機は高度を二〇メートルまで下げて着水敵機を偵察せるところはじめて該機が金属製ダグラス型旅客機にして何らの塗粧標識を有せず、たゞ『郵』の記号を右翼上面および右側胴体に記入せられをるを認めたるをもつてそのまゝ引揚げたり、なほ着水機上には操縦者一名と後方客席入口附近に乗客二、三名あるを認めたるも着水地位が陸岸に近かりしより見てこれら人員は対岸に泳ぎつきたるものと推定したる次第なり

 つまり「まぎらわしい行動をとった方が悪い」「確かに着水後も攻撃は続けた。しかし、それは誤認に気付かなかったためだし、機体は撃っていない」「乗員乗客は助かると思ったからそのまま見捨てた」というわけである。

 8月31日付の日本側の対米公式回答は次のようなものであった(前掲『大阪朝日新聞』による、一部のみ抜粋)。

〔…〕査するに本件は我が方作戦行動区域内において〔…〕支那軍軍用機と紛らはしき行動を取りたる中国航空公司所属の航空機が帝国海軍機によりて敵機と認められて追躡および攻撃を受けたるにより発生したるものにしてその結果アメリカ市民たる同公司所属操縦士が危険に遭遇し、また非戦闘員たる乗客乗員に死傷を生じたることは遺憾とするところなるも、叙上の事実に鑑み帝国政府としてはわが海軍機の取りたる行動は不当にあらずとなすものにして、また右航空機の所属会社が支那国の法人たるにかんがみ直接第三国との間に問題を生ずべき事案にあらずとの見解を持する事態に有之候〔これありそうろう〕、〔…〕

 さて、これに懲りて少しは慎重になったのか、と思うと、桂林号事件から半月も経たないうちに、今度は欧亜十五号事件が引き起こされている。

 9月5日朝、欧亜航空公司(Eurasia Aviation Corporation)の香港発昆明行きユンカース旅客機「欧亜十五号」が、広州市北方の広東省源潭附近(→ Google マップ)で、粤漢鉄路を攻撃中の日本軍機から攻撃を受けた。同機は広西省中部の柳州(→ Google マップ)に不時着、乗員乗客7名は全員無事であった。欧亜航空はルフトハンザドイツ航空と中国側の合弁企業であったため、日本は、今度はドイツの抗議を受けることになる。

 同日、外務省は次のような談話を発表する(『東京朝日新聞』9月7日夕刊「無通告で飛んでまた旅客機事件/外務省真相を発表」)。

〔…〕我が方は先に香港総領事から飛行のコース、出発時間、操縦士の国籍等を予め通知されたい旨を欧亜航空公司に対し通告しておいたが右の事項を通知し来たる事実なく従つて同日も平常コースを辿[たど]りたるや否や判明せず、尚今月三日東京駐在ドイツ大使館附武官から我が海軍に対し欧亜機の保護につき申入れあつたが航空安全保障は困難なりと拒絶した事情もある、従つて航空機側に於いて航空安全を望むならば周密なる手配をすべしと言ふべきである

 9月6日、大本営海軍報道部長は次のような談話を発表した(『大阪朝日新聞』9月7日付朝刊「わが飛行圏内で旅客機の安全保証し難し/海軍報道部長談を発表」)。

〔…〕
そも/\『わが飛行機の行動する地域においては支那旅客機の飛行に対しその安全を保障する能はざること』は九月三日外務省より帝国政府の見解として発表せられたるところにして、右は空中においては旅客機と軍用機との識別極めて困難なること、支那飛行機は従来しば/\広東湾その他の方面においてわが方を攻撃偵察したること、並[ならび]に旅客機といへどもそのまゝ軍用に供し得ることなどに鑑み当然のことなりと認む
帝国海軍はもちろん支那旅客機を故意に攻撃する意思なきも既往二回の経験により旅客機と軍用機との識別殆[ほと]んど不可能なるにかんがみ支那旅客機の安全に関しては前記帝国政府の見解によるのほかなきを痛感する次第なり

 要するに「安全を保障できないから飛ぶな」ということである。

 結局、この一件はうやむやのうちに片づけられてしまったようである。

※なお、ハーグ空戦法規案(The Hague Rules of Air Warfare, 1922-23. 条約としては成立しなかったが、慣習法としてしばしば参照される)第33・34条には、次のような規定がある。

ARTICLE XXXIII: Belligerent non-military aircraft, whether public or private, flying within the jurisdiction of their own State, are liable to be fired upon unless they make the nearest available landing on the approach of enemy military aircraft.

【第33条】自国の管轄下を飛行している交戦国の非軍用航空機は、政府機・民間機を問わず、敵国の軍用航空機が接近してきた際には、可能な限り最も近くに着陸しなければ、攻撃をまぬがれることができない。

ARTICLE XXXIV: Belligerent non-military aircraft, whether public or private, are liable to be fired upon, if they fly (1) within the jurisdiction of the enemy, or (2) in the immediate vicinity thereof and outside the jurisdiction of their own State, or (3) in the immediate vicinity of the military operations of the enemy by land or sea.

【第34条】交戦国の非軍用航空機は、政府機・民間機を問わず、(1)敵国の管轄下を飛行しているか、(2)自国の管轄外の最も近い空域を飛行しているか、(3)敵国が地上ないし海上で軍事作戦をとっている最も近い空域を飛行している場合、攻撃をまぬがれることができない。

 桂林号事件が最終的に不問に付されたのは、この影響もあるようである。

posted by 長谷川@望夢楼 at 09:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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