1962年(昭和37)から1963年(昭和38)にかけて千葉県知事をつとめた、加納久朗(かのう・ひさあきら、1886-1963)という人物がいる。
父の加納久宜(かのう・ひさよし、1847-1919)は上総一宮藩*1の最後の藩主で、のち子爵となり、鹿児島県知事(在任1894-1900)、一宮町長(在任1912-19)を歴任している。久朗自身は横浜正金銀行*2のロンドン支店支配人、取締役などを歴任、戦後は日本住宅公団*3の初代総裁(在任1955-59)を経て、1962年(昭和37)の千葉県知事選挙に自民党の支援を経て立候補、現職の柴田等を破り当選。しかし、就任当時すでに70代の高齢ということもあり、在任わずか110日で急逝している。
*1 現在の千葉県長生郡一宮町を中心とした藩。 *2 1880年から1946年まで存続した半官半民の外国為替専門銀行。現在の三菱東京UFJ銀行の前身のひとつ。 *3 現在の独立行政法人都市再生機構の前身のひとつ。
さて、その加納が1959年(昭和34)10月に時事通信社より上梓した、『新しい首都建設』という書がある。加納は、この前年に東京湾の大規模埋め立てによる新首都建設を提唱しており、本書はこの計画の解説書となっている。
まず、加納が提唱する埋め立て計画は次のようなものである(〔…〕内は引用者註。強調は引用者による。以下同じ)。
まず、いまの晴海埠頭を頂点として、一方は千葉県の富津岬まで一直線に線をひいて、その内側、つまり千葉県寄りを全部埋立ててしまう、この埋立てによって二億四千三百〔万〕坪すなわち約八百三平方キロの土地が新たにできる。もう一方は同じく晴海から羽田岬まで直線を引いて、神奈川県寄りを埋立ててしまう、これで九百五十万坪約三十一平方キロの土地ができるから、両方合わせて、二億五千二百五十万坪すなわち約八百三十四平方キロの土地を新たに造成しうる計算になる。これは現在の東京二十三区の面積一億七千五百万坪にたいして、実にその約一倍半の面積をつくることになるわけである。〔p. 29〕
つまり東京湾の東半分をすべて埋め立てるというプランなのである。そして、この埋立地に皇居を含め首都機能を移転し、新首都「ヤマト」*4を建設する。また、富津岬附近に国際空港を設置する。水資源は利根川上流に沼田ダム*5を建設し、さらに霞ヶ浦と印旛沼を貯水池化することによってまかなう。
*4 この呼び名については、次のような「ある人」の提案を受け入れたのだという。「〔「東京」という名は〕中国の真似である。こんどは新しく、民主的でかつ国際的な首都をつくるのだから、必ずしも「新東京」という名称に固執する必要はない。そこで日本本来の名称である「ヤマト」と呼ぶことにしたらどうか、というのである」(p. 26)。 *5 群馬県沼田市一帯を日本最大級の巨大ダム湖とする構想。建設省関東地方建設局の正式な事業であったが、地元の猛反対により1972年(昭和47)に白紙撤回された。→ Wikipedia:沼田ダム計画
なお、産業計画会議*5が1959年(昭和34)7月29日に発表した『東京湾2億坪埋立についての勧告』(ネオトウキョウプラン)は、加納が中心となって取りまとめたものである。やはり大規模埋め立て計画ではあるが、加納自身の「ヤマト」プランとは内容が異なっている。ちなみに、現在の東京湾アクアラインへとつながる東京湾横断堤・横断橋構想は、この計画の中で提唱されたものである。
*5 “電力の鬼”の異名をとった実業家、松永安左エ門(1875-1971)が主催したシンクタンク。なお、『東京湾2億坪埋立についての勧告』と同時に、沼田ダムの建設を提唱した『東京の水は利根川から』も発表されている。
では、これだけの大規模埋め立てに使う土はいったいどこから持ってくるのか。
しかしなんにしても、これだけの埋立てをやるに必要な土の量は、ちょっとやそっとのことではない。そこで私は、房総半島の山々をとり崩して、その岩石や土砂を埋立てに使うのが、あとでも述べるように一石二鳥でも三鳥でもあって、一ばんいいと考えている。〔pp. 42-43〕
房総丘陵の山々を埋め立てに利用する、というのは、1960年代の埋め立てにおいて実現することになる。しかし、加納の案が凄いのはそこからである。
まず鹿野山〔かのうざん。現・君津市にある山〕である。鹿野山の付近は雑木林が多く、小さい山々が起伏しているが、一ばん高い鹿野山でも三百六十メートル〔現在の地形図では 379m〕にすぎない。この付近の土は、赤土と砂利がまじったものであって、これを崩すのはむずかしいことではない。つぎは鋸山〔のこぎりやま。現・富津市と鋸南町の境界にある山〕である。これも高さはわずか三百二十五メートル〔現在の地形図では 329.5m〕である。ただ鋸山の方はほとんど全山が水成岩から成っているので、この山を崩すには従来のようなダイナマイトによる爆破方法ではなく、核爆発によって山全体をゆるませ、岩石を掘りとるという方法を考えている。この核爆発を利用する方法は、アメリカがソビエトの了解のもとに、一九六〇年にアラスカで核爆発による築港工事を行なうことを計画しているが、アメリカの科学者の調べによると、ダイナマイトを使ってやると五千六百万ドルもかかるものが、核爆発を利用すると五百万ドルの費用ですむ計算になるという。また放射能は地下爆発の場合、すべて岩と土砂が吸収してしまうから、人体への害にはならない。したがって、鋸山の爆破にこれを利用することは可能であり、合理的である。〔p. 43〕
正直いってこの箇所を読んだときは唖然とした。観光名所である鹿野山や鋸山を崩して埋め立てに使う、というプランもさることながら、それに核爆発を用いる、という豪快さが凄まじい。
「アラスカで核爆発による築港工事」とは、「チャリオット計画」(Operation Chariot またはプロジェクト・チャリオット Project Chariot)のことと思われる(→ Wikipedia: チャリオット作戦)。“水爆の父”エドワード・テラーの提唱によるもので、水爆を用いて掘り込み式の港を作る計画であったが、地元の猛反対などにより1962年に中止に追い込まれている。
核爆発を土木工事に利用することは「平和的核爆発」と呼ばれ、冷戦期に米ソをはじめ各国で研究が進められた。特にソ連では大々的に実験が進められたものの、放射能汚染問題がついに解決できずに終わっている。貯水湖として作られたはずだったが、放射能汚染で使い物とならなくなった、セミパラチンスク核実験場(カザフスタン)の「原子の湖」ことチャガン湖などがよく知られている。また、1970年代には、クラ地峡(マレー半島の付け根にある地峡、タイ領)を水爆で掘削し、運河を作るという計画が問題になったことがある。
で、山を取り崩して平たくなった房総半島は、大規模農地として活用する、というプランなのだが……。
加納のこのプランは、その後のさまざまな首都機能移転構想や東京湾大規模開発構想の原形となった。言うまでもなく、加納のプランが実際に実行されることはなかった。とはいえ、加納の後継者である友納武人知事(1914-99, 在任1963-75)のもと、千葉県では大規模埋め立て事業が次々と実施される。全域の 3/4 が埋立地からなる浦安市、全域が埋立地からなる千葉市美浜区などが典型的であろう。そして結果的に、千葉県内では自然海岸のほとんどが消失し、次々と山が削られ、後には農地ではなく、大量のゴルフ場が残されることになったのである。
それにしても、実際に鋸山が水爆で取り崩されるようなことがなかったのは幸いだった、というべきだろう。
読んでみたのですが大変面白かったです。
少し前のアニメに東京湾埋め立て計画と
いうのがあったけど、それを上回る核工事とは
昔(という程でもないか)の人は夢があった
というか、夢で溢れかえっていたのですね。
あるいは60年代というのは未来や科学という
言葉に夢が見れた時代だったのか・・
いずれにしても千葉に首都移転はどうやら
夢のまた夢のようですね
かわりにグーグルのマップで見るとつぎはぎの
ように確かに千葉県はゴルフ場だらけ・・・
良い機会ですので「皇国史観という問題」を
図書館で借りて読んでみたいと思います
(すみません貧乏なんです)
埋め立て自体は戦前から行われていますが、湾の半分以上を埋め立てるほどの大規模開発の言いだしっぺが加納久朗であることはまず間違いないでしょう。その後の丹下健三(「東京計画1960」1961年)や黒川紀章(「東京計画2025」1987年)などの計画も、おそらくこの影響下に出てきたものと思われます。
ちなみに、書き忘れていましたが、加納久朗は麻生太郎首相の大伯父にあたるそうです。
>図書館で借りて読んでみたいと思います
どうもありがとうございます。いちおう学術書ですので、気が向いたら、ということでいいですよ。