あらかじめ念のためにいっておくが、実際に一部着工されながら未成線に終わった「成田新幹線」(東京――成田空港間)とは全く別のモノである。
『千葉日報』1969年(昭和44)1月1日付朝刊に、「千葉県の未来図 二十年後の郷土の姿」と題された地図が掲載されている。千葉県が同年3月に公式に策定することになる「千葉県長期計画」に基づいた将来の千葉県の予想図である。
この地図には、房総半島を横断する「房総新幹線」なるものが描きこまれている。この「新幹線」は、「東京湾横断堤」から木更津を経て鴨川に至る、というルートをとっている。
この路線について、『千葉県新長期計画書』(千葉県企画部企画課=編集・発行、1969年3月)には、
「東京湾房総横断路線
東京湾横断橋,横断堤の完成に伴い鉄道を敷設するとともに,都心と南房総,九十九里地域を直結する木更津―茂原,木更津―鴨川線等地域開発路線の建設を促進する。
このうち鴨川―東京間については,新幹線方式の採用を検討する。」(p. 240.)
とある。なお「千葉県新長期計画」は、基準年次を昭和40年(1965年)、目標年次は昭和60年(1985年)とする計画であった。
ここで、「東京湾横断橋」「東京湾横断堤」は、ともに東京湾環状道路計画の一環として計画された路線である。「横断堤」は川崎〜木更津間をつなぐ堤として計画されたもので、のちに東京湾アクアラインという形で実現することになる。また「横断橋」のほうは、富津岬から浦賀水道をはさんで三浦半島に至る橋として計画されたもので、のちの「東京湾口道路」計画とほぼ同じものである。
つまり、ここでは川崎〜木更津間の「横断堤」上に新幹線を走らせ、さらに、その延長として、鴨川まで新幹線を通す、という案だったわけである。
木更津から鴨川方面へは、途中まで久留里線が伸びているが、これとは別の路線とする案であったようである。いずれにせよ、鴨川まで新幹線を通すためには、房総丘陵をむりやり、ほとんど直線状に突っ切る必要がある。
はっきりいって、どこまで本気だったのかよくわからない計画である。安房鴨川は現在でも東京から特急で2時間半かかる遠隔地だが、新幹線の建設・維持費用に見合うだけのメリットがあるとも思えない。高度経済成長期の夢のかけらと考えるべきなのだろう。
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