少し古いニュースですが、今年の3月、三重県桑名市教育委員会の調査により、水谷新六の出生が判明した、という報道がありました。
「南鳥島を発見、開拓/「水谷新六」は桑名出身」(『伊勢新聞』2008年3月6日付)
〔…〕一昨年に東京都公文書館で、昨年国立公文書館で海外旅券の申請書と、戸籍簿を発見。〔…〕
海外旅券の申請書によると、「三重県伊勢国桑名郡桑名村二十六番地」とあり、生年月日は嘉永三(一八五〇)年三月五日と明記。戸籍簿には「明治二十八年十一月一日相続三重県桑名郡益生村字益生平民川上松蔵次男入籍」と明記され、生年月日は嘉永三年三月三日とあった。
日付は違うものの嘉永三年三月生まれであったことが分かり、新六は島の発見届を提出した時四十七歳であったことが判明した。また新六は結婚していたことも判明。資料によると「明治三十年九月十七日(東京府)本所柳島町十番地久下彦右衛門長女 なを」とあり、「なを」という女性と入籍していたことが分かった。なをは当時三十二歳だった。
さらに「川上松蔵の二男」と明記されていたこと、益生村の出身であることなどが分かった。
また、別の書類に新六の大正四年付の自著があることから六十五歳までは生存していたことも確認した。市教委によると水谷新六は川上松蔵の二男で、水谷家に養子に入り、東京へ出て呉服商に従事していたのだろうといい、幕末から明治にかけて「益生村」に住んでいたと思われる「川上松蔵」氏の子孫、縁せき、知り合いからの情報がほしいとしている。また新六の妻「久下彦右衛門長女なを」の情報もほしいとしている。
これまで竹下源之介「南鳥島占領秘話――米の野望砕いた水谷新六」(『週刊朝日』1943年9月12日)に基づいて嘉永6年(1853)生まれとしていたんですが、じつは嘉永3年(1850)生まれだったとのこと。
ちなみに、水谷には南鳥島の開拓者という側面のほか、スペイン領時代(1899年まで)のミクロネシア交易の開拓者、という側面もあります。そちら方面からの解明も期待したいところ。
「グランパス島」もいろいろ書き直したいところはあるんだけれど……。