2017年01月24日

『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(6)戊辰戦争は英仏両国の代理戦争だった?!

第1回第5回

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

 そろそろこの講演のテクニック、というよりトリックに気づかれた方がおられるかもしれない。「マッカーサーは『天皇は20個師団に匹敵する』と言った」「『食糧危機で一千万人が餓死する』という話が出た」「共産党員がデモで『ナンジ人民飢えて死ね』というプラカードを掲げた」――いずれも、それ自体はきちんとした出所がある話であり、聞き手が知っててもおかしくない。そうした、そこそこ有名な話を持ち出しておいて、全く事実と異なる方向に話をねじ曲げるのである。そして、そのようにしてすり替えられた話を、「皆様方もよくご承知の通りであります」「我らの記憶に新しいところであります」などと、さも相手が知っているような、自信たっぷりの口ぶりで語る。聞き手のほうは、自分がなんとなく知っている話に詳しい説明が加えられるので(実は全くのデタラメなのだが)、騙されやすくなるというわけだ。

 引用を講演の前のほう、幕末の話に戻してみる。幕末、駐日イギリス公使ハリー・パークスが薩長側、駐日フランス公使レオン・ロッシュが幕府側にそれぞれ肩入れしていた、という話は有名なので、戊辰戦争がじつはイギリスとフランスの代理戦争だった、といわれると、なんとなく納得したくなる。ところが、三上の説明は、次のようなとんでもないデタラメなのである。

 皆様方、明治維新の戦いいいますと、薩摩の長州の連合軍と、幕府軍との戦いであると、おたがいは習いました。でも、歴史はそのような甘いものではなく、当時の日本に対する干渉は、フランスから初まり[原文のママ]ました。時の小栗上野介は、フランスから三〇万フランの金を借り、第一回の長州征伐、フランスの武器弾薬で成功したのです。[32頁]

 第一次長州戦争(元治元年7〜12月/1864年8月〜65年1月)は「征討」「征伐」「戦争」などと呼ばれているが、長州藩は幕府と交戦する前に恭順の意を示しており、実際には戦闘に至っていない。だから「フランスの武器弾薬」など使っているはずがない。だいたい、フランス公使ロッシュが幕府に肩入れするようになるのは、1864年12月(元治元年11月)に幕府から製鉄所・造船所の建設斡旋を依頼されてから。つまり第一次長州戦争よりも後である。

 「30万フラン」の根拠もよくわからない。小栗忠順(上野介)は1866年(慶応2)にフランスの経済使節クーレと600万ドルの借款契約を結んでいるが、その後、フランス本国の政策変更にともない、この契約は事実上破棄されている。

日本の国をフランスに取られると心配した、いわゆる英国は、薩長に呼びかけました。残念ながら、高杉晋作の率いまする騎兵隊[おそらく「奇兵隊」の誤り]の教官も、○に十の字の薩摩の教官も、英国人でした。第二回の長州征伐が成功しえなかったのは、フランスの武器弾薬に対し、英国の武器弾薬がすぐれて居ったからです。[32頁]

 薩長両藩にイギリスが武器を売っていたところまでは事実だが、両藩にひそかにイギリス人教官が潜入していた、という史料があるのだろうか? 開港後も、外国人は原則として開港場の外国人居留地に閉じ込められており、自由旅行ができたのは居留地の周辺10里四方までで、その外側への立ち入りは厳しく制限されていた。外国人の旅行制限が撤廃されたのは、1899年(明治32)のことである。

ヨーロッパの人達は、明治維新の戦いは、薩摩と長州と幕府との戦いと見ず、英仏戦争、クリミア戦争が、日本の頭上に於いて行われたものと考えています。[32頁]

 クリミア戦争(1853〜56)は戊辰戦争(1868〜69)の10年以上前であり、しかも英仏戦争ではなく、ロシアとオスマン朝・イギリス・フランスおよびサルデーニャの連合軍が戦った戦争である。そもそも英仏両国は、1815年にナポレオン戦争が終結して以後、ほとんど戦争らしい戦争をしていない。むしろ、この時期の両国は、クリミア戦争をはじめ、第2次アヘン戦争(アロー戦争、1856〜60)や下関戦争(1864)など、共同歩調をとることが多かった。

[日本は]実にあの時代英、仏から狙われて危ない立場に置かれておりました。その証拠に、薩長に武器弾薬を送らんといたします、英国の輸送船並びに護衛艦が、幕府に武器弾薬を送らんといたします、フランスの輸送船並びにその護衛艦と、オホーツク海並びに太平洋上に於いて、海戦をやっております。これが、殆んと[原文のママ]子供の歴史に出てこんのです。[32頁]

 そんな話は大人向けの歴史書にだって出てこないし、出てきてもらっては困る。そんな事実は存在しないからである。クリミア戦争において、ロシア海軍と英仏連合軍が日本近海での戦闘を繰り広げた、という事実があるのだが、もしかしたらその話を何か勘違いしたのかもしれない。

 なお、ロッシュ公使の政策は、当初はフランス本国のドルーアン・ド・リュイス外相の外交方針に沿ったものであった。ところが1866年9月、ド・リュイスはメキシコ干渉戦争(1861-67)の失敗が原因で更迭されてしまう。その後に外相になったリオネル・ド・ムスティエは政策を対英協調路線に転換し、1867年5月、ロッシュに詰問的な訓令を発した。それでもロッシュは幕府支持を続けたが、結局、幕府は崩壊し、ロッシュ自身も1868年6月(慶応4年5月)に罷免され、帰国している。フランス軍事顧問団として来日したジュール・ブリュネらのように、箱館戦争で旧幕府軍とともに戦ったフランス人もいるが、これはあくまで例外である。日本が英仏の侵略を受けかけていた、という話に持っていきたいのだろうが、根本的なところが間違っているのだからお話にならない。

陸軍と言わず、海軍と言わず、はたまた日本独自の天皇制に至るまで、英国の立憲君主制を、確かに物真似しようとした歴史的事実は、ゆがめられんようであります。[32頁]

 日本海軍が参考にしたのが英国海軍だったのは事実だが、陸軍が参考としたのは当初はフランス、ついでドイツである。また、大日本帝国憲法がドイツ帝国憲法(ビスマルク憲法)に影響を受けたのは、いまさらあらためて断るまでもあるまい。

第7回につづく)

posted by 長谷川@望夢楼 at 18:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 疑似科学・懐疑論・トンデモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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