- 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。
皆様方、日本は八千万といいました、どう計算しても八千万はおらないでしょう。如何です、一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太を初め、凡てを差し引いて、どうして八千万でしょうか、実は六千六百万しかいなかったのです、それを敢えてマッカーサーが八千万として食糧をごまかしてとってくれたのでした。つまりマッカーサーは、陛下のその御人徳に、いわゆる触れたからでした。大統領は、日本に一千万の餓死者を出すべし、マッカーサーに命令が来ておったので。ただ一言、マッカーサーは、「陛下は磁石だ、私の心を吸いつけた」。彼は食糧放出を陛下の為に八千万の計算で出し、それがばれたのが解任の最大の理由であったことが真相であります。[43-44頁]
三上は自信たっぷりに6600万人だと言いきっているが、果たして実際にそうだったのだろうか?
『国勢調査』を確認してみよう。『昭和25年国勢調査報告』によれば、内地(沖縄県除く)の現住人口の推移は次の通りである。
1940年10月1日 | 72,539,729 |
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1944年2月22日 | 72,473,836 |
1945年11月1日 | 71,998,104 |
1946年4月26日 | 73,114,136 |
1947年10月1日 | 78,101,473 |
1950年10月1日 | 83,199,637 |
1945年の時点で約7200万人。三上の挙げた数字より600万も多い。注意していただきたいのは、終戦後に外地から大量の引揚者があったため、人口が急増し、戦後わずか2年で約7800万人に達していることである。つまり、引揚者を考慮に入れれば、8000万人というのはべつに過大な数字ではないのだ。
三上は1億−3400万=6600万、という計算をしている。3400万という数字の根拠は不明だが、外地総人口3200万+戦死者200万として計算したものと思われる。しかし、根本的な間違いは、帝国総人口を1億としたところにある。じつは、1940年の国勢調査では、約1億500万人という数字が出ているのである(『官報』1941年4月18日付発表)。
もちろん、マッカーサーが1951年4月に連合国軍最高司令官を解任されたのは、食糧問題などが理由ではない。朝鮮戦争(1950〜53)に際し、国連軍総司令官として中国本土に対する直接攻撃を主張し、本国のトルーマン大統領と対立したからである。
だいたい、仮に人口の水増し工作を行ったところで、それが統計局の公表するデータと合わなければ、一瞬にして工作がバレてしまうではないか。
それでは「大統領は、日本に一千万の餓死者を出すべし、マッカーサーに命令が来ておった」というのは何なのだろうか?
1945年の日本は記録的な凶作に見舞われた。7〜8月には北日本を中心に大冷害が発生し、さらに9月中旬には枕崎台風が西日本を襲った。これに加えて戦争による肥料・資材・労働力の不足、そして経済的混乱なども農業生産にも大きなダメージを与えた。この年の水稲の作況指数はじつに 67 (1a 当たり収量 208kg, 収穫量582万3000トン)、つまり平年の約 2/3。農業恐慌といわれた1934年ですら全国の作況指数は 85 であり、いかに深刻な事態かがうかがわれる。しかも、敗戦によって植民地からの米の輸入が断たれる一方で、大量の引揚者が内地に戻ってくることになった。これに加えて敗戦による流通の混乱、どさくさまぎれの物資の隠匿なども加わり、日本近代史上最悪の食糧危機が引き起こされることになる。
1945年10月15日、渋沢敬三大蔵大臣は、UP通信のインタビューに答えて次のように語っている。
日本は現状のまゝ行けば、来年度において餓死、病気などで死亡する者約一千万を出さねばならないのではないかと思ふ、それは食糧難、住宅難、また病院医療施設の不足から来るもので、過去十年以上に亘つた戦争の結果かくも国力は消耗しつくしたのである[『朝日新聞』1945年10月17日付]
これが「一千万人餓死説」と呼ばれるものである。要は、援助を引き出すための半ば脅迫めいた発言なのだが、じつのところ、あながち荒唐無稽な誇張とも言い切れない状況であったことも事実である。1945年11月18日付『朝日新聞』は、「始つてゐる『死の行進』/餓死はすでに全国の街に」と題して、終戦後3ヶ月ですでに多数の餓死者が出ていることを報じている。たとえば東京都下谷区60人以上(都全体では不明)、名古屋市72人、大阪市196人、神戸市148人、といった具合である。
おそらく、「日本に一千万の餓死者を出すべし」という話の元になったのは、この「一千万人餓死説」だろう。何がどうねじ曲がったらそうなるのかは想像もつかないが。
なお、 GHQ/SCAP は、しばらくの間、日本側の食糧援助要求に応じていない。たとえば、12月には公衆衛生福祉局長クロフォード・F・サムスが「一日千五百[キロ]カロリー以上を供給するだけの食糧の手持は十分ある」「いまのところ日本人が飢餓に瀕している兆候はない」と声明している(『朝日新聞』1945年12月22日付)。援助が本格的に始まるのは、翌1946年春、食糧事情がさらに深刻化してからのことである。つまり三上の話の通りなら、9月に天皇に感激したはずのマッカーサーは、半年も食糧援助を滞らせたことになってしまうのである。
(第5回につづく)