2017年01月19日

『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(4)マッカーサーは日本の総人口を水増して失脚した?!

第1回第3回

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

 皆様方、日本は八千万といいました、どう計算しても八千万はおらないでしょう。如何です、一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太を初め、凡てを差し引いて、どうして八千万でしょうか、実は六千六百万しかいなかったのです、それを敢えてマッカーサーが八千万として食糧をごまかしてとってくれたのでした。つまりマッカーサーは、陛下のその御人徳に、いわゆる触れたからでした。大統領は、日本に一千万の餓死者を出すべし、マッカーサーに命令が来ておったので。ただ一言、マッカーサーは、「陛下は磁石だ、私の心を吸いつけた」。彼は食糧放出を陛下の為に八千万の計算で出し、それがばれたのが解任の最大の理由であったことが真相であります。[43-44頁]

 三上は自信たっぷりに6600万人だと言いきっているが、果たして実際にそうだったのだろうか?

 『国勢調査』を確認してみよう。『昭和25年国勢調査報告』によれば、内地(沖縄県除く)の現住人口の推移は次の通りである。

1940年10月1日72,539,729
1944年2月22日72,473,836
1945年11月1日71,998,104
1946年4月26日73,114,136
1947年10月1日78,101,473
1950年10月1日83,199,637

 1945年の時点で約7200万人。三上の挙げた数字より600万も多い。注意していただきたいのは、終戦後に外地から大量の引揚者があったため、人口が急増し、戦後わずか2年で約7800万人に達していることである。つまり、引揚者を考慮に入れれば、8000万人というのはべつに過大な数字ではないのだ。

 三上は1億−3400万=6600万、という計算をしている。3400万という数字の根拠は不明だが、外地総人口3200万+戦死者200万として計算したものと思われる。しかし、根本的な間違いは、帝国総人口を1億としたところにある。じつは、1940年の国勢調査では、約1億500万人という数字が出ているのである(『官報』1941年4月18日付発表)。

 もちろん、マッカーサーが1951年4月に連合国軍最高司令官を解任されたのは、食糧問題などが理由ではない。朝鮮戦争(1950〜53)に際し、国連軍総司令官として中国本土に対する直接攻撃を主張し、本国のトルーマン大統領と対立したからである。

 だいたい、仮に人口の水増し工作を行ったところで、それが統計局の公表するデータと合わなければ、一瞬にして工作がバレてしまうではないか。

 それでは「大統領は、日本に一千万の餓死者を出すべし、マッカーサーに命令が来ておった」というのは何なのだろうか?

 1945年の日本は記録的な凶作に見舞われた。7〜8月には北日本を中心に大冷害が発生し、さらに9月中旬には枕崎台風が西日本を襲った。これに加えて戦争による肥料・資材・労働力の不足、そして経済的混乱なども農業生産にも大きなダメージを与えた。この年の水稲の作況指数はじつに 67 (1a 当たり収量 208kg, 収穫量582万3000トン)、つまり平年の約 2/3。農業恐慌といわれた1934年ですら全国の作況指数は 85 であり、いかに深刻な事態かがうかがわれる。しかも、敗戦によって植民地からの米の輸入が断たれる一方で、大量の引揚者が内地に戻ってくることになった。これに加えて敗戦による流通の混乱、どさくさまぎれの物資の隠匿なども加わり、日本近代史上最悪の食糧危機が引き起こされることになる。

 1945年10月15日、渋沢敬三大蔵大臣は、UP通信のインタビューに答えて次のように語っている。

日本は現状のまゝ行けば、来年度において餓死、病気などで死亡する者約一千万を出さねばならないのではないかと思ふ、それは食糧難、住宅難、また病院医療施設の不足から来るもので、過去十年以上に亘つた戦争の結果かくも国力は消耗しつくしたのである[『朝日新聞』1945年10月17日付]

 これが「一千万人餓死説」と呼ばれるものである。要は、援助を引き出すための半ば脅迫めいた発言なのだが、じつのところ、あながち荒唐無稽な誇張とも言い切れない状況であったことも事実である。1945年11月18日付『朝日新聞』は、「始つてゐる『死の行進』/餓死はすでに全国の街に」と題して、終戦後3ヶ月ですでに多数の餓死者が出ていることを報じている。たとえば東京都下谷区60人以上(都全体では不明)、名古屋市72人、大阪市196人、神戸市148人、といった具合である。

 おそらく、「日本に一千万の餓死者を出すべし」という話の元になったのは、この「一千万人餓死説」だろう。何がどうねじ曲がったらそうなるのかは想像もつかないが

 なお、 GHQ/SCAP は、しばらくの間、日本側の食糧援助要求に応じていない。たとえば、12月には公衆衛生福祉局長クロフォード・F・サムスが「一日千五百[キロ]カロリー以上を供給するだけの食糧の手持は十分ある」「いまのところ日本人が飢餓に瀕している兆候はない」と声明している(『朝日新聞』1945年12月22日付)。援助が本格的に始まるのは、翌1946年春、食糧事情がさらに深刻化してからのことである。つまり三上の話の通りなら、9月に天皇に感激したはずのマッカーサーは、半年も食糧援助を滞らせたことになってしまうのである。

第5回につづく)

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『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(3)マッカーサーは昭和天皇を逮捕するつもりだった?!

第1回第2回

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

 三上照夫の講演録はいちおう時系列順に沿ってはいるのだが、どこをとっても滅茶苦茶な内容なので、最初に、ネット上で最も広まっているのではないかと思われる、昭和天皇=マッカーサー会見に関する箇所を取り上げることにしたい。

陛下に対する占領軍としての料理の仕方は四つありました。一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にかける、一つは共産党をおだてあげて人民裁判の名に於いて、これを血祭りにあげる、三番目は中国へ亡命させて、中国で殺す、そうでなければ、二〇個師団の兵力に相当するかと脅えた彼等です。それとも暗から暗へ、一服もることによって陛下を葬るこどありました。いずれにしても陛下は殺される運命にありました。[42-43頁]

 1948年7月9日付『朝日新聞』は、アメリカ紙に載ったウィリアム・シムスなる評論家の評論の要旨を掲げており、その中に次のようなくだりがある。

マックアーサー元帥は天皇の精神的勢力は悪にも善にも利用できるとの意見を抱いており、天皇の存続はマックアーサー元帥にとつて廿ヶ師団にも匹敵する価値があるとみるべきものである、

 つまり、「天皇は20個師団に匹敵する」というのは、「天皇を占領統治に利用しなければ20個師団もの軍事力が必要になる」という意味であって、間違っても「天皇は20個師団並みに危険な存在」という意味ではない。当然、そんな理由で天皇殺害計画が立てられたはずもない。

皆様方、[昭和天皇が]九月二十一日ただ一人の通訳、武藤さんをつれて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。[43頁]

 まず日付が間違い。昭和天皇=マッカーサー第1回会見は1945年9月27日。また、通訳の名前も全然違う。実際の通訳は外務省参事官の奥村勝蔵である。奥村は、この会見の記録を「「マッカーサー」元帥トノ御会見録」(以下、《御会見録》と略記)として書き残した。1975年、ノンフィクション作家の児島襄(1927-2001)がこの記録を『文藝春秋』11月号に発表する。児島が入手元を公表しなかったせいもあり、その内容が正確かどうかは長い間不明であったが、2002年に外務省が『朝日新聞』の請求に応じて情報公開を行い、本物のほぼ正確な写しであったことが確認されている(『朝日新聞』2002年10月17日付夕刊)。

ついてに天皇をつかまえるべき時が来た、二個師団の兵力の待機をマッカーサーは命じました。陛下は命ごいに来られたものとの勘違いをし、マッカーサーは傲慢無尊にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶が終わり、「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命に於いて凡てが行われました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません、絞首刑は勿論のこと、如何なる極刑に処されても、何時でも応ずるだけの覚悟はあります」。弱ったのは武藤さんでした。その通り通訳していいのか。「しかしながら罪なき八千万の国民が住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」、陛下のご挨拶は淡々として……、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いといった中で、一切の責任はこの私にあります、絞首刑は勿論のこと、如何なる極刑に処せられもと申されたのは我らが天皇ただ一人だったということであります。陛下は我らを裏切らなかった。マッカーサーは驚いてスックと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせ、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーを差し上げるように」、マッカーサーは、今度は、一臣下のごとく直立不動で陛下の前に立ち、天皇とはこのようなものでありましたか、天皇とはこのようなものでありましたか、私も日本人に生まれたかったです、陛下、ご不自由でございましょう、私に出来ますることがあれば何んなりとお申しつけ下さい。陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、「命をかけて閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか、重ねて国民等の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」、マッカーサーは約束を破り、玄関まで送って出たのです。[43頁]

 「天皇とはこのようなものでありましたか、私も日本人に生まれたかったです」――これでは感激とか感服とかを通り越して、単に卑屈なだけである。

 まず、マッカーサーは天皇逮捕の準備などしていない。会見の開始状況からして大嘘で、《御会見録》によれば、2人は最初にまず部屋の入り口で握手を交わし(つまり、玄関までは行かなかったが、部屋の前までは出迎えたのである)、部屋の真ん中で写真撮影を行い、その後、マッカーサーが天皇に、ソファに座るよう勧めたという。つまり、有名な天皇とマッカーサーのツーショット写真は、会見が始まる直前に撮影されたものなのである。天皇の表情が硬く見えるのは、そのせいもあるのかもしれない。カメラマンたちが退出して3人だけになった後、天皇とマッカーサーは軽く前置きの会話を交す。それからマッカーサーは約20分間にわたり一方的な演説を行い、それが終わったあと、ようやく会談が始まったという。

 さて、この第1回会見に、大きな謎があることはよく知られている。

 マッカーサーが1964年に発表した『マッカーサー回想記』によれば、このとき昭和天皇は次のように発言したという。

「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」

 また、侍従長の藤田尚徳が1961年に公刊した『侍従長の回想』にも、《御会見録》からの要約として、次のような天皇の発言が引かれている。

「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らに責任はない。
 私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。このうえは、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」

 つまり、マッカーサーや藤田尚徳によれば、このとき天皇は自らに戦争責任があることを率直に認めたという。ところが、《御会見録》には、該当する発言は一切記されていないのである。

 可能性は三通り考えられる。(1)そもそも戦争責任発言など最初からなかった。(2)発言はあったのだが、奥村が筆記しなかった。(3)発言はあり奥村も筆記していたのだが、何らかの理由で事後的に削除された。

 『マッカーサー回想記』は公刊当時から内容に誤りが多いことが指摘されており、当事者の回想ながら信憑性は低い。いっぽう、《御会見録》は現場での逐語的な速記録ではなく、会見が終わった後で奥村が筆記したものである。そのため、奥村が書き落としたか、あるいは外務省が後から削除した、という可能性も否定できない。この点は現在も謎となっている。(以上、第一回会見については、松尾尊兊『戦後日本への出発』岩波書店、2002年、豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫、2008年、を参照。)

 しかし、昭和天皇が「八千万の国民」云々と具体的な数字を挙げてマッカーサーに援助を懇願した、などという話は、《御会見録》のみならず、他のどの文献にも出てこない。マッカーサーが初対面の昭和天皇に好感を持ったことは事実だが(自ら玄関まで送りだしたのは本当である)、三上は、いったいこんな話をどこから仕入れたのだろうか。

第4回に続く)

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『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(2)「三上照夫」とは?

第1回

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

 この講演録を読んだ時点で、ぼくは三上照夫がどこの何者かを全く知らなかった。講演録の冒頭では、その略歴が次のように説明されている。

 講師 三上照夫先生は、昭和三年[1928年]京都でお生まれになりまして、西ドイツのミュンヘン大学で(「第三の文化」についての研究で経済学博士の学位を取られ、又日本におきましては「上代史」の研究で文学博士の学位をも取られております。先生は、東京大学、京都大学、大阪大学の各大学の教授を歴任されておりまして、その折り、時の内閣であります佐藤内閣のブレーンとして活躍されて以来七代二十二年間、中曾根内閣まで、内閣のブレーン生活を送られている先生でございます。先生は、これから世の中がどうなるかという評論家的な立場ではなく、世の中をどうするかという立場に居られる先生であります。さらに先生は、大学教授二六一名で構成されております、文部省の諮問団体である日本松柏学会の会長の要職にもあられる方です。[28頁。括弧の対応が合っていないのは原文のママ。]

 2つの博士号を持ち、3つの国立大学で教え、7代22年間にわたり内閣のブレーンをつとめ、文部省の「諮問団体」の会長でもある――というからには、さぞ名のある大学者であろう、と思いたくなるところである。

 しかし、文学博士の学位は、いったいいつ、どこの大学で取得したのだろう。日本の大学に提出された学位論文のデータベースは CiNii Dissertations として公開されているが、「三上照夫」を検索しても、何も出てこない。ミュンヘン大学の方も、ドイツ国立図書館ミュンヘン大学附属図書館のオンライン目録では、それらしきものは見つからない。

 講演が行われたのが1986年だとすれば、22年前は1964年。佐藤栄作内閣(1964年11月〜72年7月)の初期にブレーンとなったことになる。しかし、公刊されている『佐藤栄作日記』の索引に三上の名前はない。この時期の大学の教員(常勤職)については年刊の『全国大学職員録』に網羅されているので、1959年版と1964年版を見てみたが、東大・京大・阪大いずれにも三上の名前は見つからなかった。「日本松柏学会」が文部省の「諮問団体」という話も裏づけがとれない(だいたい、正式な諮問機関だったら「審議会」や「委員会」とかいった名前になるはずで、「学会」と称するのはおかしい。ちなみに、「学会」という名称には特に法的な制限はなどはなく、自由に名乗ることができる)。 Google で「日本松柏学会」を検索しても、三上照夫以外の情報が引っかかってこない。要するに、この経歴を客観的に裏づける資料が見つからないのである。

 だいたい、学者であるはずなのに、著書も論文もほとんど見つからない国会図書館サーチCiNii ArticlesGoogle Scholar などで検索してみても、宮﨑貞行『天皇の国師――知られざる賢人三上照夫の真実』(学研パブリッシング、2014年)のほかは、明らかに同姓同名の別人の情報しか引っかかってこない。 CiNii Books では、他にエスペラントの著作がいくつか出てくるが、本人か同姓同名の別人かは確認できていない。

 三上について書かれた一般書には、この宮﨑『天皇の国師』のほか、高橋五郎『天皇奇譚――「昭和天皇の国師」が語った日本の秘話』(学研パブリッシング、2012年。こちらは全くのオカルト本)がある。どちらも、三上は昭和天皇の御進講役で「天皇の国師」という異名をとった、という話が記されている(問題の講演録にはそんな話はひとことも出てこない)のだが、これまた裏づけがとれない。そのため、ここでは『天皇の国師』が、本名は「三上昭夫(てるお)」、1928年(昭和3年)生、1994年(平成6年)没としていること、「日本松栢学会」は1958年(昭和33年)に三上が組織した「学術団体」とされていること、などを紹介しておくにとどめる。

第3回につづく)

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『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(1)はじめに

 以前、教育勅語関係の文献を探して、右翼的な旧軍人団体として知られる日本郷友(ごうゆう)連盟の機関誌『郷友』を見ていたときのことである。次のような記事が目にとまった。

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

 末尾に「(註)歩一〇四記念講演特集号より転載」(45頁)とあるので、歩兵第104連隊(仙台)の戦友会誌からの転載と思われる。また、「(六三・九・二一)」(45頁)ともあるので、そのまま受け取れば1988年(昭和63年)9月21日に行われた講演を文章に起こしたもの、ということになる。ただし、「昭和三年」(1928年)生まれだという講師が「現在五八歳」(45頁)と語っていることや、1986年に起きた来島どっく(現・新来島どっく)の経営危機が現在進行中の出来事として言及されていること、言及される内閣が中曽根康弘内閣までで、竹下登内閣(1987年11月発足)への言及がないことなどから、実際は1988年ではなく1986年(昭和61年)の講演だと思われる。

 三上照夫という人物は、この講演において、題名の通り「大東亜戦争は侵略戦争ではなかった」と主張している。内容的には、パル判事のいわゆる「日本無罪論」、真珠湾事件=アメリカ側陰謀説、盧溝橋事件=中国共産党陰謀説などを組み合わせたもので、1980年代当時としてもそれほど目新しいものではない(なお、南京事件や従軍慰安婦への言及はない)。何がひどいかといって、この講演、細部の事実関係がことごとくデタラメで、客観的に正しいことが述べられている箇所を見つけるほうが大変なのである。「細部の」というのは、全体的にはどこかで聞いたような話なのだが、細かいところにとんでもないウソが仕組まれている、という仕掛けになっているからである。もちろん、講演録なので講師がつい口をすべらせて話をふくらませた、というこもあるだろうし、べつに専門家のチェックを受けたわけでもないのだろうが、それにしてもひどい。

 雑誌の性格が性格とはいえ、よくもまあこんなバカバカしい講演録を載せたものだ、などと思いつつ、念のため「歩一〇四記念講演特集号」をウェブ検索してみて唖然とした。この講演を真に受けた文章が、ウェブ上に結構転がっているのである。それだけではない。この講演録には、《マッカーサーは昭和天皇との第一回会見で天皇に心服し、本国からの対日食料援助を引き出すために日本の総人口を水増しして本国に報告、それがバレて総司令官を罷免された》という荒唐無稽な話が出てくる。マッカーサー解任の時期からしてもありえない話なのだが、この話を真に受けているウェブサイトやブログもかなりあるようなのだ。他にも、《昭和天皇が戦後巡幸で最初に訪れたのは広島》(本当は神奈川県)といった、本記事が出典らしいデタラメを書いているウェブサイトがある。

 もちろん、影響力といっても限られたものではあるのだろう(と思いたい)が、ウソだ、と明言しておく意味はあるかもしれない。というわけで、この講演録の内容を検証しつつ紹介してみる次第である。

第2回につづく)

posted by 長谷川@望夢楼 at 17:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 疑似科学・懐疑論・トンデモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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