2017年01月31日

『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(10)真珠湾攻撃で最初の一発を撃ったのはアメリカ側だから、日本の奇襲攻撃ではない?!

第1回第9回

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

 真珠湾攻撃について。

 では急襲(サープライズ)、宣戦布告三十五分前に本当に攻撃したのか、さにあらず、米国は攻撃命令が出おりますのでその二時間前、日本の潜水艦と駆逐艦が攻撃され潜水艦が沈められておりますから、明らかに最初の一発はアメリカ側が早かったのでした。[35-36頁]

 真珠湾攻撃が始まったのは、1941年12月8日の日本時間午前3時19分(ハワイ時間7日午前7時49分)。野村吉三郎駐米大使がハル国務長官に日米交渉の打ち切り通告を手交したのは日本時間午前4時20分、つまり約1時間後である(よく誤解されているが、これはあくまで交渉打ち切り通告であって宣戦布告ではない。少なくとも国際法上の宣戦布告の体裁をなしていなかった。宣戦布告詔書が発せられたのは日本時間午前11時40分で、攻撃開始の8時間も後である)。「35分」というのはどこから出て来たのだろうか。

 なお、ハワイ時間6時45分頃(つまり攻撃開始の約1時間前)、アメリカ海軍の駆逐艦ウォード号(USS Ward)が、アメリカの領海内の防衛区域で国籍不明の小型潜航艇(日本海軍の特殊潜航艇と推定されている)を発見し撃沈した、という記録は確かに存在する(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ハワイ作戦』朝雲出版社、1967年、400頁。ゴードン・W・プランゲ/土門周平+高橋久志〔訳〕『真珠湾は眠っていたか II・世紀の奇襲』講談社、1986年、291-292頁。他)。ただし、潜水艦が潜航したまま領海に侵入することは、それだけで敵対行為であり、ウォード号の行動は正当防衛にあたる。しかもこの場合、本当に攻撃する気で侵入してきたのだから、先制攻撃を仕掛けたのは日本側である、ということには何ら変わりがない。このエピソードは確かに意外なものだが、ただそれだけの話なので、誰も問題にしていないのである。

 なお「潜水艦と駆逐艦が」は原文のママ。「潜水艦が駆逐艦に」なら意味が通じる。

 ところで、三上は全く触れていないが、そもそも真珠湾攻撃開始の約2時間前に、日本陸軍がマレー半島のコタバル(英領マラヤ、現・マレーシア)への奇襲上陸作戦を開始している。これが対イギリス開戦である。これが国際法違反の奇襲攻撃であったことに疑問の余地はない。イギリスに対しては事前に何の交渉もしていなかったし、事前の宣戦布告もしていなかったからである。宣戦詔書の題名は「米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書」。イギリスにも戦争を仕掛けたことを忘れてはいけない。

(第11回につづく)

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2017年01月30日

『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(9)昭和天皇は「北海道をアメリカに割譲してでも和解の道はないか」と言った?!

第1回第8回

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

 三上は、開戦を決定した御前会議について、こんな奇妙なことを語っている。12月1日、開戦前最後の御前会議の話らしい。

[…]陛下はこの期に及んでも難色を示された。武藤さん唯ひとりが陛下に迫りました。御前会議で、凡そ戦争哲学の示す処によれば、ジリ・ジリ・ジリと痛められ敵前上陸を受けて、工業施設すべてを破壊され、女・子供は強姦凌辱され、果たしてその国は立ち直れるのかねたとえ戦いに敗れてでも民族の総力を結集して打って出た国は立ち上がっている、陛下何を迷われます、御前会議の記録は明らかです、武藤さんは気の毒にこの一言で絞首刑に掛かるのでした。
 陛下は、その時一人言のように、「北海道をアメリカに割譲してでも和解の道はないか」とつぶやかれたことが記録にあります。[35頁]

 「御前会議の記録は明らかです」というが、そんな記録は存在しない

 御前会議に出席し、かつ戦犯として処刑された「武藤」といえば、武藤章(1892〜1948)しかいない。しかし、まず武藤章は当時は陸軍省軍務局長であって、陸軍大臣(東條英機)や参謀総長(杉山元)を差し置いて発言できるような立場ではない。第二に、武藤は開戦回避論者であった。そして最も重要なのは、武藤であろうが他の誰であろうが、御前会議の場で昭和天皇を説得する必要もなければ、食ってかかる意味もない、ということである。御前会議は確かに天皇臨席のもとで開かれてはいるのだが、天皇自身は基本的に発言しない習慣になっていたからだ。発言内容についての政治的責任を問われると、困ったことになるからである。この時点で開戦派が説得すべき相手は、天皇ではなく、開戦を渋っていた東郷茂徳外相や賀屋興宣蔵相ら一部閣僚たちの方だった。

 当然、東京裁判で武藤章が死刑判決を受けたのも、そんなありもしない理由からではない。実際は、近衛第2師団長(1942年4月〜44年10月)としての北部スマトラでの戦争犯罪と、第14方面軍参謀長(1944年10月〜降伏)としてのフィリピンでの戦争犯罪の責任をとらされたのである。

 さらにわけがわからないのは、昭和天皇の発言である。中国からの撤退は不可能だが、アメリカが要求してきたわけでもない北海道の割譲なら可能、というのはいったいどういうことなのだ?! どうやら三上は昭和天皇を平和主義者だと主張したいようなのだが、これではひいきの引き倒しもいいところである。

記録はこのへんで難しくなるのですが、ついに陛下のご裁可を得ず、真珠湾の攻撃をやったのが真相のようでした。[35頁]

 そんなことがあるわけがない。昭和天皇は11月5日の時点で奇襲攻撃計画を知らされており、12月1日の御前会議で対米英開戦を裁可している

第10回につづく)

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2017年01月26日

『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(8)ハル・ノートは「日本は中国に降伏せよ」という内容?!

第1回第7回

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

 いよいよ、題名の「大東亜戦争」の発端、ハル・ノートの話になる。

 さて、皆様方、この大東亜戦争十一月のいわゆる二十五日には、ハル長官から日本に無理難題が来ました。[33頁]

十一月の二十五日その中国に対して降伏せよ、日本の武装解除を行い、財産を中国に移管せよ、日・独・伊防共協定を破棄せよ、南方方面の市場、このインド方面を初め[原文のママ]とした英国の得意先に、日本の安い繊維品が出て、英国のランカシアンの織り物が売れないという経済上の立場から、日本を目の上のたん瘤にしたのは当時の英国でした。つまり南方方面の市場を放棄せよ、この五項目の内、一項目といえでも認めることは出来ないとなれば、これをもって最後通達宣戦布告に変えるという通知は、十一月の二十五日にやって参りました。[34頁]

 どうやら、これはハル・ノートのことらしい。「らしい」というのは、ハル・ノートの説明としては何一つとして正しい箇所がないからである。

 まず日付を11月25日だとしているが(しかも3回も繰り返している)、実際にハル・ノートが駐米日本大使に手交されたのは1941年11月26日日本時間27日)である。たかが1日2日の違いと思ってはいけない。後で見るように、ここの1日の違いは重要な意味があるからである。

 また、ハル・ノートは形式的には日米間の和平協定についての非公式な提案であり、日本に対する要求書ではない。もちろん、実際には提案という形式で対日要求を示したものではあるのだが、その項目数は10項目である。具体的な内容を要約すると――

  1. 英・中・日・蘭・ソ連・タイ・米各国による相互不可侵条約の締結。
  2. 米・英・中・日・蘭・タイ各国政府による、フランス領インドシナの領土主権尊重、および貿易・通商に関する平等待遇に関する協定の締結。
  3. 日本軍の中国(China)およびインドシナからの撤退。
  4. 中国において重慶国民政府(蒋介石政権)以外の政権を支持しない。(したがって、1940年に日本の支援で作られた汪兆銘政権は支持しない。)
  5. 中国における租界・居留地権益および治外法権の放棄。
  6. 日米両政府による通商協定締結のための協議開始。
  7. 日米両政府が互いに行っている資産凍結措置を撤廃する。
  8. 円・ドル為替の安定に関する協定。
  9. 日米両国のいずれかが第三国と締結した協定について、太平洋地域全般の平和確立・保持と矛盾する解釈をしない。
  10. 他国政府に対してこの協定案の基本的な政治的・経済的姿勢を遵守させる。

 見ての通り、「降伏」「武装解除」「財産移管」などといった要求はどこにもない

 三上がいっている「日・独・伊防共協定」(1937年)は、おそらく日独伊三国同盟(1940年)の間違いだろう(混同されやすいが、別の条約である)。ハル・ノートの第9項に、日米いずれかが第三国と結んだ協定について「太平洋地域全般の平和確立及保持に矛盾する」解釈を禁止する条項があり、これは日独伊三国同盟の空文化だと解釈されているが、同盟そのものを破棄せよ、という要求はしていない

 さらに「南方方面市場の放棄」というのはどういう意味なのだろうか。ハル・ノートにはインドの市場の話なんてひとこともないのだが。

 そして最も重要なのは、「一項目といえでも認めることは出来ないとなれば、これをもって最後通達宣戦布告に変える」などという文言など存在しないし、口頭でも伝えられていない、ということである。だいたい、それでは最後通牒そのものである。

 確かにハル・ノート手交の時点で、アメリカはもはや開戦は時間の問題だと見ており、だからこそあえて原則論を突きつけてきたと考えられている。ただし、それは日本側も同じである。日本海軍の機動部隊が真珠湾攻撃のために択捉(エトロフ)島の単冠(ヒトカップ)湾を出発したのは日本時間11月26日朝6時頃、つまりハル・ノートが手交される約25時間前であった(12月1日までに日米交渉が妥結すれば引き返すということにはなっていたが)。手交の日付が重要な意味を持つ、というのはこのためである(あるいは三上はこのことを知っていて、わざと1日早く偽ったのかもしれない)。

[…]インドのパルはこう申されました。このような無理難題を浴びせ掛けられたら、モナコやルクセンブルグのような小さい国でも、矛をとって立ち上がったであろうと、[…][34頁]

 これは三上だけの問題ではないが、よく誤解されている箇所なので注意しておこう。『パル判決書』の正確な文面は以下の通りである。

現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができたのである。すなわち「今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に送ったものとおなじような通牒を受取った場合、モナコ王国[原文のママ、正しくは公国]やルクセンブルグ大公国でさえも合衆国にたいして戈をとって起ちあがったであろう」。[東京裁判研究会『共同研究パル判決書(下)』講談社学術文庫、1984年、441頁]

 よく読めばわかるように、じつはこの発言はパル判事本人の言葉ではなく、他人の発言からの引用なのである(パル自身も同調していることは明らかだが)。具体的にいえば、ノック(Albert Jay Nock, 1870-1945)という人物の『メモアーズ・オブ・ア・スーパーフルアス・マン』(Memoirs of a Superfluous Man, 1943)にある発言を、東京裁判でブレイクニー弁護人が引用し、それをパルが孫引きしたのだ(須藤眞志『真珠湾〈奇襲〉論争』講談社選書メチエ、2004年、151-152頁)。

 そもそも、この比喩自体、よく考えると変である。日本が中国と仏領インドシナに出兵している、ということがハル・ノートの前提になっている。つまり、モナコやルクセンブルクがフランスに出兵して膠着状態になっているところへイギリスが文句をつけてきた、などといった前提でもつけくわえない限り、適切な比喩にならないのである。

第9回につづく)

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2017年01月25日

『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(7)盧溝橋事件は中国共産党の陰謀だった?!

第1回第6回

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

 そろそろ「大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」という本題に入ることにしよう。三上照夫は「支那事変」(日中戦争)について、日本の侵略戦争ではなかった、として次のように述べる。

ことに支那事変と言いましたら、河本大作・張作霖爆殺事件から初まって[原文のママ]、関東軍の横暴によって行われたと教えていますが、果たしてそうだったろうか。あの蘆溝橋の一発、突如として日本の陣地から銃声が響きました。慌てました日本の軍使は、何分ご内密に不心得者は処分しますからと、当然の処お詫びに参りました。その同一時刻、幸か不幸か中国の陣地から発砲がありました。中国軍、国府軍からも謝りに来た、どちらも撃ってなかった、だから歴史は難しいんです。当然の処、中立地点で両者は机を叩いて撃っていない……撃ってなかったのでした。日本軍も国府軍も、その同一時刻、日本の陣地と中国の陣地から再び銃声が響き、これが蘆溝橋の一発として支那事変に突入しました。
 皆様方、ご承知の通り、後ほど勇名をはせた「牟田口兵団」といわれた、あの牟田口氏にしても、実は日本が応戦に発砲したのは、それから二週間後でした。誰が打った[原文のママ]のか、今尚歴史は解らんのです。只、日本は打たなかった[原文のママ]。これが中国共産党史にはこう載って居ります。劉少奇の率いる便衣隊が日本の陣地と中国の陣地に於いて発砲し、見事日本と中国は噛み合うたと、恐らくこれが共産党史に載っていることが真相なんでしょう。[33〜34頁]

 まず最初の一文が変だ。これだと、「支那事変」を関東軍が引き起こしたと学校で教えているみたいではないか。

 張作霖爆殺事件は1928年(昭和3)の事件で、「支那事変」(1937〜45年)開戦の9年も前であり、直接につながる事件ではない(間接的には大きく関係するが)。三上は、その間の満洲事変(1931〜33年)の存在を完全にスルーしているのである。満洲事変は関東軍の謀略で引き起こされたことが明らかであり、擁護しづらいので、おそらくはわざと無視して、「支那事変」のきっかけとなった盧溝橋事件の方に話を持って行ったのだろう。だが、盧溝橋事件に関与したのは、関東軍ではなく支那駐屯軍。両者はまったく別である。

 三上は、盧溝橋事件は中国共産党の謀略で、中国共産党のゲリラが日本側と中国側それぞれの陣地で発砲し、日本側が中国側、中国側が日本側をそれぞれ攻撃したように見せかけた、と言いたいらしい。だが、この説明は、実際の盧溝橋事件の経過とは全く違う

 1937年7月7日夜、日本軍(支那駐屯軍歩兵第1連隊第3大隊第8中隊)が盧溝橋付近で演習を行っていた。22時30分頃、中隊長の清水節郎大尉が演習中止命令を出すため、伝令を仮設敵(もちろん日本兵である)に派遣したところ、仮設敵が誤って軽機関銃(もちろん空砲)を伝令に向かって発射した。すると22時40分頃、永定河堤防上にいた中国軍(第29軍第37師第110旅第219団第3営)の陣地側から、突如、数発の射撃があった。清水中隊長はただちに演習を中止し集合ラッパを吹かせたが、そこへ再度、十数発の射撃がなされる。清水中隊長が人員を確認したところ、1名(志村菊次郎二等兵)が行方不明となっていた。清水中隊長はただちに大隊長の一木清直少佐に、「中国兵から射撃、兵一名行方不明」と報告。23時58分頃、北平(北京)にいた連隊長の牟田口廉也大佐のもとに連絡が入る。じつは、志村二等兵は事件発生の20分後に中隊に合流しているのだが(道に迷ったとも、用便中だったともいわれる)、そのことが上層部に伝わるのは遅れ、少しの間「兵一名行方不明」という話が独り歩きしてしまう。

 日付が変わって8日早朝、不法射撃について抗議した日本側に対し、中国側は撃っていないと主張した。とはいえ、この時点では死傷者は出ておらず、単なる些細なトラブルにすぎなかった。ところが3時25分頃、一木大隊は再び3発の銃声を聞く。4時20分頃、一木大隊長から電話連絡を受けた牟田口連隊長は、これを対敵行為と見なし戦闘開始を命じた。5時30分、一木大隊はいっせいに攻撃を開始してしまうのである。

 ただし、これがそのまま全面戦争に拡大したわけではない。9日にはひとまず停戦がなされており、11日には現地で停戦協定が結ばれているからである。ところが、同じ11日、第1次近衛文麿内閣が五個師団の華北派兵を決定してしまう。じつは、日中全面戦争の引き金となったのは盧溝橋事件そのものではなく、それをきっかけとしてなされた、この増派なのである。その後、数度にわたる小衝突の末、7月26日、日本軍は北平・天津地方の占領を決定し、ここに全面戦争が始まってしまう。

 上記のいきさつからわかるように、そもそも「日本の陣地から銃声が響きました」という事実はなく(空砲誤射の件を誤解したのかもしれないが)、当然、日本側から謝罪使が出たはずもない。「日本が応戦に発砲したのは、それから二週間後」に至っては論外で(いったい2週間も何をしていたというのか?)、最初の発砲からわずか6時間後に「応戦」、というより一方的攻撃を始めている

 さて、今日に至るまで謎とされているのは、結局、日本軍に向かって発砲したのは何者なのか、ということである。これについては(1)第二十九軍兵士の偶発的発砲、(2)日本軍による自作自演、(3)第三者(中国共産党?)による謀略工作、といった説が出されている。しかし(2)(3)は今日に至るまで確実な証拠が発見されていない。なお、三上がいう『中国共産党史』なるものが、いったい何なのかは不明である。そもそも事件当時、劉少奇は北平附近にはいなかった

 中国共産党の謀略だとする説は、葛西純一(1922-?)という人物が、『新資料 蘆溝橋事件』(成祥出版社、1974年)という著作で主張したものである。葛西が1949年に中国で見たという『戦士政治課本』なる教育用パンフレットには、「七・七事変[盧溝橋事件]は劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って党中央の指令を実行したもの」と書かれていた、という。ところが、葛西は現物を持っていると主張していたものの、その写真版どころか中国語の原文すらも公開しようとせず、葛西の死後は全くの所在不明となっている(秦郁彦『昭和史の謎を追う 上』文藝春秋)。

 確かに、中国共産党は日本軍と蒋介石政権との全面衝突を望んでいた。共産党の立場からすれば、中国はすでに満洲事変によって日本に侵略戦争を仕掛けられているのであり(ただし、これ自体は蒋介石とも共通する認識である)、蒋介石がその外患よりも、内憂である共産党との戦いを優先しているのはおかしい、ということになるからである。

 しかし、深夜の、どこから誰が撃っているのかわからない銃声を、一方的に中国側の計画的攻撃だと決めつけ、怪我人すらも出ていない段階で攻撃を命じたのは、他ならぬ牟田口廉也であり、そして、止めようと思えば止められたこぜりあいを、わざわざ全面戦争にまで拡大してしまったのは、他ならぬ日本政府なのである。

[…]毛沢東は、死の迂回作戦二万マイル、冬の荒野を夏服の裸足で延安に向かって逃げたのはご承知の通り、目的地に着いたときには、二万人殆んどが餓死した。[34頁]

 一般に言われている長征の移動距離は「二万五千里」、すなわち約 1万2500km とされ、この間に30万の兵力が3万に減少したとされる。「二万マイル」(約 3万2000km)とか「二万人」というのはどこから出てきたのだろう。

[…]孫子の兵法直伝の周恩来は考えた、日本と蒋介石とを噛み合わす以外に、いわゆる共産軍の生き残る道はない。どうしたら噛み合うか、蒋介石に信任が厚くしかも日本に恨みを持っている男に、蒋介石の監禁をさせるべきだ、曰く張学良でした。のこのこと行った蒋介石は、軍剣に囲まれ、世にいうこれが、いわゆる西安の事件でした。その間に劉少奇の率いる便衣隊が、日本の陣地と中国の陣地に於いて発砲したと、共産党史にはこう書いております。皆様方、歴史の真相の難しさです。[34頁]

 「その間に」というのだから、蘆溝橋事件は西安事件の真っ最中に起こった、と三上は主張していることになる。張学良・楊虎城らが西安で蒋介石を監禁したのは1936年12月12日、周恩来らの仲介で蒋介石が解放されたのは12月25日。何をどうやったら、この2週間の間に、半年以上後の1937年7月に起こる蘆溝橋事件を引き起こすことができるというのか。どうやら「孫子の兵法」は時空を超えるらしい。なにが「歴史の真相の難しさ」なのやら……。なお、張学良は1936年夏の時点で中国共産党と秘密協定を結んでいるが、西安事件自体は張が独断で起こしたとする説が有力である。

第8回につづく)

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2017年01月24日

『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(6)戊辰戦争は英仏両国の代理戦争だった?!

第1回第5回

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

 そろそろこの講演のテクニック、というよりトリックに気づかれた方がおられるかもしれない。「マッカーサーは『天皇は20個師団に匹敵する』と言った」「『食糧危機で一千万人が餓死する』という話が出た」「共産党員がデモで『ナンジ人民飢えて死ね』というプラカードを掲げた」――いずれも、それ自体はきちんとした出所がある話であり、聞き手が知っててもおかしくない。そうした、そこそこ有名な話を持ち出しておいて、全く事実と異なる方向に話をねじ曲げるのである。そして、そのようにしてすり替えられた話を、「皆様方もよくご承知の通りであります」「我らの記憶に新しいところであります」などと、さも相手が知っているような、自信たっぷりの口ぶりで語る。聞き手のほうは、自分がなんとなく知っている話に詳しい説明が加えられるので(実は全くのデタラメなのだが)、騙されやすくなるというわけだ。

 引用を講演の前のほう、幕末の話に戻してみる。幕末、駐日イギリス公使ハリー・パークスが薩長側、駐日フランス公使レオン・ロッシュが幕府側にそれぞれ肩入れしていた、という話は有名なので、戊辰戦争がじつはイギリスとフランスの代理戦争だった、といわれると、なんとなく納得したくなる。ところが、三上の説明は、次のようなとんでもないデタラメなのである。

 皆様方、明治維新の戦いいいますと、薩摩の長州の連合軍と、幕府軍との戦いであると、おたがいは習いました。でも、歴史はそのような甘いものではなく、当時の日本に対する干渉は、フランスから初まり[原文のママ]ました。時の小栗上野介は、フランスから三〇万フランの金を借り、第一回の長州征伐、フランスの武器弾薬で成功したのです。[32頁]

 第一次長州戦争(元治元年7〜12月/1864年8月〜65年1月)は「征討」「征伐」「戦争」などと呼ばれているが、長州藩は幕府と交戦する前に恭順の意を示しており、実際には戦闘に至っていない。だから「フランスの武器弾薬」など使っているはずがない。だいたい、フランス公使ロッシュが幕府に肩入れするようになるのは、1864年12月(元治元年11月)に幕府から製鉄所・造船所の建設斡旋を依頼されてから。つまり第一次長州戦争よりも後である。

 「30万フラン」の根拠もよくわからない。小栗忠順(上野介)は1866年(慶応2)にフランスの経済使節クーレと600万ドルの借款契約を結んでいるが、その後、フランス本国の政策変更にともない、この契約は事実上破棄されている。

日本の国をフランスに取られると心配した、いわゆる英国は、薩長に呼びかけました。残念ながら、高杉晋作の率いまする騎兵隊[おそらく「奇兵隊」の誤り]の教官も、○に十の字の薩摩の教官も、英国人でした。第二回の長州征伐が成功しえなかったのは、フランスの武器弾薬に対し、英国の武器弾薬がすぐれて居ったからです。[32頁]

 薩長両藩にイギリスが武器を売っていたところまでは事実だが、両藩にひそかにイギリス人教官が潜入していた、という史料があるのだろうか? 開港後も、外国人は原則として開港場の外国人居留地に閉じ込められており、自由旅行ができたのは居留地の周辺10里四方までで、その外側への立ち入りは厳しく制限されていた。外国人の旅行制限が撤廃されたのは、1899年(明治32)のことである。

ヨーロッパの人達は、明治維新の戦いは、薩摩と長州と幕府との戦いと見ず、英仏戦争、クリミア戦争が、日本の頭上に於いて行われたものと考えています。[32頁]

 クリミア戦争(1853〜56)は戊辰戦争(1868〜69)の10年以上前であり、しかも英仏戦争ではなく、ロシアとオスマン朝・イギリス・フランスおよびサルデーニャの連合軍が戦った戦争である。そもそも英仏両国は、1815年にナポレオン戦争が終結して以後、ほとんど戦争らしい戦争をしていない。むしろ、この時期の両国は、クリミア戦争をはじめ、第2次アヘン戦争(アロー戦争、1856〜60)や下関戦争(1864)など、共同歩調をとることが多かった。

[日本は]実にあの時代英、仏から狙われて危ない立場に置かれておりました。その証拠に、薩長に武器弾薬を送らんといたします、英国の輸送船並びに護衛艦が、幕府に武器弾薬を送らんといたします、フランスの輸送船並びにその護衛艦と、オホーツク海並びに太平洋上に於いて、海戦をやっております。これが、殆んと[原文のママ]子供の歴史に出てこんのです。[32頁]

 そんな話は大人向けの歴史書にだって出てこないし、出てきてもらっては困る。そんな事実は存在しないからである。クリミア戦争において、ロシア海軍と英仏連合軍が日本近海での戦闘を繰り広げた、という事実があるのだが、もしかしたらその話を何か勘違いしたのかもしれない。

 なお、ロッシュ公使の政策は、当初はフランス本国のドルーアン・ド・リュイス外相の外交方針に沿ったものであった。ところが1866年9月、ド・リュイスはメキシコ干渉戦争(1861-67)の失敗が原因で更迭されてしまう。その後に外相になったリオネル・ド・ムスティエは政策を対英協調路線に転換し、1867年5月、ロッシュに詰問的な訓令を発した。それでもロッシュは幕府支持を続けたが、結局、幕府は崩壊し、ロッシュ自身も1868年6月(慶応4年5月)に罷免され、帰国している。フランス軍事顧問団として来日したジュール・ブリュネらのように、箱館戦争で旧幕府軍とともに戦ったフランス人もいるが、これはあくまで例外である。日本が英仏の侵略を受けかけていた、という話に持っていきたいのだろうが、根本的なところが間違っているのだからお話にならない。

陸軍と言わず、海軍と言わず、はたまた日本独自の天皇制に至るまで、英国の立憲君主制を、確かに物真似しようとした歴史的事実は、ゆがめられんようであります。[32頁]

 日本海軍が参考にしたのが英国海軍だったのは事実だが、陸軍が参考としたのは当初はフランス、ついでドイツである。また、大日本帝国憲法がドイツ帝国憲法(ビスマルク憲法)に影響を受けたのは、いまさらあらためて断るまでもあるまい。

第7回につづく)

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2017年01月22日

『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(5)昭和天皇が戦後巡幸で最初に行ったのは広島?!

第1回第4回

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

[…]陛下は母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。どうしたらいいのかと、陛下の万才[原文のママ]をさけんで死んでいった護国の英霊の労苦を労りなさい、遺家族の労苦を労りなさい、産業戦士の労苦を労りなさい、これが陛下の行幸に成ったのでした。最初の地は広島でした、原爆の地、広島でした。共産党の腕ききが、今こそ戦争の元凶である裕仁に対して、恨みを報じようではないかとビラをまき、宣伝カーで彼らは叫びました。陛下は一兵の護衛を持たず、ツギのあたった背広をお召しになり、中折れ帽をかぶって、広島の駅頭に立たれたことは、我らの記憶に新しいところであります。むしろ陛下がおいたわしかった、万才、万才の歓呼をもって迎えられました。[44頁]

 昭和天皇のいわゆる戦後巡幸は、通例、1946年2月の神奈川県(川崎・横浜)行幸に始まるとされている。最初のうちは日帰りで戻ってこれる範囲で行われていたが、同年10月の愛知・岐阜行幸からは数日間かかる日程で行われるようになる。広島県を含む中国地方への巡幸が行われたのは1947年11〜12月だし、いきなり広島に向かったのではなく、鳥取・島根・山口と回ってから広島に入っているのである。

 昭和天皇は1947年12月5日に山口県から広島県大竹市に入り、さらに宮島に渡って2泊し、12月7日、宮島から船、ついで自動車に乗って広島市内に入った。そして市内視察後、広島駅からお召し列車に乗り、呉市を視察したのち、三原市で宿泊している(『新聞集成昭和編年史 二十二年版VI』501, 511-512, 525-526頁)。だから、三上がいうように、最初に「広島の駅頭に立たれた」わけではないし、当然「我らの記憶に新しい」はずもない。だいたい「一兵の護衛を持たず」などということが現実にあり得るかどうか、常識的に考えてみればわかることである(まさか、「警官は兵隊じゃないから『一兵の護衛を持たず』という表現は正しい」とか言うつもりじゃあるまいな)。

 なお、昭和天皇が戦後巡幸を決意したきっかけは、1945年11月に行われた伊勢神宮・神武天皇陵(奈良県橿原市)・明治天皇陵(京都市伏見区)への「終戦奉告行幸」で、予想外の大歓迎を受けたことと、民間情報教育局(CIE)のK・R・ダイク局長から巡幸を薦められたことにある、といわれている(瀬畑源「象徴天皇制における行幸――昭和天皇「戦後巡幸」論」河西秀哉編著『戦後史のなかの象徴天皇制』吉田書店、2013年、所収)。

言えばやはり記録に残りましょうから、その県名と市名は申しませんが、北陸のある所に於いては、「朕はタラフク飯を食う」、「汝臣民飢えて死ね」、とのプラカードを仕立て、共産党が二千名のデモ行進をやったことは事実でした。[44頁]

 なんで場所を伏せて、秘密めかして語る必要があるのだろうか。実際は東京の、それも皇居前広場で起こった非常に有名な事件なのに。

 1946年5月19日、皇居前広場において、食糧配給遅配に対する大規模抗議デモ「飯米獲得人民大会」、通称「食糧メーデー」が開催された。参加者はじつに25万人といわれている。この事態を重大視したマッカーサーは、翌20日、「暴民デモを許さず」とする声明を発表、さらに24日には、昭和天皇が食糧危機突破のための協力を呼びかけた「第二の玉音放送」がラジオ放送されている。

 この食糧メーデーの際、ある日本共産党員が「ヒロヒト 詔書 曰ク国体はゴジされたぞ 朕はタラフク 食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」という詔書のパロディの書かれたプラカードを掲げたとして、不敬罪で起訴される、という事件が起こる。1947年の刑法改正で不敬罪が廃止されたため、この事件は不敬罪で起訴された史上最後の例として知られるが、最高裁で免訴となっている。

陛下に向かっての発砲もありました。ある八二歳の老婆が犠牲になったことも、ある中国地方の一角でありました。[45頁]

 管見の限り、戦後巡幸で実際にテロが行われた例はないはずである。探してみたが、1947年11〜12月の中国地方巡幸の際、下関で朝鮮人グループが天皇暗殺を計画したが、密告によって事前に摘発された、という記録(秦郁彦『裕仁天皇五つの決断』講談社、1984年、225〜226頁)があるぐらいである。また、1951年11月12日に京都大学を巡幸した際、学生たちのデモ隊が押しかけて騒然となる事件(京大天皇事件)が起こっているが、テロとはほど遠い。いったい、いつ、どこであった話だというのだろうか。

第6回につづく)

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2017年01月19日

『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(4)マッカーサーは日本の総人口を水増して失脚した?!

第1回第3回

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

 皆様方、日本は八千万といいました、どう計算しても八千万はおらないでしょう。如何です、一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太を初め、凡てを差し引いて、どうして八千万でしょうか、実は六千六百万しかいなかったのです、それを敢えてマッカーサーが八千万として食糧をごまかしてとってくれたのでした。つまりマッカーサーは、陛下のその御人徳に、いわゆる触れたからでした。大統領は、日本に一千万の餓死者を出すべし、マッカーサーに命令が来ておったので。ただ一言、マッカーサーは、「陛下は磁石だ、私の心を吸いつけた」。彼は食糧放出を陛下の為に八千万の計算で出し、それがばれたのが解任の最大の理由であったことが真相であります。[43-44頁]

 三上は自信たっぷりに6600万人だと言いきっているが、果たして実際にそうだったのだろうか?

 『国勢調査』を確認してみよう。『昭和25年国勢調査報告』によれば、内地(沖縄県除く)の現住人口の推移は次の通りである。

1940年10月1日72,539,729
1944年2月22日72,473,836
1945年11月1日71,998,104
1946年4月26日73,114,136
1947年10月1日78,101,473
1950年10月1日83,199,637

 1945年の時点で約7200万人。三上の挙げた数字より600万も多い。注意していただきたいのは、終戦後に外地から大量の引揚者があったため、人口が急増し、戦後わずか2年で約7800万人に達していることである。つまり、引揚者を考慮に入れれば、8000万人というのはべつに過大な数字ではないのだ。

 三上は1億−3400万=6600万、という計算をしている。3400万という数字の根拠は不明だが、外地総人口3200万+戦死者200万として計算したものと思われる。しかし、根本的な間違いは、帝国総人口を1億としたところにある。じつは、1940年の国勢調査では、約1億500万人という数字が出ているのである(『官報』1941年4月18日付発表)。

 もちろん、マッカーサーが1951年4月に連合国軍最高司令官を解任されたのは、食糧問題などが理由ではない。朝鮮戦争(1950〜53)に際し、国連軍総司令官として中国本土に対する直接攻撃を主張し、本国のトルーマン大統領と対立したからである。

 だいたい、仮に人口の水増し工作を行ったところで、それが統計局の公表するデータと合わなければ、一瞬にして工作がバレてしまうではないか。

 それでは「大統領は、日本に一千万の餓死者を出すべし、マッカーサーに命令が来ておった」というのは何なのだろうか?

 1945年の日本は記録的な凶作に見舞われた。7〜8月には北日本を中心に大冷害が発生し、さらに9月中旬には枕崎台風が西日本を襲った。これに加えて戦争による肥料・資材・労働力の不足、そして経済的混乱なども農業生産にも大きなダメージを与えた。この年の水稲の作況指数はじつに 67 (1a 当たり収量 208kg, 収穫量582万3000トン)、つまり平年の約 2/3。農業恐慌といわれた1934年ですら全国の作況指数は 85 であり、いかに深刻な事態かがうかがわれる。しかも、敗戦によって植民地からの米の輸入が断たれる一方で、大量の引揚者が内地に戻ってくることになった。これに加えて敗戦による流通の混乱、どさくさまぎれの物資の隠匿なども加わり、日本近代史上最悪の食糧危機が引き起こされることになる。

 1945年10月15日、渋沢敬三大蔵大臣は、UP通信のインタビューに答えて次のように語っている。

日本は現状のまゝ行けば、来年度において餓死、病気などで死亡する者約一千万を出さねばならないのではないかと思ふ、それは食糧難、住宅難、また病院医療施設の不足から来るもので、過去十年以上に亘つた戦争の結果かくも国力は消耗しつくしたのである[『朝日新聞』1945年10月17日付]

 これが「一千万人餓死説」と呼ばれるものである。要は、援助を引き出すための半ば脅迫めいた発言なのだが、じつのところ、あながち荒唐無稽な誇張とも言い切れない状況であったことも事実である。1945年11月18日付『朝日新聞』は、「始つてゐる『死の行進』/餓死はすでに全国の街に」と題して、終戦後3ヶ月ですでに多数の餓死者が出ていることを報じている。たとえば東京都下谷区60人以上(都全体では不明)、名古屋市72人、大阪市196人、神戸市148人、といった具合である。

 おそらく、「日本に一千万の餓死者を出すべし」という話の元になったのは、この「一千万人餓死説」だろう。何がどうねじ曲がったらそうなるのかは想像もつかないが

 なお、 GHQ/SCAP は、しばらくの間、日本側の食糧援助要求に応じていない。たとえば、12月には公衆衛生福祉局長クロフォード・F・サムスが「一日千五百[キロ]カロリー以上を供給するだけの食糧の手持は十分ある」「いまのところ日本人が飢餓に瀕している兆候はない」と声明している(『朝日新聞』1945年12月22日付)。援助が本格的に始まるのは、翌1946年春、食糧事情がさらに深刻化してからのことである。つまり三上の話の通りなら、9月に天皇に感激したはずのマッカーサーは、半年も食糧援助を滞らせたことになってしまうのである。

第5回につづく)

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『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(3)マッカーサーは昭和天皇を逮捕するつもりだった?!

第1回第2回

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

 三上照夫の講演録はいちおう時系列順に沿ってはいるのだが、どこをとっても滅茶苦茶な内容なので、最初に、ネット上で最も広まっているのではないかと思われる、昭和天皇=マッカーサー会見に関する箇所を取り上げることにしたい。

陛下に対する占領軍としての料理の仕方は四つありました。一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にかける、一つは共産党をおだてあげて人民裁判の名に於いて、これを血祭りにあげる、三番目は中国へ亡命させて、中国で殺す、そうでなければ、二〇個師団の兵力に相当するかと脅えた彼等です。それとも暗から暗へ、一服もることによって陛下を葬るこどありました。いずれにしても陛下は殺される運命にありました。[42-43頁]

 1948年7月9日付『朝日新聞』は、アメリカ紙に載ったウィリアム・シムスなる評論家の評論の要旨を掲げており、その中に次のようなくだりがある。

マックアーサー元帥は天皇の精神的勢力は悪にも善にも利用できるとの意見を抱いており、天皇の存続はマックアーサー元帥にとつて廿ヶ師団にも匹敵する価値があるとみるべきものである、

 つまり、「天皇は20個師団に匹敵する」というのは、「天皇を占領統治に利用しなければ20個師団もの軍事力が必要になる」という意味であって、間違っても「天皇は20個師団並みに危険な存在」という意味ではない。当然、そんな理由で天皇殺害計画が立てられたはずもない。

皆様方、[昭和天皇が]九月二十一日ただ一人の通訳、武藤さんをつれて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。[43頁]

 まず日付が間違い。昭和天皇=マッカーサー第1回会見は1945年9月27日。また、通訳の名前も全然違う。実際の通訳は外務省参事官の奥村勝蔵である。奥村は、この会見の記録を「「マッカーサー」元帥トノ御会見録」(以下、《御会見録》と略記)として書き残した。1975年、ノンフィクション作家の児島襄(1927-2001)がこの記録を『文藝春秋』11月号に発表する。児島が入手元を公表しなかったせいもあり、その内容が正確かどうかは長い間不明であったが、2002年に外務省が『朝日新聞』の請求に応じて情報公開を行い、本物のほぼ正確な写しであったことが確認されている(『朝日新聞』2002年10月17日付夕刊)。

ついてに天皇をつかまえるべき時が来た、二個師団の兵力の待機をマッカーサーは命じました。陛下は命ごいに来られたものとの勘違いをし、マッカーサーは傲慢無尊にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶が終わり、「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命に於いて凡てが行われました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません、絞首刑は勿論のこと、如何なる極刑に処されても、何時でも応ずるだけの覚悟はあります」。弱ったのは武藤さんでした。その通り通訳していいのか。「しかしながら罪なき八千万の国民が住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」、陛下のご挨拶は淡々として……、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いといった中で、一切の責任はこの私にあります、絞首刑は勿論のこと、如何なる極刑に処せられもと申されたのは我らが天皇ただ一人だったということであります。陛下は我らを裏切らなかった。マッカーサーは驚いてスックと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせ、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーを差し上げるように」、マッカーサーは、今度は、一臣下のごとく直立不動で陛下の前に立ち、天皇とはこのようなものでありましたか、天皇とはこのようなものでありましたか、私も日本人に生まれたかったです、陛下、ご不自由でございましょう、私に出来ますることがあれば何んなりとお申しつけ下さい。陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、「命をかけて閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか、重ねて国民等の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」、マッカーサーは約束を破り、玄関まで送って出たのです。[43頁]

 「天皇とはこのようなものでありましたか、私も日本人に生まれたかったです」――これでは感激とか感服とかを通り越して、単に卑屈なだけである。

 まず、マッカーサーは天皇逮捕の準備などしていない。会見の開始状況からして大嘘で、《御会見録》によれば、2人は最初にまず部屋の入り口で握手を交わし(つまり、玄関までは行かなかったが、部屋の前までは出迎えたのである)、部屋の真ん中で写真撮影を行い、その後、マッカーサーが天皇に、ソファに座るよう勧めたという。つまり、有名な天皇とマッカーサーのツーショット写真は、会見が始まる直前に撮影されたものなのである。天皇の表情が硬く見えるのは、そのせいもあるのかもしれない。カメラマンたちが退出して3人だけになった後、天皇とマッカーサーは軽く前置きの会話を交す。それからマッカーサーは約20分間にわたり一方的な演説を行い、それが終わったあと、ようやく会談が始まったという。

 さて、この第1回会見に、大きな謎があることはよく知られている。

 マッカーサーが1964年に発表した『マッカーサー回想記』によれば、このとき昭和天皇は次のように発言したという。

「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」

 また、侍従長の藤田尚徳が1961年に公刊した『侍従長の回想』にも、《御会見録》からの要約として、次のような天皇の発言が引かれている。

「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らに責任はない。
 私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。このうえは、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」

 つまり、マッカーサーや藤田尚徳によれば、このとき天皇は自らに戦争責任があることを率直に認めたという。ところが、《御会見録》には、該当する発言は一切記されていないのである。

 可能性は三通り考えられる。(1)そもそも戦争責任発言など最初からなかった。(2)発言はあったのだが、奥村が筆記しなかった。(3)発言はあり奥村も筆記していたのだが、何らかの理由で事後的に削除された。

 『マッカーサー回想記』は公刊当時から内容に誤りが多いことが指摘されており、当事者の回想ながら信憑性は低い。いっぽう、《御会見録》は現場での逐語的な速記録ではなく、会見が終わった後で奥村が筆記したものである。そのため、奥村が書き落としたか、あるいは外務省が後から削除した、という可能性も否定できない。この点は現在も謎となっている。(以上、第一回会見については、松尾尊兊『戦後日本への出発』岩波書店、2002年、豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫、2008年、を参照。)

 しかし、昭和天皇が「八千万の国民」云々と具体的な数字を挙げてマッカーサーに援助を懇願した、などという話は、《御会見録》のみならず、他のどの文献にも出てこない。マッカーサーが初対面の昭和天皇に好感を持ったことは事実だが(自ら玄関まで送りだしたのは本当である)、三上は、いったいこんな話をどこから仕入れたのだろうか。

第4回に続く)

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『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(2)「三上照夫」とは?

第1回

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

 この講演録を読んだ時点で、ぼくは三上照夫がどこの何者かを全く知らなかった。講演録の冒頭では、その略歴が次のように説明されている。

 講師 三上照夫先生は、昭和三年[1928年]京都でお生まれになりまして、西ドイツのミュンヘン大学で(「第三の文化」についての研究で経済学博士の学位を取られ、又日本におきましては「上代史」の研究で文学博士の学位をも取られております。先生は、東京大学、京都大学、大阪大学の各大学の教授を歴任されておりまして、その折り、時の内閣であります佐藤内閣のブレーンとして活躍されて以来七代二十二年間、中曾根内閣まで、内閣のブレーン生活を送られている先生でございます。先生は、これから世の中がどうなるかという評論家的な立場ではなく、世の中をどうするかという立場に居られる先生であります。さらに先生は、大学教授二六一名で構成されております、文部省の諮問団体である日本松柏学会の会長の要職にもあられる方です。[28頁。括弧の対応が合っていないのは原文のママ。]

 2つの博士号を持ち、3つの国立大学で教え、7代22年間にわたり内閣のブレーンをつとめ、文部省の「諮問団体」の会長でもある――というからには、さぞ名のある大学者であろう、と思いたくなるところである。

 しかし、文学博士の学位は、いったいいつ、どこの大学で取得したのだろう。日本の大学に提出された学位論文のデータベースは CiNii Dissertations として公開されているが、「三上照夫」を検索しても、何も出てこない。ミュンヘン大学の方も、ドイツ国立図書館ミュンヘン大学附属図書館のオンライン目録では、それらしきものは見つからない。

 講演が行われたのが1986年だとすれば、22年前は1964年。佐藤栄作内閣(1964年11月〜72年7月)の初期にブレーンとなったことになる。しかし、公刊されている『佐藤栄作日記』の索引に三上の名前はない。この時期の大学の教員(常勤職)については年刊の『全国大学職員録』に網羅されているので、1959年版と1964年版を見てみたが、東大・京大・阪大いずれにも三上の名前は見つからなかった。「日本松柏学会」が文部省の「諮問団体」という話も裏づけがとれない(だいたい、正式な諮問機関だったら「審議会」や「委員会」とかいった名前になるはずで、「学会」と称するのはおかしい。ちなみに、「学会」という名称には特に法的な制限はなどはなく、自由に名乗ることができる)。 Google で「日本松柏学会」を検索しても、三上照夫以外の情報が引っかかってこない。要するに、この経歴を客観的に裏づける資料が見つからないのである。

 だいたい、学者であるはずなのに、著書も論文もほとんど見つからない国会図書館サーチCiNii ArticlesGoogle Scholar などで検索してみても、宮﨑貞行『天皇の国師――知られざる賢人三上照夫の真実』(学研パブリッシング、2014年)のほかは、明らかに同姓同名の別人の情報しか引っかかってこない。 CiNii Books では、他にエスペラントの著作がいくつか出てくるが、本人か同姓同名の別人かは確認できていない。

 三上について書かれた一般書には、この宮﨑『天皇の国師』のほか、高橋五郎『天皇奇譚――「昭和天皇の国師」が語った日本の秘話』(学研パブリッシング、2012年。こちらは全くのオカルト本)がある。どちらも、三上は昭和天皇の御進講役で「天皇の国師」という異名をとった、という話が記されている(問題の講演録にはそんな話はひとことも出てこない)のだが、これまた裏づけがとれない。そのため、ここでは『天皇の国師』が、本名は「三上昭夫(てるお)」、1928年(昭和3年)生、1994年(平成6年)没としていること、「日本松栢学会」は1958年(昭和33年)に三上が組織した「学術団体」とされていること、などを紹介しておくにとどめる。

第3回につづく)

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『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(1)はじめに

 以前、教育勅語関係の文献を探して、右翼的な旧軍人団体として知られる日本郷友(ごうゆう)連盟の機関誌『郷友』を見ていたときのことである。次のような記事が目にとまった。

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

 末尾に「(註)歩一〇四記念講演特集号より転載」(45頁)とあるので、歩兵第104連隊(仙台)の戦友会誌からの転載と思われる。また、「(六三・九・二一)」(45頁)ともあるので、そのまま受け取れば1988年(昭和63年)9月21日に行われた講演を文章に起こしたもの、ということになる。ただし、「昭和三年」(1928年)生まれだという講師が「現在五八歳」(45頁)と語っていることや、1986年に起きた来島どっく(現・新来島どっく)の経営危機が現在進行中の出来事として言及されていること、言及される内閣が中曽根康弘内閣までで、竹下登内閣(1987年11月発足)への言及がないことなどから、実際は1988年ではなく1986年(昭和61年)の講演だと思われる。

 三上照夫という人物は、この講演において、題名の通り「大東亜戦争は侵略戦争ではなかった」と主張している。内容的には、パル判事のいわゆる「日本無罪論」、真珠湾事件=アメリカ側陰謀説、盧溝橋事件=中国共産党陰謀説などを組み合わせたもので、1980年代当時としてもそれほど目新しいものではない(なお、南京事件や従軍慰安婦への言及はない)。何がひどいかといって、この講演、細部の事実関係がことごとくデタラメで、客観的に正しいことが述べられている箇所を見つけるほうが大変なのである。「細部の」というのは、全体的にはどこかで聞いたような話なのだが、細かいところにとんでもないウソが仕組まれている、という仕掛けになっているからである。もちろん、講演録なので講師がつい口をすべらせて話をふくらませた、というこもあるだろうし、べつに専門家のチェックを受けたわけでもないのだろうが、それにしてもひどい。

 雑誌の性格が性格とはいえ、よくもまあこんなバカバカしい講演録を載せたものだ、などと思いつつ、念のため「歩一〇四記念講演特集号」をウェブ検索してみて唖然とした。この講演を真に受けた文章が、ウェブ上に結構転がっているのである。それだけではない。この講演録には、《マッカーサーは昭和天皇との第一回会見で天皇に心服し、本国からの対日食料援助を引き出すために日本の総人口を水増しして本国に報告、それがバレて総司令官を罷免された》という荒唐無稽な話が出てくる。マッカーサー解任の時期からしてもありえない話なのだが、この話を真に受けているウェブサイトやブログもかなりあるようなのだ。他にも、《昭和天皇が戦後巡幸で最初に訪れたのは広島》(本当は神奈川県)といった、本記事が出典らしいデタラメを書いているウェブサイトがある。

 もちろん、影響力といっても限られたものではあるのだろう(と思いたい)が、ウソだ、と明言しておく意味はあるかもしれない。というわけで、この講演録の内容を検証しつつ紹介してみる次第である。

第2回につづく)

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2017年01月01日

2017年 あけましておめでとうございます。

 本年もよろしくお願い申し上げます。

 私事で恐縮なのですが、じつは年末に激しい下痢と急な発熱に襲われてしまい、12月23日からの数日間は自宅でずっと伏せっておりました。(そういう事情でしたので、年末のいくつかの会合に参加できませんでした。関係者の方々、申し訳ありませんでした。)
 そんなこんなで溜まった仕事も片付かず、懐具合も真剣に寂しく、いろいろ憂鬱な今日この頃です。本年こそはなんとか溜まった仕事を片付けたいのですが。
……年始ですので少しは景気のいい話をしたいのですけどね。




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