(第1回/第6回)
- 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。
そろそろ「大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」という本題に入ることにしよう。三上照夫は「支那事変」(日中戦争)について、日本の侵略戦争ではなかった、として次のように述べる。
ことに支那事変と言いましたら、河本大作・張作霖爆殺事件から初まって[原文のママ]、関東軍の横暴によって行われたと教えていますが、果たしてそうだったろうか。あの蘆溝橋の一発、突如として日本の陣地から銃声が響きました。慌てました日本の軍使は、何分ご内密に不心得者は処分しますからと、当然の処お詫びに参りました。その同一時刻、幸か不幸か中国の陣地から発砲がありました。中国軍、国府軍からも謝りに来た、どちらも撃ってなかった、だから歴史は難しいんです。当然の処、中立地点で両者は机を叩いて撃っていない……撃ってなかったのでした。日本軍も国府軍も、その同一時刻、日本の陣地と中国の陣地から再び銃声が響き、これが蘆溝橋の一発として支那事変に突入しました。
皆様方、ご承知の通り、後ほど勇名をはせた「牟田口兵団」といわれた、あの牟田口氏にしても、実は日本が応戦に発砲したのは、それから二週間後でした。誰が打った[原文のママ]のか、今尚歴史は解らんのです。只、日本は打たなかった[原文のママ]。これが中国共産党史にはこう載って居ります。劉少奇の率いる便衣隊が日本の陣地と中国の陣地に於いて発砲し、見事日本と中国は噛み合うたと、恐らくこれが共産党史に載っていることが真相なんでしょう。[33〜34頁]
まず最初の一文が変だ。これだと、「支那事変」を関東軍が引き起こしたと学校で教えているみたいではないか。
張作霖爆殺事件は1928年(昭和3)の事件で、「支那事変」(1937〜45年)開戦の9年も前であり、直接につながる事件ではない(間接的には大きく関係するが)。三上は、その間の満洲事変(1931〜33年)の存在を完全にスルーしているのである。満洲事変は関東軍の謀略で引き起こされたことが明らかであり、擁護しづらいので、おそらくはわざと無視して、「支那事変」のきっかけとなった盧溝橋事件の方に話を持って行ったのだろう。だが、盧溝橋事件に関与したのは、関東軍ではなく支那駐屯軍。両者はまったく別である。
三上は、盧溝橋事件は中国共産党の謀略で、中国共産党のゲリラが日本側と中国側それぞれの陣地で発砲し、日本側が中国側、中国側が日本側をそれぞれ攻撃したように見せかけた、と言いたいらしい。だが、この説明は、実際の盧溝橋事件の経過とは全く違う。
1937年7月7日夜、日本軍(支那駐屯軍歩兵第1連隊第3大隊第8中隊)が盧溝橋付近で演習を行っていた。22時30分頃、中隊長の清水節郎大尉が演習中止命令を出すため、伝令を仮設敵(もちろん日本兵である)に派遣したところ、仮設敵が誤って軽機関銃(もちろん空砲)を伝令に向かって発射した。すると22時40分頃、永定河堤防上にいた中国軍(第29軍第37師第110旅第219団第3営)の陣地側から、突如、数発の射撃があった。清水中隊長はただちに演習を中止し集合ラッパを吹かせたが、そこへ再度、十数発の射撃がなされる。清水中隊長が人員を確認したところ、1名(志村菊次郎二等兵)が行方不明となっていた。清水中隊長はただちに大隊長の一木清直少佐に、「中国兵から射撃、兵一名行方不明」と報告。23時58分頃、北平(北京)にいた連隊長の牟田口廉也大佐のもとに連絡が入る。じつは、志村二等兵は事件発生の20分後に中隊に合流しているのだが(道に迷ったとも、用便中だったともいわれる)、そのことが上層部に伝わるのは遅れ、少しの間「兵一名行方不明」という話が独り歩きしてしまう。
日付が変わって8日早朝、不法射撃について抗議した日本側に対し、中国側は撃っていないと主張した。とはいえ、この時点では死傷者は出ておらず、単なる些細なトラブルにすぎなかった。ところが3時25分頃、一木大隊は再び3発の銃声を聞く。4時20分頃、一木大隊長から電話連絡を受けた牟田口連隊長は、これを対敵行為と見なし戦闘開始を命じた。5時30分、一木大隊はいっせいに攻撃を開始してしまうのである。
ただし、これがそのまま全面戦争に拡大したわけではない。9日にはひとまず停戦がなされており、11日には現地で停戦協定が結ばれているからである。ところが、同じ11日、第1次近衛文麿内閣が五個師団の華北派兵を決定してしまう。じつは、日中全面戦争の引き金となったのは盧溝橋事件そのものではなく、それをきっかけとしてなされた、この増派なのである。その後、数度にわたる小衝突の末、7月26日、日本軍は北平・天津地方の占領を決定し、ここに全面戦争が始まってしまう。
上記のいきさつからわかるように、そもそも「日本の陣地から銃声が響きました」という事実はなく(空砲誤射の件を誤解したのかもしれないが)、当然、日本側から謝罪使が出たはずもない。「日本が応戦に発砲したのは、それから二週間後」に至っては論外で(いったい2週間も何をしていたというのか?)、最初の発砲からわずか6時間後に「応戦」、というより一方的攻撃を始めている。
さて、今日に至るまで謎とされているのは、結局、日本軍に向かって発砲したのは何者なのか、ということである。これについては(1)第二十九軍兵士の偶発的発砲、(2)日本軍による自作自演、(3)第三者(中国共産党?)による謀略工作、といった説が出されている。しかし(2)(3)は今日に至るまで確実な証拠が発見されていない。なお、三上がいう『中国共産党史』なるものが、いったい何なのかは不明である。そもそも事件当時、劉少奇は北平附近にはいなかった。
中国共産党の謀略だとする説は、葛西純一(1922-?)という人物が、『新資料 蘆溝橋事件』(成祥出版社、1974年)という著作で主張したものである。葛西が1949年に中国で見たという『戦士政治課本』なる教育用パンフレットには、「七・七事変[盧溝橋事件]は劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って党中央の指令を実行したもの」と書かれていた、という。ところが、葛西は現物を持っていると主張していたものの、その写真版どころか中国語の原文すらも公開しようとせず、葛西の死後は全くの所在不明となっている(秦郁彦『昭和史の謎を追う 上』文藝春秋)。
確かに、中国共産党は日本軍と蒋介石政権との全面衝突を望んでいた。共産党の立場からすれば、中国はすでに満洲事変によって日本に侵略戦争を仕掛けられているのであり(ただし、これ自体は蒋介石とも共通する認識である)、蒋介石がその外患よりも、内憂である共産党との戦いを優先しているのはおかしい、ということになるからである。
しかし、深夜の、どこから誰が撃っているのかわからない銃声を、一方的に中国側の計画的攻撃だと決めつけ、怪我人すらも出ていない段階で攻撃を命じたのは、他ならぬ牟田口廉也であり、そして、止めようと思えば止められたこぜりあいを、わざわざ全面戦争にまで拡大してしまったのは、他ならぬ日本政府なのである。
[…]毛沢東は、死の迂回作戦二万マイル、冬の荒野を夏服の裸足で延安に向かって逃げたのはご承知の通り、目的地に着いたときには、二万人殆んどが餓死した。[34頁]
一般に言われている長征の移動距離は「二万五千里」、すなわち約 1万2500km とされ、この間に30万の兵力が3万に減少したとされる。「二万マイル」(約 3万2000km)とか「二万人」というのはどこから出てきたのだろう。
[…]孫子の兵法直伝の周恩来は考えた、日本と蒋介石とを噛み合わす以外に、いわゆる共産軍の生き残る道はない。どうしたら噛み合うか、蒋介石に信任が厚くしかも日本に恨みを持っている男に、蒋介石の監禁をさせるべきだ、曰く張学良でした。のこのこと行った蒋介石は、軍剣に囲まれ、世にいうこれが、いわゆる西安の事件でした。その間に劉少奇の率いる便衣隊が、日本の陣地と中国の陣地に於いて発砲したと、共産党史にはこう書いております。皆様方、歴史の真相の難しさです。[34頁]
「その間に」というのだから、蘆溝橋事件は西安事件の真っ最中に起こった、と三上は主張していることになる。張学良・楊虎城らが西安で蒋介石を監禁したのは1936年12月12日、周恩来らの仲介で蒋介石が解放されたのは12月25日。何をどうやったら、この2週間の間に、半年以上後の1937年7月に起こる蘆溝橋事件を引き起こすことができるというのか。どうやら「孫子の兵法」は時空を超えるらしい。なにが「歴史の真相の難しさ」なのやら……。なお、張学良は1936年夏の時点で中国共産党と秘密協定を結んでいるが、西安事件自体は張が独断で起こしたとする説が有力である。
(第8回につづく)