2016年11月26日

『当世書生気質』と野口英世改名の謎(4)知らぬは逍遥ばかりなり?

第1回第3回

 各種野口英世伝が伝える『当世書生気質』のあらすじと、実際の小説の内容が全く違っている、という事実をいち早く指摘したのは、じつは、他ならぬ坪内逍遥本人である。

 1930年(昭和5)、逍遥は『キング』10月号に「野口英世博士発奮物語」というエッセイを発表した。このエッセイは、のち、「ドクトル野口英世と『書生気質』」と改題の上、坪内『柿の蔕[へた]中央公論社、1933年[http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/tomon/tomon_16417/]に再録されている(『逍遥選集』には未収録)。以下、『柿の蔕』による。

 話のきっかけは、この年5月、逍遥が小林栄から次のような問い合わせの手紙を受け取ったことである。

[…]明治三十年の頃順天堂病院に一医学生たりし当時の野口清作は御著書「書生気質」なる本を読みて該書中に主人公たる野々口清作[原文のママ]といふ医学生ありて恰も野口清作を呪ふが如き筋立なるを知りて深く驚歎いたし候自分も之に同情して英世と改名いたさせ世界の医界の英雄たれと訓戒致し候処本人も大いに奮起し遂に野口英世博士と相成り申し候右は偶然の御作意にして候哉今以て不思議に存じ候按ふに御著中の野々口清作の言動は野口清作の立志奮励に頗る有力なる刺激と相成り候次第に候願はくは当時の御趣意御漏らし下されたく別包記念写真呈上御願い申し候野口と自分とは義父子の間柄に候

(明治30年のころ、順天堂病院の一医学生だった当時の野口清作は、ご著書『書生気質』なる本を読んで、その本の中に主人公である野々口清作という医学生があり、あたかも野口清作を呪うような筋立てになっていることを知って深く驚きなげきました。私[小林]もこれに同情して英世と改名させ『世界の医学界の英雄になれ』と訓戒いたしましたところ、本人も大いに奮起し、ついに野口英世博士となりました。これは偶然のご作意なのでしょうか、今もって不思議に思っております。思うに、御著書中の野々口清作の言動は、野口清作の立志奮励にすこぶる有力な刺激となった次第です。願わくば当時のご趣意をお教え願えないでしょうか、別封しました記念写真を差し上げますので、お願いいたします。野口と私とは義父子の間柄です。)

 逍遥は「野々口作」なる人物をとっさには思い出せなかったが、『逍遥選集』を読み返して、「野々口作」が第6回に「たつた一度だけ顔を出す人物」で「無論、主人公ではない」ことを確かめている。

 すでに野々口精作登場の場面は紹介したが、あらためて逍遥自身の説明を引いておこう。

[…]此[この]粗放、此[この]磊落[らいらく]は、其[その]実、父母、親戚、学校当事者等を欺瞞するための小策略。野々口精作は、つまり、仮面を被つた放蕩者、要するに、今の世の学生には、斯[こ]ういふ風がはりなものもあるといふ作意なのである。此人物は此條下だけで立消えてしまつてゐる。

 逍遥にとってみれば、確かに名前がよく似ているとはいえ、なぜ、野口清作青年が、この小説に発奮させられ、改名を決意したのか、さっぱりわからない。野口英世の伝記は生前から多数書かれており、その中には改名のいきさつを記した文献も少なくなかったのだが、どうやら逍遥本人は、このときまで全くこの話を知らなかったようなのである。

 逍遥は5月16日付で小林に返信を出す。この手紙は奥村鶴吉〔編〕『野口英世』に引用されているので、そこから引用する。

復 故野口博士に関する御追憶談は洵に耳新しく深き感興を以て拝読致し候彼の拙作は明治十七年起稿十八年出版のいたづらかき甚しき架空人物の姓名なども大方出たらめに候あの比故博士は多分九歳か十歳におはし候ひけむ姓名の類似は申す迄もなく偶然に候何故医学生にあの如き放蕩者を作りいだし候ひしかと申すに当時東京大学医学部と称し候ひし本郷の医学校は其専門の然らしめし所か学生中に洒落者多く銭づかひもあらきよし風聞盛んなりし故さてこそあの如き諷刺を試み候ひしに過ぎずもつとも借金番附の如きは多少よりどころありしものに候

いづれにせよ四十五六年前の悪作おもひ出すさへ冷汗淋漓に候然るにあの如きものが思ひがけずも真個世界的大国手故博士発憤の一機縁と相成しとは一に是れ貴下の御高諭と故博士の英邁なる天資の然らしめし所たるや申す迄もなき儀と存じ候

さりとて世に珍しき御物がたり若しおさしつかえへなくば御仰せ越しのまゝに故博士の小伝をも加へて拙文につゞり例へばキングの如き誌上にて公にせんには今一世に瀰漫する惰気蕩気を多少廻らすに足るべきかと考へ候[…][奥村鶴吉〔編〕『野口英世』岩波書店、1933年、197-198頁

(返信。故野口博士に関する御追憶談はまことに耳新しく、深い感興を以て拝読いたしました。かの拙作は、明治17年起稿・18年出版の、いたずら書きもはなはだしいもので、架空人物の姓名なども大方デタラメです。あのころ、故博士は多分9歳か10歳だったのではないでしょうか[明治18年には数え年10歳]。姓名の類似は、申すまでもなく偶然です。なにゆえ、医学生としてあのような放蕩者を創作しましたかと申しますと、当時、東京大学医学部と称しておりました本郷の医学校[1930年当時は東京帝国大学医学部]は、その専門のせいでしょうか、学生中にしゃれ者が多く、金使いも荒いという風聞が盛んであったので、それであのような諷刺を試みたにすぎません。もっとも、[作中に登場する]借金番付のごときは、多少よりどころがあるものです。

 いずれにせよ、45〜6年前の悪作であり、思い出すことさえ冷汗が流れます。それなのに、あのようなものが思いがけずも、本当に世界的な大国手[名医]である故博士の発憤の一機縁となったとは、一にこれ、貴下の御教えと、故博士のすぐれた生まれつきの資質がそうさせたことは、申すまでもないことと思います。

 しかしながら、世にも珍しいご物語。もしお差支えなければ、お伝えいただいたままに、故博士の小伝をも加えて拙文につづり、例えば『キング』のような雑誌にて公にすれば、いまひとつ、世にはびこるだらけた気分、しまりのない気分を多少変化させるのに十分ではないかと考えます。)

 かくて、野口英世改名のいきさつを、当時の国民的雑誌であった『キング』に紹介しようと考えた逍遥は、詳しい事情を小林に問い合わせるとともに、自分でも下調べを始めた。すると、次のような噂話が耳にはいってきた。

 或[ある]人は、博士の洋行は失恋の結果だつたといふ噂だといひ、或人は、彼れは青年時代には中々の放蕩者だつたといふ噂だといた。双方とも無証拠で、単なる噂話であつたが、『書生気質』との関係を説明するには、むしろ誘惑的な材料であつた。

 いっぽう、野口英世伝のたぐいを読んでみると、そこではおおむね、『当世書生気質』は次のような話だとされていた。

「年齢、風采等までも同じやうな野々口清(実は精)作といふは田舎から上京した秀才の医学生、それが友人に誘はれて或芸妓になじみ、学業を怠り、其上、不摂生をしたために病気になり、果は女にも捨てられ、失恋と病苦とで悲観して自殺する」云々。

 逍遥はますます困惑する。

 ところが、小説中の精作にはそんな経歴は少しもない。いや、作の主人公小町田粲爾といふ人物とても、芸妓と馴染むといふ事はあるが、騙されたわけではなく、随つて失恋はせず、病気にもならず、自殺もしない。一体、どこをどう読んだのであらう?

 ……まったくもって同感である。

 逍遥は各種野口英世伝や小林との通信、野口を知る人たちとの聞き取りを通じて、野口が放蕩者だったという噂話を否定する。ところがその結果、なぜ野口が『当世書生気質』に発奮したのか、そもそも、いったいどこから「失恋と病苦とで悲観して自殺する」なんて話が出てきたのか、逍遥はさっぱりわからなくなってしまう。

 それにしても、清作[実在の野口清作=英世]は一意学問に精進してゐた真摯熱誠実の貧学生、或人の噂したやうに、放蕩する餘裕なぞがある筈はなく、又あらゆる意味で婦人関係なぞはなかつたといふ事だ。とすると、境遇、性格、風采までが、相酷似してゐたから、とは、一体、何を指すのか?

 逍遥は、野口が重病で順天堂病院に入院中だったものと誤解して、病気で前途を悲観していた時期に読んだために内容を勘違いしたのではないか、と推測した。しかし、このエッセイが『キング』誌に掲載された後で、逍遥は小林から、野口が『当世書生気質』を読んだのは、猪苗代で小林の妻を看病中だったときのことだと教えられる。それを知った逍遥は、「明敏な頭脳の持主であつた筈[はず]の博士[野口]が、どうしてそんな粗忽[そこつ]な読み方をしたの歟[か]、不思議でならない」とますます困惑している。

 ところが、じつは逍遥が最初に聞いた噂話のほうが真相に近かったのだ。確かに、野口清作青年が「一意学問に精進してゐた真摯熱誠実の貧学生」だったのは事実なのだが、彼は、それと同時に、間違いなく「中々の放蕩者」でもあったのである。

第5回につづく

posted by 長谷川@望夢楼 at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『当世書生気質』と野口英世改名の謎(3)『一読三歎 当世書生気質』

第1回第2回

 逍遥の一読三歎 当世書生気質』(いちどくさんたん とうせいしょせいかたぎ)は、最初、「春のやおぼろ」(春廼舎 朧)名義で、1885年(明治18)6月から翌1886年(明治19)1月にかけて分冊形式で刊行された(全17号)。坪内逍遥の最初の小説で、『小説神髄』(1885年9月〜1886年3月刊、執筆は『当世書生気質』より前)で逍遥が主張した近代的リアリズム小説論の実践篇、という意味合いを持っている。当時、逍遥は満26歳。3年前に東京大学文学部政治科を卒業したばかりであり、東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師をつとめていた。

 文学史的な位置づけから言えば、この小説は日本初の近代小説になりそこねた作品、とでも言えるだろうか。『小説神髄』の実践篇といいながらも、江戸の戯作文学の影響が色濃く残っているからである。文体も、会話文では当時の話し言葉が用いられているが、地の文はいまだ文語体である。言文一致体リアリズム小説の完成は、2年後に発表された二葉亭四迷『浮雲』(1887〜89年)まで待たなければならない。

 逍遥自身は後年、『当世書生気質』や『小説神髄』などの初期作品を自ら「予の旧悪全書」と自嘲し、再刊を嫌がった。『逍遥選集』(春陽堂、1926〜27年)刊行の際にも再録を渋ったが版元に押し切られ、「別冊」に収めている。なお、逍遥の全集は2016年現在も刊行されておらず、この『逍遥選集』が事実上の全集となっている。

 『当世書生気質』は、東大在学時代の学友たちの言動を下敷きにして書かれており、登場する書生たちは、作中では私塾(私立の専門学校)の学生という設定になっているが、実際のモデルは東大の学生である。当時、日本国内の大学は東京大学ただ一校のみであり(「帝国大学」になるのは1886年)、その学生はエリート中のエリートであった。

 時代設定は作品発表より3年前の明治15年(1882年)、つまり逍遥の在学時代(逍遥は「明治十四五年」としているが、作中で登場人物が明治15年4月の板垣退助遭難事件に言及する場面があるため、明治15年と特定できる)。東京の飛鳥山で、ある大学の書生たちが運動会を開いた際に、その一人である小町田粲爾(こまちだ・さんじ)が、田の次(たのじ)という芸妓と偶然に再会する場面から話は始まる。じつは、田の次は本名をお芳(よし)といい、粲爾の父で明治政府の役人だった浩爾(こうじ)と、その妾(めかけ)で元芸者のお常が、ふとした偶然から拾った孤児で、粲爾とは兄妹同然に育てられてきたのである。ところがその後、浩爾が失職したため妾を囲っておくことができなくなり、お常はやむなく芸者に戻り、お芳にも同じ道を歩ませることになった。そういうわけで、幼馴染同士の粲爾と田の次は互いにひかれあっているのだが、事情を知らない周囲から見れば、前途ある学生が女遊びにうつつをぬかしているようにしか見えない。そのせいで粲爾は次第に追い詰められていく。

 いっぽう、粲爾の学友で資産家の息子である守山友芳(もりやま・ともよし)には、明治元年(1868)の上野戦争の際、生き別れになった妹、おそでがいた。友芳は、これまた偶然に出会った皃鳥(かおどり)という遊女が、実は妹なのではないか、と疑い始める。

 以上の本筋と並行して、気ままでお調子者の倉瀬蓮作(モデルは逍遥自身に、別の友人を足し合わせたものという)、飄々とした、自他ともに認める奇人の任那透一(にんな・とういち)(モデルはジャーナリストの山田一郎)、スイカを拳割りする粗野な男で、男色家の桐山勉六(モデルは三宅雪嶺だとする説があるが、逍遥は否定している)、その友人で知恵もなければ勇気もない須河悌三郎(すがわ・ていざぶろう)、などといった一癖ある書生たちの行状記が次々と語られてゆく。最後は、田の次ことお芳こそが守山友芳の本当の妹であることが明らかになり、大団円を迎える。

 さて、問題の野々口精作はというと、全20回(章)のうち第6回「詐[いつわり]は以て非[ひ]を飾るに足る 善悪の差別[けじめ]もわかうどの悪所通ひ」だけに登場する。この回は1885年8月に刊行された。以下、岩波文庫版によって見ていく。

 「年の頃は二十二三、ある医学校の生徒にして、もう一二年で卒業する、野々口精作といふ田舎男」。帰省から帰ってきたばかりのこの男が、友人の倉瀬蓮作とばったり出会い、池之端(現・東京都台東区、上野不忍池の周辺)の「蓮玉」という蕎麦屋(実在の蕎麦屋で、正確には「蓮玉庵」といい、当時は上野不忍池のほとりにあった。現在は池之端仲町通りに移転)で一杯やる……というだけの話である。じつのところ、この場面は本筋とまったく関係ない

 野々口は倉瀬に対して、帰省中「親類の野郎共めが、皆々我輩を信用して、倅共[せがれども]を三人まで今回我輩に委託したぞ。蓋[けだ]し東京へ帰つて後も、同じ所に下宿をして我輩の薫陶を受[うけ]させいたといふ請願サ」とこぼす。というのも、見かけは質素というより粗放磊落で、自分ではぬけぬけと「謹直方正の人間」と言い張るこの男、じつはとんだ放蕩者で、おまけに嘘つきだからである。たとえば、父親に金をせびる口実がなくなったので、病気を装おうとして、酒を六合も飲んだ上に「下谷からお茶の水まで」(約4km)全力疾走した上で病院に駆け込んだという。それでもこの男、「我輩は親の金はつかふけれど、別にたいした外債も醸[かも]さないぞ。それでも五十円位はあるが」と語る。なにしろ、彼の通っている学校には他にもひどい借金魔がおり、筆頭は2000円なので、50円というのは少ない方なのである。

 貨幣価値の計算は難しいのだが、1881年頃の1円は、だいたい現在の4000〜5000円くらいになる。つまり50円は20〜25万円、2000円は800〜1000万円くらいとなる。

 ただしこの男、放蕩ぶりを隠すのが巧妙な偽善者で、「校長も証人も親父も阿兄[あにき]も、各々我輩を信用して、曽[かつ]て疑ふもの一人もなしサ。金を送つてよこせというてやれば、安心して送つてよこすし、証人の所へ頼んでも、疑はないで貸してよこすぞ」とうそぶく。野々口が倉瀬をさそって遊郭へ向かう、というところで第6回は終わる。まさしく、「いつわりはもって非を飾るに足る、善悪のけじめも若人(わこうど)の悪所通い」(「わからない」と「若人」をかけている)というサブタイトル通りの、猫かぶりの小悪党の話である。なお逍遥は、「本篇(第六回をいふ)中の書生の如きは、決して上流の書生にあらねば、看客[みるひと]其積[そのつもり]にして読みたまへ」とわざわざコメントしている。

 その後、野々口は二度と再登場しない(名前だけは第7回と第18回下で言及されている)。最終回(第20回)のエピローグで、次のように語られているだけである。

 野々口はいかにしけん、池の端[第6回の場面]以来倉瀬もきかず、放蕩家[ほうたうもの]などと悪くはいへど、野々口の如きは利発者[りはつもの]なり、あの術[て]でお医者さまになつたる時には、屹度[きっと]甘くやるに相違ないとは、是又倉瀬の独断論なり。蓋し保証[うけあ]はれぬ話にこそ。

 確認しておこう。各種野口英世伝が伝える「野々口精作」像のうち、田舎から東京に出てきた放蕩者の医学生、という設定までは確かに合っている。しかし、それ以外は全くのデタラメで、まず主人公ではないどころか、本筋と何一つ関係のない一端役にすぎないし、将来を楽しみにされている真面目な人物という描写は一切なく、最初から放蕩者として登場する。堕落のきっかけが語られることもないし、何より、周囲から見捨てられる場面など存在しない。むしろ、その放蕩ぶりを学校や親族や保証人には巧妙に隠しており、友人からは「放蕩者といえば悪くきこえるが、地は利発者だから、無事に医者になった際には案外うまくやるかもしれない」と思われているのである。

第4回につづく

posted by 長谷川@望夢楼 at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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