2016年11月30日

「でもしか先生」は「デモしかしない」先生の略ではない

 「でもしか先生」(または「でもしか教師」)という言葉がある。本来志望した職につけなかったので教師に「でも」なるか、という志の低い教師や、無能なので教師に「しか」なれない教師、を揶揄した表現である。少子化などの影響で、教員採用自体が難関になってしまった21世紀現在からすると隔世の感があるが、この語が流行した1950年代後半は、ちょうどベビーブーム世代が一斉に小学校に入学してきたころで、生徒数の増加に教員や教室の増加が追いつかなかったころ。教師になるのは今よりもずっと容易だったわけである。

 この「でもしか先生」は、教育社会学者の永井道雄(1923-2000)の造語である。永井は京都大学助教授、東京工業大学教授(1963-70)、朝日新聞論説委員(1970-74)などを歴任、三木武夫内閣で文部大臣(1974-76)をつとめた。ちなみに、文部大臣に民間人が起用されるのは、第3次吉田茂内閣の天野貞祐(1950-52)以来22年ぶりのことであった。以後も細川・羽田内閣の赤松良子(1993-94)、文部科学大臣になってからも第1次小泉内閣の遠山敦子(2001-03)しか例がなく、また赤松・遠山はいずれも官僚出身なので、永井はいまのところ最後の純然たる学者文相となっている。

 ところで以前、ネット上で「でもしか先生」は本来「デモしか先生」、つまり組合活動としてのデモばかり行っていて、本業であるはずの教員活動をおろそかにしている先生、という意味だった、という説明を見かけたことがある。直感的にこれは変だ、と思った。これが逆なら理解できるのだが、「デモしかしない先生」を「デモしか先生」と略するのは、言葉の作り方として不自然である。

 ところが、いくつかの俗語辞典を引いてみると、確かに同じような説明が出てくる。たとえば、米川明彦『日本俗語大辞典』には次のようにある。

でもしかせんせい(でもしか先生)[名]先生でもなるか、先生にしかなれないというような先生を嘲って言うことば。もとは「デモしか」しない先生という。◎『読売新聞』(1974年12月10日夕刊)「先生にでもなるか、先生にしかなれない教師を『デモシカ先生』と名づけた」◎『毎日新聞』(1976年12月19日朝刊)「《デモシカ先生》あれは実は学校の用務員さんがデモをしている先生を見て『先生はデモしかしないんですかねえ』と言われたのをボクなりの『デモシカ先生』にしたんです」(見坊豪紀『ことばのくずかご』から)[米川明彦『日本俗語大辞典』東京堂出版、2003年、408頁。強調は原文ゴシック体]

 出典が見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)『ことばのくずかご』となっているので、これにさかのぼってみる。この本は『言語生活』誌に連載されたコラムをまとめたもので、『三省堂国語辞典』の編者として知られる日本語学者の見坊が、辞書のための用例を採取する際に発見した、変わった用例などを紹介した本である。念のため、こちらも引用しておく。

永井文相の造語ではなかった〔77・2 66〕
〈デモシカ先生〉あれは実は学校の用務員さんがデモをしている先生を見て『先生はデモしかしないんですかねえ』と言われたのをボクなりの『デモシカ先生』にしたんです。(51年5月、本社記者との雑談で)(〔「毎日新聞」1976年12月19日朝19「ユニーク“永井語録”〕[見坊豪紀『ことばのくずかご』、筑摩書房、1979年、35頁。強調は原文ゴシック体]

 さらに出典の『毎日新聞』1976年12月19日付朝刊19面にさかのぼってみる。じつは、見坊の引用はやや不正確である。

 《デモシカ先生》あれはボクが作ったように言われているが、実は学校の用務員さんが言った言葉なんですよ。デモをしている先生を見て「先生はデモしかしないんですかねえ」と言われたのをボクが「教師にデモなるか」「教師シカなれない」現状を思ってボクなりの「デモシカ先生」にしたんです。([昭和]51年[1976年]5月、本社記者との雑談で)[「「デモシカ」から「カニの横バイ人生」まで ユニーク“永井語録”」『毎日新聞』1976年12月19日付朝刊19面]

 よく読んでみると、用務員の発言は「先生はデモしかしないんですかねえ」であって、用務員が、そういった教師を指して「デモしか先生」といった、とは書かれていない。また、仮に、この用務員氏が「デモしか先生」という言葉を使ったのだとしても、それは、この時点では一個人の思いつきの発言にすぎず、そのような表現が広く使われていたわけではない。「デモシカ先生」を「教師にデモなるか」「教師シカなれない」先生、という意味で造語して広めたのは、あくまで永井道雄なのである。辞書にわざわざ「もとは「デモしか」しない先生という」などと註記する必要性はないどころか、そのような意味で使われたことがあった、という誤解を招くことになる。

 さて、永井道雄本人が言っているのだからその通りなのだろう――と思ってはいけない。というのは、「でもしか先生」の初出とされる永井「この教師の現状をどうするか」(『中央公論』1957年5月号)では、全く違うことが書かれているからだ。

 ある教育者の会合にでたら、保守的な、しかし、仕事熱心なために人々から尊敬されている老先生が、教師のなかには「でも先生」が多い、これが一番困つたことだと熱をこめて論じている。日教組のデモ行進には批判が多い、またはじまつたかと思つて聞き流した。ところが、どうも話が違うらしい。「でも先生」つてなんのことかね。――隣に坐つている友人の腰をつついてきいてみた。

 聞いてみると、「でも先生」と「デモ先生」は全く別物なことがわかつた。教師のなかには、若いころ、できれば、技師に、医者に、役人に、小説家に、あるいは政治家になりたかつたものが多い。ところが、いろいろの都合でなれなかつた。仕方がないから、教師にでもなろうか、幸い、口があつたから雇つてもらつたという人が案外多い。「でも先生」とは、第二志望、第三志望でなつた教師のことである。あきらめて選んだ職なのだから、当然熱がこもらない。そこで、これが、教育上、一番困つた問題だというのである。[永井道雄「この教師の現状をどうするか」『中央公論』第72年第6号、中央公論社、1957年5月、32頁。強調は原文傍点。この論文は永井〔編〕『教師 この現実』〔三一新書〕(三一書房、1957年6月)に再録されているが、ここでは初出による。]

 なお、永井は当時、京都大学教育学部助教授。

 まず、ここでは「でもしか先生」ではなく「でも先生」となっている。しかも、「でも先生」というのは、「用務員」ではなくある「老先生」の造語であり、それを「デモしかしない先生」だと解釈、というより勘違いしたのは永井自身だということになっているのである。ことのついでに言っておくと、永井はこの論文の末尾で、「日教組の教研活動」について「とかくの論議はあるにしても、今のところ日本には、教研活動ほど大規模で、しかも徹底した現職教育はない」(42頁)と高く評価している。

 「しか」の方はどこに行ったのか、というと、これは同じ論文の後のほうで登場する。

 ところが、同僚の一人にいわせると、たとい失敗はしても、一度は教育以外の理科、経済などをねらう元気と力があつただけでも、私たちの学部の浪人学生は、まだましなのだ。全国にあまねく存在する学芸大学には、中学、高校時代の自分の学力を考えてみると、他の学部はとても見込みがない、教育関係しか、やれない者が多いというのである。こういわれて、全国の国立大学の学生を対象にして行われた、文部省の進学適性検査の報告を見ると、なるほど教育関係の学生の成績は驚くほど低い。[…]

 知的な学力だけが人生のキメ手ではないという私も、ここまで開きがあれば問題にしないわけにはいかない。これでは教師にしかなれない「しか先生」の卵だというはかない。[同、34-35頁]

 「学芸大学」は、戦前の師範学校が、戦後に教員養成専門の単科大学に改組される際に名乗った呼称である。その後、1966年の法改正で呼称が「教育大学」に改められている(東京学芸大学(東京府師範学校の後身)のみは例外で、これは当時、別に「東京教育大学」(東京高等師範学校・東京文理科大学の後身で筑波大学の前身)があったため)。

 見ての通り、この論文では「でも先生」と「しか先生」は登場するが、じつは、両者を合わせた「でもしか先生」という表記はどこにも出てこない。この論文が大きな反響を呼んだことで、いつの間にか「でも先生」と「しか先生」を合わせた「でもしか先生」という言葉が出来上がったのである。

 また、「しか先生」の引用からもわかるように、この論文は、現職教師よりも、むしろ、その卵である教員養成課程在籍の学生の方を対象としている。つまり、ここでの「でも」「しか」は、「成績が良くないので他学部に入れず、仕方がないので教育(学芸)学部に入った」という意味で使われているのである。ところが、この語が広まるにつれ、永井の本来の意図とは離れ、むしろ現職教師をターゲットとした語句として使われるようになっていく(油井原均「「でもしか教師」言説の分析――教師像をめぐる議論に関する事例研究」『日本教師教育学会年報』第10号、日本教師教育学会、2001年10月)。

 話を戻そう。永井の1957年の論文と1976年の発言には、明らかに矛盾がある。どちらを信用すべきか、というと1957年の論文の方だ。1976年の発言では「デモしかしない先生」から「でもしか先生」を作ったことになっているが、1957年の論文では「でも先生」と「しか先生」はセットではなく、バラバラにしか出てこないのである。「デモしかしない先生」から「でも先生」を作った、という可能性なら考えられるが、だとすると、なぜ永井は用務員の言葉を「老先生」の言葉にすりかえたのか、説明がつかない。1976年の発言は、好意的に見ても永井の記憶違いか、あるいは新聞記者の勘違い、と考えるべきだろう。

 結論をいえば、「でもしか先生」は、最初から、「教師にでもなろうか」「教師にしかなれない」先生、という意味で作られた造語である。それ以前に「「デモしか」しない先生」という意味で使われていたわけではない。少なくとも、そのような根拠はない。

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2016年11月29日

『当世書生気質』と野口英世改名の謎(6・完)野口英世は野々口精作にならなかったか?

第1回第5回

 そもそも、『当世書生気質』が「清作」から「英世」への改名の原因になったことを知っている人間は、二人しかいないはずである。いうまでもなく、野口英世と小林栄である。

 野口が改名当時、周囲に改名の事情をどのように説明したのかは気になるところなのだが、あいにく、そのあたりは奥村鶴吉の『野口英世』にも記されていない。

 一方の小林は、『当世書生気質』が前途有望な医学生・野々口作の堕落と破滅の物語だと本気で信じていた節がある。逍遥宛の手紙で「主人公たる野々口作といふ医学生」などと書いていることからしてそうなのだが、東京歯科医学専門学校〔編・発行〕『野口英世 其生涯及業蹟』(1928年)には次のような記述がある。

 其時分清作は既に改名して居た、其の由来として小林氏の語らるゝ処によれば、清作が順天堂勤務中小林氏の御母堂[原文のママ]が腎臓病に罹り病勢軽からぬ事を聞くや、帰省して前後三十餘日熱心に看護につとめ、漸く快方に赴きたる頃一日[ある日、の意]坪内逍遥氏の書生気質と云ふ小説を繙いた処が、其中に野口清作[原文のママ]なる人物あり、初めは勉学に熱心将来に望をかけられたが後酒色に溺れ、遂に堕落し終ると云ふ筋が書てあつた。当の清作大に気持ちを悪くし遂に改名を志して之を小林氏に相談し其同意を得て英世と改めたのである。[東京歯科医学専門学校〔編〕『野口英世 其生涯及業蹟』東京歯科医学専門学校、1928年、32-33頁

 「小林氏の語らるゝ処」と言いながら小林の妻を母と取り違えるという初歩的なミスがあり、やや信頼性に疑問が残るが、どうやら、誤伝の出所として怪しいのは小林だということになりそうだ。そもそも、小林自身の回想の通りなら、彼は『当世書生気質』を野々口精作のくだりしか読んでいないはずだし、その後、再読の機会があったわけでもないようだ。

 小林栄は、教え子・野口英世の顕彰にすこぶる熱心な人物であった。これは憶測でしかないのだが、野口が世界的に有名な医学者になってのち、小林が取材に答えて改名のいきさつを語っているうちに、記憶違いや思い込みが生じた、ということではないだろうか。それをさらに、無責任な伝記作家たちが確認もせずに書いていった結果、もとの小説の内容とは全く違った話が出来上がってしまったのではないか。

 さて、野口清作改め英世は、改名を機に心機一転、これまでの行状を改めて真人間になった――といえば話は綺麗におさまるのだが、あいにく、そうはならなかった。伝記を読む限り、改名後も行状が特に変わった様子がないどころか、むしろ悪化した節がある。いったいなんのために改名したんだ、と、いぶかしくなるところである。

 1899年(明治32)5月、伝染病研究所助手として図書の管理を担当していた野口は、高額な貴重書数冊を紛失するという不祥事を起こす。奥村鶴吉は、無断で友人に貸し出したところ勝手に売り払われた、としているが、真相は不明である。少なくとも、この件で北里柴三郎所長(1853-1931)の信用を大きく損ねたのは事実のようで、野口は責任をとらされて横浜海港検疫所へ左遷されている。もっとも、月給は13円から35円に増えた。

 なお、当時の1円は現在のおよそ4000円である。もっとも、庶民レベルでの生活実感としては、その3〜4倍くらいの価値に見積もったほうがいいかもしれない。ちなみに、1897年(明治30)の巡査の初任給が9円、1900年(明治33)の小学校教員の初任給が10〜13円である(週刊朝日〔編〕『値段の明治大正昭和風俗史 上』朝日文庫、1987年)。

 同年10月、清国の牛荘[ニュウチャン](現・遼寧省海城[ハイチョン]市)でペストが発生したため、日本からも医師団を派遣することになり、北里は野口を推薦した。ところが、野口は支給された旅費96円を、出発前に借金の返済などで使い果たしてしまい、仕方なく血脇守之助に泣きついている。牛荘では月給200両[テール](のち300両に増額。当時の日本円で約300〜400円)の高級取りだったが、その月給を一晩で使い果たすほどの豪遊を繰り広げたため、ろくに貯金もできなかったという。

 1900年(明治33)にアメリカに渡った際のエピソードはさらに無茶苦茶である。義和団の武装蜂起が起こり、牛荘が危険になったため、野口は1900年6月に帰国する。この間、真面目に貯金してさえいれば渡米費用は十分に貯められたはずなのだが、なにしろ上述の通りの状況なので、ちっとも貯まっていなかった。故郷の幼馴染で資産家の息子の八子弥寿平(やご・やすへい)に無心しようとしたところ、さすがに見かねた小林栄に止められるし、北里柴三郎から金銭面での信用を失ったのが祟り、医学関係者からの出資は見込めず、八方ふさがりになってしまう。

 そこで野口は、ある資産家の娘と婚約し、その持参金200円を前借りして渡米費用にあてることにした。ところが、切符すらもまだ買わないうちに、彼は横浜で開かれた送別会で、自分の送別会なのに「僕に一切任しておいてくれ」と言い出し、一流料亭で豪遊を繰り広げたあげく、こともあろうに、肝心の渡米費用にあてるはずの金を一晩でほとんど使い果たしてしまったのである。翌日、さすがに真っ青になった彼は、東京に戻って血脇に泣きつく。さすがの血脇も、呆れかえってしばらくは二の句がつげなかったというが(当たり前だ)、いまさら渡米できない、ということになったら話がさらに面倒なことになる。やむなく血脇は高利貸しから300円あまりを借りたが、さすがにこの金を直接野口に手渡すわけにはいかず、自分で切符を買って野口に渡したという。

 この後日談がさらにひどくて、野口は結局、長いこと言を左右にしたあげく、1905年(明治38)に婚約を解消してしまうのである。婚約金300円を立て替え返済する羽目になったのは、またしても血脇であった。この金はずっと後の1915年(大正4)7月になって、野口が帝国学士院恩賜賞を受賞した際、その賞金で血脇に返済している。

 こうした一連の行状は奥村の『野口英世』に詳述されているのだが、「偉人・野口英世」のイメージに反するため、戦前に書かれた野口英世伝ではほとんど無視されるか、あるいは話を大幅にねじ曲げられていた。読者のほうも聖人君子としての野口英世像を求めるため、なかなか訂正される機会もなかったのである。戦後になると、こうしたマイナス面を含めた野口英世の全体像を描こうとする伝記も出てくるのだが、そうした側面が一般に知られるようになるのは、筑波常治『野口英世』(1969年)や秋元寿恵夫『人間・野口英世』(1971年)、そして渡辺淳一の伝記小説『遠き落日』(1975〜78年連載、1979年刊)あたりからのことだろう。

 1912年にアメリカ人女性メリー・ダーディスと結婚してからは、さすがに放蕩癖はおさまったといわれているが、金銭感覚のほうは、ついに最後まで身につかなったらしい。1915年に一時帰国した際も、すでにロックフェラー医学研究所の正員となっていたにもかかわらず、例によって旅費が捻出できず、旧知の星製薬社長・星一(ほし・はじめ。1873-1951。作家・星新一の父)に「ハハミタシ、ニホンニカエル、カネオクレ」(母見たし、日本に帰る、金送れ)と電報を送る始末であった。奥村は、「彼の財布には、どの国の金銭も決して滞在することを承知しなかつたのである」(485頁)と評している。

 ある意味で、野口英世と野々口精作には、確かに似たところがある。どちらも本人は問題だらけの人物なのに、世間にはその事実が巧妙に隠され、立派な人間だと思われている。もっとも野口英世の場合、世間に事実を隠したのは本人というよりも、世界的偉人・野口英世は非の打ちどころのない模範的人間であってほしい、と願う周囲の人間たちや伝記作家たち――そして、その読者たちだったのだが。

(おわり)

参考文献

  • 秋元寿恵夫[1969]「筑波常治著 野口英世 名声に生きぬいた生涯 “野口神話”のカラクリをあばく 類書と同じ解釈に陥った点も‥‥」『週刊読書人』第771号(読書人、1969年4月14日号)
  • 秋元寿恵夫[1971]『人間・野口英世――医学につくした努力の生涯』〔少年少女世界のノンフィクション 26〕(偕成社)
  • 『今ふたたび野口英世』編集委員会〔編〕[2000]『今ふたたび 野口英世』(愛文書院)
  • エクスタイン,ガスタフ[1959]内田清之助〔訳〕『野口英世伝』(東京創元社)
  • 奥村鶴吉〔編〕[1933]『野口英世』(岩波書店) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213588
  • 週刊朝日〔編〕[1987]『値段の明治大正昭和風俗史 上』〔朝日文庫〕(朝日新聞社)
  • 高田早苗[1927]『半峰昔ばなし』(早稲田大学出版部) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192045
  • 丹実〔編著〕[1976]『野口英世――その生涯と業績 第1巻 伝記』(講談社)
  • 筑波常治[1969]『野口英世――名声に生きぬいた生涯』〔講談社現代新書〕(講談社)
  • 坪内逍遙[1926]『當世書生気質』〔明治文学名著全集 第一篇〕(東京堂) http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/tomon/tomon_12163/
  • 坪内逍遙[1930]「野口英世博士發奮物語――見よ! この母、この師、而してこの人」『キング』第6卷第10號(大日本雄辯會講談社、1930年10月號)116-123頁
  • 坪内逍遙[1933]『柿の蔕』(中央公論社) http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/tomon/tomon_16417/ https://books.google.co.jp/books?id=wujJrVur8pgC
  • 坪内逍遙[2006]『当世書生気質』〔岩波文庫〕(岩波書店)
  • 東京歯科医学専門学校〔編〕[1928]『野口英世 其生涯及業蹟』(東京歯科医学専門学校) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177786
  • 中山茂[1995]『野口英世』〔同時代ライブラリー〕(岩波書店)
  • 滑川道夫[1978]『少年伝記 野口英世』(野口英世記念会)
  • 渡辺淳一[1990]『遠き落日 上』〔集英社文庫〕(集英社)
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2016年11月27日

『当世書生気質』と野口英世改名の謎(5)野口英世の虚像と実像

第1回第4回

 先述したように野口の上京は1896年9月のことだが、間もなく彼は悪癖を身につけてしまう。遊蕩癖と浪費癖、そして借金癖である。幼いころから貧乏であったにもかかわらず――というよりはむしろ、おそらくはそのせいで、彼には金銭感覚というものが全くといっていいほど身についていなかった。少しでも収入があると、すぐに友達に食事をおごったり遊里に行ったりして、あっという間に使い果たしてしまう。そして、そのたびに周囲にたかる、という行状を続けていたのである。貧農の家に育ったせいもあり、もともと幼いころから周りの友達にたかる癖があったのだが、都会にきて悪い遊びを覚えてしまい、その癖が悪化した。当然ながら悪評が立つのは避けられない。要するに、各種野口英世伝が記す「野々口精作」の行跡は、じつは、小説中の野々口精作よりも、実在の野口清作のほうによく似ていたのである。

 ところが、生前から没後すぐの時期にかけて書かれた野口英世の伝記は、そのほとんどが、そうした実像を隠して、野口を、あたかも完璧な聖人君子であるかのように描くものだった。なにしろ、アメリカで自分の伝記――1921年刊の渡部毒楼(善助)『発見王野口英世』だとされる――を一読した野口英世本人が、あまりの美化ぶりに呆れかえって

「まずい本だ。あの本に書いてあるような完全な人間なんているもんか。あの本に書いてあるような完全な人間になりたいと思う者なんてないだろう。あれは人間じゃないよ。人生はあんなふうにまっ直ぐに行くもんじゃないんだ。浮き沈みがあるんだ。浮き沈みのない人生なんて作り話にあるだけだ。」[ガスタフ・エクスタイン/内田清之助〔訳〕『野口英世伝』東京創元社、1959年、226頁]

とこきおろした、というエピソードがあるくらいである。逍遥が誤解したのも無理はない(なお『発見王野口英世』では、改名の理由は「野口清作では百姓臭くて、我ながら医師のような気がしない」[渡部毒樓『發見王野口英世』伊東出版部、1921年、38頁]となっており、『当世書生気質』に関するエピソードは出てこない。これに限らず、この本にはいい加減な記述が少なくなく、野口本人が酷評したというのもうなずける)。

 ちなみに、「婦人関係なぞはなかつた」というのも事実ではない。会津の会陽医院に勤務していた頃、野口は山内ヨネという女学生に恋をして、匿名でラヴレターを送ったりしている。その後、彼女は女医を目指して済生学舎に入学したため、野口と同窓になった。野口は彼女に頭蓋骨の標本をプレゼントしたり、検疫官の制服を着て気を引こうとしたりしたが、全く相手にされなかったという。とはいえ、彼女が女医となって会津に戻り、地元の医師と結婚するのは、野口の渡米後のことであり、失恋の痛手に耐えかねて渡米した、というのはさすがに作り話である。

 学歴こそないものの、常に本を手放さないほど勉学熱心な医学生でありながら、同時に、その本を持ったまま、金もないのに遊郭に遊びに行ってしまう、だらしなく金遣いの荒い遊び人で借金魔、という東京時代の野口の二面性は、東京歯科医学専門学校教授の奥村鶴吉(1881-1959)が、1933年(昭和8)発行の大著『野口英世』で詳細に明らかにした。奥村は血脇守之助宅で野口と数ヶ月間同居していたことがあり、また、アメリカでも野口の世話になったことがあって、野口の行状をよく知っていたのである。この伝記は、数多ある野口英世の伝記の中でも、もっとも基本的な文献のひとつとして扱われている。

 ところが、この奥村の伝記は、一方では『当世書生気質』についての誤解を助長することになってしまうのである。同書もまた、この小説の筋書きを次のように説明していたからである。

[…]その小説[『当世書生気質』]中に偶々出て来る医学書生に、彼の姓名に僅か「野」の一字加へただけの「野々口清作」[原文のママ]といふものがあつた。この野々口は、彼を知る人総てから将来を嘱望された秀才であつたが、ある機会から手もつけられぬ遊蕩児となつて、漸次堕落して行くといふ筋になつてゐた。彼[野口清作=英世]は驚愕[びっくり]して本を閉ぢた。彼と姓名が酷似するのみか、恰[あたか]も照魔鏡にかけられた如くに、彼がこの日頃、東都に於ける自分の醜態を今更の如く、まざ/\と思ひ浮べ、ぶる/\つと身震ひをして、もうそれ以上読むに堪へなかつた。[奥村鶴吉〔編〕『野口英世』岩波書店、1933年、195-196頁

 くどいようだが、『当世書生気質』には「彼を知る人総てから将来を嘱望された秀才」という描写もなければ「ある機会」についての描写もなく、「漸次堕落して行く」という描写もない。

 奥村『野口英世』執筆の時点では、逍遥はまだ健在だった。奥村『野口英世』と、「ドクトル野口英世と『書生気質』」が収録された逍遥の『柿の蔕[へた]』は、じつは発行年月日が同じ(1933年7月5日)である。逍遥本人に取材してさえいれば誤解は解けただろうし、逍遥の困惑も解消されただろうと思われるのだが、奥村は、先に触れた、小林栄から提供された逍遥の手紙(1930年5月16日付)を紹介し、『当世書生気質』が1885年(明治18)発表の作品であり、名前の類似は単なる偶然である、ということを示しただけで、十分だと思ってしまったようである。逍遥が手紙で『キング』に書くつもりだ、と知らせているのに、『キング』を確認した形跡も、なにより『当世書生気質』の内容を確認した形跡もない。

 奥村だけではない。その後の野口英世の伝記作家たちも、誰も『キング』を確認しようとしなかったようなのである。問題のエッセイは、丹実(たん・みのる)の大著『野口英世』(全4巻、1976〜77年)の文献目録にもない。渡辺淳一(1933-2014)による伝記小説『遠き落日』(1975〜78年連載、1979年刊)に至っては、「逍遙は英世のことを、随筆くらいでは書いたのかもしれないが、はっきりとした記録はない」などと書かれている(集英社文庫版、上巻、55頁)。どうやら、当の逍遥本人の発言であるにもかかわらず、野口英世研究者の間ではほとんど知られていないらしい。

 そして、奥村が間違いを訂正できなかったこともあり、その後に書かれた数多の伝記も、この間違いをそのまま引き継いでしまうことになる。

 1969年(昭和44)、秋元寿恵夫は、4月14日付『週刊読書人』に寄せた筑波常治(つくば・ひさはる)『野口英世』の書評で、「逍遥の『当世書生気質』をよくよんでみればわかる通り、野々口清作[原文のママ]はこの小説の主人公でも何でもなく、ましてや「大志を抱いて上京し、医者になるべく修業したのであったが、しだいに遊蕩に身をもちくずして、救いがたい状態に堕落していく」という筋立てでもない」ことを指摘した。このときまで、野口英世の没後40年以上、そして逍遥自身が間違いを指摘してから40年近くの間、野口の伝記作家たちは、誰も『当世書生気質』の内容を確認しなかった(あるいは、確認しても話を訂正しなかった)ようなのである。

 それどころか、秋元が誤りを指摘した後も、この誤伝は長く尾を引くことになる。渡辺淳一『遠き落日』や北篤『正伝野口英世』(1980年)など、秋元の『人間・野口英世』を参考文献として挙げている伝記にすら、なぜか同じ誤りが見られる。丹実『野口英世の生涯』(1976年、丹〔編〕『野口英世 第1巻』所収)にいたっては、『当世書生気質』の野々口精作登場の場面を長々と引用している(つまり、少なくともその場面は読んでいる)にもかかわらず、「この小説が、野々口精作という医学校の生徒がしだいに堕落するという筋書」だと説明しているのである。逍遥ならずとも、「一体、どこをどう読んだのであろう?」と首をひねりたくなるところである。

 この誤伝が、いつ、どのあたりから始まったのかはいまのところ不明なのだが、少なくとも野口英世の生前にすでに広まっていたことは間違いない。それどころか、生前の青少年向け読み物で広められていた話は、今よりもさらにデタラメだった。たとえば、1921年刊の『大正新立志伝』には次のようにある。

小林氏はその頃大評判の坪内逍遥博士の小説『書生気質』を一読したところが、その作中の人物に、野々口清作[原文のママ]といふ男があつて、天才肌ではあるが、後にはひどく、堕落するやうな経路が書かれてゐる。ところがその時、野々口清作[原文のママ]と呼んだ彼[野口清作=英世]は、その人物と姓名もまづそつくりで性格も多少似通つてゐるところから、小林氏は『野々口[原文のママ]もさうなつては困る。将来はどうあつても一大事業をやつて英名を世界に轟かさなければならぬ』といふので、英名の英と世界の世とを一つづゝとつて、英世と名づけたといふことである。[為藤五郎〔編〕『大正新立志伝』大日本雄弁会、1921年、36-37頁

 どうやらこの著者は、「英世」の名付け親が小林栄であることを知って、改名も猪苗代高等小学校在校時代のことだと誤解した上、『当世書生気質』を読んだのも小林栄だということにしてしまったようである。同じようなデタラメは『奮闘努力近代立志伝』(1924年)にも見られる。

 坪内逍遥博士の『書生気質』を読んだものは、篇中の主人公として現はれる野口清作[原文のママ]の名を知つて居るであらう。[…]野口英世氏は、その小年[原文のママ]時代の名を野々口清作[原文のママ]と云つたのである。書生気質の主人公野々口清作[原文のママ]が天才でありながら堕落する経路を読んだ氏の恩師小林氏は、氏の将来を慮つた結果、「世界に英名を轟かす」といふ意味から英世の名に改めてくれたのであつた。[経済之日本社編輯部〔編〕『奮闘努力近代立志伝』経済之日本社、1924年、221頁

 「坪内逍遥博士の『書生気質』を読んだもの」は、まず真っ先に、野々口精作が「篇中の主人公」ではないことを知るはずである。なんのことはない、書いた本人も読んではいないのだ。

 なお『当世書生気質』は、1897年(明治30)に『太陽』増刊号に再録されたのち(時期的に見て、野口が目にしたのはおそらくこの版)、30年近く再刊されなかった。おそらく逍遥が、この「旧悪全書」の再刊を嫌がったためだろう。1926年(大正15)に東京堂『明治文学名著全集』第1篇として再刊されたのちは再刊の機会が増え、『逍遥選集』別冊第1(春陽堂、1927年)、『現代日本文学全集』第2篇(改造社、1929年)、『明治大正文学全集』第3巻(春陽堂、1932年)、岩波文庫(1937年)などに再録されている。誤伝が広まった原因のひとつには、この作品が一時入手困難だったことがあるのかもしれない。

 それにしても、この誤伝を広めたのは誰なのだろうか?

第6回につづく

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2016年11月26日

『当世書生気質』と野口英世改名の謎(4)知らぬは逍遥ばかりなり?

第1回第3回

 各種野口英世伝が伝える『当世書生気質』のあらすじと、実際の小説の内容が全く違っている、という事実をいち早く指摘したのは、じつは、他ならぬ坪内逍遥本人である。

 1930年(昭和5)、逍遥は『キング』10月号に「野口英世博士発奮物語」というエッセイを発表した。このエッセイは、のち、「ドクトル野口英世と『書生気質』」と改題の上、坪内『柿の蔕[へた]中央公論社、1933年[http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/tomon/tomon_16417/]に再録されている(『逍遥選集』には未収録)。以下、『柿の蔕』による。

 話のきっかけは、この年5月、逍遥が小林栄から次のような問い合わせの手紙を受け取ったことである。

[…]明治三十年の頃順天堂病院に一医学生たりし当時の野口清作は御著書「書生気質」なる本を読みて該書中に主人公たる野々口清作[原文のママ]といふ医学生ありて恰も野口清作を呪ふが如き筋立なるを知りて深く驚歎いたし候自分も之に同情して英世と改名いたさせ世界の医界の英雄たれと訓戒致し候処本人も大いに奮起し遂に野口英世博士と相成り申し候右は偶然の御作意にして候哉今以て不思議に存じ候按ふに御著中の野々口清作の言動は野口清作の立志奮励に頗る有力なる刺激と相成り候次第に候願はくは当時の御趣意御漏らし下されたく別包記念写真呈上御願い申し候野口と自分とは義父子の間柄に候

(明治30年のころ、順天堂病院の一医学生だった当時の野口清作は、ご著書『書生気質』なる本を読んで、その本の中に主人公である野々口清作という医学生があり、あたかも野口清作を呪うような筋立てになっていることを知って深く驚きなげきました。私[小林]もこれに同情して英世と改名させ『世界の医学界の英雄になれ』と訓戒いたしましたところ、本人も大いに奮起し、ついに野口英世博士となりました。これは偶然のご作意なのでしょうか、今もって不思議に思っております。思うに、御著書中の野々口清作の言動は、野口清作の立志奮励にすこぶる有力な刺激となった次第です。願わくば当時のご趣意をお教え願えないでしょうか、別封しました記念写真を差し上げますので、お願いいたします。野口と私とは義父子の間柄です。)

 逍遥は「野々口作」なる人物をとっさには思い出せなかったが、『逍遥選集』を読み返して、「野々口作」が第6回に「たつた一度だけ顔を出す人物」で「無論、主人公ではない」ことを確かめている。

 すでに野々口精作登場の場面は紹介したが、あらためて逍遥自身の説明を引いておこう。

[…]此[この]粗放、此[この]磊落[らいらく]は、其[その]実、父母、親戚、学校当事者等を欺瞞するための小策略。野々口精作は、つまり、仮面を被つた放蕩者、要するに、今の世の学生には、斯[こ]ういふ風がはりなものもあるといふ作意なのである。此人物は此條下だけで立消えてしまつてゐる。

 逍遥にとってみれば、確かに名前がよく似ているとはいえ、なぜ、野口清作青年が、この小説に発奮させられ、改名を決意したのか、さっぱりわからない。野口英世の伝記は生前から多数書かれており、その中には改名のいきさつを記した文献も少なくなかったのだが、どうやら逍遥本人は、このときまで全くこの話を知らなかったようなのである。

 逍遥は5月16日付で小林に返信を出す。この手紙は奥村鶴吉〔編〕『野口英世』に引用されているので、そこから引用する。

復 故野口博士に関する御追憶談は洵に耳新しく深き感興を以て拝読致し候彼の拙作は明治十七年起稿十八年出版のいたづらかき甚しき架空人物の姓名なども大方出たらめに候あの比故博士は多分九歳か十歳におはし候ひけむ姓名の類似は申す迄もなく偶然に候何故医学生にあの如き放蕩者を作りいだし候ひしかと申すに当時東京大学医学部と称し候ひし本郷の医学校は其専門の然らしめし所か学生中に洒落者多く銭づかひもあらきよし風聞盛んなりし故さてこそあの如き諷刺を試み候ひしに過ぎずもつとも借金番附の如きは多少よりどころありしものに候

いづれにせよ四十五六年前の悪作おもひ出すさへ冷汗淋漓に候然るにあの如きものが思ひがけずも真個世界的大国手故博士発憤の一機縁と相成しとは一に是れ貴下の御高諭と故博士の英邁なる天資の然らしめし所たるや申す迄もなき儀と存じ候

さりとて世に珍しき御物がたり若しおさしつかえへなくば御仰せ越しのまゝに故博士の小伝をも加へて拙文につゞり例へばキングの如き誌上にて公にせんには今一世に瀰漫する惰気蕩気を多少廻らすに足るべきかと考へ候[…][奥村鶴吉〔編〕『野口英世』岩波書店、1933年、197-198頁

(返信。故野口博士に関する御追憶談はまことに耳新しく、深い感興を以て拝読いたしました。かの拙作は、明治17年起稿・18年出版の、いたずら書きもはなはだしいもので、架空人物の姓名なども大方デタラメです。あのころ、故博士は多分9歳か10歳だったのではないでしょうか[明治18年には数え年10歳]。姓名の類似は、申すまでもなく偶然です。なにゆえ、医学生としてあのような放蕩者を創作しましたかと申しますと、当時、東京大学医学部と称しておりました本郷の医学校[1930年当時は東京帝国大学医学部]は、その専門のせいでしょうか、学生中にしゃれ者が多く、金使いも荒いという風聞が盛んであったので、それであのような諷刺を試みたにすぎません。もっとも、[作中に登場する]借金番付のごときは、多少よりどころがあるものです。

 いずれにせよ、45〜6年前の悪作であり、思い出すことさえ冷汗が流れます。それなのに、あのようなものが思いがけずも、本当に世界的な大国手[名医]である故博士の発憤の一機縁となったとは、一にこれ、貴下の御教えと、故博士のすぐれた生まれつきの資質がそうさせたことは、申すまでもないことと思います。

 しかしながら、世にも珍しいご物語。もしお差支えなければ、お伝えいただいたままに、故博士の小伝をも加えて拙文につづり、例えば『キング』のような雑誌にて公にすれば、いまひとつ、世にはびこるだらけた気分、しまりのない気分を多少変化させるのに十分ではないかと考えます。)

 かくて、野口英世改名のいきさつを、当時の国民的雑誌であった『キング』に紹介しようと考えた逍遥は、詳しい事情を小林に問い合わせるとともに、自分でも下調べを始めた。すると、次のような噂話が耳にはいってきた。

 或[ある]人は、博士の洋行は失恋の結果だつたといふ噂だといひ、或人は、彼れは青年時代には中々の放蕩者だつたといふ噂だといた。双方とも無証拠で、単なる噂話であつたが、『書生気質』との関係を説明するには、むしろ誘惑的な材料であつた。

 いっぽう、野口英世伝のたぐいを読んでみると、そこではおおむね、『当世書生気質』は次のような話だとされていた。

「年齢、風采等までも同じやうな野々口清(実は精)作といふは田舎から上京した秀才の医学生、それが友人に誘はれて或芸妓になじみ、学業を怠り、其上、不摂生をしたために病気になり、果は女にも捨てられ、失恋と病苦とで悲観して自殺する」云々。

 逍遥はますます困惑する。

 ところが、小説中の精作にはそんな経歴は少しもない。いや、作の主人公小町田粲爾といふ人物とても、芸妓と馴染むといふ事はあるが、騙されたわけではなく、随つて失恋はせず、病気にもならず、自殺もしない。一体、どこをどう読んだのであらう?

 ……まったくもって同感である。

 逍遥は各種野口英世伝や小林との通信、野口を知る人たちとの聞き取りを通じて、野口が放蕩者だったという噂話を否定する。ところがその結果、なぜ野口が『当世書生気質』に発奮したのか、そもそも、いったいどこから「失恋と病苦とで悲観して自殺する」なんて話が出てきたのか、逍遥はさっぱりわからなくなってしまう。

 それにしても、清作[実在の野口清作=英世]は一意学問に精進してゐた真摯熱誠実の貧学生、或人の噂したやうに、放蕩する餘裕なぞがある筈はなく、又あらゆる意味で婦人関係なぞはなかつたといふ事だ。とすると、境遇、性格、風采までが、相酷似してゐたから、とは、一体、何を指すのか?

 逍遥は、野口が重病で順天堂病院に入院中だったものと誤解して、病気で前途を悲観していた時期に読んだために内容を勘違いしたのではないか、と推測した。しかし、このエッセイが『キング』誌に掲載された後で、逍遥は小林から、野口が『当世書生気質』を読んだのは、猪苗代で小林の妻を看病中だったときのことだと教えられる。それを知った逍遥は、「明敏な頭脳の持主であつた筈[はず]の博士[野口]が、どうしてそんな粗忽[そこつ]な読み方をしたの歟[か]、不思議でならない」とますます困惑している。

 ところが、じつは逍遥が最初に聞いた噂話のほうが真相に近かったのだ。確かに、野口清作青年が「一意学問に精進してゐた真摯熱誠実の貧学生」だったのは事実なのだが、彼は、それと同時に、間違いなく「中々の放蕩者」でもあったのである。

第5回につづく

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『当世書生気質』と野口英世改名の謎(3)『一読三歎 当世書生気質』

第1回第2回

 逍遥の一読三歎 当世書生気質』(いちどくさんたん とうせいしょせいかたぎ)は、最初、「春のやおぼろ」(春廼舎 朧)名義で、1885年(明治18)6月から翌1886年(明治19)1月にかけて分冊形式で刊行された(全17号)。坪内逍遥の最初の小説で、『小説神髄』(1885年9月〜1886年3月刊、執筆は『当世書生気質』より前)で逍遥が主張した近代的リアリズム小説論の実践篇、という意味合いを持っている。当時、逍遥は満26歳。3年前に東京大学文学部政治科を卒業したばかりであり、東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師をつとめていた。

 文学史的な位置づけから言えば、この小説は日本初の近代小説になりそこねた作品、とでも言えるだろうか。『小説神髄』の実践篇といいながらも、江戸の戯作文学の影響が色濃く残っているからである。文体も、会話文では当時の話し言葉が用いられているが、地の文はいまだ文語体である。言文一致体リアリズム小説の完成は、2年後に発表された二葉亭四迷『浮雲』(1887〜89年)まで待たなければならない。

 逍遥自身は後年、『当世書生気質』や『小説神髄』などの初期作品を自ら「予の旧悪全書」と自嘲し、再刊を嫌がった。『逍遥選集』(春陽堂、1926〜27年)刊行の際にも再録を渋ったが版元に押し切られ、「別冊」に収めている。なお、逍遥の全集は2016年現在も刊行されておらず、この『逍遥選集』が事実上の全集となっている。

 『当世書生気質』は、東大在学時代の学友たちの言動を下敷きにして書かれており、登場する書生たちは、作中では私塾(私立の専門学校)の学生という設定になっているが、実際のモデルは東大の学生である。当時、日本国内の大学は東京大学ただ一校のみであり(「帝国大学」になるのは1886年)、その学生はエリート中のエリートであった。

 時代設定は作品発表より3年前の明治15年(1882年)、つまり逍遥の在学時代(逍遥は「明治十四五年」としているが、作中で登場人物が明治15年4月の板垣退助遭難事件に言及する場面があるため、明治15年と特定できる)。東京の飛鳥山で、ある大学の書生たちが運動会を開いた際に、その一人である小町田粲爾(こまちだ・さんじ)が、田の次(たのじ)という芸妓と偶然に再会する場面から話は始まる。じつは、田の次は本名をお芳(よし)といい、粲爾の父で明治政府の役人だった浩爾(こうじ)と、その妾(めかけ)で元芸者のお常が、ふとした偶然から拾った孤児で、粲爾とは兄妹同然に育てられてきたのである。ところがその後、浩爾が失職したため妾を囲っておくことができなくなり、お常はやむなく芸者に戻り、お芳にも同じ道を歩ませることになった。そういうわけで、幼馴染同士の粲爾と田の次は互いにひかれあっているのだが、事情を知らない周囲から見れば、前途ある学生が女遊びにうつつをぬかしているようにしか見えない。そのせいで粲爾は次第に追い詰められていく。

 いっぽう、粲爾の学友で資産家の息子である守山友芳(もりやま・ともよし)には、明治元年(1868)の上野戦争の際、生き別れになった妹、おそでがいた。友芳は、これまた偶然に出会った皃鳥(かおどり)という遊女が、実は妹なのではないか、と疑い始める。

 以上の本筋と並行して、気ままでお調子者の倉瀬蓮作(モデルは逍遥自身に、別の友人を足し合わせたものという)、飄々とした、自他ともに認める奇人の任那透一(にんな・とういち)(モデルはジャーナリストの山田一郎)、スイカを拳割りする粗野な男で、男色家の桐山勉六(モデルは三宅雪嶺だとする説があるが、逍遥は否定している)、その友人で知恵もなければ勇気もない須河悌三郎(すがわ・ていざぶろう)、などといった一癖ある書生たちの行状記が次々と語られてゆく。最後は、田の次ことお芳こそが守山友芳の本当の妹であることが明らかになり、大団円を迎える。

 さて、問題の野々口精作はというと、全20回(章)のうち第6回「詐[いつわり]は以て非[ひ]を飾るに足る 善悪の差別[けじめ]もわかうどの悪所通ひ」だけに登場する。この回は1885年8月に刊行された。以下、岩波文庫版によって見ていく。

 「年の頃は二十二三、ある医学校の生徒にして、もう一二年で卒業する、野々口精作といふ田舎男」。帰省から帰ってきたばかりのこの男が、友人の倉瀬蓮作とばったり出会い、池之端(現・東京都台東区、上野不忍池の周辺)の「蓮玉」という蕎麦屋(実在の蕎麦屋で、正確には「蓮玉庵」といい、当時は上野不忍池のほとりにあった。現在は池之端仲町通りに移転)で一杯やる……というだけの話である。じつのところ、この場面は本筋とまったく関係ない

 野々口は倉瀬に対して、帰省中「親類の野郎共めが、皆々我輩を信用して、倅共[せがれども]を三人まで今回我輩に委託したぞ。蓋[けだ]し東京へ帰つて後も、同じ所に下宿をして我輩の薫陶を受[うけ]させいたといふ請願サ」とこぼす。というのも、見かけは質素というより粗放磊落で、自分ではぬけぬけと「謹直方正の人間」と言い張るこの男、じつはとんだ放蕩者で、おまけに嘘つきだからである。たとえば、父親に金をせびる口実がなくなったので、病気を装おうとして、酒を六合も飲んだ上に「下谷からお茶の水まで」(約4km)全力疾走した上で病院に駆け込んだという。それでもこの男、「我輩は親の金はつかふけれど、別にたいした外債も醸[かも]さないぞ。それでも五十円位はあるが」と語る。なにしろ、彼の通っている学校には他にもひどい借金魔がおり、筆頭は2000円なので、50円というのは少ない方なのである。

 貨幣価値の計算は難しいのだが、1881年頃の1円は、だいたい現在の4000〜5000円くらいになる。つまり50円は20〜25万円、2000円は800〜1000万円くらいとなる。

 ただしこの男、放蕩ぶりを隠すのが巧妙な偽善者で、「校長も証人も親父も阿兄[あにき]も、各々我輩を信用して、曽[かつ]て疑ふもの一人もなしサ。金を送つてよこせというてやれば、安心して送つてよこすし、証人の所へ頼んでも、疑はないで貸してよこすぞ」とうそぶく。野々口が倉瀬をさそって遊郭へ向かう、というところで第6回は終わる。まさしく、「いつわりはもって非を飾るに足る、善悪のけじめも若人(わこうど)の悪所通い」(「わからない」と「若人」をかけている)というサブタイトル通りの、猫かぶりの小悪党の話である。なお逍遥は、「本篇(第六回をいふ)中の書生の如きは、決して上流の書生にあらねば、看客[みるひと]其積[そのつもり]にして読みたまへ」とわざわざコメントしている。

 その後、野々口は二度と再登場しない(名前だけは第7回と第18回下で言及されている)。最終回(第20回)のエピローグで、次のように語られているだけである。

 野々口はいかにしけん、池の端[第6回の場面]以来倉瀬もきかず、放蕩家[ほうたうもの]などと悪くはいへど、野々口の如きは利発者[りはつもの]なり、あの術[て]でお医者さまになつたる時には、屹度[きっと]甘くやるに相違ないとは、是又倉瀬の独断論なり。蓋し保証[うけあ]はれぬ話にこそ。

 確認しておこう。各種野口英世伝が伝える「野々口精作」像のうち、田舎から東京に出てきた放蕩者の医学生、という設定までは確かに合っている。しかし、それ以外は全くのデタラメで、まず主人公ではないどころか、本筋と何一つ関係のない一端役にすぎないし、将来を楽しみにされている真面目な人物という描写は一切なく、最初から放蕩者として登場する。堕落のきっかけが語られることもないし、何より、周囲から見捨てられる場面など存在しない。むしろ、その放蕩ぶりを学校や親族や保証人には巧妙に隠しており、友人からは「放蕩者といえば悪くきこえるが、地は利発者だから、無事に医者になった際には案外うまくやるかもしれない」と思われているのである。

第4回につづく

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2016年11月24日

『当世書生気質』と野口英世改名の謎(2)野口清作が野口英世になるまで

第1回

 まず、野口英世の改名の、正確ないきさつを確認しておこう。

 野口清作(英世)は1893年(明治26)3月、数え年18歳(満16歳)で猪苗代高等小学校を卒業した後、会津若松の会陽病院に勤務し、医師としての修業を始めることになった。当時の制度では、医学校を卒業しなくとも、医師開業試験に合格することで医師免許を得ることができた。医師開業試験は前期と後期の2回があり、それぞれ1年半以上(つまり計3年以上)の「修学」が受験資格とされていたが、実際にはかなりルーズで、病院での徒弟修業なども「修学」として認められていた。

 1896年(明治29)9月、野口は数え年21歳(満19歳)で勉学と医術開業試験受験のため上京し、10月に前期試験に合格した。その後、会陽医院時代に知り合った高山歯科医学院(のち東京歯科医学院、東京歯科医学専門学校を経て現・東京歯科大学)講師の血脇守之助(ちわき・もりのすけ)(1870-1947)を頼りながら勉学を続け、翌1897年(明治30)5月に医術開業試験の予備校である済生学舎(日本医科大学の間接的な前身)に入学、10月に後期試験に合格し医師免許を得ている。その後、ひとまず高山歯科医学院講師となり、11月に順天堂病院に助手として就職、1898年(明治31)10月に伝染病研究所(伝研、現・東京大学医科学研究所)に移籍した。その後、海港検疫官補などを歴任したのち、1900年(明治33)12月、数え年25歳(満24歳)のときに渡米した。その後は1915年(大正3)に一時帰国しただけほかは、死去するまで海外で過ごしている。

 野口が改名を決意したのは1898年夏、順天堂病院在籍中のことである(伝研在籍中としている文献があるが、これは奥村鶴吉〔編〕『野口英世』が、伝研移籍を誤って1898年4月としたことの影響と思われる)。小林栄の後年(1939年)の回想によれば、改名のいきさつは次のようなものだったという。

 丁度[ちょうど]その頃、私[小林栄]の家内が病気にかゝつた。なか/\なほらない。それは腎臓病であった。博士[野口清作=英世]の方へ報知したれば、心配して大家の説だの、薬等を送ってよこして居ったが、なか/\はかどらない。とても耐[こら]へられないで、[野口本人が猪苗代に]やって来た。日夜看病に尽力、まことに親切であった。

[…]流石の病気もだん/\よい方になって、先づ安心といふ事になった。当時の野口清作、少し退屈を催してあったのか、どこからか小説の様なものをもって来て、見て居ったが、はったと刺激を受けて歎息と憤慨との様子があらはれた。彼いふには、「先生大変なことが出来ました。この本を見て下さい。実に残念で堪へられません。」腕組になって、切歯扼腕といふ有様であった。

「何事であるか。」「この本を見て下さい。大変な事です。」

「そんな厚い本を見てゐられない。」「いや、すこうし見て下さるとわかる。」

 それは坪内逍遙博士の『当世書生気質』といふ本であったが、見たところがなるほど驚いた。

「これは貴様が悪い事をした事を坪内先生に見つけられたのであらう。」

「決してわたしではありません。決して致しません。」

「然しそれはどうもあやしい。『野々口精作』医学生、天才肌の将来有望なる青年とある。どうもお前の事によくあたってをるではないか。これは坪内先生が見たやうに思ふがどうだ。」

「私に似てをるから、私は残念でたまりません。決して私ではありません。残念でたへられないから、何とかして下さい。」

 顔色をかへて奮激してをる。詐[いつわ]りでないやうに思はれた。[小林栄「野口英世の思出」丹実〔編著〕『野口英世――その生涯と業績 第1巻 伝記』講談社、1976年、所収、231-232頁]

 40年以上も経ってからの回想を口述筆記したものなので、内容の正確さには多少疑問がある。たとえば「野々口作」とあるが、後で触れるように、小林は後年(1930年)に逍遥本人から指摘されるまで、ずっと「野々口作」だと思い込んでいたのである。また、野々口精作は確かに医学生だという設定だが、「天才肌の将来有望なる青年」などという話は作中には一切出てこない。ついでながら、逍遥が文学博士となったのは、実際には翌1899年である。

 小林は『当世書生気質』の具体的な内容を説明していないので、野口がいったい何に憤慨したのか、この記述からはさっぱりわからない。野口清作と名前のよく似た野々口精作という人物が、あまり良くない役回りで登場するらしい、ということがわかる程度である。この話からすると、どうやら野口清作青年は、野々口精作登場の場面までを読んで憤激し、小林にその部分だけを読むように求めたらしい。つまり、二人とも小説を最後まできちんと読んだ形跡がないのである。

 小林は野口が野々口のモデルなのではないかと疑い、野口はやけに必死になってそれを否定しているのだが、そもそも、『当世書生気質』は1885〜86年(明治18〜19)に分冊形式で発表され、1886年に単行本にまとめられたものである。執筆時の逍遥が、当時満8歳の小学生だった野口清作の名前を知り得たはずもない。いうまでもなく、単なる偶然の一致である。なお、野口が目にしたのがどの版かは不明である。10年以上も前に出版された小説をなぜ読む気になったのかも不明なのだが(「知人から薦められて読んだ」としている文献もあるが、小林の回想にはそのような話は出てこない)、前年に出された『太陽』博文館創業十周年紀念臨時増刊(1897年6月)に全文が再録されているので、これを読んだのかもしれない。

 引用に戻る。

「然し不思議な事だ。困った事だ。何とかするといって、名誉毀損の訴を起す訳にも行くまい。大層苦しければ、改名する外あるまい。外に工夫はない。」

「どうぞ改名して下さい。」「いや、今すぐに改名は出来ない。少し時日を待つ外ない。その中に考へて見よう。」

 それで不承々々[ふしょうぶしょう]、その話をそれまでで打ちとめた。しかし不愉快な様子をして居ったのは気の毒のやうでもあった。

 それから二三日過ぎて催促を受けた。「待て、今ちっと考へる。」

 そのあした(翌日)、

「一つ考へたが、『英世』といふことがどうかと思ふ。英といふ字は小林家の実名の頭字[かしらじ]だ、これは立派な字だ。英雄等といふ時に使ふ字だ。世の字は世界、広い意味をもってをる。さうすると、医者の英雄になって、世界によい仕事をしろといふ事になるのだ。あんまり立派すぎる。過分であらう。近頃は人間より名前が勝って、まことに不相応なをかしい事が世の中に大分にあるやうだ。お前の名もその通り、人間より名の方が立派になっては可笑しいものにならう。名負けはせぬか、どうだ。」「いや、まことに結構です。どうぞその名にして下さい。大いに奮励して名に負けないやうに致します。きつと奮励いたします。」[丹〔編著〕『野口英世 第1巻』232頁]

 小林としては、数日置いて頭を冷やさせるつもりだったのだろうが、野口は意固地になっていたらしい。

 なお、今でもそうだが、戸籍上の改名というものは簡単にできるものではなく、それなりに正当な理由というものが必要とされていた。そこで小林はからめ手を考え出す。正当な改名の理由の一つに、同じ町村内に同姓同名者がいる、というものがあったので、それを利用したのである。

 戸籍面も改名しようとして村長[野口の本籍地である翁島村の村長]に相談し、同村に同名の人をつくる事にして、蜂屋敷[現・猪苗代町大字堅田字蜂屋敷。当時は千里村所属]といふ所の佐藤清作といふ青年と、その親に頼んで、三城潟[現・猪苗代町大字三ツ和字三城潟。当時は翁島村所属。野口の出生地]の野口といふ人のうちに籍を移した。それで野口清作が同村に二人出来た。それから願って改名したのでありました。大分日数がかゝつてあった。[丹〔編著〕『野口英世 第1巻』232頁]

 さて、野口清作青年がそれほどまで憤慨した『当世書生気質』とは、どのような小説なのか?

第3回につづく

posted by 長谷川@望夢楼 at 19:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『当世書生気質』と野口英世改名の謎(1)野口清作と野々口精作

 野口英世(1876-1928)は出生時の戸籍名を「清作」といい、1898年(明治31)、数え年23歳のときに「英世」と改名した(正式に戸籍名を改めたのは翌1899年10月)。「英世」という名を考案し、戸籍名変更のために尽力したのは、清作の猪苗代高等小学校(現・猪苗代町立猪苗代小学校)時代の恩師、小林栄(1860-1940)である。

 ついでながら、もちろん本人は「ひでよ」のつもりでいたし、英語論文でも Hideyo Noguchi と署名していたのだが、生前、この名前は、日本ではもっぱら音読みで「えいせい」と読まれていた。

 この改名が、坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)(1859-1935)の小説『当世書生気質』(とうせいしょせいかたぎ)(1885-86)の影響だ、という話はつとに知られている。この小説に、「野口清作」と酷似した「野々口精作」(「清」ではなく「精」であることに注意)という名前の不良医学生が登場するのを苦にして改名した、というのである。

 たとえば、財団法人野口英世記念会発行の『少年伝記 野口英世』(1978年)には次のようにある。

ある人が、

「清作くん、この本は坪内逍遙という人のかいた『当世書生気質』という小説だよ。よんでみたまえ、おもしろいよ」

と、本をかしてくれました。

 清作はよんでいくうちに、なるほどおもしろくて、ぐんぐんとひきいれられていきました。小説の中に、自分とよくにた名の医学書生がでてくるからです。「野々口精作」といって、自分の名まえ、「野口清作」によくにています。

[…]

 よみすすんでいくうちに、清作は、だんだんいやな気持ちになってきました。小説にでてくる主人公の「野々口精作」は、みんなから、しょうらいをたのしみにされていたのに、あるつまらない事件から、だんだんわるくなって、とうとうさいごには、だれからもあいてにされなくなってしまうという、すじだったのです。

 清作は、名まえがにているばかりでなく、医学書生であることなども、なんだか、自分のことがかかれた小説のようにおもえました。

「先生、この『当世書生気質』をよんで、すっかりかんがえてしまいました。どうも、ぼくによくにているところあるし、それに、清作という名もよくないなあ。ぼく、なんだか、この小説の清作になりそうな気がします。」

「あはは、なにをくだらないことをいうのだ。しっかりしたまえ。しかし、それほど気にかかるなら、名まえをかえてみたまえ。改名をするんだよ。」

 小林先生が、わらいながらいいました。[滑川道夫『少年伝記 野口英世』野口英世記念会、1978年、79-80頁]

 野口英世の伝記類には、これと同じような記述がしばしば見られる。ところが、じつは、ここに紹介された『当世書生気質』の内容は全くのデタラメなのである。確かに、野々口精作という名前の男が登場することは事実である。しかし、まず、この男は主人公ではなく本筋と無関係な場面にチョイ役で登場する人物にすぎない。しかも、この男は最初から最後まで、猫かぶりの堕落したお調子者として描かれている。地元ではきちんとした学生を装っているらしいので、「みんなから、将来を楽しみにされていた」というのは当てはまるといえなくもない。しかし、作中で「あるつまらない事件」が起こることはなく、したがって「だんだん悪くなって、とうとう最後には、誰からも相手にされなくなってしまう」ということもない。

 医師・医学史家の秋元寿恵夫(1908-94)は、1971年(昭和46)に出版した少年少女向け伝記『人間・野口英世』の中で、「『当世書生気質』のどこをさがしても、野口の伝記作者がひきあいにだしているような話は、いっさい見あたらないのです」「べつに野々口は、この小説の主人公でもなんでもないのです」と指摘している。野口英世の伝記類でこの誤りを指摘したのは、この秋元の本が最初と言われている。どうやら、それまでの伝記作家たちは、そもそも『当世書生気質』の内容を確かめてすらいなかったようなのである。

 いい加減な話なのだが、いったいなぜこんなことになったのだろうか?

第2回につづく

posted by 長谷川@望夢楼 at 00:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

活動再開

しばらくこちらの方にほとんど投稿しておりませんでしたが(Twitterも休止していた)、このあたりでなんとなく活動を再開してみることにします。また予告なく活動を停止するかもしれませんけど。
メインのノートPCが故障したり、いろいろふんだりけったりな今日この頃です。
posted by 長谷川@望夢楼 at 00:49| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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