2015年02月11日

平泉澄「そのような間違いが出るほど、我が国の歴史は古いので、それはむしろ楽しいこと」

 たびたび登場していただいている平泉澄の『少年(物語)日本史』より。

(※『少年(物語)日本史』については2005年10月3日「「動物園の猿の子が、人になって生れてきた例がありますか」」 http://clio.seesaa.net/article/7629186.html 、平泉澄については2013年6月6日「平泉澄と仁科芳雄と石井四郎」http://clio.seesaa.net/article/365379599.html 、6月17日「平泉澄「この刀によって私は陸軍というものを鍛え直した」」 http://clio.seesaa.net/article/366604713.html 、神武天皇即位紀元については2014年2月10日「資料:『日本書紀』による古代天皇の年齢」 http://clio.seesaa.net/article/387977700.html 、2月11日「「建国記念の日」の基礎知識」 http://clio.seesaa.net/article/388018490.html 、2月15日「『開化問答』の祝祭日問答」 http://clio.seesaa.net/article/388710217.html も参照。)

世界各国各民族、あるいは各宗教に、いろいろ紀元が立てられていますが、そのどれを見ても、正確に事実を実証し得るものは、ほとんでありますまい。今年昭和四十五年は、それらの紀元では、次のようになります。

  インド教暦紀元      二〇二六年
  回教暦紀元        一三四九年
  フリーメーソン紀元    五九七〇年
  ユダヤ紀元        五七三〇年
  コンスタンチノープル紀元 七四七八年
  アレクサンドリア紀元   七四六二年
  マケドニア紀元      二二八一年
  スペイン紀元       二〇〇八年
  ペルシャ紀元       一三三九年
  キリスト紀元(西暦)   一九七〇年

 これを見て、どう思いますか。最後のキリスト紀元のほかは、歴史的事実としては、まず信用がむつかしいと思われるでしょう。ところがそのキリスト紀元すら、事実とは違うのです。すなわちそれはキリストの誕生を、紀元元年とする建前ですが、実はその計算に誤りがあって、キリストの生れたのは、紀元元年ではないのです。[平泉澄『少年日本史(上)』講談社学術文庫、1979年、37-38頁]

 1970年が基準なのは、『物語日本史』がこの年の発行だからである。

 この文章には少しおかしなところがある。よく見ると、「回教暦紀元」と「ペルシャ紀元」は「キリスト紀元」よりも値が小さい。つまり紀元元年の年代が新しい。それなのに、なぜ「最後のキリスト紀元のほかは、歴史的事実としては、まず信用がむつかしいと思われるでしょう」と言えるのだろうか。

 平泉は、『日本書紀』に記された神武天皇の即位年代が不自然に古いことを認め、「皇紀は、事実よりも五、六百年延びている」ことを認めている。そして、西暦紀元前660年という年代が、中国起源の予言思想である讖緯説に基づく辛酉(しんゆう)革命説に基づいて算出されたことも認める。

 辛酉革命説とは、干支が60年に一度の辛酉(しんゆう、かのと・とり)にあたる年には天命が革(あらた)まり、大変革が起こる、とする説である。

 神武天皇の即位年代が辛酉革命説に基づく創作ではないか、とする説は、江戸時代の藤貞幹(とう‐ていかん、1732-97)や伴信友(ばん‐のぶとも、1773-1846)などにも見られるが、本格的には明治期に入ってから、那珂通世(なか‐みちよ、1851-1908)の「日本上古年代考」(1888年)によって確立された(星野良作『研究史神武天皇』吉川弘文館、1980年、他)。

 平安時代の昌泰4年(901)、三善清行(みよし‐の‐きよゆき、847-918)は『革命勘文』を朝廷に提出し、この年が辛酉年にあたることから改元するように主張、朝廷はこれを受け入れて元号を「延喜」と改めた。日本での辛酉改元はこれが最初の例で、その後、永禄4年(1561)と元和7年(1621)の2回を除き、幕末まで続けられている。このとき清行が引用した『易緯』鄭玄註(鄭玄[じょうげん、127-200]は後漢代の学者)によれば、6甲(甲が6回=60年)が1元、7元×3=21元が1蔀(ぼう)で「合わせて1320年」(「合千三百廿年」)、これがひとつの大きな周期になっているという。清行はそこから、神武天皇即位から1320年後の斉明天皇7年(661年)が2蔀目の始まりだ、と見なした。しかし、正しく計算すると、1蔀は1320年ではなく1260年(60年×21)になるはずである。そこから那珂は、基準年は斉明天皇7年ではなく推古天皇9年(601年)であり、そこから遡って1260年前の紀元前660年が神武天皇の即位年に定められた、と考えたのである(那珂通世「上世年紀考」初出1897年、松島榮一〔編〕『明治文學全集 78 明治史論集(二)』筑摩書房、1976年、所収)。

 平泉澄は、歴史学者としてこの那珂説を受け入れつつ、「我が国の古代史に、年の延びすぎがあっても、それは珍しいことではなく、かつまたそれは讖緯の説の責任であって、我が国の歴史自体の責任ではないのです。[…]そのような間違いが出るほど、我が国の歴史は古いので、それはむしろ楽しいことで、少しも心配する必要はないのです」(38頁)と主張する。つまり、悪いのは中国から渡来した讖緯説だ、というわけだ。その上で、事実ではないからといって神武天皇紀元(皇紀)を捨てるべきではない、と主張するのである。

 それはともかくとして、いったい上に引用した表はなんなのだろうか?

 とりあえず、逆算して元年を算出しておこう。

紀元 西暦1970年 元年
インド教暦紀元 2026年 前57年
回教暦紀元 1349年 622年
フリーメーソン紀元 5970年 前4001年
ユダヤ紀元 5730年 前3761年
コンスタンチノープル紀元 7478年 前5509年
アレクサンドリア紀元 7462年 前5493年
マケドニア紀元 2281年 前312年
スペイン紀元 2008年 前39年
ペルシャ紀元 1339年 632年
キリスト紀元(西暦) 1970年 1年

 まずキリスト紀元から。イエス・キリストはユダヤ王ヘロデの治世に生まれたとされる(《マタイ福音書》2章)。ところがヘロデ王は紀元前4年に死去しているので、当然、イエスの生誕はそれ以前でなければならなくなってしまう。この紀元を考案したのは6世紀ローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスであるが、彼の決定した年代は、歴史的根拠というよりも神学的計算に基づいたものである。この辺りのややこしい事情については、岡崎勝世『聖書 vs. 世界史――キリスト教的歴史観とは何か』(講談社現代新書、1996年)に詳しい。

 「インド教暦紀元」とあるのは、北インドで多く用いられる、紀元前57年を紀元とするヴィクラマ紀元のこと。ネパールではビクラム暦として公用暦となっている。ヴィクラマーディティヤという王がシャカ族との戦争に勝利した年を紀元にしたとされる。なお、ヴィクラマ暦での1年の始まりは、西暦でいう4月中旬である。他の暦法も1年の始まりが西暦とは異なるのだが、それを言い出すとややこしいことになるので、その点は割愛させていただく。

 奇妙なのは「回教暦紀元」と「ペルシャ紀元」である。「回教暦」というのは622年を紀元とするヒジュラ暦のつもりだろう。「ヒジュラ」(ヘジラ、聖遷)とは、イスラームの教祖であるムハンマドが、622年にマッカ(メッカ)からヤスリブ(マディーナ、メディナ)に移り住んだ出来事のことである。しかし、 1970-622+1=1349 と計算したのならとんでもない間違いだ。ヒジュラ暦は1年を354日とする純粋な太陰暦なので、太陽暦の1年とは合わないのである。1970年はヒジュラ暦では1389/90年にあたる。一方の「ペルシャ紀元」はおそらくイラン暦(ヒジュラ太陽暦)のつもりなのだろうが、こちらの方こそ 1970-622+1=1349 でよいのに、なぜか10年少ない数字を出している。どうやら、平泉澄はイスラームの暦法についての基礎知識がなかったようだ。

 「マケドニア紀元」とあるのは、紀元前312年を紀元とするセレウコス紀元と思われる。この年はアレクサンドロス大王の部下であったセレウコス(1世)が自立し、セレウコス朝を開いた年である。

 「スペイン紀元」は中世のイベリア半島で用いられた紀元。紀元前38年を紀元とする。ローマのイベリア半島支配が本格的に始まった年とされる。

 残りの「フリーメーソン紀元」「ユダヤ紀元」「コンスタンチノープル紀元」「アレクサンドリア紀元」は、いずれも『旧約聖書』にある天地創造を紀元元年とする暦法であり、「創造紀元」「世界紀元」などと呼ばれる。この年代に様々な説があったため、由来は同じなのにいくつもの紀元が生じてしまったのである。なお「コンスタンチノープル紀元」は一般にはビザンティン紀元と呼ばれることが多い。

 ――と、ここまで説明してきたことからも明らかなように、「キリスト紀元のほかは、歴史的事実としては、まず信用がむつかしい」というのは事実に反している。確かに天地創造紀元のたぐいは論外としても、セレウコス紀元やヒジュラ紀元は、少なくともキリスト教紀元よりは信憑性がある。おそらくこの表は、内容のいい加減さから見て、よく調べもせずにどこかから適当に引っぱってきたものなのだろう。

 それにしても、「大東亜戦争はアジア解放のための戦いだった」などと主張している人物が、イスラームの暦法についてろくな知識もない(仏滅紀元やインドのサカ紀元に言及がないところからすると、その辺りも知らない)のはひどい――というと、いささか言い過ぎだろうか。

posted by 長谷川@望夢楼 at 18:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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