2014年02月11日

「建国記念の日」の基礎知識

 ちょっとしたメモ書きとして――。

 「建国記念の日」は1966年(昭和41)の「国民の祝日に関する法律」(祝日法)改正で新設された祝日で、「建国をしのび、国を愛する心を養う」日とされている(「建国記念日」ではなく「建国記念日」である。お間違えなきよう、念のため)。その起源は、1873年(明治6)に始められ、1948年(昭和23)祝日法の公布・施行とともに廃止された「紀元節」であり、もともとは初代天皇とされる神武天皇の即位を記念した祝日であった。

 ところで、なぜ2月11日が神武天皇即位の日なのか。

 『日本書紀』巻第三に

辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮
(辛酉年の春正月の庚辰の朔に、天皇、橿原宮に即帝位[あまつひつぎしろしめ]す)

とある。つまり神武天皇は辛酉年の1月1日(旧正月)に即位したことになる。当然ながら、この暦は中国や日本で用いられていた太陰太陽暦であり、西暦(グレゴリオ暦)との間には1〜2ヶ月程度のズレがある。

 この辛酉年は西暦に直すと紀元前660年である。それでは辛酉年正月一日を西暦に直すと紀元前660年2月11日なのか、というと、話はそう簡単ではない。

 太陰太陽暦では、朔(新月)の日を月の1日とし、次の朔までの間を1月とする。月の満ち欠けの1周期(朔望月)は約29.53日なので、1ヶ月は29日(小の月)ないし30日(大の月)となる。12ヶ月をもって1年とするが、このままでは1年が約354日にしかならず、次第に季節とのズレが生じる。そのため、数年ごとに閏月を置いて1年を13ヶ月にすることで季節とのズレを調整する。大の月・小の月の順序や閏月の挿入には複雑な計算が必要になるため、さまざまな暦法が考え出された。つまり、使っている暦法によって、太陽暦との対応関係が違ってくるのである。

 さて、明治5年(1872)11月15日太政官布告第343号[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787952/199]により、翌年からの太陽暦(グレゴリオ暦)施行に際して、1月29日を「神武天皇御即位相当」の日として祝日とし、さらに明治6年(1873)3月7日太政官布告第91号[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787953/112]でこの日を「紀元節」と呼ぶことにした。なぜ1月29日だったのかといえば、単純に、明治6年の旧正月が1月29日だったからである。

 しかしその後、あらためて暦法を検討しなおした結果、明治6年10月14日太政官布告第344号[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787953/335]で、紀元節は2月11日に変更され、以後、この日に固定されることになった。

 ただし、ここにはいくつかの問題がある。まず、「推古朝以前に関する《日本書紀》の暦法が紀元節設定当時には明らかではなかったので,神武天皇即位日とされた辛酉年正月元日を太陽暦に換算することは不可能であったはずであり,2月11日の日付は当時の学問水準に照らしても無根拠であった」(赤沢史朗「紀元節」『世界大百科事典』CD-ROM版、1998年)。

 さらに、紀元前660年という年代が問題である。『日本書紀』による古代の天皇の在位年数は、おしなべて異常に長い。たとえば神武天皇は在位76年、数え年127歳で死去。第6代孝安天皇は在位102年、137歳で死去。第11代垂仁天皇は在位99年、140歳で死去、といった具合である。それどころか記事中に矛盾があるものもあって、たとえば第12代景行天皇は在位60年、106歳で死去したとされているが、立太子時の年齢と照合すると、143歳だとしないとつじつまが合わない。要するに、在位年数があからさまに不自然に引き伸ばされているのである。したがって、仮に神武天皇(に該当する人物)が実在したとしても、その時代は紀元前660年よりもはるかに下った年代だと考えなければならない。結局のところ、神武天皇即位日をグレゴリオ暦の2月11日に特定する根拠は、存在しないのでする。

 さて、戦後、 GHQ/SCAP の介入により紀元節は祝日としての地位を失った。しかし、1951年(昭和26)にサンフランシスコ講和条約が調印されたころから、神社本庁などの保守・右翼勢力を中心とする紀元節復活運動が始める。

 「建国記念日」を追加する祝日法改正法案は提出と廃案を繰り返したあげく、1966年(昭和41)、祝日の名前を「建国記念日」とし、法律文中には具体的な日付を記載せず「政令で定める日」とすることで妥協がまとまり、1966年6月の改正で「建国記念の日」が追加された。その後に設置された「建国記念日審議会」は12月に「2月11日」とする答申を行い、第1次佐藤栄作内閣は昭和41年12月9日政令第376号「建国記念の日となる日を定める政令」[http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S41/S41SE376.html]により、「建国記念の日は、二月十一日とする」と決定したのである。

 このとき、自民党が当然のごとく2月11日を支持したのに対し、日本社会党は5月3日(1947年に日本国憲法が施行された日)、公明党は4月28日(1952年にサンフランシスコ講和条約の発効により日本の国家主権が回復した日)、民社党は4月3日(推古天皇12年[604]、聖徳太子が憲法十七条を制定したとされる日。ただし、この日付は太陰太陽暦による)を主張、他に8月15日(終戦記念日=1945年)などを主張する向きもあった。(4月28日は奄美・沖縄では日本の主権から公式に切り離された「屈辱の日」だが、当時は沖縄「復帰」前であったこともあり、そのあたりのことはあまり問題にされなかったようである。)

 アメリカ人日本研究者のケネス・ルオフは「審議会は世論調査を実施したが、四七パーセント強の日本人が二月十一日を支持していた。もし二月十一日を建国記念日とすることに反対する人々が、一本化した代替案に結集できていれば、この日を祝日とるすことを阻止できたに違いない」(ルオフ/木村剛久+福島睦男〔訳〕『国民の天皇――戦後日本の民主主義と天皇制』岩波現代文庫、2009年、275頁)と指摘している。その通りではあろうが、そもそも、政府・自民党の用意した「2月11日に反対するのであれば代案を示せ」という土俵にうっかり乗ってしまった時点で、勝負は決してしまったというべきだろう。

 なお、神話上の建国の日をもって国家の祝日としている国は、日本のほか韓国(開天節=10月3日。紀元前2333年、檀君が古朝鮮を建国したとされる日。もとは太陰太陽暦だが現在は太陽暦で祝われている)だけである。もっとも、韓国は独立記念日にあたる光復節(8月15日。1945年に日本の植民地支配が終了した日。また、1948年に大韓民国が成立した日でもある)も祝日としている。

posted by 長谷川@望夢楼 at 03:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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