小川為治『開化問答』(明治7〜8年=1874〜75年刊)は明治初年に出された啓蒙書で、「旧平」氏が文明開化に対する不平不満を語り、それに対して「開次郎」氏がその認識の誤りを正し、文明開化のありがたさを説く、という内容の書物である。しかし、今日の目から見て興味深いのは、「旧平」氏の発言内容が、いかにも当時の保守的な老人なら言い出しそうなこと、という設定になっているため、逆説的に当時の民衆意識をある程度までうかがい知ることができる、という点である。まあ、あくまで知識人である著者(だと思われるのだが、経歴はよくわかっていない)が想像した「保守的な老人」、ということには注意しておく必要があるが。
あちこちで紹介されている話ではあるが、ここでは、その二編(1875年5月刊)にある、祝祭日についての問答を抜き書きしてみることにしよう。
なお、底本には明治文化研究会〔編〕『明治文化全集 第二十一巻 文明開化篇』(日本評論社、1993年復刻版)を用い、国会図書館デジタルコレクションで公開されている原本[二編巻上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798422 巻下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798423]を参照した。また、引用にあたっては読みやすさを考え、漢字表記や仮名遣い、送り仮名などを現代風に改めていることをお断りしておく。強調は引用者による。
まず、旧平の語る不満から。なお、本題は1873年(明治6)の太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦なのだが、長くなるので省略し、祝祭日についての箇所のみ抜き出したことをあらかじめお断りしておく。
これまで世間において旧来の暦を用いきたり、何一つ差支うることもなかりしに、何をもって先年政府において足辺より鳥のたつごとく急に太陽暦をとり用い、これをお廃しなさりしか、更に合点のゆかぬ次第でござる。[…]その上改暦以来は五節句・盆などという大切なる物日(ものび)を廃し、天長節・紀元節などというわけのわからぬ日を祝う事でござる。四月八日はお釈迦の誕生日、盆の十六日は地獄の釜の蓋のあく日というは、犬打つ童も知りております。紀元節や天長節の由来は、この旧平の如き牛鍋を食う老爺というも知りません。かかる世間の心にもなき日を祝せんとて、政府より強いて赤丸を売る看板のごとき幟(のぼり)や提燈(ちょうちん)を出さするはなおなお聞けぬ理屈でござる。元来祝日は世間の人の祝う料簡が寄り合うて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日を強いて祝わしむるは最も無理なることに心得ます。
天長節は現在の「天皇誕生日」(当時は明治天皇の誕生日である11月3日)、紀元節は現在の「建国記念の日」(2月11日)にあたる祝日である。
「物日」は祝祭日のこと。「五節句」(五節供)は人日(じんじつ=正月7日)・上巳(じょうし=3月3日)・端午(たんご=5月5日)・七夕(しちせき=7月7日)・重陽(ちょうよう=9月9日)。いずれも中国起源の祝祭日であるが、明治6年太政官布告第1号(1873年1月4日)[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787953/75]により公式に廃止されている。旧暦4月8日は釈迦の誕生日、すなわち灌仏会(かんぶつえ。仏生会・誕生会・降誕会・龍華会・浴仏会・花祭などとも呼ぶ)。北伝(大乗)仏教ではこの日とされているのだが、その歴史的根拠は明確ではない。
さて、これに対する開次郎の反論は、というと――
元来愚癡(ぐち)[おろか]なる人物は道理の真偽にかかわらず、ただ古来よりのしきたり・ならわしをのみ信仰して、いかほどよき事柄にても新しく思う事へは容易に移らざる者でござる。さりながらこの愚癡なる人の料簡にのみ任せおきては、とても世の中が文明開化の場所に至ることあたわざるゆえ、世間を文明開化にせんと思う政府は、まず世人の迷執を打破り万民の耳目を新たにせざればかなわぬわけにて、これ五節句・物日などをお廃しなされし次第でござる。全体足下の論ぜらるる所の五節句などという日の大本を穿鑿(せんさく)すれば、みなわけもなき日にて、祝うべき筋は少しもないわけでごさる。かくの如き日を祝わんためにこれまで家業を休み、上下を着用してありがたそうにおめでとうござります。恐悦にぞんじますなどと騒ぎまわりたるは実に小児遊びのようにて、今更笑止千万にぞんじられます。そこで、ただ今祝日として用いる所の紀元節は、神武天皇様の始めて天子様の御位に即しられ日なり、天長節とは今の天子様の御誕生日の事にて、実にこれ等の日は日本に生れたる人の必ず大切に祝うべきはずの日でござる。ゆえに政府にて一年中よりかかる貴き日五日を撰み出し、これを祭日に定め、世間一般に祝う事となされたるわけでござる。
これは啓蒙書なので、旧平は結局、「一々肝に銘じ感心いたしました」「この旧平一言の異論もござりませぬ」と、あっさりと引きさがってしまう。
「五日」とあるが、明治6年太政官布告第344号(1873年10月14日)[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787953/335]で定められた祝祭日は、元始祭(1月3日)・新年宴会(1月5日)・孝明天皇祭(1月30日)・紀元節(2月11日)・神武天皇祭(4月3日)・神嘗祭(9月17日)・天長節(11月3日)・新嘗祭(11月23日)の計8日である。祭日だけを数えて5日としたのかもしれないが、それでは祝日である紀元節と天長節は入らなくなってしまう。
この中には、神嘗祭や新嘗祭のように長い歴史のある祭祀もあるが、たとえば神武天皇祭は元治元年(1864)、天長節は慶応4年(明治元年、1868)、元始祭は明治3年(1870)、そして紀元節は1873年(明治6)にそれぞれ新設されたものである(天長節は古代に行われた時期もあるが、事実上明治の新設といえる)。さらに、近代的な教育制度もまだ始まったばかりにすぎない。つまり、これらを旧平が「わけのわからぬ日」「由来は…知りません」と言うのも、無理もない話なのである。それにしても、開次郎の「大本を穿鑿すれば、みなわけもなき日にて」という言葉は、明治政府による祝祭日にもそのままはね返ってきかねないのだが……。
なお、五節句は、明治政府による廃止命令の後も、農村部を中心に残り続けた。明治政府の国定祝祭日が学校教育などを通じて定着するようになるのは、日露戦争(1904〜05)以後のことといわれている(有泉貞夫「明治国家と祝祭日」『歴史学研究』第341号、1968年10月)。