2013年06月17日

平泉澄「この刀によって私は陸軍というものを鍛え直した」

 先日の「平泉澄と仁科芳雄と石井四郎」(6月6日)について、以下のブログでご紹介をいただいた。そこでは、有馬学氏からの伝聞として、問題の平泉澄インタビューでの、平泉本人の無茶苦茶な言動が紹介されている。

 ……で。

 先日、国立国会図書館に行ったついでに伊藤隆氏の回想録『日本近代史――研究と教育』(私家版、1993年1月序)を確認してみたところ、平泉澄インタビューについての記述が出てきたので、その箇所を紹介しておく(伊藤氏は当時、東京大学文学部助教授。[…]内は引用者註。強調は引用者による。以下同じ)。

 [昭和]五三年度[1978]は、斯波義慧氏や茅誠司元総長などの聞き取りを行い、また福井県まで出張して、平泉澄氏の聞き取りを行った。平泉氏はとにかく権威主義で、満洲事変以後について話されたときに、「これから私が日本を指導した時代についてお話します」と始まったのにはやりきれなかった。また陸大での講義の時に「これが大和魂である」と言って日本刀をすらりと抜いてという話の際に、予め奥さんに用意させていたらしい日本刀を実際に我々の目の前で抜いて見せたのには私は鼻白む思いであった。しかし酒井氏[酒井豊=当時、東京大学百年史編集室員]を初め若い諸君は面白がって、酒井氏などは「先生ちょっとそのまま」とか言って、平泉氏もポーズをとり、写真撮影をしたが、これも私には予想外の出来事であった。二日間正座で聞かねばならぬ「お話」が終わってお茶になった時に、奥さんが「主人は血圧が高いのに、テレビのプロレスが好きで困ります」という話をされ、私が平泉氏に「どうしてプロレスがお好きですか」と開いたら、「隠忍に隠忍を重ねて、最後にパッと相手を倒すという所が日本精神に通じる」と答えたので、私はその稚気に溜飲が下がったような気がした。とにかくこれまでにない奇妙な聞き取りであった。[伊藤隆『日本近代史――研究と教育』私家版、1993年序, pp. 293-294.]

 「陸大」(陸軍大学校)とあるのは伊藤氏の記憶違いで、陸軍士官学校が正しい。インタビュアーの前でわざわざ日本刀を抜いて見せた、という話は、やはりインタビュアーの一人であった照沼康孝氏(当時、東京大学百年史編集室員)も回想の中で触れている。

 その他覚えているのは銀時計と刀である。銀時計はいわゆる恩賜の銀時計である。これについては、氏が卒業の際が行事があった最後であったと述べ、更に声を落して録音を止めるように言い、その理由として社会主義運動が盛んになり、天皇の暗殺計画が伝えられたためであると語った。これは初めて聞く話であったが、その真偽の程は今もって定かではない。刀は大振りの日本刀であった。どういう話からそうなったのか明確に思い出せないが、陸軍士官学校へ話をしに行った際に持参し、この刀のようになれと言ったとのことであり、その刀を持って来て我々の眼の前で抜いて見せてくれた。かなり重そうであり、少々鈍く光る刀であった。[照沼康孝「百年史編集室と私」『東京大学史紀要』第6号、東京大学史史料室、1987年3月, pp. 98-99.]

 前段の天皇暗殺計画云々についての真偽は不明。

 この場面、当のインタビューでは次のようになっている。なお、平泉が陸軍士官学校での初講義を行ったのは、1934年(昭和9)4月16日である(若井敏明『平泉澄』ミネルヴァ書房、2006年, pp. 209-210)。

そのときに私は刀を持って行った。大刀をひっさげて行って、東条さん[東條英機=当時、陸軍士官学校幹事]にちょっと会釈をして壇にのぼり、演壇上に刀を置いて話を始めた。
 この刀は終戦後、人に預けてこちらへ帰ったものだから、預かってくれた人が進駐軍を怖がって、これを土中へ隠した。それで刀が少し崩れましたわい。文久二年十二月[1863年1〜2月]、二尺五寸[約 75.8cm]、大刀ですわ。これをひっさげて行ったんです。そして壇上でこれを抜いた。陸軍よ、この刀のごとくにあれ。第一に強くあれ、戦争に負ける陸軍を見たくはない。戦えば必ず勝てり。いかなるものでも手向うものをたたき斬るその力を持て、弱き陸軍をわれわれは見る気がしない。この刀は何ものをもたたき斬るんだ。その武力を持て。第二に陸軍よ、その武力をなんじの私の意思によって発動するものではないぞ。陛下の勅命によって動け。私の意思を遮断するこの刀を見よ、ここに「山はさけ海はあせなん世なりとも君にふたごころわがあらめやも。」これは将軍[源]実朝の歌ですが、すべては陛下によって決する、それ以外私の意思によって動かしてはならん。それはみんなが何とも言えぬ驚きだったんです。
 当時はみんな陸軍を恐れておった。五・一五や満州事変からあとはそうでしたが、その陸軍に対して大喝一声これをやった。この刀によって私は陸軍というものを鍛え直した。世間の知らんものは、私が陸軍と結託し、また阿諛して威張っているようなことをいう。そんなものではない。陸軍が私を畏れ敬った。
 これは土中に置いたために刃が崩れたんですが、明治維新直前の日本精神の生粋ですわ。文久二年というちょうどそのときが。この刀自体はたとえ刃が少し欠けても、歴史的な意味では昭和の日本史の中で重要な働きをしたんですよ。[「平泉澄氏インタビュー(5)」『東京大学史紀要』第18号、2000年3月, p. 65.]

 ……「83歳の老人が、遠くからわざわざ昔話を聞きに来てくれた、自分の孫ぐらいの年配の後輩たちに向かって、思い出の日本刀を抜き出して見せて自慢した」というのは、なんとか笑い話で済ませてもよさそうだが、「39歳で博士号を持つ東京帝国大学助教授が、陸軍士官候補生たちの前で、抜き身の日本刀を構えて『陸軍よ、この刀のごとくにあれ』と大見栄を切ってのけた」というのは、さすがに笑えない。

 ただしこの講義、じつは重要なのは後段の「すべては陛下によって決する、それ以外私の意思によって動かしてはならん」というところにあったらしい。つまり、満洲事変以後表面化してきた出先機関の独断専行や青年将校の暴走を抑える、というところに、真の意図があったようである(若井『平泉澄』参照)。もっとも、だとすればその意図は必ずしも成功したとはいえない。平泉は1936年(昭和11)の2・26事件を防ぐことはできなかったし、1945年(昭和20)の宮城事件に至っては、首謀者である畑中健二・竹下正彦・井田正孝らは、いずれも平泉澄の門下生だったからである。

 また「日本を指導した」云々であるが、それに近い発言もインタビュー中に登場する。

 平泉澄は1932年(昭和7)12月5日、昭和天皇に「楠木正成の功績」という題目で進講を行った。この内容について、原田熊雄『西園寺公と政局』(1936年8月7日)には、湯浅倉平内大臣(1874-1940, 在任1936-40)が「後醍醐天皇を非常に礼讃して、いかにも現実の陛下に当てつけるやうな話し方」で「陛下はあんまりおもしろく思つておいでにならなかつたらしい」と語っていた、とある。もっとも、湯浅は「木戸[幸一]も「実につまらないことを申上げたものだ」と言つてをつた」と語っていたというが、当の『木戸幸一日記』(1932年12月5日)には、木戸自身は「感銘深く陪聴した」とある(以上、若井『平泉澄』, pp. 198-201 参照)。少なくとも、原田熊雄や湯浅倉平あたりからは煙たがられていたが、湯浅の後任者である木戸幸一からは好意的に見られていたようだ。それはともかく、その後の状況について、平泉は以下のように語っている。

 ところが、これが世の中に与えたのは、とにかく平泉というものが非常に重いものになってしまった。陛下の御前に呼び出されたことによって非常に重くなった。大ぜいの陪聴者がそれぞれの感銘を持って帰って、何かの機会にむしろ喜んで話をしたでしょうね。宮中のことは外へもれないはずなんだけれども大体のことがもれてしまった。
 そこで今度はみんな私の話を聞きたいという。宮中のことは別にして、どういうふうに考えるか、日本はどうなるんだ、どうすべきかということを、みんな尋ねてくるようになった。そこで初めて私は本格的に働けるようになったんです。実質上、日本の指導的な地位に立ち得たんです。[…]日本中そのときはどうしていいかわからなかったわけです。政治、軍事、教育、学問、どういう方向にいったい日本は向かうべきであるのか、だれも見当がつかない。それをこうだということを、私が確信を持って断定し得る力は、ドイツ、フランスで養われたし、そしてそれを言い得る地位は実は陛下によって与えられた。陛下が与えてくださったご意思ではないにせよ、実質上はそこにおいて私がそういう立場を確保した。[「平泉澄氏インタビュー(5)」『東京大学史紀要』第17号、1999年3月, p. 122.]

 よく考えると、要は「御進講がきっかけで名が知られ、話を聞きに来る人が増えた」という話である。が、これが平泉の解釈では「日本の指導的地位に立った」ということになるらしい。

 こういうと誇大妄想めいて聞こえるのだが、ただ、平泉が政界や軍の上層部と親しかったのは事実で、特に近衛文麿からはブレーンの一人として扱われていた節がある(この辺りの事情についても、若井『平泉澄』を参照)。『西園寺公と政局』では、「平泉といふ人はもう学者仲間からはまるで相手にされないで、今は或る程度まで実際の政治活動に携はつてゐるといふことである」などと言われているが、具体的に何をやっていたのかは、いまひとつよくわかっていない。もっとも、海軍条約派の岡田啓介・米内光政・井上成美といった面々からは嫌われていたらしく、また内務省・文部省方面とも疎遠で、そのため教育への影響力も限定的であったのであるが。

posted by 長谷川@望夢楼 at 07:37| Comment(0) | TrackBack(1) | 歴史学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月06日

平泉澄と仁科芳雄と石井四郎

 手元の資料を整理していたらこんなものが出てきた。

  • 「東京大学旧職員インタビュー(3) 平泉 澄氏インタビュー(6)」『東京大学史紀要』第17号(東京:東京大学史史料室、2000年3月)

 東京大学百年史編集室(現・東京大学史史料室)が1978年11月に平泉澄(ひらいずみ・きよし、1895〜1984)に対して行った聞き取りで、平泉の没後、『東京大学史紀要』第13〜17号に掲載された。平泉は元東京帝国大学文学部国史学科教授で、戦時下において独特の国体論的歴史学を展開したことで知られる。インタビュアーは伊藤隆・酒井豊・狐塚裕子・照沼康孝の4名である。したがって、終戦から33年経った時点での、満83歳の老人による回想である、ということはいちおう注意しておきたい。

 そのインタビューの結末近くで、平泉はこんなことを語っている([…]内は引用者註)。

[…]世界は大動乱に陥り日本は大国難に遭遇するということを私は看破して、欧州滞在を切りあげて帰る、前から日本は大変なことだと思っていたが、いよいよそれがせっぱ詰まってきて帰るでしょう。同じ時にヨーロッパにおって、これは大変だということに気がついて、そこで対策を講じなくてはならないと考えたものが、私のほかに二人ある。これが世にも不思議なことに、全部大正七年[1918]の東大卒業生です。[…]
 そのときに出た一人は仁科芳雄。これが理工科の銀時計です。欧米へ行って、原爆をもって国を守る以外にはないということを考える。もう一人は石井四郎陸軍中将。これは石井部隊ですが私と四高[第四高等学校=現・金沢大学]で同期生ですが、厳密にいうとこの人は医学部だから昭和八年東大の卒業だと思うんですが、仁科さんもわれわれも大正七年には東大におったんです。
 この三人は連絡はないんです。私は仁科さんは知らん。石井さんは知っておったが、石井が偉い男だということは知らなかった。[…]
 そのうちに石井さんの本当のことを全部私は知ってね。これは大変なことだと思った。化学兵器をもって国を守るんです。陸軍の最後の手段はこれだった。非常に厳重にこれは秘匿されておった。しかし、いよいよ戦局が急迫したとき、私は石井さんを訪ねた。陸軍大臣には会えても石井さんには会えないというくらい全部守られておる。それを石井さんに連絡したら、おいでなさい、話しておくということで会いに行きましたわい。全く隔離されたところで、厳重な警戒のうちにおる。会って石井さんが言うには、あなたはみんな知っておるんだから隠すことはしない、みんな話しする。おれのところで考えておることはこれだけだというんで、全部の計画、準備、設備、みんな話をしてくれた。石井さん、いざというときは頼むぜというので、非常にこれは自分には頼みになった。
 もう一つの原爆のほうも頼みにしたんですが、これは貴族院でたびたび長岡半太郎氏がしゃべった。あれがよけいなことをしゃべった。やるのなら黙ってやればいい、できもしないものをしゃべるというのはよけいなことなんです。よけいなことを言われたなと思いますが、これは結局できずに終わった。
 そのときに仁科さんの下におった人が二人ばかり、この春、テレビに出たんですが、その話を聞いて私は非常に憤慨したんです。われわれは仁科博士の下で原爆の研究に従事したけれども、それは原爆をつくって実戦に用いようという意図ではなかった。自分らがこのことに関係しておったのは、いかにして陸軍の徴兵を免れかるかということを考えて、そのためにここに入っておったのだ。研究するものは理論を研究したのであって、実際には関係しておらんと繰り返し言ったんです。それはどこまで本当なのか、今の時世に媚びて言ったのかわしはわからん。しかし、事実は何もできなかったんです。当時、もう一週間早ければできたというが、事実はそんなものではありません。五十年も遅れていたんですと言いました。いまさら何を言うかと思いましたがね。本当に自分の命を捨てる気のないものは、こういうことになるんです。石井さんのほうは用意しておったが、これは陛下のお許しがないので、とうとう行われない。そこで何とかしてふつうの兵器で戦って、いわゆる逆転を私はやりたい。私はプロレスが好きでね。猪木がさんざん負けて、これはあかんかと思うと、彼は逆転する。それは何とも言えぬ楽しみですわ。それはどんなに負けても最後の一戦で勝てば、終わりよければ万事よしなんです。それで回天でも何でも一生懸命やった。[pp. 76-78.]

 ……どうやら平泉澄はアントニオ猪木信者だったらしい。

 三人の略歴を簡単に示しておこう。

 平泉澄(ひらいずみ・きよし、1895〜1984):1918年東京帝国大学文科大学国史学科卒業。1921年東京帝国大学文学部講師、1926年文学博士(東京帝国大学、「中世に於ける社寺と社会との関係」)、同助教授。1930〜31年ヨーロッパで在外研究。1935年同教授、1945年辞任。1948〜52年公職追放。著書『中世に於ける精神生活』(1926)・『我が歴史観』(1926)・『闇斎先生と日本精神』(1932)・『菊池勤王史』(1941)・『少年日本史』(1970)・『悲劇縦走』(1980)他多数。

 平泉は1930年3月に在外研究のため渡欧するが、2年計画のところを1年3ヶ月で切り上げ、満洲事変の直前に帰国している。若井敏明『平泉澄』(ミネルヴァ書房、2006年)によれば、滞欧中の1931年4月にスペインで無血革命が起きて王制が廃止されたことにより、共産主義や革命への危機感を感じて帰国したものという。

 仁科芳雄(にしな・よしお、1890〜1951):1918年東京帝国大学工科大学電気工学科卒業。1921年(財)理化学研究所(理研)研究員。1921〜28年イギリス、ドイツ、デンマークで在外研究。1930年理学博士(東京帝国大学、「錫(50)よりタングステン(74)に至る諸元素のL吸収スペクトル並に其の原子構造との関係に就て」)。陸軍・理研の原爆開発計画「ニ号研究」に従事。1946年理研所長、1948年理研解散にともない(株)科学研究所社長。

 「銀時計」というのは、東京帝国大学の成績優秀者に対して卒業時に天皇から授与される「恩賜の銀時計」のことで、平泉と仁科が卒業した1918年まで実施されていた。なお、平泉自身も授与を受けている。

 石井四郎(いしい・しろう、1892〜1959):1920年京都帝国大学医学部卒業。1927年医学博士(京都帝国大学、「グラム陽性双球菌に就ての研究」)。1928〜30年海外視察。1931年陸軍軍医学校教官。1932年、軍医学校内に防疫研究室を設立。1936年、関東軍防疫部(のち防疫給水部=満洲第731部隊)を編成し細菌兵器の研究に従事。1942年北支那方面軍第一軍軍医部長に転出するが、1945年軍医中将に昇任し防疫給水部長に復帰、直後に終戦。

 さて、上述した略歴からも明らかなように、このインタビューにはいくつか基本的な事実誤認が含まれている。まず、平泉と石井が同じ旧制第四高等学校の出身なのは事実だが、石井が東大出身というのは平泉の勘違いで、卒業年次も異なる。ついでにいえば、細菌兵器が専門の石井が「化学兵器をもって国を守る」というのも少々おかしい。また、仁科は世界恐慌が始まる前の1928年12月に帰国しており、1930年3月に渡欧した平泉とは時期的にズレがある。さらに、仁科が渡欧中に「原爆をもって国を守る以外にはないということを考え」た、というのもおかしい。原子爆弾の製造可能性がSFではなく現実的問題として取り沙汰されるようになるのは、1938年にオットー・ハーンとフリードリヒ・シュトラスマンが核分裂を発見して以降のことだからである。要するに、「大正七年の東大卒業生」3人が「同じ時にヨーロッパにおって……対策を講じなくてはならないと考えた」という話は、平泉澄の思い違いの産物にすぎないのである。

 また、「貴族院でたびたび長岡半太郎氏がしゃべった」という事実もない。確かに、戦時中の貴族院で、原子力が軍事利用できる可能性について触れた科学者議員はいる。しかし、それは長岡半太郎(1865〜1950)ではなく、田中舘愛橘(たなかだて・あいきつ、1856〜1952)である(第84回帝国議会貴族院本会議、1944年2月7日)。なお、昭和天皇が化学兵器の使用を止めさせた、という話の裏付けはとれなかった。実際のところ、日本軍が化学兵器を使わなかった理由は、報復攻撃を恐れたことが大きいと言われており、その恐れの少ない中国戦線ではしばしば使用していたことが知られている。

 晩年のインタビューにおける放言めいた発言であり、当然、記憶違いもあるであろうことは割り引いておく必要があるものの、ずいぶんいい加減な話ではある。

 末尾の「回天」は人間魚雷の「回天」のこと。平泉は、このインタビューの中で、「回天」の発案者の一人である黒木博司海軍大尉(1921〜44。「回天」試験中に事故死、少佐に特進)のことを「私の最愛の門下」と呼んでいる。

 さて、この話からは、平泉の認識を以下のように整理することができそうだ。

  1. 平泉澄は、日本の勝利のためなら核兵器や生物・化学兵器の使用も許される、と考えていたらしい。
  2. 平泉澄は、自分の言動が核兵器や生物・化学兵器の研究開発と同列に並べられるものだ、と考えていたらしい。
  3. 平泉澄は、秘密兵器による一発逆転勝利、などというマンガ的(プロレス的?!)な話が、現実的な話だと考えていたらしい。(しかも、その秘密兵器の具体例が特攻兵器。)

 なお、「本当に自分の命を捨てる気のないものは、こういうことになる」という発言の意味はいまひとつ明らかでないが、もし「だから原爆を完成させることができなかった」という意味であれば、「そんな精神論を言っているから戦争に勝てないんだ」とでも答えておけばよさそうである。

 そもそも、平泉の専門は日本中世史で、軍事に関する専門的著作は特にないはずなのだが、平泉はこのインタビューの中で、陸軍士官学校での講義などを通じて軍人に自分の信奉者が多かったことを自慢げに述べ、「私は陸軍というものを鍛え直した」「陸軍が私を畏れ敬った」などと豪語する。そして岡田啓介(1868〜1952)、米内光政(1880〜1948)、宇垣一成(1868〜1956)らが、東京裁判の主席検察官ジョゼフ・キーナンから平和主義者と称賛されたことを非難した上で、次のようなことを語っている。

実戦しておると、わしのところへくるよりほかはないわけです。米内[光政]さんなどは戦争に一ぺんも出たことがないし、岡田[啓介]さんも宇垣[一成]さんも実戦には出たことがない。実戦をやってみると彼らが地図で考えているようなものではない。下の人はみんな私によって動くというくらいの勢いなんです。それが海軍としては非常な不幸でしたね。陸軍は上層部もみな私を信頼してくださり、言っては悪いけれども東条[英機]さんでも小畑〔敏四郎〕さんでもそうですが、あとでいえば陸軍大臣阿南[惟幾]大将、これは入門願書を出されたんですよ、私に対して。それから下村大将が最後ですがね。手紙には最末の門人、下村定と書いてありますよ。全然態度が違うんです。[p. 76.]

 日露戦争(1904〜05)中、岡田啓介は装甲巡洋艦「春日」副長として日本海海戦などに参加しているし、米内光政も海軍中尉として駆逐艦「電」(いなづま)に乗り込んでいる。また宇垣一成も陸軍第八師団参謀として出征している。岡田は日露戦争のみならず日清戦争にも第一次世界大戦にも従軍した歴戦の将である。その三人を「実戦には出たことがない」と勝手に決めつけ、自分のほうが戦争のやり方をよく知っている、などと言い出すのだからまことに恐れ入る。むしろ、東條英機(1884〜1948)以下陸軍上層部が、こんな程度の軍事知識の持ち主を「信頼」していたとすれば、そっちの方がはるかに問題だろう。

 ……いや、もちろん、平泉の回想が正確なら、という話だが。

posted by 長谷川@望夢楼 at 09:26| Comment(2) | TrackBack(1) | 歴史学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする