先日の「平泉澄と仁科芳雄と石井四郎」(6月6日)について、以下のブログでご紹介をいただいた。そこでは、有馬学氏からの伝聞として、問題の平泉澄インタビューでの、平泉本人の無茶苦茶な言動が紹介されている。
……で。
先日、国立国会図書館に行ったついでに伊藤隆氏の回想録『日本近代史――研究と教育』(私家版、1993年1月序)を確認してみたところ、平泉澄インタビューについての記述が出てきたので、その箇所を紹介しておく(伊藤氏は当時、東京大学文学部助教授。[…]内は引用者註。強調は引用者による。以下同じ)。
[昭和]五三年度[1978]は、斯波義慧氏や茅誠司元総長などの聞き取りを行い、また福井県まで出張して、平泉澄氏の聞き取りを行った。平泉氏はとにかく権威主義で、満洲事変以後について話されたときに、「これから私が日本を指導した時代についてお話します」と始まったのにはやりきれなかった。また陸大での講義の時に「これが大和魂である」と言って日本刀をすらりと抜いてという話の際に、予め奥さんに用意させていたらしい日本刀を実際に我々の目の前で抜いて見せたのには私は鼻白む思いであった。しかし酒井氏[酒井豊=当時、東京大学百年史編集室員]を初め若い諸君は面白がって、酒井氏などは「先生ちょっとそのまま」とか言って、平泉氏もポーズをとり、写真撮影をしたが、これも私には予想外の出来事であった。二日間正座で聞かねばならぬ「お話」が終わってお茶になった時に、奥さんが「主人は血圧が高いのに、テレビのプロレスが好きで困ります」という話をされ、私が平泉氏に「どうしてプロレスがお好きですか」と開いたら、「隠忍に隠忍を重ねて、最後にパッと相手を倒すという所が日本精神に通じる」と答えたので、私はその稚気に溜飲が下がったような気がした。とにかくこれまでにない奇妙な聞き取りであった。[伊藤隆『日本近代史――研究と教育』私家版、1993年序, pp. 293-294.]
「陸大」(陸軍大学校)とあるのは伊藤氏の記憶違いで、陸軍士官学校が正しい。インタビュアーの前でわざわざ日本刀を抜いて見せた、という話は、やはりインタビュアーの一人であった照沼康孝氏(当時、東京大学百年史編集室員)も回想の中で触れている。
その他覚えているのは銀時計と刀である。銀時計はいわゆる恩賜の銀時計である。これについては、氏が卒業の際が行事があった最後であったと述べ、更に声を落して録音を止めるように言い、その理由として社会主義運動が盛んになり、天皇の暗殺計画が伝えられたためであると語った。これは初めて聞く話であったが、その真偽の程は今もって定かではない。刀は大振りの日本刀であった。どういう話からそうなったのか明確に思い出せないが、陸軍士官学校へ話をしに行った際に持参し、この刀のようになれと言ったとのことであり、その刀を持って来て我々の眼の前で抜いて見せてくれた。かなり重そうであり、少々鈍く光る刀であった。[照沼康孝「百年史編集室と私」『東京大学史紀要』第6号、東京大学史史料室、1987年3月, pp. 98-99.]
前段の天皇暗殺計画云々についての真偽は不明。
この場面、当のインタビューでは次のようになっている。なお、平泉が陸軍士官学校での初講義を行ったのは、1934年(昭和9)4月16日である(若井敏明『平泉澄』ミネルヴァ書房、2006年, pp. 209-210)。
そのときに私は刀を持って行った。大刀をひっさげて行って、東条さん[東條英機=当時、陸軍士官学校幹事]にちょっと会釈をして壇にのぼり、演壇上に刀を置いて話を始めた。
この刀は終戦後、人に預けてこちらへ帰ったものだから、預かってくれた人が進駐軍を怖がって、これを土中へ隠した。それで刀が少し崩れましたわい。文久二年十二月[1863年1〜2月]、二尺五寸[約 75.8cm]、大刀ですわ。これをひっさげて行ったんです。そして壇上でこれを抜いた。陸軍よ、この刀のごとくにあれ。第一に強くあれ、戦争に負ける陸軍を見たくはない。戦えば必ず勝てり。いかなるものでも手向うものをたたき斬るその力を持て、弱き陸軍をわれわれは見る気がしない。この刀は何ものをもたたき斬るんだ。その武力を持て。第二に陸軍よ、その武力をなんじの私の意思によって発動するものではないぞ。陛下の勅命によって動け。私の意思を遮断するこの刀を見よ、ここに「山はさけ海はあせなん世なりとも君にふたごころわがあらめやも。」これは将軍[源]実朝の歌ですが、すべては陛下によって決する、それ以外私の意思によって動かしてはならん。それはみんなが何とも言えぬ驚きだったんです。
当時はみんな陸軍を恐れておった。五・一五や満州事変からあとはそうでしたが、その陸軍に対して大喝一声これをやった。この刀によって私は陸軍というものを鍛え直した。世間の知らんものは、私が陸軍と結託し、また阿諛して威張っているようなことをいう。そんなものではない。陸軍が私を畏れ敬った。
これは土中に置いたために刃が崩れたんですが、明治維新直前の日本精神の生粋ですわ。文久二年というちょうどそのときが。この刀自体はたとえ刃が少し欠けても、歴史的な意味では昭和の日本史の中で重要な働きをしたんですよ。[「平泉澄氏インタビュー(5)」『東京大学史紀要』第18号、2000年3月, p. 65.]
……「83歳の老人が、遠くからわざわざ昔話を聞きに来てくれた、自分の孫ぐらいの年配の後輩たちに向かって、思い出の日本刀を抜き出して見せて自慢した」というのは、なんとか笑い話で済ませてもよさそうだが、「39歳で博士号を持つ東京帝国大学助教授が、陸軍士官候補生たちの前で、抜き身の日本刀を構えて『陸軍よ、この刀のごとくにあれ』と大見栄を切ってのけた」というのは、さすがに笑えない。
ただしこの講義、じつは重要なのは後段の「すべては陛下によって決する、それ以外私の意思によって動かしてはならん」というところにあったらしい。つまり、満洲事変以後表面化してきた出先機関の独断専行や青年将校の暴走を抑える、というところに、真の意図があったようである(若井『平泉澄』参照)。もっとも、だとすればその意図は必ずしも成功したとはいえない。平泉は1936年(昭和11)の2・26事件を防ぐことはできなかったし、1945年(昭和20)の宮城事件に至っては、首謀者である畑中健二・竹下正彦・井田正孝らは、いずれも平泉澄の門下生だったからである。
また「日本を指導した」云々であるが、それに近い発言もインタビュー中に登場する。
平泉澄は1932年(昭和7)12月5日、昭和天皇に「楠木正成の功績」という題目で進講を行った。この内容について、原田熊雄『西園寺公と政局』(1936年8月7日)には、湯浅倉平内大臣(1874-1940, 在任1936-40)が「後醍醐天皇を非常に礼讃して、いかにも現実の陛下に当てつけるやうな話し方」で「陛下はあんまりおもしろく思つておいでにならなかつたらしい」と語っていた、とある。もっとも、湯浅は「木戸[幸一]も「実につまらないことを申上げたものだ」と言つてをつた」と語っていたというが、当の『木戸幸一日記』(1932年12月5日)には、木戸自身は「感銘深く陪聴した」とある(以上、若井『平泉澄』, pp. 198-201 参照)。少なくとも、原田熊雄や湯浅倉平あたりからは煙たがられていたが、湯浅の後任者である木戸幸一からは好意的に見られていたようだ。それはともかく、その後の状況について、平泉は以下のように語っている。
ところが、これが世の中に与えたのは、とにかく平泉というものが非常に重いものになってしまった。陛下の御前に呼び出されたことによって非常に重くなった。大ぜいの陪聴者がそれぞれの感銘を持って帰って、何かの機会にむしろ喜んで話をしたでしょうね。宮中のことは外へもれないはずなんだけれども大体のことがもれてしまった。
そこで今度はみんな私の話を聞きたいという。宮中のことは別にして、どういうふうに考えるか、日本はどうなるんだ、どうすべきかということを、みんな尋ねてくるようになった。そこで初めて私は本格的に働けるようになったんです。実質上、日本の指導的な地位に立ち得たんです。[…]日本中そのときはどうしていいかわからなかったわけです。政治、軍事、教育、学問、どういう方向にいったい日本は向かうべきであるのか、だれも見当がつかない。それをこうだということを、私が確信を持って断定し得る力は、ドイツ、フランスで養われたし、そしてそれを言い得る地位は実は陛下によって与えられた。陛下が与えてくださったご意思ではないにせよ、実質上はそこにおいて私がそういう立場を確保した。[「平泉澄氏インタビュー(5)」『東京大学史紀要』第17号、1999年3月, p. 122.]
よく考えると、要は「御進講がきっかけで名が知られ、話を聞きに来る人が増えた」という話である。が、これが平泉の解釈では「日本の指導的地位に立った」ということになるらしい。
こういうと誇大妄想めいて聞こえるのだが、ただ、平泉が政界や軍の上層部と親しかったのは事実で、特に近衛文麿からはブレーンの一人として扱われていた節がある(この辺りの事情についても、若井『平泉澄』を参照)。『西園寺公と政局』では、「平泉といふ人はもう学者仲間からはまるで相手にされないで、今は或る程度まで実際の政治活動に携はつてゐるといふことである」などと言われているが、具体的に何をやっていたのかは、いまひとつよくわかっていない。もっとも、海軍条約派の岡田啓介・米内光政・井上成美といった面々からは嫌われていたらしく、また内務省・文部省方面とも疎遠で、そのため教育への影響力も限定的であったのであるが。