2017年01月19日

『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(4)マッカーサーは日本の総人口を水増して失脚した?!

第1回第3回

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

 皆様方、日本は八千万といいました、どう計算しても八千万はおらないでしょう。如何です、一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太を初め、凡てを差し引いて、どうして八千万でしょうか、実は六千六百万しかいなかったのです、それを敢えてマッカーサーが八千万として食糧をごまかしてとってくれたのでした。つまりマッカーサーは、陛下のその御人徳に、いわゆる触れたからでした。大統領は、日本に一千万の餓死者を出すべし、マッカーサーに命令が来ておったので。ただ一言、マッカーサーは、「陛下は磁石だ、私の心を吸いつけた」。彼は食糧放出を陛下の為に八千万の計算で出し、それがばれたのが解任の最大の理由であったことが真相であります。[43-44頁]

 三上は自信たっぷりに6600万人だと言いきっているが、果たして実際にそうだったのだろうか?

 『国勢調査』を確認してみよう。『昭和25年国勢調査報告』によれば、内地(沖縄県除く)の現住人口の推移は次の通りである。

1940年10月1日72,539,729
1944年2月22日72,473,836
1945年11月1日71,998,104
1946年4月26日73,114,136
1947年10月1日78,101,473
1950年10月1日83,199,637

 1945年の時点で約7200万人。三上の挙げた数字より600万も多い。注意していただきたいのは、終戦後に外地から大量の引揚者があったため、人口が急増し、戦後わずか2年で約7800万人に達していることである。つまり、引揚者を考慮に入れれば、8000万人というのはべつに過大な数字ではないのだ。

 三上は1億−3400万=6600万、という計算をしている。3400万という数字の根拠は不明だが、外地総人口3200万+戦死者200万として計算したものと思われる。しかし、根本的な間違いは、帝国総人口を1億としたところにある。じつは、1940年の国勢調査では、約1億500万人という数字が出ているのである(『官報』1941年4月18日付発表)。

 もちろん、マッカーサーが1951年4月に連合国軍最高司令官を解任されたのは、食糧問題などが理由ではない。朝鮮戦争(1950〜53)に際し、国連軍総司令官として中国本土に対する直接攻撃を主張し、本国のトルーマン大統領と対立したからである。

 だいたい、仮に人口の水増し工作を行ったところで、それが統計局の公表するデータと合わなければ、一瞬にして工作がバレてしまうではないか。

 それでは「大統領は、日本に一千万の餓死者を出すべし、マッカーサーに命令が来ておった」というのは何なのだろうか?

 1945年の日本は記録的な凶作に見舞われた。7〜8月には北日本を中心に大冷害が発生し、さらに9月中旬には枕崎台風が西日本を襲った。これに加えて戦争による肥料・資材・労働力の不足、そして経済的混乱なども農業生産にも大きなダメージを与えた。この年の水稲の作況指数はじつに 67 (1a 当たり収量 208kg, 収穫量582万3000トン)、つまり平年の約 2/3。農業恐慌といわれた1934年ですら全国の作況指数は 85 であり、いかに深刻な事態かがうかがわれる。しかも、敗戦によって植民地からの米の輸入が断たれる一方で、大量の引揚者が内地に戻ってくることになった。これに加えて敗戦による流通の混乱、どさくさまぎれの物資の隠匿なども加わり、日本近代史上最悪の食糧危機が引き起こされることになる。

 1945年10月15日、渋沢敬三大蔵大臣は、UP通信のインタビューに答えて次のように語っている。

日本は現状のまゝ行けば、来年度において餓死、病気などで死亡する者約一千万を出さねばならないのではないかと思ふ、それは食糧難、住宅難、また病院医療施設の不足から来るもので、過去十年以上に亘つた戦争の結果かくも国力は消耗しつくしたのである[『朝日新聞』1945年10月17日付]

 これが「一千万人餓死説」と呼ばれるものである。要は、援助を引き出すための半ば脅迫めいた発言なのだが、じつのところ、あながち荒唐無稽な誇張とも言い切れない状況であったことも事実である。1945年11月18日付『朝日新聞』は、「始つてゐる『死の行進』/餓死はすでに全国の街に」と題して、終戦後3ヶ月ですでに多数の餓死者が出ていることを報じている。たとえば東京都下谷区60人以上(都全体では不明)、名古屋市72人、大阪市196人、神戸市148人、といった具合である。

 おそらく、「日本に一千万の餓死者を出すべし」という話の元になったのは、この「一千万人餓死説」だろう。何がどうねじ曲がったらそうなるのかは想像もつかないが

 なお、 GHQ/SCAP は、しばらくの間、日本側の食糧援助要求に応じていない。たとえば、12月には公衆衛生福祉局長クロフォード・F・サムスが「一日千五百[キロ]カロリー以上を供給するだけの食糧の手持は十分ある」「いまのところ日本人が飢餓に瀕している兆候はない」と声明している(『朝日新聞』1945年12月22日付)。援助が本格的に始まるのは、翌1946年春、食糧事情がさらに深刻化してからのことである。つまり三上の話の通りなら、9月に天皇に感激したはずのマッカーサーは、半年も食糧援助を滞らせたことになってしまうのである。

(第5回につづく……さしあたり本日はここまで。)

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『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(3)マッカーサーは昭和天皇を逮捕するつもりだった?!

第1回第2回

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

 三上照夫の講演録はいちおう時系列順に沿ってはいるのだが、どこをとっても滅茶苦茶な内容なので、最初に、ネット上で最も広まっているのではないかと思われる、昭和天皇=マッカーサー会見に関する箇所を取り上げることにしたい。

陛下に対する占領軍としての料理の仕方は四つありました。一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にかける、一つは共産党をおだてあげて人民裁判の名に於いて、これを血祭りにあげる、三番目は中国へ亡命させて、中国で殺す、そうでなければ、二〇個師団の兵力に相当するかと脅えた彼等です。それとも暗から暗へ、一服もることによって陛下を葬るこどありました。いずれにしても陛下は殺される運命にありました。[42-43頁]

 1948年7月9日付『朝日新聞』は、アメリカ紙に載ったウィリアム・シムスなる評論家の評論の要旨を掲げており、その中に次のようなくだりがある。

マックアーサー元帥は天皇の精神的勢力は悪にも善にも利用できるとの意見を抱いており、天皇の存続はマックアーサー元帥にとつて廿ヶ師団にも匹敵する価値があるとみるべきものである、

 つまり、「天皇は20個師団に匹敵する」というのは、「天皇を占領統治に利用しなければ20個師団もの軍事力が必要になる」という意味であって、間違っても「天皇は20個師団並みに危険な存在」という意味ではない。当然、そんな理由で天皇殺害計画が立てられたはずもない。

皆様方、[昭和天皇が]九月二十一日ただ一人の通訳、武藤さんをつれて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。[43頁]

 まず日付が間違い。昭和天皇=マッカーサー第1回会見は1945年9月27日。また、通訳の名前も全然違う。実際の通訳は外務省参事官の奥村勝蔵である。奥村は、この会見の記録を「「マッカーサー」元帥トノ御会見録」(以下、《御会見録》と略記)として書き残した。1975年、ノンフィクション作家の児島襄(1927-2001)がこの記録を『文藝春秋』11月号に発表する。児島が入手元を公表しなかったせいもあり、その内容が正確かどうかは長い間不明であったが、2002年に外務省が『朝日新聞』の請求に応じて情報公開を行い、本物のほぼ正確な写しであったことが確認されている(『朝日新聞』2002年10月17日付夕刊)。

ついてに天皇をつかまえるべき時が来た、二個師団の兵力の待機をマッカーサーは命じました。陛下は命ごいに来られたものとの勘違いをし、マッカーサーは傲慢無尊にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶が終わり、「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命に於いて凡てが行われました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません、絞首刑は勿論のこと、如何なる極刑に処されても、何時でも応ずるだけの覚悟はあります」。弱ったのは武藤さんでした。その通り通訳していいのか。「しかしながら罪なき八千万の国民が住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」、陛下のご挨拶は淡々として……、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いといった中で、一切の責任はこの私にあります、絞首刑は勿論のこと、如何なる極刑に処せられもと申されたのは我らが天皇ただ一人だったということであります。陛下は我らを裏切らなかった。マッカーサーは驚いてスックと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせ、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーを差し上げるように」、マッカーサーは、今度は、一臣下のごとく直立不動で陛下の前に立ち、天皇とはこのようなものでありましたか、天皇とはこのようなものでありましたか、私も日本人に生まれたかったです、陛下、ご不自由でございましょう、私に出来ますることがあれば何んなりとお申しつけ下さい。陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、「命をかけて閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか、重ねて国民等の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」、マッカーサーは約束を破り、玄関まで送って出たのです。[43頁]

 「天皇とはこのようなものでありましたか、私も日本人に生まれたかったです」――これでは感激とか感服とかを通り越して、単に卑屈なだけである。

 まず、マッカーサーは天皇逮捕の準備などしていない。会見の開始状況からして大嘘で、《御会見録》によれば、2人は最初にまず部屋の入り口で握手を交わし(つまり、玄関までは行かなかったが、部屋の前までは出迎えたのである)、部屋の真ん中で写真撮影を行い、その後、マッカーサーが天皇に、ソファに座るよう勧めたという。つまり、有名な天皇とマッカーサーのツーショット写真は、会見が始まる直前に撮影されたものなのである。天皇の表情が硬く見えるのは、そのせいもあるのかもしれない。カメラマンたちが退出して3人だけになった後、天皇とマッカーサーは軽く前置きの会話を交す。それからマッカーサーは約20分間にわたり一方的な演説を行い、それが終わったあと、ようやく会談が始まったという。

 さて、この第1回会見に、大きな謎があることはよく知られている。

 マッカーサーが1964年に発表した『マッカーサー回想記』によれば、このとき昭和天皇は次のように発言したという。

「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」

 また、侍従長の藤田尚徳が1961年に公刊した『侍従長の回想』にも、《御会見録》からの要約として、次のような天皇の発言が引かれている。

「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らに責任はない。
 私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。このうえは、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」

 つまり、マッカーサーや藤田尚徳によれば、このとき天皇は自らに戦争責任があることを率直に認めたという。ところが、《御会見録》には、該当する発言は一切記されていないのである。

 可能性は三通り考えられる。(1)そもそも戦争責任発言など最初からなかった。(2)発言はあったのだが、奥村が筆記しなかった。(3)発言はあり奥村も筆記していたのだが、何らかの理由で事後的に削除された。

 『マッカーサー回想記』は公刊当時から内容に誤りが多いことが指摘されており、当事者の回想ながら信憑性は低い。いっぽう、《御会見録》は現場での逐語的な速記録ではなく、会見が終わった後で奥村が筆記したものである。そのため、奥村が書き落としたか、あるいは外務省が後から削除した、という可能性も否定できない。この点は現在も謎となっている。(以上、第一回会見については、松尾尊兊『戦後日本への出発』岩波書店、2002年、豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫、2008年、を参照。)

 しかし、昭和天皇が「八千万の国民」云々と具体的な数字を挙げてマッカーサーに援助を懇願した、などという話は、《御会見録》のみならず、他のどの文献にも出てこない。マッカーサーが初対面の昭和天皇に好感を持ったことは事実だが(自ら玄関まで送りだしたのは本当である)、三上は、いったいこんな話をどこから仕入れたのだろうか。

第4回に続く)

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『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(2)「三上照夫」とは?

第1回

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

 この講演録を読んだ時点で、ぼくは三上照夫がどこの何者かを全く知らなかった。講演録の冒頭では、その略歴が次のように説明されている。

 講師 三上照夫先生は、昭和三年[1928年]京都でお生まれになりまして、西ドイツのミュンヘン大学で(「第三の文化」についての研究で経済学博士の学位を取られ、又日本におきましては「上代史」の研究で文学博士の学位をも取られております。先生は、東京大学、京都大学、大阪大学の各大学の教授を歴任されておりまして、その折り、時の内閣であります佐藤内閣のブレーンとして活躍されて以来七代二十二年間、中曾根内閣まで、内閣のブレーン生活を送られている先生でございます。先生は、これから世の中がどうなるかという評論家的な立場ではなく、世の中をどうするかという立場に居られる先生であります。さらに先生は、大学教授二六一名で構成されております、文部省の諮問団体である日本松柏学会の会長の要職にもあられる方です。[28頁。括弧の対応が合っていないのは原文のママ。]

 2つの博士号を持ち、3つの国立大学で教え、7代22年間にわたり内閣のブレーンをつとめ、文部省の「諮問団体」の会長でもある――というからには、さぞ名のある大学者であろう、と思いたくなるところである。

 しかし、文学博士の学位は、いったいいつ、どこの大学で取得したのだろう。日本の大学に提出された学位論文のデータベースは CiNii Dissertations として公開されているが、「三上照夫」を検索しても、何も出てこない。ミュンヘン大学の方も、ドイツ国立図書館ミュンヘン大学附属図書館のオンライン目録では、それらしきものは見つからない。

 講演が行われたのが1986年だとすれば、22年前は1964年。佐藤栄作内閣(1964年11月〜72年7月)の初期にブレーンとなったことになる。しかし、公刊されている『佐藤栄作日記』の索引に三上の名前はない。この時期の大学の教員(常勤職)については年刊の『全国大学職員録』に網羅されているので、1959年版と1964年版を見てみたが、東大・京大・阪大いずれにも三上の名前は見つからなかった。「日本松柏学会」が文部省の「諮問団体」という話も裏づけがとれない(だいたい、正式な諮問機関だったら「審議会」や「委員会」とかいった名前になるはずで、「学会」と称するのはおかしい。ちなみに、「学会」という名称には特に法的な制限はなどはなく、自由に名乗ることができる)。 Google で「日本松柏学会」を検索しても、三上照夫以外の情報が引っかかってこない。要するに、この経歴を客観的に裏づける資料が見つからないのである。

 だいたい、学者であるはずなのに、著書も論文もほとんど見つからない国会図書館サーチCiNii ArticlesGoogle Scholar などで検索してみても、宮﨑貞行『天皇の国師――知られざる賢人三上照夫の真実』(学研パブリッシング、2014年)のほかは、明らかに同姓同名の別人の情報しか引っかかってこない。 CiNii Books では、他にエスペラントの著作がいくつか出てくるが、本人か同姓同名の別人かは確認できていない。

 三上について書かれた一般書には、この宮﨑『天皇の国師』のほか、高橋五郎『天皇奇譚――「昭和天皇の国師」が語った日本の秘話』(学研パブリッシング、2012年。こちらは全くのオカルト本)がある。どちらも、三上は昭和天皇の御進講役で「天皇の国師」という異名をとった、という話が記されている(問題の講演録にはそんな話はひとことも出てこない)のだが、これまた裏づけがとれない。そのため、ここでは『天皇の国師』が、本名は「三上昭夫(てるお)」、1928年(昭和3年)生、1994年(平成6年)没としていること、「日本松栢学会」は1958年(昭和33年)に三上が組織した「学術団体」とされていること、などを紹介しておくにとどめる。

第3回につづく)

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『郷友』誌掲載の奇怪な講演録(1)はじめに

 以前、教育勅語関係の文献を探して、右翼的な旧軍人団体として知られる日本郷友(ごうゆう)連盟の機関誌『郷友』を見ていたときのことである。次のような記事が目にとまった。

  • 三上照夫「講演要旨 大東亜(太平洋)戦争は日本が仕掛けた侵略戦争か」『郷友』第35巻第1号通巻第407号(東京:日本郷友連盟、1989年1月1日発行)28〜45頁。

 末尾に「(註)歩一〇四記念講演特集号より転載」(45頁)とあるので、歩兵第104連隊(仙台)の戦友会誌からの転載と思われる。また、「(六三・九・二一)」(45頁)ともあるので、そのまま受け取れば1988年(昭和63年)9月21日に行われた講演を文章に起こしたもの、ということになる。ただし、「昭和三年」(1928年)生まれだという講師が「現在五八歳」(45頁)と語っていることや、1986年に起きた来島どっく(現・新来島どっく)の経営危機が現在進行中の出来事として言及されていること、言及される内閣が中曽根康弘内閣までで、竹下登内閣(1987年11月発足)への言及がないことなどから、実際は1988年ではなく1986年(昭和61年)の講演だと思われる。

 三上照夫という人物は、この講演において、題名の通り「大東亜戦争は侵略戦争ではなかった」と主張している。内容的には、パル判事のいわゆる「日本無罪論」、真珠湾事件=アメリカ側陰謀説、盧溝橋事件=中国共産党陰謀説などを組み合わせたもので、1980年代当時としてもそれほど目新しいものではない(なお、南京事件や従軍慰安婦への言及はない)。何がひどいかといって、この講演、細部の事実関係がことごとくデタラメで、客観的に正しいことが述べられている箇所を見つけるほうが大変なのである。「細部の」というのは、全体的にはどこかで聞いたような話なのだが、細かいところにとんでもないウソが仕組まれている、という仕掛けになっているからである。もちろん、講演録なので講師がつい口をすべらせて話をふくらませた、というこもあるだろうし、べつに専門家のチェックを受けたわけでもないのだろうが、それにしてもひどい。

 雑誌の性格が性格とはいえ、よくもまあこんなバカバカしい講演録を載せたものだ、などと思いつつ、念のため「歩一〇四記念講演特集号」をウェブ検索してみて唖然とした。この講演を真に受けた文章が、ウェブ上に結構転がっているのである。それだけではない。この講演録には、《マッカーサーは昭和天皇との第一回会見で天皇に心服し、本国からの対日食料援助を引き出すために日本の総人口を水増しして本国に報告、それがバレて総司令官を罷免された》という荒唐無稽な話が出てくる。マッカーサー解任の時期からしてもありえない話なのだが、この話を真に受けているウェブサイトやブログもかなりあるようなのだ。他にも、《昭和天皇が戦後巡幸で最初に訪れたのは広島》(本当は神奈川県)といった、本記事が出典らしいデタラメを書いているウェブサイトがある。

 もちろん、影響力といっても限られたものではあるのだろう(と思いたい)が、ウソだ、と明言しておく意味はあるかもしれない。というわけで、この講演録の内容を検証しつつ紹介してみる次第である。

第2回につづく)

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2017年01月01日

2017年 あけましておめでとうございます。

 本年もよろしくお願い申し上げます。

 私事で恐縮なのですが、じつは年末に激しい下痢と急な発熱に襲われてしまい、12月23日からの数日間は自宅でずっと伏せっておりました。(そういう事情でしたので、年末のいくつかの会合に参加できませんでした。関係者の方々、申し訳ありませんでした。)
 そんなこんなで溜まった仕事も片付かず、懐具合も真剣に寂しく、いろいろ憂鬱な今日この頃です。本年こそはなんとか溜まった仕事を片付けたいのですが。
……年始ですので少しは景気のいい話をしたいのですけどね。




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2016年12月22日

日本の大学で博士の学位が取り消された事例集(2012年〜2016年)

日本の大学で博士の学位が取り消された事例集(2011年まで)の続き。

◆2012年5月/大分大学/博士(医学)[論文博士]

 2000年6月30日大分医科大学(2003年に大分大学に合併)より学位授与、2012年5月22日取消。詳細不明。

【大学側発表】
※2016年12月22日現在、大分大学のサーバ上からは削除されている模様。かつては http://www.oita-u.ac.jp/01oshirase/gakuihenkan.html に情報があった。

【CiNii-D】http://ci.nii.ac.jp/naid/500000207742
【NDL-OPAC】http://id.ndl.go.jp/bib/000000405783

◆2012年6月/獨協医科大学/博士(医学)[2件、論文博士]

 (1) 2006年2月23日学位授与と (2) 2009年2月24日学位授与の2名について、2012年6月26日取消。
 取消理由は「不正論文とみなされた論文」「学術誌の掲載が取り消しとなった論文」が含まれていた、というもの。2名は面談の結果、学位記を自主返還した。

【大学側発表】
学位記取消について(2012年9月3日)
http://www.dokkyomed.ac.jp/dmu/news/20120827-1686.html

(1)
【CiNii-D】http://ci.nii.ac.jp/naid/500000344579
【NDL-OPAC】http://id.ndl.go.jp/bib/000010379076
(2)
【CiNii-D】http://ci.nii.ac.jp/naid/500000474319
【NDL-OPAC】http://id.ndl.go.jp/bib/000008274307

◆2012年10月/神戸大学/博士(教育学)

 2011年3月25日神戸大学人間発達環境学研究科博士課程後期課程より学位授与、2012年10月18日取消。中国人留学生。
 2011年8月、研究紀要に掲載された論文について、別の研究者から「自身の論文と内容、表現が酷似している」とする指摘がある。人間発達環境学研究科教授会は同年10月に「無断引用」と認定、さらに、この紀要論文が博士学位論文にも使用されていたため、2012年1月、研究科教授会は不正な学位取得と認定した。10月18日、教育研究評議会が不正と認定。博士学位論文の序章と第1・3・5章に不適切な引用があり、特に第5章の「考察」の大部分が「無断引用」だった。

【大学側発表】
学位授与の取消し及び学位記の返還について(2012年10月31日)
http://www.kobe-u.ac.jp/NEWS/topics/t2012_10_31_01.html

【CiNii-D】http://ci.nii.ac.jp/naid/500000547122
【NDL-OPAC】http://id.ndl.go.jp/bib/023252919

◆2013年10月/早稲田大学/博士(公共経営)

 2010年9月15日学位授与、2013年10月21日取消。中国人留学生。
 2011年8月・10月、2013年2月と3度にわたり匿名告発があり、2012年11月に大学院公共経営研究科で内部調査を行ったところ「不適切な引用行為」が確認された。2012年12月に政治経済学術院に研究倫理委員会が設置され調査が始まった。2013年10月21日学位取消決定。後日、学位記が返還された。
 少なくとも64ヶ所について「不適切な引用」があり、うち12ヶ所は明確な盗用だった。

【大学側発表】
博士学位取り消しについて(2013年10月21日)
https://web.archive.org/web/20150502094105/http://www.waseda.jp/top/information/6516

※2016年12月22日現在、早稲田大学のサーバ上からは削除されている模様。

【CiNii-D】http://ci.nii.ac.jp/naid/500000542902
【NDL-OPAC】http://id.ndl.go.jp/bib/000011257115

◆2014年8月/大阪国際大学/博士(経営情報学)

 2012年3月14日授与、2014年8月1日取消。中国人留学生か。
 2014年4月、盗用されたする本人から、弁護士を通じて盗用についての調査を求める要求が出されたため、調査を行ったところ、第4章に多くの盗用があったことが判明した。2014年9月18日、学位記が返還された。

【大学側発表】
博士学位の取消し等について(2014年9月29日)
http://www.oiu.ac.jp/re-news/archives/2014/09/291300.html

【CiNii-D】http://ci.nii.ac.jp/naid/500000556452
【NDL-OPAC】http://id.ndl.go.jp/bib/023730964

◆2014年10月/早稲田大学/博士(工学)

 2011年3月15日早稲田大学理工学術院先進理工学研究科生命医科学専攻より学位授与、2014年10月6日取消(1年間の猶予付き、2015年11月2日確定)。
 2014年1月、当時理化学研究所に所属していた当該人物が『ネイチャー』誌に2本の共著論文を発表し(2本とものちに撤回)、大きく注目されるが、直後に論文内に不自然な箇所があるとする指摘がなされ、理化学研究所と『ネイチャー』誌が調査を開始。また有志による調査の過程で、早稲田大学に提出され国立国会図書館に納本されていた博士学位論文についても、盗用およびデータ捏造の疑惑が指摘された。
 2014年3月31日、早稲田大学大学院先進理工学研究科が調査委員会を設置。7月17日に早稲田大学総長に提出された調査報告書においては、著作権侵害11ヶ所などが認定された。しかし、当該人物が「誤って博士論文草稿を製本し、大学に提出した」と主張し、委員会は重大な研究不正を認めたものの「博士学位の取り消し要件に該当しない」と判断。10月6日、早稲田大学は「博士学位の取り消し」を決定したが、再提出まで1年間の猶予期間を与えた。2015年11月2日、早稲田大学は、猶予期間が満了し学位取消が確定したと発表した。

※2010年の東京大学大学院工学系研究科の事件に引き続き、インターネット上での問題提起(クラウド査読)が注目を集め、さらに、『ネイチャー』誌への論文掲載時から一般マスメディアでも大きく取り上げられていたこともあって、学界のみならず一般的にも大きな騒ぎとなった。1年の再提出猶予期間を置いた例は、国内では他に見られないが、結局、再提出はなされなかった。

【大学側発表】
「先進理工学研究科における博士学位論文に関する調査委員会」調査報告について(2014年7月19日)
https://web.archive.org/web/20141008144902/http://www.waseda.jp/jp/news14/140717_committee.html
先進理工学研究科における博士学位論文に関する調査委員会調査報告書
http://www.waseda.jp/jp/news14/data/140717_committee_report.pdf
早稲田大学における博士学位論文の取り扱い等について(2014年10月9日)
https://web.archive.org/web/20150320164319/http://www.waseda.jp/top/information/14763
早稲田大学における博士学位論文の取扱いについて(2015年11月2日)
http://archive.is/20151102155622/http://www.waseda.jp/top/news/34191
OH氏のコメントに対する本学の見解について(2015年11月5日)
http://archive.is/20151104235047/https://www.waseda.jp/top/information/34235

※2016年12月22日現在、早稲田大学のサーバ上からは、報告書本体など一部を除いて削除されている模様。

【CiNii-D】http://ci.nii.ac.jp/naid/500000543019
【NDL-OPAC】http://id.ndl.go.jp/bib/000011257903

◆2014年12月/徳島大学/博士(医学)[論文博士]

 2002年3月28日学位授与、2014年12月22日取消。
 学位論文が、東京大学分子細胞生物学研究所エピゲノム疾患研究センター長(2012年3月辞職)の研究室による大規模な実験結果の捏造・改竄事件(「2015年3月/東京大学/博士(農学)」の項を参照)に関連したものであることが判明し、当該論文が掲載誌から撤回され、また、東京大学での調査でも当該論文に捏造・改竄が認められたことによる。

【大学側発表】
学位の取消しについて(2014年12月26日)
http://www.tokushima-u.ac.jp/docs/2014122600039/

【CiNii-D】http://ci.nii.ac.jp/naid/500000223601
【NDL-OPAC】http://id.ndl.go.jp/bib/000003542371

◆2015年3月/東京大学/博士(農学)[3件]

 (1) 2005年3月24日学位授与、 (2) 2005年10月3日学位授与、 (3) 2007年3月22日学位授与、の3名について2015年3月23日付で学位取消。 (2) は論文博士。 (3) は元東大助教(2009〜13年)。
 東京大学分子細胞生物学研究所エピゲノム疾患研究センター長(2012年3月辞職)の研究室による大規模な実験結果の捏造・改竄に関与し、提出論文にも捏造が発覚した。東京大学としては3〜5人目の学位取消(上記の通り、この事件では他に徳島大学で1名が学位取消となっている)。

【大学側発表】
記者会見「東京大学分子細胞生物学研究所・旧K研究室における論文不正に関する調査報告(最終)」の実施について(2014年12月26日)
http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_261226_j.html

※その他、東大から発表された関連記事は以下を参照。
科学研究行動規範に関する報道発表資料等
http://www.u-tokyo.ac.jp/ja/administration/codeofconduct/press.html

(1)
【CiNii-D】http://ci.nii.ac.jp/naid/500000340174
【NDL-OPAC】http://id.ndl.go.jp/bib/000008171366
(2)
【CiNii-D】http://ci.nii.ac.jp/naid/500000360733
【NDL-OPAC】http://id.ndl.go.jp/bib/000008491107
(3)
【CiNii-D】http://ci.nii.ac.jp/naid/500000431423
【NDL-OPAC】http://id.ndl.go.jp/bib/000009311387

◆2015年3月/大正大学/博士(仏教学)

 2012年3月15日学位授与、2015年3月4日取消。
 外部から盗用の指摘があり、2014年12月17日に学長より仏教学研究科に調査が命じられ、2015年1月14日、仏教学研究科において盗用の事実が確認された。

【大学側発表】
博士の学位の取消しについて(2016年4月12日)
http://www.tais.ac.jp/guide/latest_news/20160412/41312/

【CiNii-D】http://ci.nii.ac.jp/naid/500000578025
【NDL-OPAC】http://id.ndl.go.jp/bib/024924550


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日本の大学で博士の学位が取り消された事例集(2011年まで)

 日本国内の博士論文データベースである CiNii Dissertations(CiNii-D)、国会図書館OPAC(NDL-OPAC)、各大学がウェブ上で公表している資料、「聞蔵IIビジュアル」(『朝日新聞』)・「ヨミダス歴史館」(『読売新聞』)などを利用して、日本の大学で博士の学位が取り消された事例について調べてみた。なお、個人名についてはさしあたり伏せる。

 学位論文にまつわる不正自体は古くから噂されていたようであるが、実際に学位取消に至ったことが確認できる事例は、20世紀末までほとんど見られず、2010年ごろから急速に増え始めたようである。
 以下、配列は学位取消の年代順による。分量が多いため2011年までで一区切りする。

◆1970年2月/東北大学/農学博士[論文博士]

 1967年4月20日付学位授与。1970年2月28日、東北大学大学院農学研究科委員会の委員長が、博士学位論文の取り消しを委員会で合意したと発表した。ただし、実際に取り消されたかどうかは未確認(データベース上では取り消しとはされていない)。
 提出者は元東北大学農学部助手(1970年当時は広島大学水畜産学部助教授)だが、指導教官の論文の一部がそのまま使われていることが問題化し、院生たちが抗議していた。この事件では農学部水産学科の教授・助教授ら4人が自発的に謹慎している(『朝日新聞』1970年3月1日付朝刊)。
 なお『朝日新聞』は、文部省大学学術局の「学位論文が盗作だったとして問題になった例はあるが、そのために学位が取消されるというのは、きわめて異例だ」というコメントを紹介している。

【CiNii-D】http://ci.nii.ac.jp/naid/500000422746
【NDL-OPAC】http://id.ndl.go.jp/bib/000009252194

◆1994年5月/筑波大学/博士(教育学)

 1990年3月筑波大学大学院体育科学研究科より学位授与、1994年5月30日取消。
 提出者は学位授与当時は日本体育大学学長。他の大学院生の論文からの盗作が噂されたため、1994年3月25日に自発的に学位返上を申し出ていた。本人は「筑波大の指導教官から『基礎的研究の部分はこれを援用しなさい』と資料を渡されたので、それをかなり引用した。教官が私のためにまとめてくれたと思っていたので、転用したという気持ちは今もない。今年三月に似ているという指摘を受けたため、私の良心として自分から学位の返上願を出した」と主張した(『読売新聞』1994年6月23日付夕刊。また、『朝日新聞』同日付夕刊も参照)。
 なお、『読売新聞』は文部省大学課の「学位の取り消しは聞いたことがない」というコメントを紹介している。
 データベース上には未掲載か。

◆2005年6月/兵庫医科大学/博士(医学)

 2004年3月31日学位授与、2005年6月16日取消。データベースに学位取消とあるが詳細は不明。

【CiNii-D】http://ci.nii.ac.jp/naid/500000312558
【NDL-OPAC】http://id.ndl.go.jp/bib/000007792767

◆2009年7月/九州大学/博士(工学)[論文博士]

 2001年6月20日学位授与、2009年7月17日取消。2006年10月3日、「データ記載に不適切な点等がある」とする告発があり、2007年6月から工学府調査委員会を設置して調査を開始、研究不正があったとして九州大学学位規則に基づき学位が取り消された。
 調査の結果、博士学位論文中に記載されている物質と実際に実験に使用した物質が異なっていたことが判明した。提出者は化学メーカーに勤務しており、実際に使った物質は企業秘密なので公開できなかった、と主張したが、そのことは論文中に明示されていなかった。また、論文中のグラフと実験データに齟齬があることも判明した。

【大学側発表】
学位論文における研究不正行為の認定及び学位授与の取消しについて(2009年8月5日)
https://www.kyushu-u.ac.jp/f/1989/%E5%AD%A6%E4%BD%8D%E8%AB%96%E6%96%87%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%B8%8D%E6%AD%A3%E8%A1%8C%E7%82%BA%E3%81%AE%E8%AA%8D%E5%AE%9A%E5%8F%8A%E3%81%B3%E5%AD%A6%E4%BD%8D%E6%8E%88%E4%B8%8E%E3%81%AE%E5%8F%96%E6%B6%88%E3%81%97%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.pdf

【CiNii-D】http://ci.nii.ac.jp/naid/500000207293
【NDL-OPAC】http://id.ndl.go.jp/bib/000000405306

◆2010年3月/東京大学/博士(工学)

 2003年3月28日東京大学大学院工学系研究科より学位授与、2010年3月2日取消。東京大学では初めての例となった。提出者は2010年3月当時東京大学工学系研究科助教、トルコ国籍。
 2009年11月13日、外部からの告発を受け調査委員会を設置。調査の結果、博士学位論文の約4割が他人の著作物からの盗用だったことが判明、さらに他の論文での盗用、学歴・経歴の詐称、研究実績の捏造、研究費の不正利用なども判明したため、東京大学工学系研究科助教を懲戒解雇された。また、論文主査をつとめた大学院工学系研究科教授についても、停職1月の懲戒処分となった。東京大学としては初めての学位取り消しとなった。

※インターネット上での問題提起により問題が浮上した、おそらく日本初の事例であり、一般マスメディアでも大きく報じられた。

【大学側発表】
博士の学位授与の取消しについて(2010年3月5日)
http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_220305_j.html
博士論文に関する不正行為をめぐる問題について(2010年11月16日)
http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_221126_j.html

※その他、東大から発表された関連記事は以下を参照。
科学研究行動規範に関する報道発表資料等
http://www.u-tokyo.ac.jp/ja/administration/codeofconduct/press.html

【CiNii-D】http://ci.nii.ac.jp/naid/500000352403
【NDL-OPAC】http://id.ndl.go.jp/bib/000008445925

◆2010年3月/名古屋市立大学/博士(経済学)

 2009年9月名古屋市立大学大学院経済学研究科より学位授与、2010年3月取消。
 博士論文の一部を紀要に掲載したところ、別の研究者から「図版など、私の学術書の内容に似ている」という指摘があり、調査の結果、図版4ヶ所などが酷似していることが判明、剽窃と認定された。2010年3月30日公表(『朝日新聞』2010年3月30日夕刊名古屋版)。
 データベース上には未掲載?

◆2010年11月/四国大学

 四国大学大学院経営情報学研究科において、2人の大学院教授(うち1人は研究科長兼経営情報学部長)に対し、博士論文未提出にもかかわらず「梗概」のみで審査を行い、論文が未完成にもかかわらず学位を授与していたことが発覚した。2010年11月11日調査委員会設置、博士号返上要求(『朝日新聞』2010年11月12日付朝刊徳島版、同・21日付朝刊徳島版)。
 学位論文そのものが存在していないため、データベース上には不掲載?

【大学側発表】
四国大学大学院学位授与問題について(2010年12月1日)
http://www.shikoku-u.ac.jp/dousoukai/pdf/apology.pdf

◆2010年12月/広島国際学院大学/博士(社会学)

 2010年3月10日学位授与、2010年12月22日取消。
 2010年10月、博士学位論文をもとにした著書について、盗用疑惑があるとする指摘が出される。調査委員会による調査の結果、博士学位論文に引用と明示されていない引用があることが発覚、本人も盗用を認めたため、学位および単位認定を取り消し、退学処分とした。

【大学側発表】
学位授与の取り消しについて
http://office.hkg.ac.jp/~jimu/data2/news/gakui-torikeshi/

【CiNii-D】http://ci.nii.ac.jp/naid/500000512348
【NDL-OPAC】http://id.ndl.go.jp/bib/000010945953

◆2011年1月/広島大学/博士(学術)

 2007年3月7日学位授与、2011年1月18日取消。広島大学としては初。提出者は中国籍。
 2009年8月25日、博士学位論文をもとにした著書について、「無断引用」があるとする指摘を、引用された本人が指摘した。調査の結果、博士学位論文に4000字を超える「無断引用(盗用)」があることが発覚、特に冒頭の「本研究の成果」については全体の約45%(約1000字)が盗用であった。

【大学側発表】
学位授与の取消し及び学位記の返還について(2011年1月18日)
http://www.hiroshima-u.ac.jp/news/show/id/9962

【CiNii-D】http://ci.nii.ac.jp/naid/500000394253
【NDL-OPAC】http://id.ndl.go.jp/bib/000008938425

※「無断引用」は大学側の表現。「実際には引用であるにもかかわらず、引用文であることが示されていない」(著作権法第34条第1項の「公正な慣行」「正当な範囲」に合致しない引用)という意味であろうが、「原著者の許諾なしに引用している」(著作権法第34条第1項で許されている引用)という意味に誤解される恐れがある。他大学でも同様の表現をしている例があるが、「盗用」「不正引用」など他の表現を用いるべきではないだろうか?

◆2011年12月/東京大学/博士(教育学)

 2009年7月8日学位授与、2011年12月5日取消。
 2011年5月22日、論文に不正行為があるとする指摘があり、調査を行ったところ、博士学位論文に出典を記載しない引用が13ヶ所、出典は記載しているが引用部分が不明確な引用が1ヶ所あり、博士学位論文をもとにした単著でも修正されていなかった。また、2本の原著論文にいて全体の約5割が盗用であった。東京大学としては2人目の学位取消。

【大学側発表】
東京大学社会科学研究所助教に係る論文等の不正行為及び博士の学位授与の取消しについて(2011年12月9日)
http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_231209_j.html

【CiNii-D】http://ci.nii.ac.jp/naid/500000352403
【NDL-OPAC】http://id.ndl.go.jp/bib/000011104825

続き:2012〜2016年

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2016年12月01日

なぜ日本人は「なぜ日本人は」という題名の本を出したがるのか?

 最近、書店の店頭で「なぜ日本人は」とつく題名の本をむやみやたらと見かける気がするので、国立国会図書館サーチ検索結果)とCiNii Books検索結果)の検索結果をリストアップしてみた。
 題名もしくは副題が「なぜ日本人は」式のものになっているものを列挙してみたのだが、内容の詳細な確認はしていないので、ノイズもあると思われるし、逆に見落としもあるかもしれない。


■1965年

『英語の新しい学び方:なぜ日本人は上達しないか』〔講談社現代新書〕(松本亨/講談社/1965年8月)

■1966〜1987年 なし

■1988年

『なぜ日本人は働きすぎるのか』(猪瀬直樹+信州大学客員講師団/平凡社/1988年12月)

■1989年

『松本道弘の英語革命:なぜ日本人は英語をモノにできないのか』(松本道弘/ダイヤモンド社/1989年9月)
『なぜ、日本人は誤解されるか:低い視点から――国際化と日本人』(安田千恵子/堀内出版/1989年10月)

■1990年

『日本人の失敗:なぜ日本人は国際交渉に弱いのか』(小澤四郎/リヨン社/1990年1月)
『なぜ日本人は英語が下手なのか』〔岩波ブックレット〕(ピーターセン,マーク+ほか/岩波書店/1990年2月)
『なぜ日本人は英語が下手なのか』(ピーターセン,マーク+ほか/京都ライトハウス点字出版部/1990年9月)

■1991年

『甘くて脆い日本人:なぜ日本人は国際交渉に失敗しつづけるのか』(小沢四郎/リヨン社(発売=二見書房)/1991年5月)
『戦略能力の時代:なぜ日本人は戦略が下手なのか、苦手なのか』(北岡俊明/展転社/1991年5月)
『ナゼ日本人ハ死ヌホド働クノデスカ?:対談』〔岩波ブックレット〕(ラミス,ダグラス+斎藤茂男/岩波書店/1991年6月)
『なぜ!日本人は、勤勉・器用・裕福なの?:二ケ国語保存版』(福本和敏/メディア企画/1991年12月)

■1992年

『勝者・日本の不思議な笑い:なぜ日本人はドイツ人よりうまくやるのか?』(エーデラー,ギュンター;増田靖[訳]/ダイヤモンド社/1992年8月)

■1993年

『アメリカ人と堂々わたりあう本:なぜ、日本人は討論・交渉下手なのか』(企業OBペンクラブ/マネジメント社/1993年1月)

■1994年

『「時間」の秘密:知りたかった博学知識:なぜ日本人は「3分間」にこだわるのか』〔KAWADE夢文庫〕(博学こだわり倶楽部[編]/河出書房新社/1994年11月)

■1995年 なし

■1996年

『日本を蝕む精神病理:なぜ日本人は変わってしまったのか』〔ベストセラーシリーズ「ワニの本」〕(和田秀樹/ハローケイエンターテインメント/1996年6月)
『なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』(福田和也/角川春樹事務所/1996年12月)

■1997年

『続 なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』(福田和也/角川春樹事務所/1997年7月)
『中国・韓国の歴史歪曲:なぜ、日本人は沈黙するのか』〔カッパ・ブックス〕(黄文雄/光文社/1997年8月)
『言霊 2:なぜ日本人は事実を見たがらないのか』〔NON BOOK 愛蔵版〕(井沢元彦/祥伝社/1997年12月)

■1998年

『なぜ日本人は日本を愛せないのか:この不幸な国の行方』(ウォルフレン,カレル・ヴァン;大原進[訳]/毎日新聞社/1998年3月)
『壊滅:なぜ日本人はかくも幼稚になったのか 3』(福田和也/角川春樹事務所/1998年4月)

■1999年

『日本の決断:なぜ日本人はかくも幼稚になったのか 4』(福田和也/角川春樹事務所/1999年2月)
『なぜ日本人はプレッシャーに弱いのか』(児玉光雄/三天書房/1999年7月)

■2000年

『なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』〔ハルキ文庫〕(福田和也/角川春樹事務所/2000年1月)
『なぜ日本人はいつも不安なのか:寄る辺なき時代の精神分析』(岸田秀+町沢静夫/PHP研究所/2000年5月)
『中国人との交渉術:なぜ日本人はいつも中国人に交渉で負けるか?』(李年古/学生社/2000年12月)

■2001年

『言霊II:なぜ日本人は、事実を見たがらないのか』〔祥伝社黄金文庫〕(井沢元彦/祥伝社/2001年9月)

■2002年

『雑学宮本武蔵の人間学:なぜ日本人は不敗の武芸者にひかれるか』〔講談社+α文庫〕(雑学倶楽部/講談社/2002年10月)

■2003年

『なぜ日本人は賽銭を投げるのか:民俗信仰を読み解く』〔文春新書〕(新谷尚紀/文藝春秋/2003年2月)
『なぜ日本人は成熟できないのか』(曽野綾子+クライン孝子/海竜社/2003年4月)

■2004年

『なぜ日本人は日本語が話せるのか:「ことば学」20話』(今井邦彦/大修館書店/2004年3月)

■2005年

『なぜ日本人はイラクに行くのか』〔平凡社新書〕(吉岡逸夫/平凡社/2005年3月)
『なぜ日本人は謝り続けるのか:喝!』(岡本幸治/致知出版社/2005年8月)
『なぜ日本人は「ごんぎつね」に惹かれるのか:小学校国語教科書の長寿作品を読み返す』(鶴田清司/明拓出版(発売=星雲社)/2005年11月)

■2006年

『中国人との交渉術:なぜ日本人はいつも中国人に交渉で負けるか?』(李年古/学生社/2006年9月)
『なぜ、日本人は韓国人が嫌いなのか。:隣の国で考えたこと』(岡崎久彦/ワック/2006年11月)

■2007年

『なぜ日本人は劣化したか』〔講談社現代新書〕(香山リカ/講談社/2007年4月)
『決定力:なぜ日本人は点が取れないのか』(福田正博/集英社/2007年4月)

■2008年

『コスプレ:なぜ、日本人は制服が好きなのか』〔祥伝社新書〕(三田村蕗子/祥伝社/2008年1月)
『なぜ日本人は学ばなくなったのか』〔講談社現代新書〕(齋藤孝/講談社/2008年5月)

■2009年

『なぜ、日本人は?:答えに詰まる外国人の質問178』〔EJ対訳ブックス〕(内池久貴+Office Miyako;ブレーズ,マイケル[訳]/ジャパンブック/2009年1月)
『なぜ、日本人は桜の下で酒を飲みたくなるのか?』(西岡秀雄/PHP研究所/2009年3月)
『なぜ日本人は神社にお參りするのか』(小堀桂一郎/海竜社/2009年6月)
『非社会性の心理学:なぜ日本人は壊れたのか』〔角川oneテーマ21〕(加藤諦三/角川書店/2009年9月)
『なぜ、日本人は日本をおとしめ中国に媚びるのか』〔WAC BUNKO〕(石平/ワック/2009年11月)
『一撃必殺の思想:なぜ日本人は「一本」を求めるのか』(飯田祐子/ブイツーソリューション(発売=星雲社)/2009年12月)

■2010年

『考えよ!:なぜ日本人はリスクを冒さないのか?』〔角川oneテーマ21〕(オシム,イビチャ/角川書店(発売=角川グループパブリッシング)/2010年4月)
『なぜ日本人は落合博満が嫌いか?』〔角川oneテーマ21〕(テリー伊藤/角川書店/2010年5月)
『メディア症候群:なぜ日本人は騙されているのか?』(西村幸祐/総和社/2010年9月)

■2011年

『なぜ日本人はとりあえず謝るのか:「ゆるし」と「はずし」の世間論』〔PHP新書〕(佐藤直樹/PHP研究所/2011年3月)
『なぜ日本人はマネジメントが苦手なのか:「PDCA」ではダメ、「Ph.P手法」で考えよう』(岡本薫/中経出版/2011年3月)
『なぜ日本人ゴルファーは韓国人に勝てないのか?』(茂木宏一/エンターブレイン(発売=角川グループパブリッシング)/2011年4月)
『なぜ日本人は世界の中で死刑を是とするのか:変わりゆく死刑基準と国民感情』〔幻冬舎新書〕(森炎/幻冬舎/2011年5月)
『なぜ日本人だけが喜んで生卵を食べるのか』〔ワニブックス〈plus〉新書〕(伊丹由宇/ワニ・プラス(発売=ワニブックス)/2011年10月)

■2012年

『なぜ日本人はモーツァルトが好きなのか』〔幻冬舎ルネッサンス新書〕(匠薫/幻冬舎ルネッサンス/2012年2月)
『なぜ、日本人はうまくいくのか?:日本語と日本文化に内在された知識模式化技術〜ナレッジモデリング〜』(七沢賢治/文芸社/2012年3月)
『日本人『発展の力学』:なぜ、日本人はうまくいくのか?:インタビュー編』(七沢賢治+一條仁志/文芸社/2012年4月)
『なぜ、日本人はうまくいくのか? ビジネス編』(七沢賢治+一條仁志/文芸社/2012年5月)
『なぜ日本人は、最悪の事態を想定できないのか:新・言霊論』〔祥伝社新書〕(井沢元彦/祥伝社/2012年9月)
『日本語の宿命:なぜ日本人は社会科学を理解できないのか』〔光文社新書〕(薬師院仁志/光文社/2012年12月)

■2013年

『日本人の英語勉強法:在日39年、7000人の日本人を教えてわかったこと:なぜ日本人はこんなにも英語ができないのか? = How to learn English for Japanese』(バーダマン,ジェームス・M/KADOKAWA/2013年1月)
『なぜ日本人は世間と寝たがるのか:空気を読む家族』(佐藤直樹/春秋社/2013年4月)
『なぜ日本人サイドバックが欧州で重宝されるのか』〔宝島社新書〕(北健一郎/宝島社/2013年7月)
『なぜ、日本人はモノを買わないのか?:1万人の時系列データでわかる日本の消費者』(野村総合研究所+他/東洋経済新報社/2013年8月)
『富士山:なぜ、日本人は魅せられるのか?』〔TOWN MOOK〕(徳間書店/2013年8月)

■2014年

『反日プロパガンダの近現代史:なぜ日本人は騙されるのか』(倉山満/アスペクト/2014年2月)
『なぜ日本人は「わきの下」も英語で言えないのか?:学校では教えてくれない英語基本表現1200』〔SB新書〕(セイン,デイビッド/SBクリエイティブ/2014年3月)
『なぜ、日本人シェフは世界で勝負できたのか』(本田直之/ダイヤモンド社/2014年3月)
『なぜ日本人は、あの戦争を始めたのか:狂ってしまった日本人の「戦争時計」』(田代靖尚/主婦の友社/2014年8月)
『英語国民の頭の中の研究:なぜ日本人はコトバの壁を越えられないのか』(副島隆彦/PHP研究所/2014年9月)
『「世代」の正体:なぜ日本人は世代論が好きなのか』〔河出ブックス〕(長山靖生/河出書房新社、2014年12月)

■2015年

『なぜ日本人は戒名をつけるのか』〔ちくま文庫〕(島田裕巳/筑摩書房/2015年1月)
『なぜ日本人は「世間」を気にするのか』(三浦朱門/海竜社/2015年1月)
『なぜ日本人は歯を大切にしないのか:後悔のない人生のために:オシャレで元気!』(領木誠一/ダイナミックセラーズ出版/2015年1月)
『なぜ日本人はご先祖様に祈るのか:ドイツ人禅僧が見たフシギな死生観』〔幻冬舎新書〕(ネルケ無方/幻冬舎/2015年5月)
『なぜ日本人は韓国人にこんなになめられ続けるのか?』(金智羽/夏目書房新社/2015年5月)
『なぜ、日本人は横綱になれないのか』〔WAC BUNKO〕(舞の海秀平/ワック/2015年5月)
『なぜ日本人は、一瞬でおつりの計算ができるのか』(川口マーン惠美/PHP研究所/2015年6月)
『和を求めて:なぜ日本人は平和を愛するのか』(一条真也/三五館/2015年10月)

■2016年

『なぜ、日本人は考えずにモノを買いたいのか?:1万人の時系列データでわかる日本の消費者』(野村総合研究所/東洋経済新報社/2016年11月)
『なぜ日本人は「のし袋」を使うのか?』〔淡交新書〕(齋藤和胡/淡交社/2016年12月)

 ……気がするどころではない。最近10年くらいの間に露骨に増えている。
 ちなみに私は、この手の問いには基本的に「設問の前提が間違ってる。なんでもかんでも日本人一般の話にすんな」と答えることにしてます。
タグ:日本人論
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2016年11月30日

「でもしか先生」は「デモしかしない」先生の略ではない

 「でもしか先生」(または「でもしか教師」)という言葉がある。本来志望した職につけなかったので教師に「でも」なるか、という志の低い教師や、無能なので教師に「しか」なれない教師、を揶揄した表現である。少子化などの影響で、教員採用自体が難関になってしまった21世紀現在からすると隔世の感があるが、この語が流行した1950年代後半は、ちょうどベビーブーム世代が一斉に小学校に入学してきたころで、生徒数の増加に教員や教室の増加が追いつかなかったころ。教師になるのは今よりもずっと容易だったわけである。

 この「でもしか先生」は、教育社会学者の永井道雄(1923-2000)の造語である。永井は京都大学助教授、東京工業大学教授(1963-70)、朝日新聞論説委員(1970-74)などを歴任、三木武夫内閣で文部大臣(1974-76)をつとめた。ちなみに、文部大臣に民間人が起用されるのは、第3次吉田茂内閣の天野貞祐(1950-52)以来22年ぶりのことであった。以後も細川・羽田内閣の赤松良子(1993-94)、文部科学大臣になってからも第1次小泉内閣の遠山敦子(2001-03)しか例がなく、また赤松・遠山はいずれも官僚出身なので、永井はいまのところ最後の純然たる学者文相となっている。

 ところで以前、ネット上で「でもしか先生」は本来「デモしか先生」、つまり組合活動としてのデモばかり行っていて、本業であるはずの教員活動をおろそかにしている先生、という意味だった、という説明を見かけたことがある。直感的にこれは変だ、と思った。これが逆なら理解できるのだが、「デモしかしない先生」を「デモしか先生」と略するのは、言葉の作り方として不自然である。

 ところが、いくつかの俗語辞典を引いてみると、確かに同じような説明が出てくる。たとえば、米川明彦『日本俗語大辞典』には次のようにある。

でもしかせんせい(でもしか先生)[名]先生でもなるか、先生にしかなれないというような先生を嘲って言うことば。もとは「デモしか」しない先生という。◎『読売新聞』(1974年12月10日夕刊)「先生にでもなるか、先生にしかなれない教師を『デモシカ先生』と名づけた」◎『毎日新聞』(1976年12月19日朝刊)「《デモシカ先生》あれは実は学校の用務員さんがデモをしている先生を見て『先生はデモしかしないんですかねえ』と言われたのをボクなりの『デモシカ先生』にしたんです」(見坊豪紀『ことばのくずかご』から)[米川明彦『日本俗語大辞典』東京堂出版、2003年、408頁。強調は原文ゴシック体]

 出典が見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)『ことばのくずかご』となっているので、これにさかのぼってみる。この本は『言語生活』誌に連載されたコラムをまとめたもので、『三省堂国語辞典』の編者として知られる日本語学者の見坊が、辞書のための用例を採取する際に発見した、変わった用例などを紹介した本である。念のため、こちらも引用しておく。

永井文相の造語ではなかった〔77・2 66〕
〈デモシカ先生〉あれは実は学校の用務員さんがデモをしている先生を見て『先生はデモしかしないんですかねえ』と言われたのをボクなりの『デモシカ先生』にしたんです。(51年5月、本社記者との雑談で)(〔「毎日新聞」1976年12月19日朝19「ユニーク“永井語録”〕[見坊豪紀『ことばのくずかご』、筑摩書房、1979年、35頁。強調は原文ゴシック体]

 さらに出典の『毎日新聞』1976年12月19日付朝刊19面にさかのぼってみる。じつは、見坊の引用はやや不正確である。

 《デモシカ先生》あれはボクが作ったように言われているが、実は学校の用務員さんが言った言葉なんですよ。デモをしている先生を見て「先生はデモしかしないんですかねえ」と言われたのをボクが「教師にデモなるか」「教師シカなれない」現状を思ってボクなりの「デモシカ先生」にしたんです。([昭和]51年[1976年]5月、本社記者との雑談で)[「「デモシカ」から「カニの横バイ人生」まで ユニーク“永井語録”」『毎日新聞』1976年12月19日付朝刊19面]

 よく読んでみると、用務員の発言は「先生はデモしかしないんですかねえ」であって、用務員が、そういった教師を指して「デモしか先生」といった、とは書かれていない。また、仮に、この用務員氏が「デモしか先生」という言葉を使ったのだとしても、それは、この時点では一個人の思いつきの発言にすぎず、そのような表現が広く使われていたわけではない。「デモシカ先生」を「教師にデモなるか」「教師シカなれない」先生、という意味で造語して広めたのは、あくまで永井道雄なのである。辞書にわざわざ「もとは「デモしか」しない先生という」などと註記する必要性はないどころか、そのような意味で使われたことがあった、という誤解を招くことになる。

 さて、永井道雄本人が言っているのだからその通りなのだろう――と思ってはいけない。というのは、「でもしか先生」の初出とされる永井「この教師の現状をどうするか」(『中央公論』1957年5月号)では、全く違うことが書かれているからだ。

 ある教育者の会合にでたら、保守的な、しかし、仕事熱心なために人々から尊敬されている老先生が、教師のなかには「でも先生」が多い、これが一番困つたことだと熱をこめて論じている。日教組のデモ行進には批判が多い、またはじまつたかと思つて聞き流した。ところが、どうも話が違うらしい。「でも先生」つてなんのことかね。――隣に坐つている友人の腰をつついてきいてみた。

 聞いてみると、「でも先生」と「デモ先生」は全く別物なことがわかつた。教師のなかには、若いころ、できれば、技師に、医者に、役人に、小説家に、あるいは政治家になりたかつたものが多い。ところが、いろいろの都合でなれなかつた。仕方がないから、教師にでもなろうか、幸い、口があつたから雇つてもらつたという人が案外多い。「でも先生」とは、第二志望、第三志望でなつた教師のことである。あきらめて選んだ職なのだから、当然熱がこもらない。そこで、これが、教育上、一番困つた問題だというのである。[永井道雄「この教師の現状をどうするか」『中央公論』第72年第6号、中央公論社、1957年5月、32頁。強調は原文傍点。この論文は永井〔編〕『教師 この現実』〔三一新書〕(三一書房、1957年6月)に再録されているが、ここでは初出による。]

 なお、永井は当時、京都大学教育学部助教授。

 まず、ここでは「でもしか先生」ではなく「でも先生」となっている。しかも、「でも先生」というのは、「用務員」ではなくある「老先生」の造語であり、それを「デモしかしない先生」だと解釈、というより勘違いしたのは永井自身だということになっているのである。ことのついでに言っておくと、永井はこの論文の末尾で、「日教組の教研活動」について「とかくの論議はあるにしても、今のところ日本には、教研活動ほど大規模で、しかも徹底した現職教育はない」(42頁)と高く評価している。

 「しか」の方はどこに行ったのか、というと、これは同じ論文の後のほうで登場する。

 ところが、同僚の一人にいわせると、たとい失敗はしても、一度は教育以外の理科、経済などをねらう元気と力があつただけでも、私たちの学部の浪人学生は、まだましなのだ。全国にあまねく存在する学芸大学には、中学、高校時代の自分の学力を考えてみると、他の学部はとても見込みがない、教育関係しか、やれない者が多いというのである。こういわれて、全国の国立大学の学生を対象にして行われた、文部省の進学適性検査の報告を見ると、なるほど教育関係の学生の成績は驚くほど低い。[…]

 知的な学力だけが人生のキメ手ではないという私も、ここまで開きがあれば問題にしないわけにはいかない。これでは教師にしかなれない「しか先生」の卵だというはかない。[同、34-35頁]

 「学芸大学」は、戦前の師範学校が、戦後に教員養成専門の単科大学に改組される際に名乗った呼称である。その後、1966年の法改正で呼称が「教育大学」に改められている(東京学芸大学(東京府師範学校の後身)のみは例外で、これは当時、別に「東京教育大学」(東京高等師範学校・東京文理科大学の後身で筑波大学の前身)があったため)。

 見ての通り、この論文では「でも先生」と「しか先生」は登場するが、じつは、両者を合わせた「でもしか先生」という表記はどこにも出てこない。この論文が大きな反響を呼んだことで、いつの間にか「でも先生」と「しか先生」を合わせた「でもしか先生」という言葉が出来上がったのである。

 また、「しか先生」の引用からもわかるように、この論文は、現職教師よりも、むしろ、その卵である教員養成課程在籍の学生の方を対象としている。つまり、ここでの「でも」「しか」は、「成績が良くないので他学部に入れず、仕方がないので教育(学芸)学部に入った」という意味で使われているのである。ところが、この語が広まるにつれ、永井の本来の意図とは離れ、むしろ現職教師をターゲットとした語句として使われるようになっていく(油井原均「「でもしか教師」言説の分析――教師像をめぐる議論に関する事例研究」『日本教師教育学会年報』第10号、日本教師教育学会、2001年10月)。

 話を戻そう。永井の1957年の論文と1976年の発言には、明らかに矛盾がある。どちらを信用すべきか、というと1957年の論文の方だ。1976年の発言では「デモしかしない先生」から「でもしか先生」を作ったことになっているが、1957年の論文では「でも先生」と「しか先生」はセットではなく、バラバラにしか出てこないのである。「デモしかしない先生」から「でも先生」を作った、という可能性なら考えられるが、だとすると、なぜ永井は用務員の言葉を「老先生」の言葉にすりかえたのか、説明がつかない。1976年の発言は、好意的に見ても永井の記憶違いか、あるいは新聞記者の勘違い、と考えるべきだろう。

 結論をいえば、「でもしか先生」は、最初から、「教師にでもなろうか」「教師にしかなれない」先生、という意味で作られた造語である。それ以前に「「デモしか」しない先生」という意味で使われていたわけではない。少なくとも、そのような根拠はない。

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2016年11月29日

『当世書生気質』と野口英世改名の謎(6・完)野口英世は野々口精作にならなかったか?

第1回第5回

 そもそも、『当世書生気質』が「清作」から「英世」への改名の原因になったことを知っている人間は、二人しかいないはずである。いうまでもなく、野口英世と小林栄である。

 野口が改名当時、周囲に改名の事情をどのように説明したのかは気になるところなのだが、あいにく、そのあたりは奥村鶴吉の『野口英世』にも記されていない。

 一方の小林は、『当世書生気質』が前途有望な医学生・野々口作の堕落と破滅の物語だと本気で信じていた節がある。逍遥宛の手紙で「主人公たる野々口作といふ医学生」などと書いていることからしてそうなのだが、東京歯科医学専門学校〔編・発行〕『野口英世 其生涯及業蹟』(1928年)には次のような記述がある。

 其時分清作は既に改名して居た、其の由来として小林氏の語らるゝ処によれば、清作が順天堂勤務中小林氏の御母堂[原文のママ]が腎臓病に罹り病勢軽からぬ事を聞くや、帰省して前後三十餘日熱心に看護につとめ、漸く快方に赴きたる頃一日[ある日、の意]坪内逍遥氏の書生気質と云ふ小説を繙いた処が、其中に野口清作[原文のママ]なる人物あり、初めは勉学に熱心将来に望をかけられたが後酒色に溺れ、遂に堕落し終ると云ふ筋が書てあつた。当の清作大に気持ちを悪くし遂に改名を志して之を小林氏に相談し其同意を得て英世と改めたのである。[東京歯科医学専門学校〔編〕『野口英世 其生涯及業蹟』東京歯科医学専門学校、1928年、32-33頁

 「小林氏の語らるゝ処」と言いながら小林の妻を母と取り違えるという初歩的なミスがあり、やや信頼性に疑問が残るが、どうやら、誤伝の出所として怪しいのは小林だということになりそうだ。そもそも、小林自身の回想の通りなら、彼は『当世書生気質』を野々口精作のくだりしか読んでいないはずだし、その後、再読の機会があったわけでもないようだ。

 小林栄は、教え子・野口英世の顕彰にすこぶる熱心な人物であった。これは憶測でしかないのだが、野口が世界的に有名な医学者になってのち、小林が取材に答えて改名のいきさつを語っているうちに、記憶違いや思い込みが生じた、ということではないだろうか。それをさらに、無責任な伝記作家たちが確認もせずに書いていった結果、もとの小説の内容とは全く違った話が出来上がってしまったのではないか。

 さて、野口清作改め英世は、改名を機に心機一転、これまでの行状を改めて真人間になった――といえば話は綺麗におさまるのだが、あいにく、そうはならなかった。伝記を読む限り、改名後も行状が特に変わった様子がないどころか、むしろ悪化した節がある。いったいなんのために改名したんだ、と、いぶかしくなるところである。

 1899年(明治32)5月、伝染病研究所助手として図書の管理を担当していた野口は、高額な貴重書数冊を紛失するという不祥事を起こす。奥村鶴吉は、無断で友人に貸し出したところ勝手に売り払われた、としているが、真相は不明である。少なくとも、この件で北里柴三郎所長(1853-1931)の信用を大きく損ねたのは事実のようで、野口は責任をとらされて横浜海港検疫所へ左遷されている。もっとも、月給は13円から35円に増えた。

 なお、当時の1円は現在のおよそ4000円である。もっとも、庶民レベルでの生活実感としては、その3〜4倍くらいの価値に見積もったほうがいいかもしれない。ちなみに、1897年(明治30)の巡査の初任給が9円、1900年(明治33)の小学校教員の初任給が10〜13円である(週刊朝日〔編〕『値段の明治大正昭和風俗史 上』朝日文庫、1987年)。

 同年10月、清国の牛荘[ニュウチャン](現・遼寧省海城[ハイチョン]市)でペストが発生したため、日本からも医師団を派遣することになり、北里は野口を推薦した。ところが、野口は支給された旅費96円を、出発前に借金の返済などで使い果たしてしまい、仕方なく血脇守之助に泣きついている。牛荘では月給200両[テール](のち300両に増額。当時の日本円で約300〜400円)の高級取りだったが、その月給を一晩で使い果たすほどの豪遊を繰り広げたため、ろくに貯金もできなかったという。

 1900年(明治33)にアメリカに渡った際のエピソードはさらに無茶苦茶である。義和団の武装蜂起が起こり、牛荘が危険になったため、野口は1900年6月に帰国する。この間、真面目に貯金してさえいれば渡米費用は十分に貯められたはずなのだが、なにしろ上述の通りの状況なので、ちっとも貯まっていなかった。故郷の幼馴染で資産家の息子の八子弥寿平(やご・やすへい)に無心しようとしたところ、さすがに見かねた小林栄に止められるし、北里柴三郎から金銭面での信用を失ったのが祟り、医学関係者からの出資は見込めず、八方ふさがりになってしまう。

 そこで野口は、ある資産家の娘と婚約し、その持参金200円を前借りして渡米費用にあてることにした。ところが、切符すらもまだ買わないうちに、彼は横浜で開かれた送別会で、自分の送別会なのに「僕に一切任しておいてくれ」と言い出し、一流料亭で豪遊を繰り広げたあげく、こともあろうに、肝心の渡米費用にあてるはずの金を一晩でほとんど使い果たしてしまったのである。翌日、さすがに真っ青になった彼は、東京に戻って血脇に泣きつく。さすがの血脇も、呆れかえってしばらくは二の句がつげなかったというが(当たり前だ)、いまさら渡米できない、ということになったら話がさらに面倒なことになる。やむなく血脇は高利貸しから300円あまりを借りたが、さすがにこの金を直接野口に手渡すわけにはいかず、自分で切符を買って野口に渡したという。

 この後日談がさらにひどくて、野口は結局、長いこと言を左右にしたあげく、1905年(明治38)に婚約を解消してしまうのである。婚約金300円を立て替え返済する羽目になったのは、またしても血脇であった。この金はずっと後の1915年(大正4)7月になって、野口が帝国学士院恩賜賞を受賞した際、その賞金で血脇に返済している。

 こうした一連の行状は奥村の『野口英世』に詳述されているのだが、「偉人・野口英世」のイメージに反するため、戦前に書かれた野口英世伝ではほとんど無視されるか、あるいは話を大幅にねじ曲げられていた。読者のほうも聖人君子としての野口英世像を求めるため、なかなか訂正される機会もなかったのである。戦後になると、こうしたマイナス面を含めた野口英世の全体像を描こうとする伝記も出てくるのだが、そうした側面が一般に知られるようになるのは、筑波常治『野口英世』(1969年)や秋元寿恵夫『人間・野口英世』(1971年)、そして渡辺淳一の伝記小説『遠き落日』(1975〜78年連載、1979年刊)あたりからのことだろう。

 1912年にアメリカ人女性メリー・ダーディスと結婚してからは、さすがに放蕩癖はおさまったといわれているが、金銭感覚のほうは、ついに最後まで身につかなったらしい。1915年に一時帰国した際も、すでにロックフェラー医学研究所の正員となっていたにもかかわらず、例によって旅費が捻出できず、旧知の星製薬社長・星一(ほし・はじめ。1873-1951。作家・星新一の父)に「ハハミタシ、ニホンニカエル、カネオクレ」(母見たし、日本に帰る、金送れ)と電報を送る始末であった。奥村は、「彼の財布には、どの国の金銭も決して滞在することを承知しなかつたのである」(485頁)と評している。

 ある意味で、野口英世と野々口精作には、確かに似たところがある。どちらも本人は問題だらけの人物なのに、世間にはその事実が巧妙に隠され、立派な人間だと思われている。もっとも野口英世の場合、世間に事実を隠したのは本人というよりも、世界的偉人・野口英世は非の打ちどころのない模範的人間であってほしい、と願う周囲の人間たちや伝記作家たち――そして、その読者たちだったのだが。

(おわり)

参考文献

  • 秋元寿恵夫[1969]「筑波常治著 野口英世 名声に生きぬいた生涯 “野口神話”のカラクリをあばく 類書と同じ解釈に陥った点も‥‥」『週刊読書人』第771号(読書人、1969年4月14日号)
  • 秋元寿恵夫[1971]『人間・野口英世――医学につくした努力の生涯』〔少年少女世界のノンフィクション 26〕(偕成社)
  • 『今ふたたび野口英世』編集委員会〔編〕[2000]『今ふたたび 野口英世』(愛文書院)
  • エクスタイン,ガスタフ[1959]内田清之助〔訳〕『野口英世伝』(東京創元社)
  • 奥村鶴吉〔編〕[1933]『野口英世』(岩波書店) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213588
  • 週刊朝日〔編〕[1987]『値段の明治大正昭和風俗史 上』〔朝日文庫〕(朝日新聞社)
  • 高田早苗[1927]『半峰昔ばなし』(早稲田大学出版部) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192045
  • 丹実〔編著〕[1976]『野口英世――その生涯と業績 第1巻 伝記』(講談社)
  • 筑波常治[1969]『野口英世――名声に生きぬいた生涯』〔講談社現代新書〕(講談社)
  • 坪内逍遙[1926]『當世書生気質』〔明治文学名著全集 第一篇〕(東京堂) http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/tomon/tomon_12163/
  • 坪内逍遙[1930]「野口英世博士發奮物語――見よ! この母、この師、而してこの人」『キング』第6卷第10號(大日本雄辯會講談社、1930年10月號)116-123頁
  • 坪内逍遙[1933]『柿の蔕』(中央公論社) http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/tomon/tomon_16417/ https://books.google.co.jp/books?id=wujJrVur8pgC
  • 坪内逍遙[2006]『当世書生気質』〔岩波文庫〕(岩波書店)
  • 東京歯科医学専門学校〔編〕[1928]『野口英世 其生涯及業蹟』(東京歯科医学専門学校) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177786
  • 中山茂[1995]『野口英世』〔同時代ライブラリー〕(岩波書店)
  • 滑川道夫[1978]『少年伝記 野口英世』(野口英世記念会)
  • 渡辺淳一[1990]『遠き落日 上』〔集英社文庫〕(集英社)
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