教育勅語の「中身はいい」? そう言いたい欲望の背景にあるもの
2024年4月3日
広島市の職員研修における松井一實・広島市長の「教育勅語」の引用問題に関連して、拙著『教育勅語の戦後』関連で『朝日新聞』よりインタビューを受けた記事が掲載されています(※上記ネット版は有料公開)。
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真珠湾攻撃について。
では急襲(サープライズ)、宣戦布告三十五分前に本当に攻撃したのか、さにあらず、米国は攻撃命令が出おりますのでその二時間前、日本の潜水艦と駆逐艦が攻撃され潜水艦が沈められておりますから、明らかに最初の一発はアメリカ側が早かったのでした。[35-36頁]
真珠湾攻撃が始まったのは、1941年12月8日の日本時間午前3時19分(ハワイ時間7日午前7時49分)。野村吉三郎駐米大使がハル国務長官に日米交渉の打ち切り通告を手交したのは日本時間午前4時20分、つまり約1時間後である(よく誤解されているが、これはあくまで交渉打ち切り通告であって宣戦布告ではない。少なくとも国際法上の宣戦布告の体裁をなしていなかった。宣戦布告詔書が発せられたのは日本時間午前11時40分で、攻撃開始の8時間も後である)。「35分」というのはどこから出て来たのだろうか。
なお、ハワイ時間6時45分頃(つまり攻撃開始の約1時間前)、アメリカ海軍の駆逐艦ウォード号(USS Ward)が、アメリカの領海内の防衛区域で国籍不明の小型潜航艇(日本海軍の特殊潜航艇と推定されている)を発見し撃沈した、という記録は確かに存在する(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ハワイ作戦』朝雲出版社、1967年、400頁。ゴードン・W・プランゲ/土門周平+高橋久志〔訳〕『真珠湾は眠っていたか II・世紀の奇襲』講談社、1986年、291-292頁。他)。ただし、潜水艦が潜航したまま領海に侵入することは、それだけで敵対行為であり、ウォード号の行動は正当防衛にあたる。しかもこの場合、本当に攻撃する気で侵入してきたのだから、先制攻撃を仕掛けたのは日本側である、ということには何ら変わりがない。このエピソードは確かに意外なものだが、ただそれだけの話なので、誰も問題にしていないのである。
なお「潜水艦と駆逐艦が」は原文のママ。「潜水艦が駆逐艦に」なら意味が通じる。
ところで、三上は全く触れていないが、そもそも真珠湾攻撃開始の約2時間前に、日本陸軍がマレー半島のコタバル(英領マラヤ、現・マレーシア)への奇襲上陸作戦を開始している。これが対イギリス開戦である。これが国際法違反の奇襲攻撃であったことに疑問の余地はない。イギリスに対しては事前に何の交渉もしていなかったし、事前の宣戦布告もしていなかったからである。宣戦詔書の題名は「米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書」。イギリスにも戦争を仕掛けたことを忘れてはいけない。
(第11回につづく)
三上は、開戦を決定した御前会議について、こんな奇妙なことを語っている。12月1日、開戦前最後の御前会議の話らしい。
[…]陛下はこの期に及んでも難色を示された。武藤さん唯ひとりが陛下に迫りました。御前会議で、凡そ戦争哲学の示す処によれば、ジリ・ジリ・ジリと痛められ敵前上陸を受けて、工業施設すべてを破壊され、女・子供は強姦凌辱され、果たしてその国は立ち直れるのかねたとえ戦いに敗れてでも民族の総力を結集して打って出た国は立ち上がっている、陛下何を迷われます、御前会議の記録は明らかです、武藤さんは気の毒にこの一言で絞首刑に掛かるのでした。
陛下は、その時一人言のように、「北海道をアメリカに割譲してでも和解の道はないか」とつぶやかれたことが記録にあります。[35頁]
「御前会議の記録は明らかです」というが、そんな記録は存在しない。
御前会議に出席し、かつ戦犯として処刑された「武藤」といえば、武藤章(1892〜1948)しかいない。しかし、まず武藤章は当時は陸軍省軍務局長であって、陸軍大臣(東條英機)や参謀総長(杉山元)を差し置いて発言できるような立場ではない。第二に、武藤は開戦回避論者であった。そして最も重要なのは、武藤であろうが他の誰であろうが、御前会議の場で昭和天皇を説得する必要もなければ、食ってかかる意味もない、ということである。御前会議は確かに天皇臨席のもとで開かれてはいるのだが、天皇自身は基本的に発言しない習慣になっていたからだ。発言内容についての政治的責任を問われると、困ったことになるからである。この時点で開戦派が説得すべき相手は、天皇ではなく、開戦を渋っていた東郷茂徳外相や賀屋興宣蔵相ら一部閣僚たちの方だった。
当然、東京裁判で武藤章が死刑判決を受けたのも、そんなありもしない理由からではない。実際は、近衛第2師団長(1942年4月〜44年10月)としての北部スマトラでの戦争犯罪と、第14方面軍参謀長(1944年10月〜降伏)としてのフィリピンでの戦争犯罪の責任をとらされたのである。
さらにわけがわからないのは、昭和天皇の発言である。中国からの撤退は不可能だが、アメリカが要求してきたわけでもない北海道の割譲なら可能、というのはいったいどういうことなのだ?! どうやら三上は昭和天皇を平和主義者だと主張したいようなのだが、これではひいきの引き倒しもいいところである。
記録はこのへんで難しくなるのですが、ついに陛下のご裁可を得ず、真珠湾の攻撃をやったのが真相のようでした。[35頁]
そんなことがあるわけがない。昭和天皇は11月5日の時点で奇襲攻撃計画を知らされており、12月1日の御前会議で対米英開戦を裁可している。
(第10回につづく)
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